Doritoの日記
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キャンベラにいながら一回も行ったことのなかった戦争記念館に行こうということで、日本人の友達と4人で出かけることにした。しかしながら、結局正確な位置が分からずにとりあえずバスに乗ったら、いつの間にか隣町のWODENまで行ってしまった。僕達は結局そこのショッピングセンターで買い物をすることにした。 まあこんなのもアリかなーと思った。予定なんて狂ったほうが楽しいこともある。 最近勉強が全くはかどらない。。
今日はある女の子と映画を見に行った。実は僕はその女の子に恋をしてしまったのだった。完全に落ちてしまったのだった。 映画は面白かった。その後コーヒーを飲みに行って、いわゆる告白と言うものをしたのだった。結果はやはりNOだった。 悲しいが仕方ない。俺はもう1ヶ月で帰ってしまう。今から始めてもお互いに悲しいだけだろうと言うことだ。彼女にもし俺がオーストラリアに住んでいたら、付き合ってくれたか、と聞いたら、YesにしてもNoにしても悲しいだけだから答えられないと言った。彼女はほんとに優しい人だった。 ベストフレンドとしてこれからも仲良くしていきたいと思う。 失恋はやっぱり痛いね。
でもまた人を好きになることが出来て良かったと思う。そんで好きになった人があの子でよかった。後悔は無いです。かなり悲しいけど。。
ジャズを専攻してる友達にちょっとだけ音楽理論を教えてもらって気を紛らわせた。あいつのサックスはやっぱり凄かった。ジャズって難しいなー。曲に合わせて全然弾けなかった。 明日から新装開店します。
当たり前のような毎日は、本当は当たり前じゃないんだなあと思います。ほんとに人間っていうのは千差万別ですね。「どう生きるか」っていうのは究極の課題です。自分の生き方が正しいのかと不安になったり、他人の人生を見て嫉妬心を抱いたりします。「生きている」ということは何なのか?意味があるのか?という問いを問うこと自体馬鹿げているかもしれませんが、人生の意義について考えない人はいないでしょう。
人生には意味が無いと言い切る人がいます。そうかもしれません。地球で人間が一人生きていくために、いくつもの地球上の生命が殺され、環境がどんどん悪化しています。「生きている」と言うこと自体悪です。キリスト教はそれに説明を与えてくれています。人間とはもともと罪深い生き物であって、人間の罪を購うために、キリストが人類のために犠牲になったのです。そのためにキリストの言ったことを信じなければならない。つまりキリスト教は人間の罪悪感が根源となっているのです。この原罪の思想は、考えてみるととても消極的な発想です。人間だけではどうしようもないことをキリストという絶対的な存在に押し付けて解決しようとしているわけです。「救済」とか「許し」とかいう概念が根底にあり、人間存在を罪深く苦難に満ちたものだと捕らえているのです。
動物だったら人生の意味を単に生殖と種の繁栄という点に見出すことが出来ます。しかしながら、人間はそれだけでは満足できないのです。人間は欲深い存在です。しかもそれを認識する知性が備わっているというのが問題なのだと思います。理性と欲望の葛藤から生まれる苦難は数え切れないほどあります。さらに人間は社会的な存在でもあり、社会という外界とのコミュニケーションのなかに存在しています。社会的な苦痛を全くもたない人はいないのではないでしょうか?そう考えると、こんな苦しみに満ちた人生に意味は無いという思想も出てくるわけです。それに比べ、動物はおそらく人生の意味など考えていないのではないでしょうか?(考えていたら考えていたで面白いですが。)人間がいろいろな肉体的苦痛以外の苦痛を感じるのは、明らかに人間の知性のせいです。罪悪感、嫉妬、欲望、煩悩、憎しみなど、数え上げたらキリがありません。するとこんな苦痛を味わうなら生きている意味がないじゃないか、と言うようになるわけです。その苦しみが許容範囲を超えてしまうと、自殺する人も出てくるわけです。
しかしながら、生まれてきたからには死に向かって毎日泳ぎ続けなければなりません。泳ぐのをやめることは生きていることよりももっと罪深いことです。そこで何をよりどころに生きればいいか、というと個人的に「感謝」ではないか思います。
全てのモノに感謝する。友達、家族、恋人、科学、宗教、今時分が持っている知性、そして与えられている時間。今立っている長い時間のなかのこの一点はこれまで全ての歴史的関連性によって支えられているのです。ここにいるということ自体、神の存在の是非とは関係ないですが、”神秘的”なことなのです。自分がいまこうやってパソコンのキーを打っているのも、全てのものの因果関係に支えられているのです。全ては必然なのだと思います。その必然に感謝するべきなのではないでしょうか。
この考え方はあまりにも綺麗ごとかも知れません。人生には必ず不条理性が存在します。例えば戦争で両親を殺された子供達や、アフリカの難民などのことを考えると、それを必然といえるでしょうか?当事者達は明らかにどこか間違っていると考えるはずです。勧善懲悪や隣人愛といった思想は全く通用しません。そのような不幸な状況の人々を気休めにして「アフリカの子供達のことを考えればこれくらい」などと、自分の苦しみを和らげ平和な社会にくらす現代人がいます。僕もその一人あることを認めなければなりません。これはまさに江戸時代の「えた・非人」の思想となんら変わりありません。人間は他人に嫉妬や憎しみを感じる反面、自分よりも劣った他人と比べることで慰めを得たりするわけです。これは人間のどうしようもない根底的な汚点であると思います。
生の不条理性と人間の醜い特性、それを全てひっくるめて今に感謝することが必要です。「認める」と言ったほうが正しいかもしれません。もしかすると、全てに感謝するということ自体とても苦しいことかもしれません。自分の両親が殺されたり、両手を切り落とされたりしても、自分は生きていることに感謝することが出来るでしょうか?自信は全くありません。でも僕はあえて全てのものに感謝しようと思います。少なくとも、現時点ではその意思があります。
人生は無常ですから、やはり考え方は変わっていくものだと思います。しかしながらそれも、歴史的必然です。未来の自分の考え方について今考えるのは、少し馬鹿げているような気がします。「今なすべきことを必死にせよ」と言ったのは武者小路実篤ですが、まさにその通りではないかと思います。結果的に、全てはに必然になるのです。
その意味で僕は運命を信じています。運命とかdestiny言う言葉はあまり好きではないのですが、それ以外にうまく考えを表す言葉が見つかりません。人生の最大の要素である人との出会いはまさに運命の産物であると言えます。やはりそれに感謝するべきなのではないでしょうか?
とりあえず、ありがとう!と世界の中心で叫んでみましょうか。脈絡が無い文章なのは、今朝5時で多分脳内にアドレナリンが出ているからです。あ、そーいやあしたテストだ・・・
最近生活のリズムが崩れっぱなしなので気を引き締めたい、と最近毎日言っている。今朝の5時21分って・・・
今日チケットを購入。タイ航空で1000ドル弱。6月29日にこの大陸から島国にもどります。
日本に帰ったらどんなことを思うのだろうか?とりあえずラーメンが食べたい。
英語がしゃべれなくなるのは寂しいなあ。友達に会えなくなるのはもっと寂しいが。はやくこのセンチを抜け出したい。
吉田拓郎を聞くとうちの親父の世代の青春時代を垣間見れるような気がして好きだ。
だんだんとオーストラリアでの生活の残りの日数も少なくなって、なんだか寂しくなってきました。毎日会っている友達とあと1月もするとぱたりと会えなくなるのかと思うと、やはり悲しいわけです。
でもこう思えるってことはいいことなんでしょう。今まで僕に関わってくれた人に心からありがとうと言いたいです。でも、まだちょっと早いか。。
とにかく、残りの日々を一生懸命に泳いでいこうと思う所存です。
寮でアートショーがありました。
そんで俺、久しぶりに恋に落ちちゃったかもしれません。
でもどうしようもないよなー。なんかでもドキドキする。告白でもしてみようか。
結局この夜は眠れませんでしたとさ。
エッセイがやっと終わったので、シムシテー4を徹夜でやってしまった。人口が17万人になった。わーい。
俺はただのアホです。
昨日エッセイがやっとこさ終わった。なので今日は久しぶりにのんびりとしている。と言っても昨日から寝てないのでテンションがちょっと変だ。 実は昨日カジノに行ったんだ。人生2回目のルーレットさ。4人ので行ったのだが、僕は負けを5ドル取り返して(まだ10ドル負けている)、2人は負けて、1人は20ドル突っ込んで100ドル勝ってた。彼はほんとランダムにドバーって賭けてたらどんどん金額を増やしていってた。僕も一回やってみたが見事に外れたので着実に稼ぐことにした。やっぱり人それぞれに合った賭け方ってのがあると思う。惑わされたら負けだ。 帰ってきたのが午前3時くらいで、それからシムシティー4をやったのが間違いだった。気づいたら朝の9時って・・・人口は着実に増えています。まあでも実はもうひとつエッセイがあるからそんなにのんびりもしていられんのです。嗚呼、生活が乱れまくっちょる。
今日ギターを弾いてたら、「バスドラを叩きながら弾いたらいいやん!」って思いついた。ドラマーなし、ギターとバスドラのみ。シンプル極まりないサウンド。感情表現の面ではすごくいいんじゃなーい?実際やってみないとわからないが、曲の作り方によってはサウンド的にも大丈夫なのではないか?でもシンバルスネアがないとどうなんだろう・・・両足を使うのは多分無理だし、カッコ悪いだろう・・・なんかとりあえず試してみたい!っていう欲求が不満なわけです。日本に帰る楽しみがひとつ増えた瞬間でした。帰ったらそんなことしてる暇がないとも思うけど。 やっぱThe White Stripesの影響が俺の中で大きすぎる。。
最近ちょっと浮かんできたかもしれない。ココロのカスを飲み干しました。またしばらく出てこないことを願いつつ泳ぐことにする。
空耳アワーの2001年年末スペシャルの映像を所有している友達が部屋に来て、その素晴らしい映像を干渉しながら少々飲んだ。空耳アワーはボキャブラとかよりも絶対面白い!空耳って、ほんとに素晴らしいですね。
最近映画を見ていない。でもThe Officeというイギリスのコメディーに首っ丈だ。ほんとおもしれーよ。
今日教員採用試験の願書が日本から届いた。どーしよ。。。
世界は認識だ。目に見えるものを信じるしかない。どう切り取るかだ。目に見えるものから感じるものが全てだ。
最近またちょっとあがってきた。でも英語力が落ちてる気がする。友達の言うことが聞き取れない。俺の英語はまだまだ駄目だ。
今日は一日中エッセイを書いていた。今日中にあと500字。終わったらもうひとつ2000語のエッセイだ。
なすべきことをせよ!目に見えるものが全てだ!
世界なんて1秒で変えられる。
海外での就職はかなり厳しそうだということが判明した。特にイギリスは労働ビザを取るのに雇用主の保障が必要で、就職情報を見るとどれも転職をする人向けで、2年以上の経験とか、専門知識とか、いろいろ要求が厳しい。
就職のことを考えると今日もエッセイが手につかない。書かないとそろそろ本気でヤバイ。今日もずっとホワイティと一緒にいろいろ調べていた。目が痛い。そんで日本での就職も考えて初めて企業にエントリーしてみた。しかしながら7月まで帰れないし、受け付けてもらえるか分からん。。
何の仕事がしたいかを考えて見ると、やっぱり英語を生かせるような貿易商社とかがいいのかなーと思う。でも採用がかなり少なく厳しそうだ。
でもなんかちょっといろいろやる気が出てきた。いろいろ駄目元でがんばろうと思う。失うものなんてないし。
ところで芸能界にはとんと疎い僕だが、乙葉と藤井隆が結婚したのを知ってびっくりした。でもこのカップルは素直に幸せになって欲しいと思えるカップルだと思う。
教職の勉強もせにゃあかんわいなー。最近いろいろと忙しくなってきた。でも、なんか、悪くないかも。
イギリスで働くのもアリかなーと思ってきた。一応状況的にはイギリスに知り合いもいるし、イギリスの事情は多少知っている。
「外国で働く」という選択肢は今まで色々な理由から避けてきたものだった。しかし、いま自分がしたいこと、それと将来のさらに将来のことを考えると、外国で何らかの形で働くことができたらいいのではないか。
しかし僕には専門知識も経験もない。外国で働くのに十分なコミュニケーション能力があるのかも疑問だ。
ぶっちゃけてしまうと、何の仕事でもいい。将来の将来は日本に戻って英語教師になりたい。しかし今のままでは教師になっても小さくまとまってしまうのではないか。教師になるのは試験さえ受ければいつでもなれる。先生になるにはまだ若すぎるのではないか。生徒に教えるにはそれなりの経験が要る。まず何かの会社に勤めてから、社会で経験をつんでから教師になるほうがいいのではないか。
英語の教師たるにいまの英語の知識ではお粗末な気がする。まだまだネイティブとは程遠いし、俺より英語が話せる日本人なんて五万といる。
イギリスで働いて、英語をもっと身近に感じられるようになりたい。
働く道はあるのだろうか。心配ではあるが、その道も考えてみたい。
いずれは日本に戻ってくるのだから、もう少し海外にいたい。
今日新しい道が開けた。
午前中に久しぶりに家族から電話があって目を覚ましました。家をリフォームしたらしく、帰る頃には全く違った家になっているようです。最近全然連絡してなかったのでみんな元気そうで良かったです。 それからまた寝て、1時間ごとに夢を見ました。日本の夢でした。
午後2時にやっと起きて学校のエッセイを書き始めました。
午後4時頃に友達から電話があり、日本語の宿題をチェックして欲しいということだったのでそれをして、買い物に出かけました。空腹時の買い物だったのでいつもより多く買ってしまいました。
午後7時近くに帰ってきて飯を食べました。ソーセージを焼きました。マスタードをつけていただきました。
酒を少し飲んで、それから人生初のカジノに行って15ドル負けました。ビギナーズラックなんて信じません。一緒に行った二人の友達は最後の最後で奇跡を起こしました。
寮に帰るとしばらく会ってなかった友達がキッチンいたので一緒に日本酒を飲みました。 そして今午前5時。こんな一日でした。また一日が過ぎていきました。焦燥感がまた少し強くなっただけでした。
最近ココロがすさんでる。
ココロの中にあるカスが急に浮かんできて、自分がどんどん底のほうに沈んでいく。たまにこんなことが起こります。泳ぎ疲れてしまうんです。こうなると普段は見えてこないような自分の嫌なところ(ココロのカス)が自分の穴という穴に詰まって窒息しそうになるんです。だから泳ぐのをやめてまだ比較的綺麗な深くへと沈んでいく。
でもしばらくするとやっぱり空気が足りなくなるから泳ぎ始めなければいけません。いつまでも深く沈んでいるわけには行きません。死んでしまいます。水面に出たときに、浮かんだ心のカスを一気に飲み干さなければいけません。これが結構辛いんです。
でも多分いままでかなり飲み干してきたので今回も大丈夫でしょう。
教員採用試験が近づいてきました。と言ってもオーストラリアにいると全然実感がわきません。あと2か月くらいです。でも全然勉強できていません。 あと2か月と書いて少しぞっとしました。時間が過ぎるのが早すぎる。あと2か月したら日本にいるんだ。
半年後、僕は日本で何をしているのでしょうか。何を思っているのでしょうか。
焦ります。正直怖いです。
モノを書ける人って凄いと思います。無から有を作り出すのは凄くエネルギーが要ることです。
こんなことを書くのも、ある知人がホームページ上で小説を書いているからです。彼の言葉には人をひきつけるものがあります。文章からは彼の鋭い考察が読み取れます。彼の文章はとても「素直」な印象を与えます。書いている内容はとても深いのですが、さらりとしているのです。日本語の使い方がとてもうまいのだと思います。
僕も触発されて、何か書いてみたくなりました。以前に小説を書こうと思い立ったことがありましたが、見事に失敗でした。「書きたい」という欲求だけが先走って、何を書きたいのかが分からなかったからです。
今度は何か書きたいことが出来てから書き始めようと思います。でもその知人が小説なんかを書いているのを見ると、すぐにでも書いてみたいという欲求が出てきます。対抗心なんでしょうか?そんな自分が嫌でもあります。
書くとすれば小説ではなく、まず詩を書いてみたいです。
砂粒になった気分です。最近カラダの調子がおかしい。週末風邪引いたのに5時まで安ワインを飲んだりしてたからこじらせちゃったのかもしれない。。慢性的に体がだるいんです。 体の調子が悪いと思考がどうしても悪い方向に行ってしまいます。カラダとココロはやっぱり一緒みたいです。カラダが調子悪いと、ココロも調子が悪い。ココロの調子が悪いと体の調子も悪くなる。 よくココロとカラダを切り離して考えますが、実は同じモノだと思います。この世にカラダが存在しているということが全てな訳ですから。ココロはカラダ。ココロはカラダ。ココロは実は物理的に存在しているものなのね。
ただ難しいのは、ココロが無いとカラダを知覚することが出来ないわけですね。カラダをカラダと認識するのはココロだということですね(多分)。認識の問題になってきますね。ただ明らかに認識の媒介となっているのはカラダ(目とか耳とか)ですね。認識って何って話になってきますね。
まあでも人間なんて色々なことを考えるけど結局砂粒見たいなモノです。いわば考える砂粒ですね。誰か昔の人がそんなことを言ってましたね。でも現代は自分の存在の小ささというのをさらに感じるようなってきていると思います。宇宙とか天文学的な知識が科学の発達によって当たり前のこととして植えつけられているからね。どうしたってやっぱり世界は広すぎるわけね。だから不安になるのね。
でもそうすると「別に悲観的になる必要なんてなくない?楽しけりゃいいじゃーん」ってことになりますね。カーぺディエムね。昔とはちょっと意味合いが違くなるけどね。
はやく風邪治すベー。
はい、もう五月です。トトロの月です。時間経つの早えーよ!!
Dorito
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