mortals note
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「待てってば! 今からどこにいくんだよ!」 店から通り一本離れたあたりで、カイはエデの腕を掴んだ。 「もうわたしにかまわないで!」 思い切り腕を振り払われて、カイは思わず半歩下がる。 「あなたたちの邪魔はしないわ。だからわたしの邪魔もしないで! これでいいでしょう!?」 「おまえひとりで、どうするっていうんだよ」 「わたしはひとりで平気よ」 数歩歩いてから、エデはカイに向き直った。両足を踏ん張るようにして立ち、一切の干渉をこばむような険しい表情をしている。 「わたしには魔法があるもの」 完璧な拒絶だった。エデの瞳が宿す熱に、カイは気圧された。それは憎悪と復讐の炎だ。リーグの瞳に宿るものと同じだ。 「強力な魔法よ。ひとを殺すなんて、簡単だわ」 うっすらとエデの口元に浮かぶ笑みは、嘲笑だった。それがカイを笑うものかそれとも、自分を笑うものなのか。 自分が何とかしなければと、気負う気持ちにも。殺せよ、と笑いながら怒鳴り散らしたい気持ちにも、覚えがある。 ドラゴンバスターがあれば。強大な力があれば。 それですべて、うまくいくと思っていた。 「ひとりでなんて無理だ。ひとりで平気なんて、嘘だよ」 さっと、エデの顔に朱がさした。 「わたしのこと馬鹿にしているの」 「どんな兵器があったって!」 激昂するエデの声を、カイは強い言葉でねじ伏せた。思わずエデは口をつぐむ。 「駄目だよ、どんな強力な魔法があっても。ひとりじゃ絶対に目的地にたどりつけない。もしたどりつけても、帰ってこられるのか?」 はっと、少女の双眸が見開かれた。予期せぬ部分を突かれたときの顔だ。 やっぱり。 生きては帰れないかもしれない、と覚悟を問うトールに。 ―――生きて帰りたいところなんて、どこにもない。 カイもそう答えた。 「きみの魔法がどれだけ凄いか、俺には分からないけど。君の死体が晒されるのを見るのは嫌だ」 体中に張り巡らせた力を抜いて、エデは地面に視線を落とす。 「俺たちは、君を皇帝の前まで連れて行けるかもしれない」 おずおずと、エデは視線を持ち上げ、カイを見た。 「力を貸してくれよ」
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「ご気分がすぐれませんか」 先程から咳を繰り返しているフレイヤに、女騎士は声をかけた。 「いや、おそらく疲れただけだろう」 フレイヤの手元には、未だ稚拙ながら一生懸命綴られた手紙が広げられている。 ほとんど共に過ごしたことのない弟は、事情も知らずただ純粋に姉と慕ってくれている。 何の含みもない純粋な魂は、一文字一文字丁寧に綴られる文面から充分に推し量ることができる。 「わたしはひどい姉だな」 自分がしようとしているのは、近頃の出来事などを事細かに書いては送ってくる弟の好意を踏みにじることだ。 「引き返されますか」 答えを承知の上で、ブリュンヒルドはからかうように言った。 微苦笑が返ってくる。フレイヤは首をゆるく横に振った。 「戻りはしないさ。わたしはもう、このためだけに生きているようなものだ」 自分を捨てた、父への復讐のため。それだけに生きているようなものだ。 旗頭として求められることが、心地よくもある。 ここにある意味を常に確かめながらでなければ、守ってゆけない。自分の、作りあげた”かたち”を。 「おまえはわたしを憎んではいないのか?」 まだたどたどしい筆跡を指先でなぞり、フレイヤは真紅の瞳で女騎士を見た。 「憎んだことがまったくないかといえば、嘘になるかもしれません。シアルヴィさまは、わたしのすべてでしたから」 ブリュンヒルドは、なつかしむように目を細める。 「あなたの伯母上―――いいえ、あなたを産んだ母上は、決してあなたを憎んで遠ざけていたわけではありません。弟と通じた罪がおそろしくて、あなたに触れられなかったのですよ。わたしは物心ついたときからシアルヴィさまと共にあって、あの方の一部だった。婚姻もむすんでいないのに子を身ごもった時には、驚き、怒りもわきました。あなたを産んでしばらくして、塔から身を投げられたときには、絶望もした。まだ座ることもできなにあなたに、殺意を覚えたことも、あります」 机のそばに歩み寄るブリュンヒルドを、フレイヤはまぶしそうに見上げた。 「つとめてあなたに近寄らないようにしていました。近づけば、シアルヴィさまを奪われた怒りが噴き出しそうで。いいえ、あの方と過ごした頃のことを思い出すから、辛かったんです。あの方は主というよりもわたしにとって、神のようなものでしたから。けれど、フレイヤ様」 ブリュンヒルドは、机の上に置かれたフレイヤの手に自らのそれを重ねた。 「あなたはわざわざわたしのところに、実の母親のことを聞きにおいでになった。わたしは激情のままにすべてをお話しましたね。あなたが殺したようなものだと。泣いて逃げ帰ると思っていたのに」 ―――それなら、当然なのだな。 まるで重い荷をおろしたかのように、フレイヤはかすかに笑ったのだった。 ―――これは、報いなのか。 代々継がれてきた黒髪を持たないのも、瞳の色が血のように濡れているのも。 男にも女にも、なれずに生まれてきたのも。 罪があるのならば仕方がない、と。 「王城を出られるとき、あなたはわざわざわたしを従者にお選びになった。わたしなら断るとお思いだったのでしょう。ひとりで行く気だったのですね」 フレイヤの端正な顔が、くしゃりと紙を丸めるように歪んだ。笑おうとして、失敗している。 「おまえに、嘘をつくのは無理か」 「憎しみやいとしさなどという言葉ではとても表せない。自分でも、何故あなたの傍にあるのか分からなくなるときがあります。けれどもう無理です。わたしを連れてゆくとおっしゃったあの時、わたしはあなたの一部になったのです」 巧みに剣を操る指先が、フレイヤの白銀の髪を梳くように撫でた。 「今更わたしを遠ざけようとしても、無駄ですよ」 髪を撫でた手で、フレイヤの頭を胸のうちに抱き寄せる。 「共に往きます」 頭の重みを従者に預けて、フレイヤはルビーの双眸を閉ざす。 左胸の奥がやけに熱いのは何故だろう。弟の手紙から手をはなし、フレイヤは左胸に触れた。確かな鼓動とは別に、息づく熱を感じる。 手を伸ばせば届く。そんな場所に、欲しかったものが近づいてきている。 それゆえの高揚だろうか。
自らの生まれた意味を、ずっと考えていた。 どうして皇族に生まれたのか。どうして性別を持たずに生まれたのか。 その意味を。 不義の子として原罪を背負って生まれ、父に疎まれ父を憎み、その憎悪が今、戦を止める手段と重なろうとしている。 今はゆだねるだけだ。 運命だと。
8.
肩や腕がぶつかる。わずかに出来た隙間をすり抜けるのに、カイは必死になっている。 買出しに来たときとは比べものにならない人の多さに眩暈がしそうだ。 聖都は今、大祭の只中にある。大通りでは、道の両端のいたるところに露店がならび、たくさんの食べ物の匂いが混ざり合っていた。 エバート祭は終盤にさしかかっていた。これから、正午の鐘とともに行われる儀式がこの祭のクライマックスになる。 今年選ばれたラインの乙女たちを神殿へ導くパレードのようなものだ。カイたちは分散して聖都にひそみ、巫女たちをヴォーデンから奪う手筈になっている。 チャンスは一度。行列が、巨大な噴水をその中心に抱く中央広場に差し掛かった瞬間だ。 腰のあたりをちょろちょろと駆け回る子どもを避けながら、カイは今回の相棒であるスコルと共に、中央広場を目指していた。
―――あまり賢いやりかたではないな。 はじめこの計画は、フレイヤにすげなく却下された。 ラインの乙女とて、神殿に入れられてすぐに殺されてしまうわけではない。この間城下で起こした仲間奪還の騒ぎもある。ヴォーデン暗殺の手筈が整いつつある今、これ以上自分たちに対する警戒心を強めたくはない。 フレイヤのいい分が至極もっともなのは、カイにも分かる。しかし、カイはどうしても引き下がることが出来なかった。 リーグが言っていた。大義のために要らない枝葉を切るんじゃ、帝国と同じだと。これがたとえ自己満足だとしても、手を伸ばせば掴めるものを捨てていくなんて、俺には出来ない。 意固地になっている自分に気付いていながらも、どうしても一歩も譲れなかった。 ―――あながち、無益でもないかもしれません。 助け舟を出したのは、トールだった。 我々の目的は何も、皇帝暗殺だけで達成されるものではない。戦をやめさせるためには民衆の力も必要になる。聖都は前線からはあまりに遠いから、差し迫った危機感を抱いているものは少ない。聖都の中央、しかも祭の最中に騒ぎが起これば、彼らも少しは危機感を覚えるかもしれない。 しかもこの戦の大義名分は、大陸の統一であり、布教のための聖戦でもある。ブリガンディアで生まれ育ったものならばいざ知らず、改宗を迫られた移民たちにとっては屈辱的な祭のはずだ。力で圧倒され、仕方なく従ってきた彼らにも、改宗したからといって決して安全ではないということが分かり始めているはずだ。 今揺さぶりをかけてみるのも、決して無駄ではないだろう。 有無を言わさぬ勢いでまくし立てるトールに、フレイヤも渋々ながら首を縦に振ったのだった。 ―――姫の立場も分かってあげてくれ。 フレイヤの部屋を辞し、扉を閉めたあとで、トールはカイに言った。 ―――何も姫も、巫女達が殺されてかまわないと思っているわけじゃないんだ。上に立つ人間は、それこそ枝葉のために全体を考える必要がある。
(これは、俺のわがままだ) 正義感を隠れ蓑にした、個人的な復讐だ。そんな後ろめたさがあったからこそ、自分からはフレイヤにごり押しが出来なかった。 今回は戦うわけではない。パフォーマンスのひとつだ。娘達を奪還して逃げるだけだ。 祭にうかれて警備は手薄だし、人ごみにまぎれればこの間のように逃げられる。 軍の主力は前線だし、聖都には鎧ばかりが華美な近衛兵しか残っていないはずだ。 きっとうまくいく。 カイは先程から何度も自分に言い聞かせている。それでも鼓動はせわしなく落ち着かない。
「カイはどうして”ここ”に入ったんだ?」 「え?」 やわらかい問いかけに、カイは肩越しに振り返った。半歩後ろを歩いていたスコルが、大股にカイの隣にならぶ。 スコルは人好きのする穏やかな微笑をうかべている。 彼は小柄だが、ナイフの名手らしい。いつもは前へ出てくることはなくカイとの接点もほとんどなかった。カイはすこしばかり違和感を感じている。それほど人見知りをするわけではないのに、うまくかみ合わない何かがある。 「俺は成り行きみたいなもんだから。あんたは?」 「僕はリーグと同じ村の生まれだ」 スコルは目を伏せて笑った。 「何とか逃げ延びて、リーグに拾ってもらったんだ」 相槌をうつことも出来なかった。リーグの村は見せしめのために奇襲を受けたのではなかったか。それでは彼は、虐殺の生き残りというわけだ。 「悪い、変なこと聞いて」 「別に変なことじゃないさ。それに、あの日の出来事は僕の生きる糧になっている。生き残ったからには、しなければならないことがあるんだ」 スコルは、うつむくカイの肩を労わるように叩いた。 そのとき。 鐘が鳴り出した。腹のそこに響くような巨大な音は、王宮内部にある神殿のものだ。 ふたりは顔を上げ、王宮の方角を見上げる。 「そろそろ時間だ。行こう」 妙に熱っぽい目をして、スコルは早足に歩き出した。
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色とりどりの紙吹雪が舞う。 大通りはいまや熱狂の渦に飲み込まれていた。 顔を隠した白い法衣の神官たちに先導され、黄金の装飾を施されたうつくしい輿が、列を作って進んでゆく。 人ごみの中で息を殺しながら、カイはその行列が迫ってくるのを見つめていた。 いくら沿道を美しく飾っても、花や紙吹雪を撒き散らしても、黄金の輿に乗せても。娘達には何も見えない。 (エスリンもあんなふうに) 見せ掛けの彩りに飾られて、この道を運ばれたのだろうか。 豪奢な輿には布が張られ、中は見えない。 祭事用の槍を高く掲げた神官たちが、緩やかな坂をのぼって近づいてくる。あの槍や法衣は装飾が多く重いのだとトールに聞いた。追いかけるには邪魔になるだろう。 すばやくあたりを見回す。目立つ兵士の姿はない。 向かい側にリーグを見つけた。お互いに無言で頷きあう。 一団は今、広場の入り口に差し掛かっている。先頭の輿が中央の噴水に差し掛かったときが、仕掛けるタイミングだ。 人々の歓声が、まるで膜をへだてた向こう側のように遠い。 木々のざわめきが聞こえた。 渡る風に、おおぶりの枝を、びっしりと生やした葉を揺らす音だ。 木漏れ日がおちてくるほうを見上げて、太陽のまぶしさを問うた妹の笑い声。そんな昔のことばかり、くるりくるりと傍を回る。 極彩色のただなかに在るのに、現実はすべて空々しい。 あの頃のように胸をみたす幸福感を、カイは戦が始まってから感じたことがない。 絵空事だ。 槍を高く掲げ、まぶしく飾り立てられた輿が目の前を通り過ぎる。 人ごみの中で、ちらちらと見慣れた顔が動き出した。時間だ。 「やっと……!」 駆け出す間際、感極まったスコルの声を聞いたような気がした。が、立ち止まるわけには行かない。 歓声が、悲鳴に変わった。 最後尾の輿が地面に崩れ落ちるのを視界の端に見ながら、カイは目の前の神官に体当たりを食らわせた。金属で装飾を施された法衣が、ぐしゃりと言う音を立てて地面に転がる。 輿を担ぐ男どもが戸惑い、立ち止まる。カイが腰からナイフを抜くと、魔法が解けたように慌てて輿を地面に下ろした。布に覆われた内側から、女のかすかな悲鳴が聞こえる。 広場は混乱の坩堝だった。逃げ惑う人々が右往左往する所為で、上を下への大騒ぎだ。都合がいい。 重い法衣を引きずるように向かってくる神官たちの間をすり抜け、カイは輿に駆け寄った。引きちぎるように布をめくりあげる。 中に座っていた娘が、音に導かれるようにカイのほうを見た。 「おまえ……」 かろやかな笑い声がはじけるように蘇る。 見慣れぬ菓子を前に戸惑うカイを笑った、高く朗らかな声だ。 雑貨屋のむすめが、何故ここにいる。 「誰?」 しかし、少女の見開かれた瞳に、光はない。声を頼りにこちらを探るその動きには、見覚えがありすぎる。エスリンと一緒だ。 あの雑貨屋の娘ではないのか。 「いいから、来い!」 戸惑いを振り切って、カイは美しく着飾った娘の腕を取った。混乱に乗じて逃げなければならないのだ。 こわばる娘の腕を強引に引いて、カイは外に連れ出そうとする。 「離して!」 けれども少女は鋭い声でカイを拒んだ。 「俺は君を助けに来ただけだ! ラインの乙女なんて、狂ってる!」 「そんなの分かってるわ! わたしの邪魔をしないで!」 愕然と、カイは少女を見下ろした。光のない瞳で、それでも憎しみを込めて、少女は会を睨みつけている。 「どういう、ことだ……?」 「そこまでだ! 動くな反逆者ども!」 朗と響く声に、カイは輿から顔を上げた。 ぞっと全身が恐怖に震えた。 周囲をぐるりと白い鎧が取り囲んでいる。神官の法衣ではない、近衛兵の黄金の鎧でもない。白銀のそれは、正規軍のものだ。 何故今ここに正規軍がいるのだ。祭事の警備はすべて、近衛兵に任されているのではないのか。 「謀反人どもを殺せ!」 まだ若い張りのある声に、輿の内側で少女がふるえた。 隊を仕切っているらしいその声の主はまだ若い。カイと同じぐらいの青年だった。将校用の鎧をきっちりと着こみ、整った顔には潔癖でかたくなな熱をたたえている。 「ルスラン……?」 少女があえぐ。 その震える声で、カイはようやく自分を取り戻した。 雄たけびを上げ、剣を振り上げて迫ってくる兵士を、その危機感をようやく体が理解したのだ。 「こっちだ!」 「いや、離して!」 呆然としている少女の腕を掴み、カイは強引に輿から引きずり出した。 剣を振り上げる兵士の懐に飛び込み、突き飛ばす。たたらを踏んで仰向けに転がった兵士の向こうに、こぼれそうなほどに目を見開く将校の顔が見えた。 「エデ―――!」 血を吐くような彼の絶叫に、少女が弾かれたように振り返る。しかしその瞳は何かを求めてさまようものの、像をむすぶことはない。 「くそっ……!」 知らず、悪態が落ちた。美しい大通りはいまや、地獄と化している。紙吹雪や花びらは、流れた血に浸され、無残に踏みにじられた。 逃げ惑う人々の波に紛れ、カイは少女の手を引いて走る。仲間達の無事を確認する暇はない。合流地点へ急ぐしかない。 少女はすっかりとおとなしくなっていた。自失しているようにも思える。彼女とあの将校は知り合いだったのだろうか。 しかし、彼女の心情を慮っている余裕はなかった。 何故だ。 何故正規軍の小隊がここにいる。何故ばれた。 トールの計画は綿密だった。仲間達はばらばらに聖都に入り、パレードが始まるまで一切かかわらなかった。どう見ても普通の観光者だったはずだ。 (誰かが密告でもしなきゃ、バレるはずなんてなかったのに) 稲妻に打たれたように、カイの足が一瞬とまった。少女の体が背にぶつかる。 「どうかしたの」 怯えながら、少女が問いかけてくる。 「いや、悪い。なんでもないんだ」 少女の目が見えていたら、それがごまかしだと気づいたに違いない。体中から血の気が失せてゆくのがわかる。思わず右手で口元を覆った。 誰か、内通者がいるのか。 思い当たってしまったら、そうとしか考えられなくなった。 正規軍がいたのは偶然だとしても、中央広場にあれだけの数が配置されていたのはどう考えてもおかしい。 作戦の内容は安全のためにも、実行犯たちにしか教えられていなかったのだ。どこで仕掛けるかはおろか、具体的な作戦自体知らぬものも多い。 「乱暴に連れ出して悪かったよ、でも今はついてきてくれ。合流するまでは、俺が守るから」 つないだ手を強く握る。かすかに握り返す気配に、カイは考えるのをやめた。 彼女を安全な場所に連れて逃げなくては。 まずは聖都を出なくてはならない。
9.
「カイ……!」 逞しい腕がカイを抱き寄せた。ほっと全身の力が抜ける。同時に血の匂いに何も入っていない胃が締め付けられた。 「リーグ、無事だったんだ」 「そりゃあこっちの台詞だ! 心配させやがって」 「みんなは?」 絞め殺さんばかりのリーグの腕から何とか逃れ、カイは周囲を見回した。合流地点の手前の森の中だった。 作戦が成功だろうと失敗だろうと、フィヤラルの祭壇で合流する手筈だった。 リーグは唇を捻じ曲げて、ゆるく首を横に振った。 「おまえだって気づいてるだろ、どっかから情報が漏れてるんだ。祠に行ったら袋のネズミだ。先に合流できた奴らはトールが連れて逃げた。俺はおまえを待ってたんだ。城下に戻る」 「城下って、大丈夫なのか?」 「移民たちが匿ってくれるそうだ」 「移民が……」 「俺たちがやってきたことは、全部が全部無駄だったわけじゃないってことだ。しばらくはバラバラに逃れることになるが」 「じゃあ城は……姫はどうなるんだ!」 「姫はあそこを動くわけにはいかない」 「でも……!」 「逃げたら! 俺達とつながってたことを認めるってことだぞ! あのひとだって馬鹿じゃない、それに皇位継承権も持ってる。敵方もうかつに手は出せないさ。ブリュンヒルドも近くにいる。変な意地を張ってみんな捕まっちまったら全部が終わりだ!」 強い力で両肩を押さえつけられた。なだめるというよりも押さえ込むその力づよさに、カイは咽喉元まで出かかった不満を飲み込んだ。リーグとて、喜んで城を放棄するわけではないのだ。 「……分かった」 「そっちのお嬢さんは巫女さんか」 がっくりと落とされるカイの肩を叩いてから、リーグは少女に顔を向けた。 「あなたたち、ドラゴンバスターね」 凛と通る声に、カイは体をねじって振り返る。 まっすぐに、少女と目が合った。 「おまえ、目……」 意志の強い瞳は、揺るがずに二人を捕らえている。盲目のものとは思えない。 「どうやら仲良く手に手をとって、っていうわけにもいかないみてぇだな」 嘆息するリーグの傍らでカイは、明らかな敵意に戸惑った。 「あなたたちが邪魔さえしなければ、今頃わたしは……」 邪魔をしないで、と。彼女は広場でも言っていた。 「なりたかったとでも言うのかよ」 何かがぐっと腹の底からこみ上げてきた。熱い、衝動が。 「ラインの乙女なんて、あんなもんになりたかったって言うのかよ!」 「そうよ! 巫女になれば王宮の中に入れるもの! そうしたら……」 言いかけて、少女は慌てて口をつぐんだ。気まずそうに二人から視線を逃がす。 「待て。こんなとこでいつまでもうろうろしてるわけにはいかねぇだろ。嬢ちゃん、あんたにどんな思惑があったのかは知らねぇが、邪魔したんなら悪かったな。これからどうするんだ?」 「……」 顔を背けたまま、少女は何も言わない。 「家があるなら送ってくぜ」 「帰るところなんて! ……もうないもの」 「ならとりあえず、一緒に城下に戻ろうぜ」 リーグの声は穏やかで、やさしかった。少女は応とは言わぬかわりに、嫌だとも言わなかった。
「無事でよかった」 旅装束に身を包んだトールを見るのは久しぶりだった。 聖都のはずれにある移民街の安酒場だ。カイたちは、二階の奥にある個室に通された。 帝国は、イドゥナ教に改宗したものには帝国民と同等の権利を保証している。権利も住む場所も制限されているわけではない。事実、商売で名を上げたり軍人として働いたりして、貴族の位を手に入れるものもいる。 しかしどれだけ同等の権利を与えられたとしても、今まで敵であった帝国民と笑顔でやっていけるのかといえば、そうではない。必然的に移民たちは移民たちで集まるようになり、移民街が出来上がる。ブリガンディア人も、そういう場所への出入りは極力避けていた。 治安は決していいとは言えないが、地方特有の食料品などを持った商人が出入りするなど、それなりに活気のある街である。 「日暮れまではこのあたりも随分兵士がいたけど、今は落ち着いたものだ。ここを貸してもらえるそうだよ」 神聖でうつくしい聖都の内側にあって、移民街はどことなく粗野で垢抜けない騒がしさがあった。カイにとっては懐かしい喧騒だ。 「迷惑かけるな、すまねぇ」 料理を運んできた女将に、リーグは大きな体を丸めて頭を下げた。 「いいんだよ、正直あたしたちももうへとへとなのさ。命からがら生きるためにこの街に来たけど、やっぱり帝国はイヤだよ。戦争がなくなったって、あたしたちの村が復活するわけじゃないけど、戦がなくなるんなら、それに越したことはないもの」 ガツーンとやっちゃっておくれ、ガツーンと! と力瘤をつくる真似をして、女将は部屋を出て行った。 「これからどうする」 木のテーブルどかりと座り、リーグはパンを手に取る。 「しばらくはおとなしくするしかないな」 トールは壁に背を預けて立ち、腕を組む。 「しばらくって、どのくらいだよ」 リーグに引きずられるようにテーブルについたはいいものの、いざとなると食べ物に手が出ない。隣を伺うと、少女も―――エデと名乗った―――その様子だ。先程から何も言わずに、かたくなにうつむいている。 「そんなに長い期間じゃない。帝国側に情報が漏れているのだとしたら、時間が経てば経つほどこちらは不利になる。じりじりと焙り出されるのはごめんだ。―――姫からの言伝がある」 ぱっとカイは顔を上げてトールを見た。 「一週間後にヴァルデル皇子の十二歳の誕生日がある。皇子は姫に良く懐いていて、どうしても会いたいのだそうだ。その日は是非城に来て欲しい。誕生日の権限でわがままを通して、絶対に姉上を中にお入れする―――という手紙が来ている」 リーグはスープをすくったスプーンを途中でとめ、穴が空くほどトールの顔を注視した。 「姫はその日に作戦を決行すると言っている」 「弟の誕生日に、か。因果なモンだな」 「しかしそうでもしなければ、姫はトゥオネラの城を出ることは出来ないだろう。彼女は以前から、作戦を決行するときは現場に立ち会うと言っていたからな」 「だけど、隠し通路はどうする。作戦が漏れてるんだとしたら、そこはおそらく張られてるぜ」 「しかしおおっぴらに警備しているわけでもなさそうだ。気合を入れて警備をすればするほど隠し通路だということがばれるわけだろう。多少のリスクを背負ってでも、僕は隠し通路を突破することを勧める。正面突破はまず不可能だからな」 「あなたたち……」 今までかたくなに黙っていた少女が、膝の辺りをきつく握り締めて、声を絞り出した。 「あなたたち一体、何をするつもりなの」 きっと顔を上げて、エデは周囲を見回した。 男どもは顔を見合わせて口をつぐむ。いまさら隠しだてしても仕方がないとは思いつつも、堂々と宣言するほど開き直れてもいなかった。 「君こそ、ラインの乙女に成りすまして王宮に潜入するつもりだったそうだが、何をするつもりだったのかな」 澄んだ青の隻眼をエデに向け、トールは問い返す。 エデは唇を噛んで、顔を背けた。 「僕たちは皇帝を暗殺するつもりだ」 居合わせた人間は、各々息を飲んだ。 「お、おい」 「いまさら隠しても仕方がない。この国に姫はひとりしかいないのだし、彼女はたくさんの情報を見聞きしているはずだ」 「殺すの?」 椅子を引いて、エデは立ち上がった。背筋をまっすぐに伸ばし、トールの前に立つ。 「告げ口しに行くかもしれないのよ。殺さないの?」 エデの口元がつめたい笑みを含んだ。 「そうやって、言うことを聞かない人間はみんな殺せばいいのよ! リーリャの村を焼いたみたいに!」 エデは身を翻した。突風のような勢いで部屋を飛び出してゆく。 「おい、待てよ!」 椅子を蹴倒す勢いで、カイがその背を追った。
8.
「おうカイ、おまえも飲め!」 食堂の扉をくぐると、逞しい腕が横合いからカイの首をぐっと引き寄せた。 「いってぇ! っていうか離せよ、酒臭いな!」 首に巻きついたリーグの腕を引き剥がそうと、カイはもがく。
ならず者の溜まり場は、地下に作られている。 王族が使用している正式な食堂ではなく、秘密裏につくられた酒場のような場所だ。 レジスタンス専用の出入り口も、地下からゼイドの郊外へ抜けられるように掘られている。 トゥオネラ城は、表向き聖都を追われた姫が孤独を癒すために楽師を呼ぶ程度の寂れた城なのだ。どこから見ても芸人に見えない男どもが大勢、表から堂々と出入りするわけにはいかないのである。 「ようこそ、竜殺しの巣へ」 転々と置かれた丸テーブルのひとつで、トールが苦笑しながら杯を掲げてみせる。 なんとかリーグの腕をすり抜けて、カイは隻眼の楽師の隣に座った。 「ようやく決心がついたみたいだね。リーグも随分喜んでいる」 「ああ、やっとね」 いつものように大酒を飲んで騒いでいるだけに見えるリーグを眺めながら、カイは軽く肩をすくめる。 「しかし、一月近く悩んでいたきみがどうして急に正式に仲間になろうと決めたのかな。正直なところ僕はもう、無理なんじゃないかと思っていたんだけれど」 「姫に、全部聞いたんだ」 酔っ払いたちの喧騒の只中だから、普通に話してもよく聞こえるわけではない。それだというのにカイは、トールにぐっと顔をよせて、声をひそめた。 トールは残された右目を大きく瞠り、それから口元をゆるめた。 「そうか」 「姫はみんなに見せてるのか?」 さらにぐっと顔を寄せて、カイはトールに問う。楽師は言葉をのみこめない様子でいぶかしげな顔をする。 「何を?」 「……その、だから」 恥ずかしくなって、カイは顔をそむける。じわじわと首のあたりから赤くなってゆくカイの顔を見て、察しのよい楽師は彼の言わんとしていることに気がついた。 「きみは、随分とあの方に気に入られたようだな」 若干の驚きをふくんだ声だった。 「真実を知るものはすくない。隠しているわけではないが―――分かるだろう。彼女は皇位継承権を持っている。難しい問題だ」 大した学のないカイにも分かる。こんなスキャンダルはない。 「この組織に名を連ねる者の中には、彼女の気高さや血筋を仰ぐ者もいる。資金源だと割り切る者も。元々リーグについてきたものもいる」 「リーグについてきた?」 「ああ、ドラゴンバスターは元々、彼が作ったものなんだよ」 カイは思わず体をねじって喧騒を振り返る。人々の輪の中で、大口を開けて笑っている男が見えた。 目線に気づいたリーグが、酒瓶を片手にテーブルに近づいてくる。どすんとカイの隣に腰を下ろし、身を乗り出してくる。 「コソコソと人の悪口か?」 口の端を引き上げて、からかうような笑みを浮かべてみせる。 「どんなに絡んできたって無駄だぜ。俺、酔っ払いの扱いは親父で慣れてるからな」 カイはぷいっと大男から顔を背けた。 豪快な男の豪快な酔いっぷりを、この一月で嫌というほど見せ付けられてきた。 暴れたりはせず、終始上機嫌なのだから、彼は良い酔っ払いであろう。が、同じ話を延々くりかえすのは厄介だ。 話がループを始めるとこちらも延々と生返事をくりかえしていたので、細かい内容までは覚えていないが、大体が妻と娘の自慢話だったような気がする。 「親父さんはどうしてる」 リーグは、手にした酒瓶をカイのグラスの上で傾けた。 「……死んだよ。酒飲んで、いい気分で冬に道端に転がってれば、夢見てるうちに逝っちまえるだろ」 並々と満たされたグラスを、とりあえずカイは口元にはこぶ。未だに味はよく分からない。 「根っからの鉱山夫だったんだ。山が好きで仕事が好きだった。あのひとは、鉱山がなきゃ生きていけなかったんだ。魚を陸にあげちまうのと一緒で」 カイは父親を憎むことが出来ずにいる。 昔から酒好きで、鬱屈がたまると物にあたることもあったが、情に厚く仕事に熱心で、母に弱かった。 母に似たエスリンを、溺愛していた。だからカイは、リーグが娘の自慢をするたびに、父のことを思い出す。仲間たちの溜まり場である酒場に父を迎えにゆくと、大抵エスリンの自慢話をしていたからだ。 「親にはな、覚悟があるんだ」 酒瓶の口を持って少し横に振り、中身がないのを確かめてから、リーグは酒瓶をテーブルの奥へ押しやった。 「子どもが受ける苦しみを全部引き受けて、身代わりになってやる覚悟だ。実際にはそんなことできやしないが、俺はそう思ってた。女房の分も娘の分も、盾になってやる覚悟はあったんだぜ。俺は馬鹿だが、図体と腕っ節だけはあったからな。こう―――」 リーグは腕を伸ばし、掌で何かをつかむような動作をする。 「握るとな、簡単にくるっとひとまわりするほっそい腕でな。俺の嫁になるってずっと言ってた。抱き上げると、剣より軽くてな」 見えぬ何かを握る無骨な手を、リーグは夢を見るような瞳で見上げた。カイも、大きな掌がつくる円を、その空白を、見つめた。 目じりが下がったその瞳を、カイはよく覚えている。父のものと一緒だった。 その夢見るような微笑が急に、歪んだ。 「俺が代わってやりたい―――!」 低く声を絞りだし、リーグは空を掴む拳をきつく握り締めた。 小刻みに震える拳をテーブルに叩きつける。 酒場は一瞬にして、水をうったように静まり返った。 歯軋りが聞こえるほど唇を噛んだリーグの瞳に、カイは再びあの熱を見た。 拳をたたきつけた勢いで、グラスの酒が波立つ。 「ちくしょう……!」 獣のように低く、男は唸った。
*
「リーグは元々傭兵ギルドではそこそこ名の知れた男でね」 夜も更け、男どもが引き上げた酒場は、がらんと寒々しい。 照明はテーブルの上のランプひとつ。トールは机に突っ伏した大男に毛布をかけてやりながら、口を開いた。 「戦が長引いて民衆が疲弊しはじめた頃から、仲間とともに軍の野営地や補給路を襲ったりしていたんだ」 カイの目の前ではハーブティが湯気を上げている。アルコールなどよりは、こちらのほうが合っているような気がする。 「元々それほど本気ではなかったようだ。義賊を気取って愉しんでいたと本人も言っていたよ。それが裏目に出たんだね」 トールは隣の椅子を引いた。 「軍は本気で彼らを潰しにかかった。彼らの心を折るために、本人たちではなく彼らの村の女子供を虐殺したのさ」 あのあと、畜生と何度も絞り出して、大男は机に突っ伏してしまった。 「それからリーグは鬼になったよ。兵士と見れば襲い掛かる獣のようになった。村の生き残りとともに、本格的に軍の野営地を襲うようになった。それがこの組織の起源だ」 「だからあのとき」 カイは左頬を親指でこする。 「あいつ、あんな顔して俺のこと殴ったんだな」 時折リーグの瞳に宿る剣呑な光のわけが、ようやく分かったような気がした。 大人の分別を持ち合わせているかと思えば、仲間のために玉砕覚悟で特攻をかけようとする。 そのアンバランスさの出所。 いまだ血を流す傷口の、膿んだ熱なのだ。 「ひとりひとり、違った理由や傷がある。この城にいるものは皆、ひとつの大義のもとに動いているように見えるが、彼には彼の、君には君の理由がある。だけど、ともに道を掻き分けるには大義が必要なんだ。辛いことから目も背けられるしね」 美しい旗があれば、気高い理想を掲げていれば、天を仰いでいられる。 足元に広がる泥沼や、後方に残した残骸を見下ろさなくてすむ。 「多くの人間が仰ぐ大義を求めているように、僕には思える。それだけ目をそむけてしまいたい何かがあちこちに転がっているってことなんだろう。姫を聖女扱いする者、金づると割り切る者もそうなんだろうな。だから君のように姫の本心を欲しがるものはあんまりいないんだ。姫も望んで聖女を演じているふしもあるけどね。だけど時には彼のように」 楽師は寝息を立てる大男を顎で示す。 「吐き出したいときもある。だから姫はきっと、真っ向から向かってきた君に心を開いたんだろう」 「俺はただ、うまい話を信じられなくなってるだけだ。へそ曲がりなんだよ」 「心根が曲がった人間は、真っ向勝負はしないものだよ」 「回り道なんて器用な真似、できないんだよ」 急に気恥ずかしくなって、カイはふいっと顔を背けた。 分かりやすい反応に、トールは苦笑する。 「さて、僕はもう寝るよ。明日は聖都まで出向かなければならないんだ」 「聖都に?」 カイは立ち上がるトールを仰ぐ。 「情報を集めておきたい。もうすぐエバート祭だからね。街の様子を探ってみようと思うんだ。情報の伝手もないわけではないから」 「祭? こんな時期に?」 「こんな時期だから、だろうね。民が疲弊しているからこそ、祭で目くらましをしようとしているのさ」 「情報集めて、何かするのか?」 「祭には皇帝が姿を現すかもしれない」 「ヴォーデンが」 思わずカイは息を呑む。 「近頃彼は公の場にぱったりと姿を見せなくなった。実はもう死んでいるんじゃないかと囁かれているほどだ。エバート祭はイドゥナ教の大祭だし、彼には最高位の神官としてのつとめがある。現れなければおかしい」 「姫は一応家族だし、生きてるか死んでるかぐらい分からないのか?」 「最近はヴァルデル皇子ですら面会を許されないと聞く」 ヴァルデルは、フレイヤの弟で今年で十二になる。 離れ離れになっている姉を慕って、こまめに手紙をよこすのだと聞いたことがあった。 皇帝は、第一位の継承権をもつこの皇子を溺愛しているらしいのだが、その皇子も面会を許されないというのは、おかしな話である。 「エバート祭の最終日には、洗礼の儀がある。儀式は神殿で行われて民衆は入ることは出来ないが、例年であれば皇帝も迎えに顔を見せるはずだ」 「洗礼?」 「ああ、聖都特有の儀式だから知らなくても無理はないか。ラインの乙女だよ」 がらんとした酒場に、椅子が倒れる音が響き渡る。 「カイ」 突然立ち上がったカイを、トールは気遣わしげに見る。 机に両手をたたきつけた体勢のまま、カイはきつく唇を噛んだ。 「戦争したいなら、やりたい奴だけ連れて行けばいいんだ!」
―――ありがとう、おにいちゃん。
空のまぶしさを尋ねたあのとき。エスリンはもう知っていたのだ。自分がラインの乙女に選ばれたということを。
―――わたしはだいじょうぶ。おにいちゃんも、おとうさんもおかあさんも、村のみんなもいるから。だから、だいじょうぶだよ。
あのとき。 エスリンが何度も「だいじょうぶ」と繰り返した意味に気づいていたら。 もう遅い。 和やかな生活にあたためられて、忘れかけていた戦うわけをようやく、思い出した。 「俺は絶対に、皇帝を許さない……!」
*
「俺のうまれた村は、鉱山の麓の貧しい村で、戦がはじまってすぐ兵士が押し寄せてきた。鉱山を荒らすだけ荒らしてったんだ」 窓からそそぐ光を背に、フレイヤは凛と顔を上げて立っている。 まるで女神のような神々しいすがたに、体中がこわばる。咽喉はからからに渇いていた。 「鉱山が涸れて、兵士たちはいなくなって、村にはなにも残らなかった。鉱石が取れなくなったら、鉱山なんてただの荒れ果てた岩山なんだ。そんなところで暮らしてなんかいけない」
―――君から視えたのは、二本の大きな木が生えたうつくしい丘だ。
あの楽師の言うとおり、どれだけ故郷を離れても、生まれ育ったあの村を忘れたことなど一度もなかった。 「だけど、鉱山夫は鉱山じゃなきゃ生きられない。みんな散り散りに村を離れたけど、うまくなんてやっていけなかった。父さんは酒びたりになって、母さんもぶっ倒れて、どっちもあっさり死んじまった。妹は―――」 右の手にはまだ、ちいさな手のぬくもりが残っている。旅立ちの日に着飾ったエスリンが手探りで探し当てて、握った感触だ。 「妹は、ラインの乙女として死んだ」 彫刻のように立っていたフレイヤのおもてに、初めて驚きが広がった。 「遺体は返ってこなかった。どんな死に方したのかも教えてもらえなかった。あいつ、まだ十一だったのに」 残る感触を確かめるように、カイはゆっくりと右手を握り締めた。 「戦が全部持っていっちまった。俺は正義がどうとか国がどうとか、そんなことはどうでもいいんだ。ただ悔しくて苦しくて、何かしたかった。けど、何をしたらいいかずっとわかんなかったんだ。あんたたちのことは、噂で聞いてた。入れるもんなら入りたかった」 怒涛のように吐き出し、カイは深く息を吸った。 握った拳から顔を上げると、フレイヤが相変わらず女神の風格でこちらを見ていた。 その存在すら伝説だと言われてきた謎の反帝国組織。帝国に恨みを持つものにとって、ヒーローのようなものだった。 けれど。 「いざ飛び込んだら、またわかんなくなったよ。ここにいる奴らはみんないい奴ばかりだし、何かデカいことができそうな気がしてる。でも、どうしてもわかんないんだ。なんかさ、温度が違うんだよ。俺は……」 思わず一歩、足が前へ出た。 「俺はあんたの、何を信じたらいい」 机を挟んだ向こうにある、女神のような気高さに、縋ってもいいのだろうか。 「血筋とか金とか、俺はそんなものじゃわからない。むずかしい話をされても無理だよ。あんたは本当は何がしたいんだ。本当にただ、国のためだけに戦争をやめさせるためだけに、父親を殺すのか?」 美しい言葉なら、たくさん聞いた。 麗句がふくむ毒も知った。 掲げられた綺麗な旗だけで、すべてを信じることなどもう、出来ない。 大きな吐息とともに、フレイヤは真紅の瞳を伏せた。 迷いのない足取りで机を回り込み、カイの真正面に立った。 「わかった。すべて、おまえに見せよう」 己の背に腕をまわす。背骨に沿うように首のあたりまで続くボタンを器用にはずし始めた。 唖然とするカイの前で、フレイヤは喪服のような漆黒のドレスを、肩からするりと落とした。 何が起こっているのかに気がついて、カイは慌てて顔を背ける。 「べ、別に俺はそんな……!」 「見ろ、カイ」 耳まで赤く染まるカイに、フレイヤは叱りつけるような強さで言う。 「これがわたしが、聖都を追われた理由だ」 促されるまま、カイはぎこちなくフレイヤに視線を戻し―――声をなくした。 しみひとつない、雪のような肌。すらりと伸びた手足。 完璧な肉体に見えた。しかし。 胸と下半身とを見て、最後に姫の顔を見る。まばたきが出来なくなっていた。 美しい肉体にはどこにも、性別を示すものがなかった。 もう一度胸を眺める。なだらかな肌が隆起もなく、下腹部まで続いているだけだ。 救いを求めるようなカイの瞳に、フレイヤは口元にいびつな笑みを浮かべて見せた。 「わたしは、男でも女でもない半端者だ。わたしがいつまで経っても女にならぬと知って、父は私を忌み、遠ざけた。わたしにも今はもう分からないんだ。自分のしていることが一体、何なのか」 差し込む陽光に、白い肌が輝く。フレイヤはなめらかな胸に手をあてて滑らせた。 「戦がおかしいと思う自分も確かにいるのだ。国を憂う気持ちもある。けれど、もしかしたら父を倒したいという思いは私怨に過ぎないのかも知れぬ。しかし、わたしも黙ってなどいられないのだ。わたしは父を、倒すと決めた」 カイは呆然と、完璧な、けれども不完全な体を見つめた。 目の前にさらされた秘密を、うまく飲み込めずに戸惑っている。 フレイヤは毅然と、まるで挑むようにこちらを見据えている―――ように見えた。 毅然と? いや、違う。 そのとき、カイの内側で何かが音を立てて崩れた。 いつのまにか作りあげていた虚像、偶像かもしれない。 金縛りにあったような脚をぎこちなく動かして、カイは一歩、間合いを詰めた。 瞬間、まるで感電したかのようにフレイヤの体がふるえる。 そう。 彫刻のように毅然と凛々しく挑むようにだなんて、どうして思っていたのだろう。 大窓からの光を背負い、輪郭が曖昧に溶けているからよくは見えなかったけれど、彼女は先ほどからずっと、ふるえているのだ。 「もういいよ」 残りの距離を大股に歩み寄って、カイはふるえる肩を抱いた。 ふれあって初めて、肌の熱さを知った。 流れる血のぬくもりと、たしかなふるえ。 「もうわかった」 言葉だけで伝えることだって出来たはずだ。他人の前で裸になるには勇気が要る。姫として育てられ、更に誰にもいえぬ秘密を抱えた体なら、なおさらだ。 それを文字通り裸になってみせたのは、彼女の覚悟だ。 「わたしひとりでは、何も出来ない」 肩をつつむカイの腕に、フレイヤはそっと顔を伏せた。 「力を貸してくれ」 腕に触れた唇から、言葉はふるえとして体に響いた。 どんな美辞麗句よりもこのふるえが、確かなあかしだ。
美しいものも醜いものも、たくさん見てきた。 立派な言葉すべてを信じることなんて、もう出来ない。自分以外を信じることは、とてもおそろしいことだ。裏切られるかもしれないのなら、はじめから期待しないほうが賢い。 それでも。 信じてもいいと、自分の中の何かが囁いた。 「あんたについていく」 信じることは決して、愚かなことではない。
腕に触れた唇が、かすかにふるえた。
5.
「一応”あの方”と俺たちは、関わりがねぇことになってる」 美しく整備された石畳を踏んで、カイとリーグは並んで歩いている。 数週間に一度、必要物資を聖都に買い出しにくるのである。 トゥオネラ城は、聖都から馬車で一日ほど離れている。大体のものはゼイドで手に入るが、聖都ブリガンダインには近隣では手に入らないものがたくさんある。大々的に仕入れを行うと人目につくということもあるので、仕入れは食料品や雑貨、武器防具などを別々な日に別々な人間が、数組に分かれて仕入れに出かけるという徹底ぶりだ。 しかし、妥当な方針であるともいえる。トゥオネラ城と―――フレイヤ姫と反乱組織のつながりは、絶対に気取られてはならないものだからだ。 伝え聞いた話によれば、姫はすっかり世俗を嫌ってしまい、めったに城を出ることもせず、気に入った楽師や芸人を呼び寄せては城内に住まわせているという。変わり者で享楽的であるというのがもっぱらの噂だった。しかしその噂も、あえて流させているのだという。 傭兵まがいの男どもを大勢城に招きいれている、などという噂は決して立ててはならないのだった。 「あんたが楽師や芸人だっていうのは無理がある気がするけど」 城に身を寄せて、いつのまにか一月近くが経った。未だにカイは自分の身の振り方を決めかねて、しかしただ飯を食らうのも気が引けて、雑用係を買って出ている。 リーグの人柄は、生活を共にするうちに自ずと知れた。 豪快という二文字がこれほど似合う男もいるまい。 実直で公平、腕もたつ。あの城で中心的存在であるのもうなずける。 だがカイは左頬に受けた拳の恨みをなんとなく引きずってしまい、素直になれずにいる。 「口の減らねぇガキだぜ、まったく」 リーグは苦笑してさらりと受け流す。あくまで大人の対応をする彼を見て、本当に祠で自分を殴った人物なのかと時折いぶかしみたくもなる。 あの日自分に掴みかかってきた男は、憤怒を瞳に燃やしていた。 年の割にはいくつも修羅場をくぐってきたカイが、思わずすくみあがるほどの激情だった。だから、平素から荒くれ者なのかとずっと警戒していたのだが。 「こっちをおまえに任せる。用事が済んだら広場で合流だ」 「ちょっと待てよ、俺聖都はほとんど知らない……」 「聖都はひとが多いんだ。聞けば教えてくれるさ。それに簡単な地図も描いてある」 問答無用でカイにメモを握らせ、リーグはさっさと歩き出しいる。 「ああ、そうだそうだ」 大股ですこし歩いてから、呆然自失のカイを振り返る。 「一番下のヤツな、ご主人様の好物だからな。忘れると怒られるぜ」 にやにやと口元に嫌味な笑みを浮かべて、リーグはカイの手元を指差した。 カイは慌ててメモの最後に目を落とす。「マルガリテ・フラン」と書かれているが、一体なんの名前なのか、カイには見当もつかない。 「これって何……ってあれ?」 メモから顔を上げると、既に男の姿はない。うまく巻かれたのかもしれない。 こうやって、リーグは好んでカイをからかうのである。きゃんきゃんと犬のようによく食いつくので楽しいのかもしれないが、からかわれている側はたまったものではない。 だから素直に相手を認める気になれないのだ。 「……やってらんねぇ」 舌打ちひとつであきらめて、カイは簡素な地図を頼りに歩き出した。
*
扉を押し開くと、ベルの音が店内に響き渡った。 最後に訪れた店は、首をめぐらせば見渡せるようなこぢんまりしたものだった。 わっと湧き出した何かに、思わずカイは足を止める。 なつかしさだった。 こぢんまりしているとはいっても、聖都にある食料品店だ。カイが見て育ったような雑貨屋とは比べ物にならないぐらい洗練されている。店主の趣味がうかがえるというものだ。 何処と似ているというわけではない。店にただよう雰囲気が、なぜか郷愁をさそうのだ。 包み込むようなあたたかさがある。 「いらっしゃいませ」 カウンターの内側から細い声が迎えた。扉を押し開いたきり固まっていた自分にようやく気がついて、カイは店内に足を踏み入れる。 「ここに、マルガリテ・フランがあるって聞いたんだけど」 カウンターの内側には細身の少女がいる。愛らしい顔立ちだが、表情はどこかこわばっていた。 少女はちいさく頷いて、カウンターの中を移動する。 カウンターの傍の、めだつ場所に置かれている菓子を示した。 遠くから眺めるだけで甘い芳香に満たされる心地がする。どうやらチョコレート菓子のようだ。 カイは吹き出しそうになるのをなんとかこらえた。あれほどまでに高圧的なふるまいをする姫の好物がチョコレート菓子だなんて。意外な一面を発見したような気がしたのだ。かわいらしいではないか。 何とか笑いをこらえた顔が奇妙に歪んでいたのか、カウンターの向こうで店番の少女が怪訝そうに小首をかしげる。 ゆるんでいた表情を、ちいさな咳払いとともにあらためた。 「おいくつですか」 鈴をころがすような声で、少女がごくごく当たり前の問いかけをしてくる。しかし、それは難問だった。はたしていくつ買っていったものか。 金の心配をしているわけではない。軍資金は多すぎるほどだ。 すくなく買っていっても不興を買いそうだが、かといって多く買っていくのも気が引ける。女心はとてつもなく難しいのだ。 件の菓子を目の前にして、カイは神妙な面持ちで悩んだ。 ちいさく吹き出す声で、カイは我に返った。声を追うように顔を上げると、少女がこらえ切れない様子で笑っている。 「ごめんなさい、でも、あんまり真剣だから」 思わず目のふちに浮かんだ涙をぬぐいながら、少女は詫びた。 はじめは憮然としたカイだが、少女の邪気のない笑顔に苦笑して肩をすくめた。 「あんまりこういうの買ったことがないからさ、分かんないんだ」 正直に白状した。 「ひ……、いや、ご主人が好きらしいんだけど」 姫と言いかけて、慌てて飲み込む。少女は別に気にするそぶりもせずに頷いた。 「女のひとにあんまりたくさん買ってくのもアレかなって思ってさ」 柄にもなく細かいことに気を揉んでいるカイに、店番の少女は甲斐甲斐しく世話を焼いた。日持ちの話や材料、甘さについて。 気づけばカイの手には、おそらく適量と思われる菓子の包みがあり、会計も済んでいた。 「これで多分大丈夫だと思います」 一仕事終えた少女は、カウンターの内側で微笑んでいる。
―――だいじょうぶ。
ふと。 包容力のある微笑に、なにかが重なった。 どこか抜けている兄を、時にはっとするような大人の顔をして諭した、あの笑顔だ。 「どうかしました?」 急に息を呑んだカイを、少女は不思議そうに見つめる。 言葉が見つからないカイを救うように、背後でドアが開いた。 軽快なベルの音が鳴り響く。 「あ、いらっしゃいませ」 「色々ありがとう」 少女の視線があらたな客にそれたのを見計らって、早口に言って踵をかえした。 背中に注がれる視線を感じたが、振り返らずに店を出た。どっと押し寄せる雑踏に戸惑いながら、いまさらながらに店を仰いだ。「グリース・リーブス」。それが店の名前らしい。 せわしなく行き交うひとびとをぼんやりと眺めながら、カイは自分がずいぶんと動揺していることに気がついた。 どうして突然、彼女に妹の面影を見たのだろう。 エスリンが生きていたら、ちょうどあのぐらいの年頃かもしれない。けれど、今まで同じような年頃の少女を見ても、妹を思い出すことはなかった。 店の前で立ち止まっているカイを怪訝そうに眺め、初老の婦人がグリース・リーブスのドアを押し開く。 ちりんと響くベルの音と、客を迎える少女の声。 高く、芯のある、声。 (ああ) 美しい声のせいだ。 エスリンも、村一番歌のうまかった母から譲り受けた、高く通る声の持ち主だった。 ぴんと、張り詰めた弦を弾いたときのような、まっすぐ通る声。 だから急に―――。 「こんなところにいたのか!」 荒々しい足音と唸るような声が、カイを現実に引きずり戻した。相手を確かめるよりも早く、腕を掴まれる。握りつぶすような握力に、思わず眉根が寄った。 「何するんだよ」 「いいから来い」 リーグはカイの二の腕を鷲づかみにし、引きずるようにして歩き出した。 いつも浮かべているような調子のいい笑顔が掻き消えた、こわばった横顔に、カイはそれ以上抗わなかった。 リーグは、門の外に停めてあった馬車までカイを引きずると、幌を捲り上げて荷台に押し込んだ。 「どうしたんだよ」 押し込められるまま荷台に乗り上げてから、カイはようやく声を潜めて訊いた。 「おまえは先に城に戻れ」 カイに次いで荷台に乗り込んだリーグは、自分の荷物をそのあたりに下ろすと、何やらあたりをひっくり返している。やがて彼が隠してあった剣をつかみ出したのを見て、カイは息を呑んだ。 「何が……」 「情報収集させてた奴が捕まった。買出しに連れてきた奴らは皆先に返したんだ。あとはおまえだけだ」 「待てよ! 馬車全部返しておまえ、どうするつもりなんだよ!」 「声がでけぇんだよ!」 大きな掌がカイの口元を覆う。 噛み付かんばかりの勢いで、碧眼がぐっと間近に迫った。 「俺はな、仲間を見捨てやしねぇんだ。大儀のためにいらねぇ枝葉を切るようじゃ、帝国がやってることと変わらねぇ。意固地だって思われてもいいんだ。俺はそう決めてる」 青い瞳に、あの日の激情を見た。 フィヤラルの祠で自分を殴り飛ばした男の目だった。 滾るような、怒りの色。 「俺も行く」 「おまえは駄目だ」 菓子の入った包みを起き、自分の荷の中から短刀を引きずり出すカイの手を上から押さえつけ、リーグは唸るように言った。 「……簡単に死ぬなんて言うなって、俺をぶん殴ったのはこの腕だろ」 自分を押さえつける屈強な腕。忌々しげにその腕を睨んでから、カイは挑むように顔を上げた。 「馬車全部返して、あんたひとりで何処に行くって言うんだ。腕が立つのは知ってるけどさ、俺には死にに行くとしか思えないんだよ!」 ふつふつと煮えたぎる怒りを感じていた。急激に腹の底から咽喉もとまでせりあがってきた激情だった。 理不尽だ。 あの日。死んでやる殺せと自棄になった自分を殴り飛ばした腕ではないのか。その腕を持つ人間が今度は、ひとりで敵陣へ飛び込んで行こうとしているなんて。 筋が通らない。納得できるものか。 この男はそんな自棄を起こすような男ではないと思っていたのに。 裏切られた気がした。 「仲間を見捨てないってのは立派だよ。けどさ、それで皆死んだら仕方ないだろ。別に殴りこみに行くわけじゃない、連れて逃げるんだよな?」 男の双眸に煮えたぎっていた激情が、水をかけられたように消えた。 あっけに取られたように瞠られた瞳がやがて、何かまぶしいものを見つめるように細められた。 ぐっと上から押さえ込んでいた腕の力を抜いて、カイを解放する。 そして、その右手をカイの頭に乱暴に乗せた。 「すぐ戻る。ここで待っててくれ」 リーグの声はカイの頭上を越え、御者台へ飛んだ。 「何か顔を隠すもん、持ってこい」 不服そうに口を捻じ曲げているカイの額をはたいて、リーグは荷台を降りた。
6.
―――本当にすまねぇ。これで城に目をつけられたりしたら、姫に合わせる顔がねぇ……。
鎧の並んだ廊下を歩きながら、カイは助け出した男がうわごとのように繰り返していた言葉を思い出していた。 あの日。 カイとリーグは浄化で一騒動を起こした。 つかまった身内を、軍本部に連行されるすんでのところで奪い返してきたのである。 人の多い広場だったのが幸いして、すぐさま集まった野次馬を隠れ蓑にすることで、うまく逃げ延びることが出来たのである。 助け出した男はひどく痛めつけられたと見えて、数日が経った今も起き上がれずにいる。だが、どれだけ痛めつけられようとも、組織のことやましてや姫のことは何一つ言わなかったと、誇らしげに言っていた。 だから姫には安心していただいてかまわない、と。 どうしてだろう。 腑に落ちない。 自分たちを援助してくれる相手を立てるのは当然のことなのかもしれない。だが、「龍殺し(ドラゴンバスター)」とも呼ばれるこの反乱軍の、フレイヤ姫への忠誠心は異常なほどだ。 信仰にも似ている。 高貴な生まれゆえか、気高い容姿のせいか、それとも資金―――。しかしそのどれでも、カイは納得できなかった。 だから、今この扉の前に立っている。
拳全体で、乱暴なノックをした。 「開いている」 凛とした声が返された。 重みのある扉を押し開けると、わっと光が溢れてくる。その只中で、フレイヤ姫は机について本のページを繰っていた。 背後の大きな窓から注ぐ光に照らされて、おぼろげになる白い輪郭に目をすがめ、カイは大きく一歩踏み込んだ。 「話したいことと、聞きたいことがあるんだ」 赤い瞳がカイを正面から射る。 その強さに怖じそうになる両足に、しっかりと力を込めた。 探り合うような視線がしばらく絡んだあとで、ぱたん、と白い腕が本を閉じた。 「聞こう」 白銀の髪を揺らし、姫は立ち上がった。
4.
「僕は宮廷楽師だったんだ」 トールは、中庭を見下ろせるバルコニーにカイをいざなった。 広い中庭には十字に組み合わされた木がいくつも、鎧を着せられて立っている。先程から聞こえていた剣戟の音は、どうやらここから聞こえてきていたようだった。 石でつくられたバルコニーのへりに手をかけて、トールは中庭を見下ろす。トールと並んだカイは、自分とさほど年が変わらぬ青年が屈強な男と剣を交えている姿を発見した。 「……あいつ」 青年が振り下ろした剣をたやすく受け止めてはじき返したのは、祠でカイを殴りつけた男だった。 「彼にもあとで会うといい」 カイの渋い横顔に、トールは微笑した。 「宮廷楽師って言えば、皇帝のお気に入りじゃねぇのかよ」 カイを殴りつけた男、リーグと呼ばれていたか。太刀筋は迷いがなく見事なものだ。忌々しいながら目が逸らせない。 「なんで反乱軍になんか」 皇女が反乱軍を指揮するなど、カイには信じられない。何か巨大で巧妙な罠が足元に仕掛けられているのではないかとつい、勘繰りたくもなる。 「僕の左目は生まれついて金色でね」 カイは中庭から隣に立つ男に視線をうつす。 「珍しがられて楽団に買われた」 湖を渡ってきたどこか湿っぽい風が、しずかにふたりの間を抜けた。 「だけど珍しいのは色だけじゃなくてね、僕にはその人間の未来が視えるんだ」 カイは目をしばたいた。トールの言葉を噛み砕いてから、身構える。 「馬鹿にしてんのか」 「信じる信じないは君の自由だ。占いのようなものだと思えばいい」 真摯なまなざしを返され、カイはそれ以上言い募ることが出来なかった。 「未来だけではなく、過去が視えることもある。だけど、能力というには甚だ不確かなものだよ。視たいと思ったときに視えるものではないからね」 「じゃあその左目は……」 トールは自嘲気味に口元をゆがめる。 「皇帝陛下にやられたのさ」 楽師らしい細い指先で、傷の上をなぞる。 「陛下には、僕に視られたくないものがあるらしい」 「じゃあ、目を潰された復讐か?」 「それもないことはないけど、実はそんなに困っているわけじゃないんだ。元々そんなに視力はなかったからね。それに僕は別に視力で何かを視ていたわけじゃない。もちろんそれに気づいたのは目を潰されてからだけど」 「どういうことだよ」 回りくどい話運びに、カイはだんだん辟易してきた。元々短気な性格なのだ。 「今でも僕には視える。人の、過去や未来が」 トールは意味ありげな視線をカイに向けた。透き通るようなたったひとつ残された瞳が、急に妖しい光を帯びているように見え、カイは息を呑んだ。 同じいきものなのか、自信がなくなった。 「だったらあんたは」 身構え、一歩退く。 「俺の過去を見て、祠に誘ったのか」 貧しい村を。陰気な鉱山夫たちを。着飾った妹の姿を。 復讐心に付け込んで、湿った地下道を歩かせたというのか。 トールは改まったようにカイに向き直り、ゆっくりと首を横に振った。 「君が出入りしていた酒場の主人から君の噂を聞いたんだ。僕達は、過去で仲間を選ぶわけじゃない。それだけは誤解しないでほしい。傷を舐めあうために集まったわけではないんだ」 穏やかな物腰を崩さないトールにしては、強い語調だった。理不尽なわがままを言ったわけではないはずなのに、何故か居心地が悪くなる。真正面から挑んでくるトールの隻眼から、カイは目を逸らした。 「君から視えたものは」 トールはうつむくカイの肩に手を乗せた。 「大きな二本の木が生えているうつくしい丘だ」 瞳が見開かれるのを、止める術はなかった。戸惑いを隠せぬまま、カイはトールを見つめる。 「僕に視える過去は、その人物が一番気にかけている何かなんだと思う。君がどんな道筋をたどってきたのかは分からない。視えたのは、その丘だけだ」 視界が曇った。カイは驚いて、慌てて片手で眼を覆う。 村の傍にあった丘には、二本の大きな木が青々と枝を伸ばしていたものだった。その話は、誰にもした覚えがない。 「僕の能力はそれほど万能のものではない。それでも姫は僕の目を買ってくれているんだ。人を見る目を、ね」 「人を見る、目」 「昔から、芸と占い以外で誰かに求められたことなんてなかった。僕は姫にかしずいているわけじゃない。必要だと言われることがうれしいんだね、きっと。子どもと同じだ」 口の端をゆがめ、トールは自嘲気味に笑った。 「そんなところで日向ぼっこでもしてるのかー?」 下方から大声が飛んできて、ふたりの会話をさえぎった。 並んで中庭を見下ろすと、バルコニーの真下に逞しい男の姿がある。カイは思わず身構えた。殴られた左頬がまだ、鈍い痛みを覚えている。 「訓練はもう終わりか?」 身を乗り出して、トールが問う。男は玉の汗をかいていた。 「腹が減ったから今日は仕舞いだ」 いかつい顔立ちの割には、男は随分と人懐こく笑う。すっかりと訓練場に改造された中庭を振り返って、引き上げるぞと声を張り上げた。中庭の中央では、先程まで彼と剣を交えていた青年が大の字になって転がっている。 のろのろと立ち上がる青年を眺めたあとで、ようやくリーグはトールの傍に立つカイに気がついた。 目が合って、カイは動揺する。顔がこわばるのが自分でも分かった。リーグもその青年が誰であるのか分かったのか、わずかに目を瞠った。 「あん時は悪かったな!」 ただ固まっているカイに、下方から大声が飛んでくる。 先制攻撃で謝られてはどうしようもない。ふいと顔を背けるのも子どもがすることだ。 かといって、痛い目に遭ったことを何事もなかったかのように振る舞えるほど、大人でもなかった。 「俺も、動揺してたし……」 リーグから視線を逃がし、ようやくぼそぼそと呟いた。 不器用な返答をする青年をまぶしそうに見上げ、リーグは後方にもう一度声をかける。早くしろたるんでるぞ。あとは何も言わず、城内に引き上げていった。 「フレイヤ姫は」 バルコニーの縁に手をかけ、カイは遠くを見た。茂る森の向こう側に、うつくしい湖が広がっているはずだ。傾きかけた太陽が、橙のひかりで辺りを包みはじめている。 「なんで父親を殺そうとしてるんだ?」 王侯貴族のことなどカイにはわからない。カイにとって家族とは、すべてを許すもの、互いを守るものだった。 確かに、誤った道を行こうとするのならば止めもするだろうが、あんなにも淡々と他人に話せるものだろうか。 「俺はもう戦争なんて真っ平だ。ずっと、止めたいって思ってきた。だけど何をしたらいいのか分かんなかったんだ。レジスタンスだっていう噂の組織にいくつも出入りしたけど、軍の宿舎に放火するぐらいで、大した活動なんてしてなかった。皆分かんないんだよ、どうしたらいいのかなんて」 石造りのバルコニーを握る手に、力が入る。 「でも何もしないでいることも出来なかった。黙ってるのは死んでるのと同じだ。……期待してる自分もいるんだ。ここにいて、もしかしたら今までどうすればいいか分かんなかったものが形になるかもしれないって。でももう、誰かに裏切られるのも誰かを裏切るのも、知らないうちに何かの道具に使われるのも嫌なんだ」 数年前。まだ田舎を出て間もない頃。反戦の熱に燃えて、カイはとあるレジスタンス組織に出入りしていた。 今になって考えてみれば、組織といってもちいさなものだった。しかし世間知らずな少年にとっては、自分や世界を変えてくれるかもしれないという期待と、自分も反戦のために戦っているのだという誇らしさを満たしてくれるものに違いなかった。 組織のねぐらである酒場で下働きを始めて数ヶ月、身なりのいい老紳士がカイに近づいてきた。 彼はカイに一通の書簡を携えてきて、自らはさる貴族の執事であると名乗った。 主は現在の戦況にたいそう心を痛めている。立場上おおっぴらに君たちを擁護するわけにはいかないが、心はひとつである。自ら書かれた書簡に、詳しく主の心境はつづってあるから、是非読んでもらいたい、と。 そして執事はカイに金を渡した。軍資金にしてくれ、と言うのである。 金は金、綺麗もきたないもない。いぶかしみながらも、カイはその金を受け取った。執事との金の受け渡しは、数回に渡った。 執事の態度は一貫して丁寧で、そのたびに熱意のこもった達筆の書簡を携えてきていた。 何でもその貴族は王族にも連なる血筋で、それゆえにおおっぴらに反戦を唱えるわけにも行かず、かといって現状を看過は出来ない。執事を酒場に出入りさせるのも疑われるというのである。 君はまだ子どもとはいえ賢い。是非今の現状をわたしにも教えて欲しい。手紙には繰り返し、そう綴られていた。まるで貴族から施しを受けているように見られるかもしれないが、是非理想のため耐えてくれ、と。 酒場が焼き払われたのは、数週間後のことだった。 皇帝に叛意をもつものどもの溜まり場であるとして、火をかけられたのである。 カイの手には、金だけが残された。 酔っていたのだ。自分が革命の戦士だと思い込んでいた。 今になって考えてみれば、おかしな部分もたくさんあった。それだというのに気がつかなかったのは、見ようとしていなかったからだ。 一体何をしていいのか分からない。そんな不安から目を逸らしたかっただけなのだ。 カイは金を溝に捨て、その町を出た。 「僕らは君に物証を見せられるわけじゃない。たとえ見せられたとしても、それが信じるに値するかどうかは君が決めることだろうし」 すこし強くなってきた風に目を細め、トールは踵を返した。 「ありのままの僕らを見てもらうしかない。もうすぐ夕食の時間だ、食堂へ案内するよ」
3.
光がしみてくる。 閉ざした瞼の上からくすぐるように。 背に感じるやわらかさが心地よい。いつのまに転寝をしていたのだろう。あまり手伝いをさぼると母親が怖い。 もう起きて、村に戻らなければ。 やけに重い瞼をゆっくりと開く。一瞬だけ世界がすべて白く焼き尽くされた。幾度か瞬きをくりかえすうち、さまざまな輪郭がくっきりと浮かんでくる。 村の傍にある丘に寝転んでいるつもりだったのに、見上げた先は空ではなかった。背にしているのも、背の高い草などではなく、今までお目にかかったこともないような綺麗なシーツだ。 石造りの、高い天井。 「っ……!」 覚醒した。 跳ね起きた。上等なベッドのスプリングがきしむ。 何を寝ぼけていたのだろう。フィヤラルの祠にもぐりこんだんじゃないか。 傭兵のような男に殴られてそれから―――記憶がない。 「いって……ぇ」 勢いよく跳ね起きた反動で、殴られた腹部が鈍く痛んだ。その痛みが、祠での出来事は夢でもなんでもないことの証だった。 じくじくと痛む腹を押さえているうちに、口元に笑いがせりあがってきた。 滑稽で、惨めだ。 うまくいくはずがないと分かっているつもりで、きっと、自分が一番期待していた。 ドラゴンバスターが手に入ること。 劇的に、戦を終わらせるということ。 まるで御伽噺を鵜呑みにしている子どものようではないか。 「かっこわりぃ……」 「目が覚めたね」 扉が開き、穏やかな声が滑り込んできた。 カイはすばやく扉を振り返る。 頭からフードをかぶった、軽装の男が立っている。ハープこそ持っていないが、見まがいようがない。 旅芸人の男だ。 「てめぇ……!」 無防備に傍らに歩み寄ってきた男の胸倉を、カイは右手で掴んだ。旅芸人はされるがまま、抵抗しない。 「騙したことについては、申し開きはしない。だけど、僕は君の敵じゃない。覚悟を試す必要があったんだ」 「どの口がそんな……!」 「姫に会ってくれ」 カイの言葉をさえぎって、芯のある声で男は言った。 目深に被ったフードを引き摺り下ろし、初めて素顔をさらして見せた。水色の髪と瞳を持った、痩せた男だった。 左頬から額にかけて大きな古傷が走っており、傷が目を塞いでいる。 「……姫、だって?」 「僕の口から説明するよりも、そのほうが分かりやすいはずだ。立てるかい」 毒気を抜かれ、カイは男の胸倉から手を離す。 「僕はトールだ。君の名前を教えてくれないか」 「……カイ」 布団を跳ね除け、床に足をおろす。やわらかい寝台で寝たのはいつぶりだろうか。熟睡の名残がまだ残っている脚は、気を抜くとふらつきそうになる。舌打ちとともに名乗った。 「ありがとう。案内するよ」 トールはやわらかく微笑してみせた。穏やかな物腰に大きな顔の傷がひどく不似合いに見える。 「おまえを……おまえらを信用したわけじゃないからな」 言ってしまってから、ひどく子どもじみた文句だということに気がついて、カイは唇を噛んだ。 「すぐにすべてを信じろとは言わないよ。君が目で見たものを信じればいい」 しかしトールはカイの子どもっぽさを笑わず、生真面目な顔で扉を開いた。
一本の廊下が延々と続いている。 壁に沿って等間隔に甲冑がならべられ、大きな窓からは燦燦と日差しが差し込み、床にかがやきを落としている。 どこからか、金属をぶつけ合うような音が耳に届く。それはあまりに、剣戟の音に似ている。 「ここは一体、どこなんだ?」 半歩ほど遅れて後ろを歩きながら、カイは案内役に訊いた。 トールは塞がれているほうの顔でわずかにカイを振り返る。 「トゥオネラ城だ」 短い答えに息を呑んだ。 トゥオニ湖のそばに建てられた城の名前だ。聖都とはだいぶ離れているが、昔からフィヤラルの祠を守るという名目の、皇族たちの静養地だった。 そして近頃は、この城は特別な意味合いを持っている。数年前から聖都をはなれ、ここで暮らしている皇族がひとりいるのだそうだ。 ゴシップまがいの噂は何よりもはやく知れ渡る。その噂をカイも知っていた。 「じゃあ姫って、まさか」 意味ありげな微笑をのこし、トールは突き当たりを折れる。 折れた道の先にひときわ大きな扉が見えた。 飴色に光る扉を控えめにノックすると、凛と張った女の声で誰何が返ってくる。 「トールです。先日の青年をお連れしました」 「入ってくれ。トールは下がってかまわない」 「分かりました」 トールは、観音開きの扉を片方、うすく手前に開く。戸惑うカイの肩を軽くたたき、自分は後ろに下がった。 「取って食われたりはしないよ」 笑顔で押し出され、カイは光がこぼれてくる扉の隙間に滑り込んだ。 こわばる脚で数歩前へ出ると、背後で扉が閉まる。慌てて振り向いてももう遅い。トールの姿は見えなくなっている。 「具合はどうだ」 部屋の奥から声が飛んでくる。 扉の真正面にバルコニーに続く大窓があるせいで、逆光をあびて輪郭がぼやける。カイは目をすがめ、大窓の傍に立つ人影を見極めようとした。 まず飛び込んできたのは真紅だった。血のように赤い双眸と目が合う。 幻想的な祠の情景が蘇った。夜光石のわずかな光だけでもしっかりと見えた紅玉をはめ込んだような瞳。 白装束の、女。 今日は白装束をまとっているわけではない。喪服を思わせる黒いドレスを着ている。それでも目に焼きついて離れない白は―――髪だ。 腰に届くほどの白銀の髪が肩を伝って流れている。 「色無し姫……!」 口走ってから、慌てて口を覆った。 「貴様!」 部屋の隅に控えていた金髪の女剣士が気色ばむのを、白銀の女は片手で制した。 「よい」 「しかし姫様!」 「ここで無理に改めさせたとて、言い続けるものは陰で言い続けるものだ。始終監視をつけるわけにもいくまい。その呼び名を知っているということは、わたしが何者か大体察しがついているのだろう?」 怖じた脚が自然と下がる。閉ざされた扉に背をぶつけて、カイは知らずに後退していたことに気がついた。 「……フレイヤ、姫か」 「そのとおり。わたしはフレイヤ・オド・ヴィーグリード。暴君と名高いヴォーデンの娘だ。そなたの名は教えてはもらえないのか」 「カイ・ユマラ」 名乗る声がふるえていた。 皇族という位に圧されたのではない。まっすぐにこちらを射すくめる瞳のあまりの強さに怖気づいたのだ。
数年前から囁かれてきた噂の主人公は彼女だ。 皇帝のひとり娘でありながら聖都を追われ、トゥオネラ城で暮らしている。皇族の血筋に脈々と継がれてきた黒髪を持たぬことから、色無し姫と呼ばれている。皇族の色を持たぬということは、不義の子なのではないか、と。 噂では、父から疎まれ遠ざけられたフレイヤ姫は、泣き暮らしているばかりの深窓の姫君だ。だが、目の前に立っている彼女はどうだ。 見つめられているだけで息ができない。 「カイ、そなたは何故ドラゴンバスターを欲しがった」 一切のごまかしを許さない、有無を言わさぬ強い視線だった。 威圧感から逃れようと、カイは真紅の瞳から目を逸らす。 「言っただろ、ドラゴンオーブを壊せるのは、ドラゴンバスターだけだって信じてたから……」 御伽噺を信じていたと告白するのは恥ずかしかったが、結局はそれが真実だ。 「ヴォーデンを止めるつもりだったのか」 「戦なんてもうまっぴらだ!」 握った拳を背後の扉にたたきつける。鈍い痛みが手の甲から全身に孤を描くように広がっていった。 「領地とか大陸統一とか、そんなことどうでもいいんだ! みんな死んだんだぞ!」 「もし、オーブも剣も存在したとして、ドラゴンバスターを手に入れて、具体的にはどうするつもりだった。ひとりで聖都へ行くつもりだったのか」 膨れ上がった怒りに水をかけられた心地になって、カイは口をつぐむ。 具体的なことなど何ひとつ考えていなかった。奇跡の剣が手に入ったら考えればいいと思っていた。 何をどうすれば皇帝に近づけるかなど、分からなかった。 「ドラゴンを殺せる剣を手に入れても、何万という兵士がいなくなるわけではあるまい。たったひとりでは、聖都に入れるかどうかも―――」 「分かってるよ!」 浅はかなのは、愚かなのは、分かっている。 自分でも分かっていることを改めて指差し確認のように諭されるのは、つらい。 「どうすればいいかなんて分かんなかったんだ。戦を止めたくても俺一人じゃ何もできない。自棄だったんだよ、そんな剣があるかどうかなんて分かんなかったけど黙って指くわえてるなんて! そんなこと……」 「本気でヴォーデンを止めるつもりがあるか」 「え……?」 「本気で、戦を止めたいか」 刻み付けるようにゆっくりとフレイヤが言った。 カイは、扉から体を起こす。数歩フレイヤに歩み寄り、試すような強い瞳を見つめ返した。 「止めたい」 フレイヤはカイを見つめ返し、頷いた。 「我々は同志をあつめている。ヴォーデン暗殺を実行に移すためだ。トールには同志あつめを手伝ってもらっている。おまえが本気で戦を止めたいというのならば、手伝ってはくれないか」 「ヴォーデン、暗殺?」 「皇族しか知らぬ抜け道を使う。警備はされているだろうが、何しろ隠し通路だからな、たかが知れている。もはや民も兵も疲弊している。皇帝が死ねば戦は終わるだろう」 甘美な誘惑に聞こえた。ドラゴンバスターと同等の甘さを感じる。だが、大きな違和感に、カイは戸惑った。 「父親だろ……?」 フレイヤにとって、ヴォーデンは肉親ではないのか。 それともやはり、血のつながりなどないのか。疎まれて遠ざけられて、憎んでいるのか。 フレイヤはしばらく、戸惑いの滲んだカイの顔を見つめていた。 「父子でともに旅をしていたとして、父が間違った道をゆこうとしたら、おまえは黙ってついてゆくのか」 「それは」 「戦は大きくなりすぎた。わたしが諌め、とまるものではない。それだけだ」 「だから親父でも殺すのかよ」 フレイヤは、燃えるような瞳を伏せた。 「……城を見てまわるといい。この城には同志たちが多く出入りしている。すぐに答えを出せとは言わない。協力を強要するつもりもない。おまえの答えが出たら、聞かせてくれ」 「それじゃ答えに……」 「今は言えぬこともある。いずれ話そう」 「この城のこと、俺がどっかに密告するとは思わないのか」 「うぬぼれかもしれないが、我々はヴォーデンを討つのに一番近いと思っている。おまえとわたしは未だ仲間ではないが、敵は同じだ。我々がつぶれて、おまえが得をするとは思えん。憂さ晴らしや小金をもとめて密告をするような奴をトールが選ぶとも思っていない。もしそうなら、我らの見る目がなかっただけの話だ」 「むずかしい話なんて、俺にはわかんねぇよ」 まるで逃げ出すように、カイは部屋を出た。
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