mortals note
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―――消えてしまうんですか? 大きく目を瞠って、麻生貴行は問い返した。 そうだよ、消えてしまうんだ。骨のひとかけらも残らずに。 俺はそれを目の当たりにしたからよく分かる。まるで、存在したことが嘘のように消え失せてしまうんだ。 脅しをかけたつもりだった。 霊媒師たちの保身のために、文字通り”消される”人間がいる、そんな不条理なことが、まかり通っていいはずがない。生き残るためには、うまく立ち回る必要がある。 忠告をしたつもりだった。 食い違いにはすぐに気がついた。 コーヒーカップから顔を上げた麻生貴行の瞳が、輝いていたからだ。 幾千の夜がようやく明けたような、まぶしい朝日を臨むような。 殺されるかもしれないという怯えなど、欠片も見られなかった。 白い頬が、心なしか興奮に上気しているようにも見えた。 ―――貴方も、僕を消すことが出来るんですか? 瞬きも忘れて、麻生貴行は身を乗り出した。テーブルに腿が当たり、なみなみと注がれたコーヒーがこぼれる。 違和感がどこからくるのか、そのときようやく気がついた。彼の望みに。 彼は、何も恐れてなどいなかったのだ。脅しになるはずがない。 俺は君の望みを叶えてあげることは、できない。 咄嗟に彼の行きかけた道を塞いだ。麻生貴行は、心なしか潤んだ瞳を一度しばたいてから、乗り出した体をソファーにうずめた。 ―――だったら、誰が僕の望みを叶えてくれるんですか? 自分が何を言っているのか分かっているのか? 気づけばテーブルに拳を打ち付けていた。とても腹立たしかった。 どうして”子供”はすぐに、死にたがる。 全てがリセットできるとでも思っているのか? 輪廻転生にあやかろうというのか? そんな、在るかもわからないものに。 逃避のすり替えだ。 麻生貴行は、ぐったりとソファーに沈んだまま、上目遣いにこちらを見た。 ―――僕だってどうかしてるのは分かっているんだ。だけど、それ以外に何もないんです。ずっと昔から感じていた居場所のなさを癒してくれるのは、多分。 深く黒い双眸は、確かな意志の炎を宿していた。 揺らぎのない、深淵の色だ。 何とか―――止めようと柄にもなく言を継いだ。けれども少年は、ゆっくりと、けれどもきっぱりと首を横に振っただけだった。 ―――もう僕は……どうかしているんでしょう。
俺は君の望みは叶えない。 うなだれたままソファーに沈む少年に、今度は強い言葉をぶつけた。 椅子を引いて立ち上がる。自分に降りかかった影を仰ぐように、少年は顔を上げた。 俺はもう二度と、この力は使わない。 覚えておけよ、それを頼むってことは、人殺しを頼むってことだ。お前は楽になるかもしれない、だけど、やったほうはその記憶を引きずって生きていくんだ。 知らずに拳を握り締めていた。爪の食い込む痛みで、それに気づいた。 少年は怪訝そうな目で俺を見上げた。 その、あどけなさすら垣間見せる無防備な表情に、俺はとてつもなく残虐な気持ちになった。
俺は、親友を殺した。
少年が目を瞠った。
(もう二度と、この力を使うもんか) 断言して、身を翻した。 手軽な手段を失ったら、怖じて諦めるだろうと思った。 会計を済ませて、レトロな扉を押し開けた瞬間、何故彼に声をかけたのか、分からなくなっていた。 客の出入りを報せるベルを背に聞きながら、自分の浅ましさに吐き気を覚えた。 善意のつもりだった。彼を、生かすための忠告だと思い込んでいた。 だが結局は自分が、罪悪感から逃れたいだけなのだと、そのとき気がついた。 ぬるりと足元から立ち上がった影が、気遣わしげにこちらを見上げる。 濡れた鼻先を指先で撫で、店の傍らに停めたバイクに歩み寄った。
―――俺を殺すのか? 巽。 口の端に浮かべた、引きつった笑み。見開いた瞳の、底のない黒さ。 バイクにキーを差し込み、エンジンをかける。毎晩のように思い出す男の顔が、瞬きの合間に瞼の裏に浮かんだ。
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「最近さぁ、おふくろがよく倒れるんだよ」 沈痛な面持ちで、真寛(まひろ)は切り出した。 箱から抜き出したままの煙草を、火もつけずに指先でもてあそぶ。 閑静な住宅街の真ん中に取り残されたような公園の、ブランコに無理矢理座っていた。 「病院で検査してもらっても、病気じゃねぇって帰されてくるんだよ。病気じゃねぇのに倒れたりするか? あそこ、ヤブなんじゃねぇの」 黄昏時、傾いた陽を背に受けて、影は長く公園に伸びる。 その異変は既に、近所の噂から伝え聞いていた。何度検査を重ねても体に異変は見つからないのに、突然ふっと意識を失ってしまう。病院を変えても結果は同じで、気味が悪い、と真寛の母が怯えているのも知っていた。 時を同じくして、真寛が”タケル”を見るようになった。 お前の家、いつの間に犬を飼い始めたんだ? などと言う。 影の具現化である獣が見えるのは、能力のある人間を除けば、―――シャドウイーターだけだ。 聞けば、母親が倒れるときには、必ず真寛が傍にいるとも聞く。 「心配でさあ」 人気のない公園には、ブランコの鎖が軋む音ばかりが響く。 老朽化を理由に遊具が軒並み壊されてからは、すっかりと寂れてしまったが、幼い頃はよく遊んだ場所だ。
体中にまとわりついてくるような、重厚な闇につつまれている。 姫架は右手を持ち上げて、目の前にかざしてみた。頬に触れるほどまで近づけて、ようやくほのかに白い掌の輪郭を見とめる。 「これだけの影を食べたの?」 手を握れば掴めそうなほど濃厚な闇は、シャドウイーターが蓄積した影だ。 狭い廊下にいるはずなのに、声はとても遠くまで響いた。とても広く、そして天井の高い場所にいるようだった。空間が歪んでいる。 「食べ過ぎると苦しいんでしょ、どうしてわざわざ辛いこと、自分でするの」 深い闇に目をこらす。無数の気配がひしめいていて、貴行や要たちがどこにいるのか、見当もつかなかった。 自分たち以外に誰もいないことなど分かっている。濃密に漂っている気配は、影に宿る人間の存在感に他ならない。 「僕には昔から、ひとつだけ願いごとがあるんです」 貴行の声は遠く近く、波のように寄せて返した。 「それを叶えるためなら、手段は選ばないことにしたんだ」 姫架は思わず目を瞠った。 貴行は飢餓にあえいでいたわけではなく、明確な目的を完遂するために、”敢えて”人の影を喰らっていたというのか。 「自分のためだっていうの!?」 怒りに任せて姫架は闇に怒鳴った。 「誰だってそうじゃないんですか」 ひどく硬い声で貴行は切り返す。 「完璧な善意なんて信じられない。結局誰だって、自分が可愛いんじゃないか……!」 そんなこと、と言いかけて、姫架は口をつぐんだ。貴行の口調は彼らしくもない熱っぽさを帯びはじめている。当たり障りのないきれいごとなど、口に出来そうもなかった。 「僕だってそうです。いくら親や友達や教師達の前でいい顔をしてみせても、結局は自分のことしか考えていないんだ」 「あたしはそんなことが聞きたいわけじゃない!」 わけが分からなくなって、姫架はかぶりを振った。 子どもの頃に感じた、向けどころの分からない怒りに似ていた。癇癪と呼ばれるやつだ。 怒りの出所がどこか、姫架はもう気づいていた。 かなしい。とてつもなく、体が震えるぐらいに。 (麻生くんだけは違うって) 信じていた。 いや、そんなに綺麗な話ではない。きっと、幻想を抱いていたのだ。 (似てたから) 自分の浅はかな妄信に気がついて、姫架は唇を噛んだ。 大事な人に似ていたから、無条件に好意的に見ていただけだ。 「麻生くんは、何がしたいの? そのために色んな人がバタバタ倒れて、なんとも思わなかったの?」 沈黙があった。愚かにも、期待を膨らませている自分に姫架は気づいた。 懺悔と悔恨の言葉を聞きたかった。 誰かに依存せずには生きていられない、その事実に打ちのめされている人もいるのだ。
体中にまとわりついてくるような、重厚な闇につつまれている。 姫架は右手を持ち上げて、目の前にかざしてみた。頬に触れるほどまで近づけて、ようやくほのかに白い掌の輪郭を見とめる。 「これだけの影を食べたの?」 手を握れば掴めそうなほど濃厚な闇は、シャドウイーターが蓄積した影だ。
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