なか杉こうの日記
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| 2005年12月31日(土) |
忙しいなかの雑感・年賀状を書く |
ふだん勤めていると季節の移り変わりに鈍感になってしまう。まだ家に子どもがいたりすると、きっと散歩に連れて行ったりあるいはいろんな行事に参加したりで季節感が感じられるのだろうが、毎日都心のオフィスに通っているだけの日々なので、またオフィス内は夏はすごく涼しすぎて冬は亜熱帯という時もあるので、季節感どころではない。
それでやっと年末休みということになるが、ふだん勤めている一人者は、休みとなるとふだんできなかったことが山積している。銀行、郵便局、市役所、買い物エトセトラ。それに掃除。その上に正月の準備かよー、と言いたくなるのである。それでさらに自分もゆったりすごさなくちゃーと思うと、正月休みといって何ができるわけでもない。
さらに仕事をどっさり持ってきている。しかしいつもの頼りの図書館は休み。うちでやろうとすると、年老いた家族がああだこうだいろんな注文を出してきてそれどころではない。ひゃあ、あたしと似た環境の人はどうやっているのかね。何かを犠牲に、というかおっぽっとかなきゃ、なにかはできないんではないかね。
きのうは姪っ子が来た。わたしはこないだ買い換えたばかりのプリンターをセットし、その間、けなげな姪っ子は、うちの窓拭きをしてくれていた・・・。わたしは姪っ子のうちの犬の写真をいれた年賀状を作ってやった・・・という具合。 しかしふつーの家庭の奥さんはふだんちょこちょこ掃除しているのだから改めて年末の大掃除なんていらないのではないかな。
今日は紅白歌合戦とやらがあるが、あたしは年々この番組が気に入らなくなっている。男と女に分かれるというのが、時代錯誤的だ。それに見たくもない歌手の歌を無理やり聞かされるのもいやだ。とくに今の若い歌手の歌はどれも同じで良さがさっぱりわからん!
今年はNHKは全国の人気投票をして歌手を決めたというが、あたしはこんな視聴者におもねるようなやり方も嫌いだ。なんでも携帯で投票ができたということだが、若い子は、ともだちを誘って簡単にぱちぱちいれちゃうのではないかな。
むしろNHKが判断して、本当に人気のある歌手、実力のある歌手、そしてマイナーでもよい歌を歌う歌手を選抜するべきではないのかな。昨日は、紅白に初めて選ばれたあまりNHKらしくない歌手の紅白前の足取りみたいなものを映していた。みのもんたもそうである。勝手にアドリブでやりたいと言っているとか、NHKに対してはこんな感情がある、とか、出場者の意見を、よくも悪くも言わせていたが、なんか、しらじらしい。わざとらしい。
それと比べると、NHKで放送される海外ドラマのよいこと!海外ドラマを紹介するスタッフは肥えた眼を持っているのだ、と思う。チャングムでしょ、ERでしょ、ホワイトハウスでしょ、それに先日ちらっと見た、デスパレートな妻たちというのも、おっそろしくばかばかしそうで、楽しい。ああ、そうだ、イギリスの喜劇俳優が無言でやる番組、あれも好きだ。
はい、ではまた、年末の喧騒に戻るとしよう・・・。
なんとか年賀状を書いていて 次第にいらいらしてくる。 こちらからはそんなに出したくない人から きていると 今年は出さなくてはと思うが 筆で丁寧に書いていても くそっ出さにゃならんじゃないか、と思う 少ない年賀状 出さないから、来ない 知り合いも、いない 小さい頃は クラスの仲良しさん 好きな子に どきどきしながら 描いた 絵を描いて めんどうなんて思わなかった 楽しくて。 好きな人だけに 尊敬する人だけに出す 年賀状は、良い 義務的に出すなら 出さなきゃいいのだ ちくしょー、ちくしょーと 思いながら 毎年 書きなぐっている 年賀状ならば。
| 2005年12月30日(金) |
またチャングムの誓いについて |
チャングムの誓いのひとりひとりが実にその性格にぴったりした役者を選んでいるのには感心する。だれもが、とくに好人物には好意を抱いてしまう。・・・こんな人、身近にそっくりさんがいるよなーと思い出したりする。そしてその人たちがまた実に自然な演技をする。
むかーし、大河ドラマのはしりの頃はこんな感じがした。たとえば「太閤記」に出ていた俳優さんたち。緒方拳、石坂浩二、高橋なんとかといった、織田信長役をした名優さん。性格がぴったりすぎるくらいぴったりしていた。
それがチャングムの誓いに感じられる。それと声優もぴったりしている。翻訳もたとえば「王さま」と呼びかける言い方が大好きだ。ロマンの感じがする。「王」でなく「王さま」なんて。
職場のカレンダー配りでは今年もまた、グラマ・モーゼズのカレンダーが手に入った。いろんな企業や団体から来たカレンダーが会議室に置いてあり、ほしいものに付箋をつける。同じカレンダーに二人以上の人が付箋をつけるとじゃんけんとなる。
しかしながら去年も今年もあのすてきなグラマ・モーゼズの大型カレンダーにはだれも付箋をつけていなかったのである。これは某保険会社が作ったものであるが、下のちいさな会社名を覗けば、半分がモーゼズおばあちゃんの絵。まったくラッキーである。
さきほどBSでチャングムのアンコール放送を見た。来週が最終回だそうだ。土曜の夜見ているのはまだチャングムが女官のときのものだから、さきに先の先を見てしまったことになる。ひゃあ、王の主治医になったチャングムはなんと王の腸閉塞に外科手術を麻酔でほどこそうとするのである・・・。 続きは来週だけど、どうも阻まれて結局王は亡くなるらしいが。今度の土曜のも楽しみである。
じぶんの場合、いちばんの大敵は人と比較するということである。 なにしろプライドは高いのであるから、人に負けることが非常につらい。 それで努力をすればいいのにしないのである。 しかし、最近は、その比較根性が頭をもたげてくるたびに「あーあたしは主流でなくてよかった」と思うことにしている。発想の転換である。首をスッと下げるのである。主流でないから、できること。人から重要視されていないから、自由に動けること。期待されていない気楽さ。 考えてみれば「できること」「主流であること」は、元来そうした才覚のない者にとってはつらいことなのである。「主流でない」イコール「気楽である」「自由である」ことに気がついた。 まあ、そんなふうに。それとも逃げているだけなのかな。
たった今、このパソコンのメモリーを増設した。たぶんうまく行ったのだろうと思う。すごく動きが速くなったから。きのう、有楽町のビックカメラに以前取り寄せてもらっておいたメモリモジュールを取りに行った。このパソコンが98年ぐらいのものなので、入れることができるメモリが店頭になかったのである。
いやあ、こうして打っていてすらすら打てるのだから、たぶん増設はうまくいったのだ。プラス128MBで計191MBになった。ウイルスバスター2005を入れてから、なにからなにまで動きがのろかったのが、増設したらすいすい、行く。うれしいな。でももっと大量のメモリを入れればよかったのかもしれないな、と思う。メモリ増設ってこんな簡単とはしらなかった。パソコン本体の裏のフタをあけてそこにメモリをかちゃとはめこめばおしまいなのである。
昨日はビックカメラはすごい人ごみだった。前に注文しに行ったときはそんなでもなかったのに。連休前だからかな。量販店に行くといつも驚くのは大画面のテレビである。こんな大画面を置く広さの家があるということだな、と思う。うちなんかこんなの置く場所もない。
ともかくものを片付けていないので家に仕事を持ってきてもやる場所がないから、近頃は図書館に行くことにしている。百�寮萓犬盪鮎�の部屋が三間しかない家で、それだから旅に出ると行ってよく汽車の旅に出かけたが、百�寮萓犬両豺腓呂△譴六鮎�が三つでもきちんと整頓されていた。単に狭いというだけである。うちの場合は、もしかして整理整頓すればきちんと仕事をするスペースも出てくるかもしれないが、していないので辞書を広げる場もないということである。
図書館は新しくなったので、気持ちが良い。ひとりひとりの机も窓に向いていてちいさなランプがついていて良い。とても集中できる。
ともかくパソコンの入力もすいすい滞りなく行く。やっほー、ご機嫌である。
あの姉歯元建築士という人は一見、そう悪い人には見えない。たしかに「悪い」人というより、泥沼に入って抜け出る勇気と意思がなかったと言う点でやはりどこか性格的に欠陥のあった人なのだろう、と思ってしまう。
だって仮にも一級建築士でしょう、わたしなんかから見るとプロフェッショナルだし、マンションやホテルの設計の仕事がなくても、家を設計すれば仕事になるじゃないの、と思うのだが、そうではないのだろうか。少なくとも大手に使われている建築士はほんとに気の毒だというのは自分の家を建てたときの経験からなんとなくわかる。
それにしても、しろうとからみれば、大地震が起きたら崩れる住宅を建てるというのは、明らかに致死行為だ。それをすることに慣れてしまった、というのはどういうことなのだろう。てきとーにやって、悪きゃ検査する官庁が見つけてくれるでしょう、てな気持ちで始めたところが、官庁は気づかない。そうなると、なんとなく悪いことをやっているという感覚がマヒしてくるのかもしれない。
となると人はなにに根拠を置くかという話になるが、これは自らの「良心」である。こんこんこん、と自らの心に顧みて、これはいいことをやっているのだろうか、と聞いてみる。
程度の差はあれ、こんなことはありそうな気がする。見てみぬふりをすることもそうだ。じぶんにもある。「おかしいな、あんなこと。違うんじゃないの。悪いことじゃないの。」と思いながらも、誰もそういわなかったり、むしろ肯定的に受け入れられている状況のなかでは、人の感覚がおかしくなってくる。
たとえば周りが斜めに傾いていると、次第に傾いていることが正常に感じられてくる。おかしいな、おかしいな、と思いつつも、「誰も言わないし、自分の感覚がおかしいのだろう」と首を傾げつつ暮らしている。あるとき、ばーん、と事件が起こる。今まで気づきながらも無視してきたことがらが、行く筋もの糸となりつながり、事件は起こる。
人は自らの知覚に忠実でいなければならない。知覚は、よい、悪いはないのである。
駅前広場の隅にコンビニがあって その前に青い光をはてしなく散らしたツリーがある。 とおくから見ても ちかくに行っても 星の世界のようだ ぎらぎら、ぎらぎら あおい光が渦巻いている ここで人を待ったらどんなだろう、と 思う 「ねえ、いいこと あおいツリーの下で」という言葉を胸に 青年は いくとしも いくとしも 待った・・・ あおい、ツリーとはなにか どこを探しても あおい 星のツリーは なかった。 ある夜 ある町に降りたときに 出張でこの町に来ていた青年は ぼあっと暗闇に浮かび上がる ツリーを見たのだった それは、あおいツリーで 全体からあおい光が 湯気のように立ち昇っていて それは天を指し 天の星と混じり合っていた あおいツリーと 彼はひとり言を言い 近づいた あおいツリーのそばに 残念ながら 赤茶けたたばこの灰を捨てる缶が つったっていて そこから 灰色の煙がひと筋 立ち昇っていた。 ここで、待たねば と青年は思った 約束の、ツリーだ・・・
という話が浮かびました。
| 2005年12月16日(金) |
真冬に真夏を思い出したりして。 |
夏には タオルケット一枚で 寝転がっていたのが嘘みたいだ 電気あんかに ぶあつい毛布 ふわふわの蒲団 出かけるときはマフラーに コートでふるえている ふっと 黄色のタオルケットから 足をだして 寝苦しいなー エアコンかけよ なんて言ってたのを思い出してしまった すこし開け放した窓から チリチリチリチリと 虫の音がしてきた・・・ あれはどこの世界かいな、 宇宙の果ての世界かいな。 ど冬のどまんなかに 「暑い」感覚を思い出すというのは まるで他の次元の世界のことのようである
| 2005年12月15日(木) |
住宅のクリスマス・イルミネーションについて。 |
最近はクリスマスが近づくと町の公園や駅のロータリーの木々、それに家々では小さなライトで飾り付けをするのがはやっている。ほんとうにはやっているようだ。駅の背だけは高いがあまりぱっとしない木に、夏は七夕の紙の飾り、今は鉄片からだらだらとランプをたらして、なんというのだろう、あまりにみっともなくて木が可哀相だ。痛まないのだろうか。
日本の家々で飾るライトのデコレーション。アメリカの住宅のライトは、もっとすごい。家一軒が広く、それぞれが離れているので、真っ暗だ。その中にポーチに飾りつけた様様な形のライトが浮かび上がる。トナカイや、そりや。
わたしがアメリカでそのイルミネーションを見て驚いた、そのはしりが今日本で行われているのだろうか。しかしアメリカと日本との決定的な差は、宗教心の違いである、と思う。
アメリカの家々のイルミネーションは、見ていると神を称えている感じがいかにも、した。皆が皆キリスト教で信仰心が厚いわけではなかろうが、全体的な共通の理解として、あのようにライトを飾ることで神を称える、お祝いの時期である。この世が神の国でありますよう、祝おう、という、こう、心が盛り上がるような感じがする。それが、ライトアップである。
日本には、それが無い。だからあんなふうにライトアップして、ナニを称えようというのかいな、と思う。ただデコレーションして、なにが楽しいのだろう、と思う。というか、あのような派手なイルミネーションが、ロマンチックだからという理由はなんか筋違いのような気がする。
あの明かりは、神を称えているのですよ、とわたしは言いたいのだが、そんなこと時代遅れだろうか。ただ派手に家をライトで飾っても、なんか子どものお遊びのような気がする。
ちいさなツリーにいろんな色のランプをちかちか点して、それが小さな窓に映って・・・とそのくらいがわたしの感覚ではぴったりする。アメリカのど派手なクリスマスの祝い方、あれは究極は神を称えるものなのである。まあ、日本ならば正月を祝うのと同じなのだろう。
わたしはクリスチャンではまったくないが、そんな気がする。
| 2005年12月14日(水) |
「愛と死をみつめて」のまこさんの行方 |
コーヒーショップから貰ってきたフリーの雑誌。何気なく「ペイオフ解禁」というしろうと向けに「ペイオフ」とは何ぞや、というのをやさしく書いたページを読んでいた。書いた人のプロフィールが小さく載っていて、何気なく見ていたら、なんと「愛と死をみつめて」の著者とある。
「え?え?え?」と再びじっくり読んだら、ジャーナリスト河野實さんとあるから、それじゃ、あのお話の主人公の「まこ」とはこの人???と驚いた。
このお話、というか実際にあった、まことみことの「純愛物語」は私が小学生の頃、歌や吉永小百合さんの映画で超人気になったのである。私もりぼんか何かの雑誌の付録で読んだ覚えがある。なんと言う漫画家だったか名前は忘れたが、実にデッサン力のある、シリアスな絵を描く漫画家の手になる、立派な漫画だった。
で、たまーに思い出すたびに、あの残された学生の「まこ」はどうなったのだろう・・・ということだった。その後どういう大人になって就職をし、若くして亡くなった恋人のことをどう思っているのだろう、結婚したのだろうか・・・。
ま、どうでもいいといったらどうでもいいことであるが、たまーにそんなことを思っていた。 インターネットで調べたら、確かにこの方は「愛と死をみつめて」の書簡集を出した人であり、今はジャーナリストとして著者も多い、けっこうな有名人であるらしい。自分のホームページも出している。
ふうん、なるほどねー、と感慨深く思った。写真をみると天然パーマのような髪のひとくせありげなインテリ風の方である。ふたたび、なるほどねーと思った。小学生の時に読んだ漫画のシリアスなすこし翳りのある、やさしそうな青年「まこ」とはこの人なんだ、と初めて年来の疑問が解けたのである。
| 2005年12月13日(火) |
・・・不気味な国ニホン |
まったく心を震撼させるような事件が起こっている。塾での女の子殺傷事件。相性が悪いとか、あいつがいなければという気持ちはあり得ることだ。しかしそれを実行に移すとは何事か。
心が幼い。成熟度ゼロ。それは学力とは関係がない。傷つきやすい。タフさがない。いかり狂うとどうしようもない。
今は若者、子どものレベルで起きているが、その年代が会社員になると、オフィスでこんなことが起こるのではないだろうか。
この年代を育てた親に大いに問題があるのは、確かだ。いちばん身近だった親との関係を心理的・社会的に調べる必要があるのではないか。二年ぐらい前の級友を刺した女児の事件もそうだ。
人に対する憎しみ。嫉妬。敵意。それを実行に移してしまう。心理的に異常な人格の持ち主ならまだしも、けっこうフツーっぽい家庭に育ってこんな事件を起こす者が増えているというのは、何が欠落していたのか。
人を殺すから悪いのはもちろんだが、犯罪者の心理、生育状況を徹底して調べる必要があると思う。こんなのが出てくるというのは、その裾野はもっと広いということだ。もちろん良識ある人々も多いと思うが、こんなふうで日本はどうなるのだろう。自分勝手で、資源を使い放題に使って。
わたしは今の三十代ぐらいのセレブみたいな暮らしを是とする女性にもなぜかその片鱗を感じてしまう・・・。彼女らが読んでいるという雑誌を手にしてそう思った。極端なジコチュウ。
なんか日本がどんどん気味の悪い国になっていくような気がする。宗教心ゼロ。良識ゼロ。良心ゼロ。世界のどの国より不気味な国になっていくような気がする・・・。
| 2005年12月12日(月) |
どちらの生き方がいいか。 |
年末の勤務評定書の自己申告というのを書いている。つくづくむなしいなーと思うのは私の書き方が悪いからなのだろうか・・・。やるべきことは決まっていて、それをどうだこうだ枠の中で書いている。
すごく非人間的な枠組みの中で書いている。わたしは自分の職場が人間性をとても枠にはめるようなもので、その枠をなんとか笑いながら人とうまくやって楽しく過ごせる人がこの組織になんとか順応するのだろうと思う。
自己実現なんてウチの組織ではとても、望めない。もちろん福利厚生はきちっとしているし、一応男女の変な差別はないし、一生勤められるところだと言えば申し分ないのかもしれない。でも息苦しいところだ。そんな暮らしが当たり前になっているところが大変なところだ。
いや、やはりわたしの書き方が悪いのだろうか。でもどう動いたって頭打ちだ。ひとりで企業を起こしたり、ひとりでなにかを始めた人々はすごいよなあと思う。こんな勤めでも一昔前の公務員のように、日々ただまじめにやっていればよい、何十年も「勤め上げれば」良い。というのとは今は違う。
公務員はあたまががちがちだ。企業もそうだろうか。
人間、へとへとになるまで働くか、すきでもないことをやって。しかし独り立ちというのは大変だ。うちの両親がそうだったからね。社会の大波のなかで自営業というのはいかに大変か、見て知っている。大船に乗ったようなものだ、公務員は。しかし。しかしそれは反面ヒトを奴隷化するものである。
路上に放り出されるリスクを抱えながら自由にやるか、あるいは首に綱をつけられて人間性をかなり奪われて確実なお金を貰うのがいいのか。
| 2005年12月11日(日) |
ドラマ「クライマーズ・ハイ」の感想 |
きのうは、「クライマーズ・ハイ」と「山田風太郎の日記」と「チャングムの誓い」を立て続けに見てしまった。よっぽどヒマだと思われそうだがそうではない。
クライマーズ・ハイは、日航ジャンボ機の事故の時に北関東新聞の記者だった人が作家になって書いたベストセラーのドラマ化だそうだ。組織とか上司とかの関係で身につまされるようなことがいくつも描かれていて、自分がショックを受けたり矛盾を感じているようなことってどこにもあるのだなあ、と感じた。
とくに主人公の悠木が部下を事故地に事故直後に取材に行かせたが、当時は無線機もないので社に連絡するのが夜中の一時頃、もう、印刷にかける時間を過ぎていた。悠木は一時までは待つ、と約束したのに、部長は輪転機が故障したという嘘の理由で12時を締め切りとし、大変な取材をした者達を切った。
悠木は電話で告げられた事故の記事がものすごいリアルなものであることを知り、次の日のトップで掲載したいと部長に言うが、却下される。社長に直訴するが、この生意気なやつ、と記事に眼もくれない。
その記事というのが、自衛隊員が女の子の遺体を抱いている描写から始まる、というので、自衛隊賛美になるからというのでトップに載せられないと判断されたのだった・・・。
幹部は昔自分達が功績を上げた「大久保事件」「グリコ事件」よりも大きな今回の事件で若い者に抜かれたくなかったのである。権威を振りかざしておきたかった。
また自衛隊を賛美しているように映る、というのは、幹部のいやな性質もさりながら、私にはわかるような気がする。
飲み屋での上司との争い、社長からばかにされるところ、部下との軋轢・・・そして家族の問題。悠木の子どもが何を話し掛けても「う・・・」としか言わなくなったのである。
こういったひとつひとつが非常にリアルである。組織で働いているものには共感できると思う。こういったドラマはあると思うが、このドラマは台詞がほんとにリアル。社長が悠木に「ほう、あのときのぼうやか。ずいぶんエラクなったものだな」というところとか。
日航機事故がメインなのではない。新聞記者の軋轢がメインテーマである。二回連続。次回が後半である。
きょうは冷たい雨だった 折りたたみ傘を持ってきてしまったので ありあわせのビニールにつっこんで 歩いていた 冷たい雨 右の靴の先がすこし 破れていて そこから水が入り込む 情けのない話だ 図書館と 喫茶店で 仕事の残りをやった 翻訳のチェックなので ちいさい電子辞書を使って 日本語と英語を見直す コーヒーをもう一杯頼む。 図書館は新しいので 机は広いし 光は入るし 机がとれなくとも ゆったりした扇形の椅子とか どこかすわるところが取れるので そこにすわり、膝にカバンを載せて ちくちく、ちくちく 電子辞書を押してている ちょうどいい 精神の集中具合 あー幸せ、と思う ちょっと変わっているのだろうか でも大量の辞書に囲まれ 光あふれる場所 黄土色の木の机にすわって こつこつ、こつこつ じぶんの世界に浸りつつ あーでもない、こーでもないと 疑問をつくり 仮の答えを出し・・・と こんな作業をしているときが いちばん幸せなのである。
| 2005年12月03日(土) |
Harry Potter |
さきほどテレビでハリーポッターの映画を見た。後半三分の一ぐらいかな。デジタルだから空を飛ぶのでも変身でも腕がくにゃりと曲がるのでもなんでもできるというのはたいしたものだ。
いまどきこんなことを言うのは時代遅れだが、わたしがHarry Potterの第一冊目を読もうとしたのはおととしぐらいの事である。日本語を読むのがシャクだったから英語のペーパーバックを買った。
単語は独特の難しい単語が出てくるが、ともかく面白い。列車のホームにふつうはないホームからホグウィッツ行きの列車が出るところとか。だんだん読んでいくうちに、これはよくある、イギリスとかアメリカのキリスト教を主体とした小説とは違うぞ、という感じがした。わたしは英米文学などほとんど読んでないから違うかもしれない。ただあちらの文学はどうしても神と人間とか、善と悪との戦いとか、そんなテーマが感じられるものが多いと思う。
ところがこのハリー・ポッターに渦巻くのは、神もない、悪魔もない、いや、それ以前の根源のどろどろとした原初的な人間の怨念みたいな、無意識の世界みたいなそんなところを著者がすごく好んでいて、好きで好きでしょうがなくて書いているような感じがした。
だから、おそろしい。ただ本で読むと想像力を働かせることができる。どんな恐ろしいものでも神話の世界に昇華される。
映画で見る世界は自分が本を読んだときに想像した世界と同じようなものである。しかし、映画の映像はつまらない・・・。ただちゃちな残酷な場面が次々に出てきて、スリルはあるが、それだけ。コンピューターゲームである。こんなものを見ていたら子どもは想像力を失うのではないかな、と思った。
描き方にあるのかもしれない。なんか奥深さが足りないのである。それと、いかにもぼんくらっぽい、ハリー・ポッターという名前が、カタカナで書かれるとえらい魔法使いにも見えるのはわたしだけだろうか。
Harry Potterというのは、英語ではほんとに冴えない、ぱっとしない名前ではなかろうか。Harryなんて子どもは掃いて捨てるほどいるし、ポッターなんてなんとぽたぽたした、ださい名ではないか。これが伝わらないのは残念である。
途中までしか読まなかったハリー・ポッターの原文であるが、あのどすぐろい世界を描いた著者はえらい!と思った。そしてこれを読むのに耐うる英米人は、おそらくキリスト教徒ではあるまい、と思った。善か悪か。神か悪魔か。この二元論には入らない世界だからだ。たとえば指輪物語、ナルニア国ものがたり、それとは全然違う。
| 2005年12月01日(木) |
モーゼズおばあちゃんの12月・ほか |
グラマ・モーゼズおばあちゃんのカレンダーの絵がとうとう12月になった。これまではそれぞれの季節の、アメリカ農場の風物だったが、今月は一転して、幻想的なブルーの、トナカイと白い氷の木々の世界である。月が白く浮かんでいる。
さすが、モーゼズおばあちゃんの天賦の才能を感じさせるものである。モーゼズおばあちゃんの絵がわからない輩は、おばあちゃんが雪に銀色の紙を使ったから幼稚だとなじったらしい。いやいや、この人はすごいのである。
11月の湖の絵のとおくに見えていたあおい山並。そして今月の浮き上がるような幻想的な絵。
話はがらりと変わるが、せめて一日に三十分は静かな時を持ちたいと考えているのだが、食事が終るとなんとなくテレビをぐったり見ていたり、明日の支度をしたりであっという間に11時だ。
電車の中で本でも、テープでもと思うがすぐに眠くなる。なにせ就寝11時半、起床五時半という生活なのである。12時就寝もしょっちゅう。夜に何もできない。うちの職場は8:30から5:15までである。仕事が終らないから職場を出るのは6時頃である。家に奥さんが待っている男性は楽だよなーと思う。
明日は金曜日だ。だからどうってことはないけど。
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