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彼ともし言葉を交わせられるなら、何故と問いつめることも、責めることも、納得してくれるでしょう。もしかしたら謝りのことばも聞いてくれるかもしれません。許すかどうかは別として。 でも、何でもない瞬間にも会いたくてさびしくて涙が出そうになるということを、わかってくれるでしょうか。本当に好きだったのだということも、聞いてくれるでしょうか。今更何をと唾棄さてしまうのではないかと思ってしまうのです。 あのときは楽しかったという回想だけでなく、今ここに一緒にいて歩いてほしいと思ったり、何かを見てHがこれを見たら(聞いたら)どんなに喜ぶだろうと考えたりしていることを伝えたら、Hは聞いてくれるでしょうか? 喜んでくれなくてもいいから、わたしがそう感じていることを、許してくれるでしょうか?
桜ももう終わりの季節ですね。 桜の下に死体が埋まっているなら、どこかにHの木もあるのかもしれない、そんなことを考えつつ、今年も電車の中から満開の木々を眺めているだけで今年の春も終わりそうです。 Hがお散歩好きだったので、なんどかお花見まではいかないまでも桜の木の下を歩いた事があります。 夜桜を見ながら、缶ビールを半分ずつしたこともありました。 桜の咲く公園で、Hが私の写真を撮りたいと言うのを必死に厭がった事もありました。 願わくば 桜の下にて…なんて洒落て、もし満開の桜の季節にHが逝ってしまったとしたら、桜なんて見たくもないものだったでしょう。 桜色の風景の思い出が、思い出したくもないものになってしまうのも悲しい気がするのです。 いつだったらいい、というわけでは勿論ありません。 6月にだって思い出はいろいろあります。 ただなんとなく、この季節の出来事を想うとき、明るい彩りのまま素直に蘇らせることのできるようでいられてよかったと思うのです。 …どうせいろいろ考えていたら泣いてしまうのだけれど。 今月のお墓参りには、道に散った花びらを踏みしめる事になるでしょう。 わたしは満開の花を見られなかったけれど、Hがどこかで見ていたなら、それでよしということで。
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