月に舞う桜
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ゆっこさんと崎陽軒本店の中華レストラン「嘉宮」でランチの飲茶コースを堪能した。 ここは初めて行ったのだけど、やっぱり巷にある普通の崎陽軒レストランとは格が違うなぁ。料理がおいしいのはもちろんのこと、店員さんの気配りも行き届いているし、絨毯はふかふかだし、椅子も豪華だし(←雰囲気に酔いやすい人……)。 コースは前菜二品から始まり、スープ、エビとチーズに春巻きの皮をまぶして揚げたもの、ピータンとマンゴーのライスペーパー巻き揚げ、春野菜入り餃子、ナンプラーに浸した何かの餃子、小龍包入り燕の巣スープ、豚角煮入り饅頭、お粥、デザート……という具合に品数が多かった。 基本的にどの飲茶も一人一個だったので、これくらいは軽くいけるだろうと高を括っていたのが大間違い! 豚の角煮饅頭に手を伸ばす頃にはもうお腹いっぱいで、半ばヘロヘロ(?)。 喋りながら時間をかけて食べていたので、どんどん出てくる料理でテーブルはいっぱいになる。店員さんが空いたお皿を下げに来てくれるのだが、餃子の入ったせいろの蓋を開けては、まだ手をつけていないのを確認して「失礼しました」と頭を下げること数度。その度に、「食べるのが遅くてごめん!」という気持ちとちょっとした気まずさの混じった曖昧な笑みを返す私たち。 ゆっこさんとは去年同じ資格を共に勉強していた仲なので、その資格に関係する話もしたりして、楽しい中にもちょっぴり真面目なところのあるランチだった。 プーアル茶の入ったポットを見ながら「ガラスのポットって、いいですよねー」と言うと、ゆっこさんは「弓月ちゃんはガラスってイメージだね。桜も似合うし」と言ってくれた。桜に関しては、私のペンネームとこのサイトデザインを思い出して付け加えてくれたのだと思う。 ガラスは大好きなので(もちろん桜も)、そういうふうに言ってもらえて本当に嬉しかったし、嬉しい気持ちも伝えたのだけれど、心の中で「ゆっこさん、それは私に騙されてるよ!」と突っ込んだ。
最近、摂取カロリーが高い。そう言えば、顎のあたりが丸くなったような……。カロリーがすぐ顔に出る性質なので、気をつけねば! しばらくはヘルシーな食事を心掛けようと思う。
鶏専門の居酒屋で、友達との新年会だった。 去年末から「鍋が食べたいね」と言っていて、年をまたいでようやく目的を達成した。 鶏の水炊きをメインに、焼き鳥、山芋のお好み焼き、サラダ、ミニグラタン、つくねハンバーグ……とにかく鶏づくしだった。 鍋がまだ残っているときからかなり満腹で、膨れたお腹を「むふ〜」とさすりながら、仕上げの雑炊をゆっくりペースで口に運ぶ。それでもデザートだけはしっかり完食してしまうのだから怖ろしい。 でも、鍋もデザートもめじゃないくらい、やはり今日のピカ一はソルベサワーでしょう。 普通のサワーやカクテルはレモンだのカシスだのとありきたりなものしかないのに、なぜかソルベサワー(サワーの上にシャーベットが乗っている)なんていう、居酒屋には珍しくておしゃれなメニューがあったのだ。しかも、種類はマンゴー、ミックスベリー、ゆずハチミツという、どれもそそられるものばかり。なぜそこだけ気合いを入れてるんだ。その気合いを他のサワー類にも少しは向けるべきではないのか! メニューの中でおしゃれ度が極端に偏っていて、何かが確実に間違っているぞ、この店。 ……と、友達と共に突っ込みを入れつつ、ソルベサワーを注文。 メンバーは3人。ソルベサワーも3種類。一人一人違うものを頼んで回し飲み(及び、シャーベットを回し食べ)。 結果、ゆずハチミツが爽やかで圧倒的においしかった(もちろん、ほかの二つもおいしかったけれど)。「ゆずハチミツのソルベサワー」のためだけに、また行きたいくらい。
25歳は微妙な年だ。 あの頃みたいに、目の前のことだけで悩むことはもうできない。それぞれの事情や問題はまったく違うけれど、きっと、どれもこれも人生に根ざしているものばかりだから。 ましてや、「楽しくて楽しくて仕方ない」と無邪気に笑うことなんて、できなくなっている。 でもそれは、「もう」ではなくて、「今だから」なのかもしれないとも思う。思いたい。
※24日(火)分も更新しています。
何だ、私、墨磨れるじゃん。墨汁いらないみたい。 初めての絵手紙。墨のいいにおい。筆をゆっくり動かして線を描いていくと、集中力がぐっと高まる。 墨の濃淡や水の加減が案外難しい。その上、やはり私には絵心がないかも……。 でも、せっかく始めたのだから上達したい。実践あるのみだ! 後片付けをしながら、道具を大切にすることは何のスポーツでも趣味でも基本だなぁと思った。
| 2006年01月24日(火) |
地球儀をくるくる回しながら、ふと思う |
好きな言葉に「法律は最低限の道徳である」というのがある。 誰が本家本元かは知らないけれど、前にテレビドラマで聞いて気に入ったフレーズだ。 法律は最低限の道徳だ。 だから、「法律さえ守っていれば、それでいい」ということはない。 「法律守ってるんだから、いいじゃん。何がいけないの」というのは子どもの言うことだ。大人なら、それ以上の道徳や倫理や良識を持って然るべき。 ……と思っていたのだが、もしかすると、「法律は守ってるんだから別にいいじゃん」と言う人は、実は法律すら守っていないことが多いのかもしれない。 でもさ、一番大人げないのは、大人の顔した子どもの正体も見抜けない人間だと思うんだな。大人の顔した子どもを褒めるじゃなくて散々持ち上げた挙句、そいつに大人の社会秩序をかき回されてるようじゃ、あとがないよ。子供に乱されるのは、社会が脆弱だから。いい加減しっかりしようよ、私たち。
絵手紙では、本来は墨汁を使わずに自分で墨を磨る。でも、力の弱い私がいちいち墨を磨るのは大変かと思い、墨汁を買いに行った。 ロフトに行ったので、墨汁以外のものもいろいろ目に入って困る。 今日は、特に地球儀。 地球儀は前からほしいと思っていた。 でも、高い。小さいので2000円、大きいのだと9000円とか1万円以上のものもある。 2000円なら買ってもよいかと思ったのだけれど、地名が英語表記のものしかなかったので諦めた。できれば日本語表記のがほしい。海はやっぱり青がいい。 あと、今ほしいのは、部屋でプラネタリウムを見られるという噂のアレ。
お金は大事だ。 お金さえあれば良いと言うわけではないけれど、お金がなければ何もできない。 「世の中、金が全て」とは思わないけれど、お金があれば解決できる(それも、気持ちよくスムーズに)ことはたくさんある。 だから、お金儲けは悪いことじゃない。私だって、できることならお金を儲けたい。 でも、お金は最終目的じゃない。その先に何を求めるのか、何のためにお金儲けをするのか自分の中で明確に(しているつもり、ではなく、本当に明確に)していないと、本末転倒な事態になりかねない。そして、自分の欲を見極めることは、地に足をつけて自分の身の丈に合った仕方でお金儲けをすることに繋がるのだと思う。 それから一番大事なのは、某カード会社のCMふうに言えば、pricelessなものをないがしろにしないということ。 例えば世の中の99%をお金で解決できるとしても、残りの1%を自分の生活から排除したがために、せっかくお金で得たものさえ失ってしまうことだってあるのだ。 所詮、お金はただの紙切れ。ものすごいスピードで走り続けていると、周りの景色はよく見えない。紙切れの先に自分が何を見ているのかも、よく分からなくなってくるのではないかと思う。立ち止まって「その先にあるもの」をしっかり認識しないと、札束に足元をすくわれてしまう。そもそも、その札束は蜃気楼かもしれないし。
私は今日、地球儀を買わなかった。 でも、いつか地球儀やプラネタリウムをぽんと買うことを想像した。 そういう「別に必要はないけれど、何となくあるといいなと思うもの」を気軽に買えるというのは、きっと、今よりもちょっと豊かで精神的にも余裕のある生活だろう。 それが、今の私が考える、手の届きそうなちょっとリッチな日々。
| 2006年01月23日(月) |
ちょっとのつもりが…… |
澄み切った青空の下、風花が舞っていた。本物を見たのは初めてかもしれない。窓の外を風に乗って流れていく雪は、本当に花吹雪みたいで美しく、幻想的だった。
晴れた日は、部屋の片づけをしたくなる。 去年勉強していた資格のテキストやら絵手紙のテキストやらを入れるスペースがないので、本棚を整理した。 軽い気持ちで始めたのだけど、片付けているうちにどんどん大掛かりなことに……。手をつける予定じゃなかった段まで目についてしまい、そっとして置けばいいのに、古い雑誌や本を引っ張り出してはとにかく積んでいく。 大学のとき購読していた障害者(主に車椅子ユーザー)向けの雑誌、同じく大学時代に買ったのであろうメイクやヘアアレンジの本、TOSHIやB'zの写真集、hideが亡くなったときに特集が組まれた週刊誌(しかしhideの誕生日が間違って書かれている。けしからん!)、FOOL'S MATEの�焼箪弦罅◆悗發里里栄院戮離僖鵐侫譽奪函�買ったことすら忘れていた絵本、DHCのパンフレット、果ては大学の講義要綱まで、とにかくいろんなものが出てきた。 それらを要るものと捨てるものに分け、要るものは本棚に仕舞い直し、(私にとっては)重い本をあっちへやったりこっちへやったりしていたら、だんだん疲れてきて嫌気がさす……。 テキストが入るスペースさえ作ればよかったのに、どうしてこんな大々的に片づけを始めてしまったんだ、私! と自分を恨みつつ、それでも片づけを終わらせないことには仕方ないので、黙々と続けた。 で、頑張った甲斐があって、本棚(の一部)と机の横の本立てはかなりすっきりした。 捨てられることになった雑誌は、どどーんと数十冊。 机の上も広くなったから、これで心置きなく絵手紙が描けそうだ。
「老後の趣味に絵手紙をやりたい」とは前から言っていましたが、この度、数十年の前倒しで始めることにしました! 実は、二週間ほど前、資格通信講座でおなじみの某ユーキャンに申し込んでいたのです。 私の場合、やりたいな〜と思っていても、なかなか始められないんですよね。腰が重いので、きっかけがないことを言い訳にしてしまって。 「絵手紙も、やりたいやりたいと言いつつ、結局やらないんだろうなー」なんて思っていたのですが、そんな折、年始の新聞に広告が入っていて、「これはいいチャンスかも。せっかくだし、この際始めてみるか!」となったわけです。通信講座なら添削の課題提出もあるし、目標ができて続けられるかもと思いました。 あ、でも、大学受験のときにやっていたZ会は、提出率が良くなかったような……でもあれは勉強だからサボりがちだったのですよ! 絵手紙なら楽しんでできますって! 申し込んだ講座には絵手紙に必要な画材が全てついているので、そんな始めやすいところも魅力的でした。 で、その教材一式が今日届いたのです。 テキストは除いて、画材だけ撮ってみました↓
上の段左から、筆洗い、顔彩(18色)、絵手紙用のハガキ 下の段左から、スポイト、梅皿、墨、すずり 一番右が専用の筆4本です。 教材にはこのほかに、練習用の半紙や下敷きなどもついていました。 画材を見ているだけでワクワクしてきます〜。届いたときは、嬉しくてしばらく眺めていました。 テキストを少しずつ読みながら、楽しんでガンガン描いていきますよー。 そのうち、作品をこの日記にも載せられるといいなぁなんて思っています。
朝からずっと、「雪やこんこん」です。 今日は、とある講演会に行く予定だったのですが、家から駅までの道に思いのほか雪が積もってしまって電動車椅子(愛称「紺ちゃん」)では歯が立ちそうになかったので、断念せざるをえませんでした。 降っているのが小粒ではなく、ぼたん雪だったし、今日は家にいて正解でしょう。行ったはいいけど、電車が止まって帰れなくなっても困りますしね。 でも、とても期待していた講演だったのでものすごく残念です。しかも、講演会のあと友達のゆっこさんと「ちょっと贅沢な中華ランチ」をする予定だったのですよ。本当のことを言うと、講演を聴けなかったことよりもランチに行けなかったことの方が数倍残念なのです! 雪め!
でも、雪が降り続いて窓の外の景色が白くなっていくのは、ちょっとドキドキしますね。 雪国にお住まいの方にとってはこれが日常の風景なのでしょうけれども、横浜では雪が一日中降るなんて一年に一回あるかないかなので、外をずっと眺めていても、ちっとも飽きないのです。
| 2006年01月19日(木) |
狂気に似た情熱を歌う人 |
※18日(水)分の日記も更新しています。
Coccoが本格的に帰ってくるようだ! 『焼け野が原』を歌い終わったその足でMステのステージから走り去って4年? 5年? とにかく、嬉しいし素晴らしい事態だわ!
昨日、芥川賞と直木賞が発表された。 直木賞、東野圭吾『容疑者Xの献身』! おー、パチパチ♪ ノミネート6度目での受賞とのことで、感激もひとしおなんだろうなぁ。 『容疑者Xの献身』はミステリー関係の賞で3冠を取っているから、これで4冠だ。すごい。 ……私、わーわー言うわりにまだ読んでないのだけれど。 ハードカバーって高いしスペース取るので、買うのに躊躇してしまう。なら、ブックオフへ行くか? となるわけだけれど、でも、本当に読みたい小説はできるだけ新品を買うことにしているのだ。古本屋さんというのは、新品ではもう手に入らないものを買うことができたり、要らなくなった本が別の人の手に渡って再び活かされたり、という意味ではものすごく役割が大きいけれど、出たばかりの小説がずらっと並んでいるのを見ると、何だか悲しくなる。命を削ってものを生み出すという行為、そこに込められた思いや人生、そういうものすら消費の対象になっている感じがするのだ。 私にとって、本は「安ければそれでいい。読んでしまえば、もう終わり」というものではない。そこには、書き手としての視点が大いに含まれているのだろう。ものを創ることのある種の壮絶さを知っているから、安易に古本に手を出すことができない。読みたいものならそれなりのお金を払って真新しい本を買うことが、創り手に対する私なりの敬意の払い方なのだ。 私の中で一定のルールがあって、すでに亡くなっている作家の小説と、個人的に読みたいわけではないけれど必要に迫られて(小説の資料にするとか、教養のためとか勉強のためとか)読む本は古本屋で買ってもいいことにしている。 以前、村上龍の『KYOKO』と山田詠美の『A2Z』をどうしても読みたくなったことがある。2冊とも本屋には置いていなかったのだが、私はどうしてもどうしても、その日に手に入れたくて、アマゾンで注文して数日待つことすらできなかった。それで仕方なく、ブックオフに行った。どちらも手に入って帰りはルンルンだったけれど、心の片隅に後ろめたさと言うか申し訳なさが残っていて、「ごめん」と思いながら読み始めたのだった。どちらも心にぐっと来る小説だったし、せめて売り飛ばさずに大事にしようと思う。 そういうわけで、『容疑者Xの献身』をどうするかだ。まぁ、売れっ子で印税もたくさん入っている東野圭吾だ、私一人くらい古本で済ませてもどうってことはあるまい(私のルールってこの程度か……)。
| 2006年01月17日(火) |
静かに彼らが生まれるとき |
※16日(月)分の日記も更新しています。
電車に乗って本を読んでいると、本の世界にどっぷり浸かるときと自分だけの世界に回帰していくときがある。 今日は、後者だった。 電車に乗っているとき、誰も私を気にしていない心地良さに身を浸しながら雑踏を歩いているとき、どこかのレストランで一人食事をしているとき、入浴しているとき、そういうときに私の中で子どもたちは生まれる。 突然『オータム・イン・ニューヨーク』のウィノナ・ライダーを思い出して、帰ったら彼女の役名を調べようと思い立つ。あの映画はあまり好きではなかったけれど、彼女はやけに魅力的だった。 この世界の様々なものを取り込んで、私の世界は大きくなっていく。そうして子どもたちは育っていき、笑ったり泣いたり愛したり憎んだり空を仰いだりしている。
| 2006年01月16日(月) |
伝わる言葉を持つあなたのように |
手紙やハガキをしまっている箱がいっぱいになったので、整理した。 今年の年賀状だけを箱に残し、あとは少し大きめの缶(ヨックモックの缶だったりする)に移す。 手紙を整理していると、どうしても一通一通読み返してしまう。 いろいろな人が、それぞれの言葉でいろいろなことを伝えてくれていた。 中でも群を抜いて印象的だったのが、親友からの一枚のハガキ。 郵送ではなく手渡しでくれたものなので消印はなく、いつ貰ったのかはっきりとは分からない。けれども、文面から察するに、「私が本当はかなり疲れているのにそれに気づいておらず、でもそこはかとなく精神的に参っていた頃」だろうと思う。 そこに綴られた言葉は、飾り気がなく、決して押し付けがましくなく、だからこそ友情や愛情がやさしく満ちていた。彼女の気持ちが何も捻じ曲げられずに澄んだまま心の深いところまで流れてきて、私は心底感動し、感謝した。 彼女は昔から、ここぞと言うときに、伝わる言葉をくれる人だ。どうしたら、こんなことが言えるんだろう、と驚くほど。 肝心なときにきちんと伝わるかどうか。突き詰めると、それが言葉の全てだ。そして、どんなに饒舌でボキャブラリーが豊富でも、相手に向けて「どうしても伝えたい」という強い気持ちがなければ、言葉は伝わらない。 だから、彼女が私に対して「伝わる言葉」を発信してくれることは本当にありがたいと思う。 私は、彼女のように誰かに言葉を尽くしてただ純粋に心を伝えているだろうか。物書きであるとかそんなこととは関係なく、一人の人間として。
| 2006年01月15日(日) |
私、飲み物のコーラはキライですが。 |
最近、山崎ナオコーラさんの新聞コラムが好きです。 小説を読んだことはありませんが、コラムを拝読する限り、とても小気味よい文章を書かれる方なんですね。 自分というものをすっと持っていて、でもそれに執着するという感じではなくて、ものすごくさっぱりしている印象があります。 江國さんとか、ばななさんとか、ものすごく好きな方たちの文章とはタイプが違うし、私が目指している方向とも違うのですが、読んでいて気持ちがいいのです。 だいたい、名前がふざけていて気持ちいいじゃないですか、ナオコーラですよ、ナオコーラ! 小説のタイトルがまたすごくて、ご存知の方も多いと思いますが、2004年の文藝賞を受賞した作品が『人のセックスを笑うな』ですよ? ふざけるのもいい加減にしろ、と(笑)。 このタイトルを見るたび、「いや、笑ってないから。って言うか、見たことないし!」とお約束のように突っ込まずにいられない私……。 文庫になったら、たぶん買ってしまいます。
※10日(火)、11日(水)分の日記も更新しています。
『選びし者へ』の記事に添えられている写真を撮って下さった神奈川新聞のカメラマンさんから、記事が掲載された昨年12月19日付の神奈川新聞朝刊と、B5版に引き伸ばしたカラー写真が送られてきました。 新聞は2部、写真も2枚! 太っ腹ですね、神奈川新聞さん! 写真は初めて新聞紙上に載った記念として、大切に保管しようと思います。 以前、神戸新聞さんからも神奈川新聞を一緒に送って頂いたので、神奈川新聞が2部、余っていると言えば余っています。 欲しい方には差し上げます……まぁ、本人以外にとっては新聞記事なんて読んでしまえば終わりなので、わざわざ手元に置いておきたいなんて方はおらんでしょうけれども。 神戸新聞さんから頂いた分は記事を切り抜いてしまったので、今回頂いた2部のうち1部は切り抜かずに丸ごと取って置こうかとも思っているのですけどね。
映画『恋愛寫眞』を観る。 感想第一声は、「堤幸彦って、こういうのも撮るんだー」。 私の中では、堤幸彦監督と言えば『TRICK』なもので。 とてもきれいな映画だった。きれいで、ゆったりと流れて、美しく切ない。 変に感動を誘ったり盛り上げたりしようとする演出のないところが良かった。日々が淡々と描かれていることで、却って想いの強さや切なさが表れていたように思う。静かに淡く、でも一途な想いがかなしかった。そういうのが、好きだ。 けれども、今このタイミングで観たから心の奥の方まできちんと染み渡ったのだという感じがした。必要なときに逃さなくて良かったと思える映画だった。 松田龍平という俳優さんはもっとアクの強い人かと思っていたけれど、「普通の感じ」を出すことができて、それが似合う人だった。
一つ難点を言えば、終盤で無理にサスペンス風味を出していたことだ。 それまでのせっかくの空気ががらっと変わってしまった場面があって、それがものすごく勿体無かった。 静かな流れを守ったまま進めることはできなかったんだろうか。
個人的に印象深かった場面。 「思い出は、いつも突然やってくる」と、誠人(松田龍平)のモノローグ。 その直後に出てくる回想で、風船が電柱に引っかかってしまって泣いている女の子に、静流(広末涼子)が言う。
「泣いてても、何も変わんないよ」
思い出は、いつも突然やってくる。 本当にそうだ。 泣いたら、何か変わることもあるかもしれないよ。そう言った人がいた。 本当に、思い出はいつも突然やってくる。不意打ちで、面食らう。 「泣いても何も変わらない」と言った静流は、けれども電柱によじ登って風船を取り、事態を変えてあげた。 「泣いたら変わることもあるかもしれない」と言った人は、けれども事態を変えることに手を貸してはくれなかった。 二人の違いは、何か決定的な真実を含んでいるような気がして、ちょっとかなしいような錯覚に陥った私は、テレビ画面に向かって小さく笑ってみた。
映画や小説は、こうやって受け手一人一人の固有の記憶とおもしろいようにリンクする。だから、「他人の物語」なのに心に強く残るんだ。
静流みたいな人になりたいと思った。
| 2006年01月10日(火) |
求ム! ニョッキを一緒に食べに行ってくれる人! |
方向音痴です。 馴染みのないショッピングセンターを歩いていて、久しぶりに自分がどこにいるのか分からなくなりました。 でも、おかげで今まで知らなかった場所にパステルを見つけました。パステルは、いまのところ一番好きなケーキ屋さんです。 ショーケースには、イチゴやブルーベリーのたくさん乗った新発売のタルトが出ていました。ちょっとでも目に入ってしまったが最後、買わずにはおれません。 が! どうしよかなぁと思って何となく辺りを見回すと、向かいにも別のケーキ屋さんがあるではありませんか! 「ぶどうの木」というお店で、私はそこのケーキを食べたことがありません。ケースを覗くと、パステルに負けず劣らずおいしそうなケーキが!! 「これは買わねばなるまい、せっかく見つけたのだし、ここは新規開拓をすべきよね」と思い、パステルの新作タルトは次の機会にして、「ぶどうの木」の方で買うことにしました。 私が買ったのは、「贅沢いちご」と「栗のミルフィーユ」。 帰宅後、さっそく母とそれぞれを半分こにして食べました。 何しろ、イチゴと栗がわんさかなんですよ。特に、「贅沢いちご」は名前だけあって、これでもかと言うくらいイチゴが乗っているのです。おいしくないはずがない! でも、私には少し甘すぎるかな〜ということで、やはりパステルが王座を守ったようです。
さて、ここまではおやつの話でしたが、今度はお昼ご飯の話。 マカロニが嫌いです。ペンネも嫌いです。フィットチーネも嫌いです。こいつらは、どれもこれも食感が好きじゃないのです。 でも、スパゲッティーは好きです。パスタは、おそらくスパゲッティーしか食べれません。 そんな私が最近迷っているのは、ラザニアとニョッキというものを食べてみるべきか否か。「パスタはスパゲッティーしかダメ」と思い込んでいるので、この二つは試したことすらありません。 好きなパスタ屋さんがあって、よく一人でふらりと行きます。そこのランチメニューには、スパゲッティーとラザニアをハーフサイズずつ食べられるプレートがあります。それを頼もうかどうしようか、いつも悩むんですよね。 ラザニアは何となく食べれそうな気がします。でも、万が一、口に合わなかったらショックじゃないですか。なので、結局は無難にスパゲッティーのみを注文しています。 誰か教えてください! 私はラザニアを食べれるんでしょうか! そして、ニョッキというものも一度は食べてみたいのです。でも、一人で食べに行く勇気がないんです。 どなたか、「弓月はニョッキを注文していいよ。私がスパゲッティーを注文して、ニョッキが弓月の口に合わなければ交換してあげる」という心優しい方はいらっしゃらないでしょうか。
| 2006年01月09日(月) |
無知を繰り返さないために |
『自閉症裁判――レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』(佐藤幹夫著、洋泉社)を読み終えた。 2001年に浅草の路上で起きた、レッサーパンダの帽子をかぶった男が女子大生を刺殺するという事件について書かれた本だ。かなり衝撃的な事件だったので、記憶にある人も多いと思う。 この本の紹介を新聞で目にしたとき、「そう言えば、事件直後は報道がすごかったのに、その後の話を全然聞かないな」と、まず思った。私のアンテナ不足かもしれないが、池田小の事件や佐賀のバスジャック事件などに比べて、どこか報道が意図的に控えられている印象があった。 だから、「この本を読まなければ、知らなければ」という直観が働いた。
加害者には知的障害があり、自閉症の疑いがあった(裁判では、自閉症とは認定されていない)。 マスコミ関係者がどんなに否定しようと、報道が極端に減った理由がそこら辺にあるのは間違いないだろう。 マスコミは、どうしてこういうことから目を背けるのだろうか。不思議でならない。障害者にまつわる「美談」ならいくらでも垂れ流すのに。 そのわりに、何か事件があるたび、第一報の最後に「容疑者には精神科の通院歴がありました」とわざわざ付け加えたりはするのだよな。でも、それだけ言って、終わり。それが事件の深いところまで関わってきそうとなると、途端に退散する。「情報を伝えることの責任と覚悟」というものが、私は感じられない。
脱線した。マスコミ批判をすることが今日の日記の目的ではないんだった。
この本は、障害者だから刑の軽減を、とか、自閉症の疑いがあるから責任能力があるとかないとか、そういうことを言っているのではない。 障害をきちんと理解した上で加害者と十分なコミュニケーションを図り、全ての真実を明らかにし、正しく裁判を行い、加害者に罪と責任を理解させて刑罰を意味のあるものにする。かなり大雑把なまとめ方だが、そういうことを訴えているのだと私は解釈した。
私は、著者が言っていること全てに賛同できるわけではない。正直、「その理屈には無理があるのでは?」と思う箇所もあった。 それでも尚、この本はとても大きな意味があるし、この社会の一員として生きていくつもりの人にはぜひ読んでほしいと思う。 福祉の現状とか捜査や裁判の仕組みとか、着眼点はいろいろあるだろうけれど、読んだ感想として私が一番強調しておきたいのは、とにかく、「私たちがいかに何も知らないまま日々を過ごしているか」ということだ。 重要なことは何も知らされないまま、私たちの与り知らぬところで、物事がどんどん進んでいく。日本社会で生活する限り、そこで起きていることで関係ないことなんて一つもないのに、だ。「知らないところ」で起きていることだから、関心も持たない。関心がないのだから、もちろん現状を変えようという意識もない。そうして、私たちは無知を繰り返して、死ななくてもいい人、死んではいけない人たちが亡くなっていく。 被害者を殺したのは私たちではないし、直接の責任は全て加害者にある。何をどう考慮しても、絶対に許されないことだ。 けれども、広い視野で見れば、あの事件は社会を構成する私たち一人一人の無知と無視の結果であると思う。私たちには、被害者が亡くなったことへの直接的な責任はないが、「彼(加害者)に殺させてしまったこと」への責任はあるのではないか。 加害者には家出癖とその延長と思われる前科があった。家庭の状況から、家族だけで彼の面倒を十分に見ることはできなかった。施設入所を勧められたけれど、入所するには寄付金60万円が必要だった。生活していくのにやっとだった家族には、その寄付金を払うことができなかった。結果、彼は放ったらかしにされて、独りになってしまった。 「だから入所させておけばよかったんだ」というのはただの結果論で、何の意味もない。それに、施設を脱走した可能性だって十分あるし、結果は同じだったかもしれない。 問題は「ああしておけば、こうしておけば」ということではなくて、「寄付金を払えないために必要な支援を受けられず、社会制度から排除されてしまう人や家族がいる」ということを私たちが知っているかどうかだ。そういう現状を、日本を動かしている私たち一人一人が知っているだろうか。 加害者の家庭は妹も父親も大変な状況にあったのに、生活保護も障害者年金も、そういった類の制度を何一つ利用していなかったという。そういう制度を知らなかったという。それは、彼らだけの責任だろうか。いくら制度があっても、そこからこぼれ落ちている人がいる、この現状を私たちの中のどれだけの人が知っているだろうか。 ものすごく残酷な言い方だが、それが加害者とその家族だけの問題なら、無視しても私たちには差し支えない。けれども、彼らだけの問題ではないのだ。彼らを取り巻く問題が巡り巡って、完全な第三者の人生を奪うことに繋がっている。 だから、私たちは知らなければいけないのだと思う。
本には裁判でのやり取りも書かれているが、この国の裁判があまりにお粗末なことに唖然とした。 量刑のことは、私には分からない。どんな罪にどの程度の刑が妥当なのか、私には判断できない。問題は判決ではなく、そこに至るまでの過程だ。 ストーリー(=結末)が最初から用意されていて、全てはそこへ行き着くための辻褄合わせのように感じられるのだ。結局、重要なことは何一つ明らかにされないまま、結審されている。真実の追究なんて、どうでもいいみたいだ。 自閉症の人は、コミュニケーション能力に乏しい(裁判では自閉症の認定はされていないが、加害者の「自閉性傾向」は認められている)。こちらが強く言うと、それに惑わされたり、従ってしまう。本を読むと、そういった傾向についてまったく配慮されずに取調べと裁判が進んでいることが分かる。
最後に、私自身のジレンマについて。 これだけ長々と書いておきながら、私はいつか忘れてしまう。事件のことも、衝撃も、怒りも、悔しさも、そう遠くないうちに、何事もなかったかのように忘れてしまうだろう。 私たちは、いつもそれを繰り返しているのだと思う。忘れるというのはある種の健全さなのだけれども、そうやって、私たちは何度も無知に戻っていく。 忘れないで、何かを目の前に突きつけられたまま生きていく、ということを、どうしたら出来るのだろう。 それをいつも思う。
『自閉症裁判――レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』
新年会だった。
待ち合わせ場所へと向かう某駅のホームにて。 その駅には、エレベーターがある。駅の規模のわりにあまり大きくないので、順番待ちをしている人が一度に乗り切れないこともしばしばだ。 私がエレベーター前に着いたとき、すでに女性二人連れ(Åさんたち)と一人の車椅子ユーザー(Bさん)が待っていた。私がAさんたちの後ろに並ぶのとほぼ同時のタイミングで、反対方向から車椅子に乗った男性と付き添いの女性(Cさんたち)がやって来た。 一度に車椅子3台は乗れない。私は、「AさんたちとBさんが乗って、あとは私とCさんたちが譲り合ってどちらかが乗ったら、もう一杯だな」と思っていた。 そうしたら、「Cさんたち」の女性の方が有無を言わせない口調で「車椅子が優先ですから」と言って、Aさんたちの前に割り込んだのである。 その言い方があまりにもきつかったので、「呆気に取られる」を通り越して、ぞっとしてしまった。 いや、違うよ! と思う。 私の認識では、エレベーターは車椅子優先ではない。必要としている人を優先すべきなのだ。 そして、ここが重要なところなのだが、「何かを本当に必要としている人」というのは実は外見では判断できない。もしかすると、Aさんたちは心臓に病気を抱えているかもしれないし、まだ目立たないだけで、実は妊婦さんかもしれない(この駅にエスカレーターはない)。 お互いに必要としている者同士であれば、車椅子だろうが何だろうが関係ない。順番を守って当然なんである。 「必要としている人が優先」というのは私個人の考えなので、百歩譲って常識的に「車椅子が最優先」なのだとしても、もう少し言い方ってものがあるだろう。「すみませんが、先に乗せてもらってもいいですか」という感じで柔らかく言えば済む話だし、Aさんたちだって強い口調で言われるよりは気持ちよく譲れるはずだ。 ものすごくカチンときたので言わせてもらうが、ああいう人たちがいるからなかなか相互理解が進まずに世の中が良くならないのだ!(もちろん、世の中が良くならない原因はそれだけではないが) どんな状況にある人でも気持ち良く且つスムーズに交通手段を利用できるよう、駅にエレベーターを設置するのは当然のことだ。それを「ありがたい」と思う必要はない。 けれども、「利用客」という同じ立場の中にあって、車椅子を使っているからと言って譲ってもらうことは「当然」ではないのだよ。 車椅子というのは見た目にインパクトがあって、エレベーターや場合によっては人の手助けを必要としていることが一目瞭然だ。ほかの病気や障害に比べて、分かりやすい。つまり、どこか問答無用なところがある。 だからこそ、私たち車椅子ユーザーは、他人に配慮を求めるのと同じ(もしくはそれ以上の)強さで、こちらも他人に配慮しなくてはいけないのだと思う。 Cさんたちは、「外見では分からない病気や障害やいろいろな状況にある人たちがいる。Aさんたちもそうかもしれない」ということに、どうして思い当たらないのだろうか。 そして、もう一つ気がかりだったのは、有無を言わせない口調で割り込んできたのが車椅子ユーザー当事者ではなく、付き添いの人だったということだ。 あのとき、当事者の彼はどう思っていたのだろう。「車椅子優先」を当然と思っているのだろうか。それとも、本当の考えは別のところにあって、付き添いの女性の「強さ」に圧されていたのだろうか。
ここで本音。 私が真っ先に思ったのは、「あなたがそんなこと言ったら、私まで同類と思われかねないでしょ!」。 彼らが割り込んだことで、Aさんたちが「これだから車椅子ユーザーは!」(もしくは、「これだから障害者は!」)と思ってしまったとしたら最悪だ。 こうやってどんどん世の中が生き辛くなるんだよぉ、と思う。 「だったら、Cさんたちに注意しろよ!」とは言わないで下さい。「誰が彼らに謙虚さを教えるんだろう」と思いながらも自分は何もしていないことは、分かっているんだよ、これでもね。
前置きが長くなった。 そんなわけで、ちょっとイライラしながら待ち合わせ場所へ。 お忘れかもしれませんが、今日は新年会です。そのために、駅のエレベーターに乗ったのです。
横浜ではわりと有名な時計(毎時ちょうどになると音楽が鳴って人形が出てくる)の下で、メンバーが揃うのを待つ。 お互いに「あけましておめでとうございます」とか「今年もよろしくお願いします」とか言い合っていると、マキさんが旦那さん連れでやって来た。 (マキさんは、初対面のときに歌手の大黒摩季に雰囲気が似ているなと思ったので、そう呼ばせて頂く) マキさんの旦那さんは、すらっと背が高く、とても感じの良い方で、ものすごく素敵なオーラを自然に出していた。俳優の渡辺謙を10歳ほど若くして眼光をもっと優しくしたら、似ているかもしれない。私たちは皆、旦那さんとは初対面だったのだが、誰もがお会いした瞬間に「さすがマキさんの旦那様だわ!」と思ったに違いない。 お二人は、夫婦というよりは恋人同士みたいだった。デパートに消えていく旦那さんにマキさんが手を振っている、その仕草やたたずまいも含めて。
新年会は飲み放題つきのコース料理だった。コースの品数が半端じゃなく、次から次へと出てくる料理に皆で圧倒された。 前菜のオードブル、サラダ、鶏の照り焼き、塩ちゃんこ鍋、牡蠣、エビチリ(と言うか、酢豚の豚をエビしたようなもの)、ソーセージ、ピザ、たらこスパゲッティー、牛肉と野菜の炒め物……たぶん、こんな感じだった。 とても食べきれない量の料理を少しずつ減らしながら、最近どうしてるだとか、これからどういう方向で勉強していけばいいかだとか、やはりそういう話が中心になる。 ひょんなことから「歌を歌いたい」という話になり、南さんと二人、俄然盛り上がる。 (南さんは高校時代に野球部のマネージャーをされていたそうで『タッチ』を連想したのだが、よく考えると「南ちゃん」はマネージャーではなかったよな…) 私が「第九を歌いたい」と言うと、横から「友達が年末に第九歌ってるよ」とマキさん。南さんが「ゴスペル習いたい」と言えば、「ゴスペルやってる友達もいるよ」と、またまたマキさん。マキさん自身は歌に興味がないそうなのに、何て顔が広いんだ! と南さんと驚いた。 ゴスペルでも第九でもいいから、実現させたいなと思う。実を言うと、歌はかなり下手なのだけど……。
| 2006年01月07日(土) |
★「書くこと」とその周辺★その4.一期一会 |
『愛を紡ぐ手』に手を入れているとき感じたこと。 一期一会という言葉があるけれども、それは人に対してだけではなく、自らが紡ぎ出す言葉にも当てはまる。 『愛を紡ぐ手』の元の形を書いたのは3年半近く前のことだ。この3年半の間に、文章力や構成力や表現力という技術的な面において、私はいくらか成長したかもしれない(あるいは、残念なことに成長していないかもしれないが)。 けれども、修正前の原稿を読み返すと、今の私からは到底出てこないような言葉、感性、表現が3年半前の私から溢れていることも、また事実だった。 それは、成長とか後退ということではなくて、ものを書くということについてのもっと本質的な部分なのだと思う。 全体として見ればどんなに稚拙であったとしても、そのときでなければ生まれ得ない言葉、「そのときの私」にしか書けないような表現というものが、絶対にあるのだ。それは、技術では補えない。過去に自分が書いたものを読んで、我ながら「確かに下手だけど、すごいな。よく、こんなものが書けたな」と思うことがある。たぶん、逃してはならない「一瞬」に出会うことができたから、書けたのだ。 まさにその一瞬でなければ出会うことのできなかった言葉たち。「書く」という行為は、連続体のようでいて、実は一瞬一瞬の勝負だ。過去でも未来でもなくて、「いま」しかない。そこを通過してしまうと、もう二度と戻ってくることはない。そのとき生まれ得たはずの言葉たちは、永久に失われてしまう。 私は浅はかにも、「成長」さえすればより素晴らしいものを書けると思っていたのだけれど、一番重要なことは、その一瞬をいかにきちんと捉まえるか、ということなのだ。 明日書けることを今日書けるとは限らない。でも、今日書けることも、明日になって書けるとは限らない。そして、後者の方が、もの書きにとってはより重大な真実であると思う。
※4日(水)、5日(木)の分も更新しています。
3夜連続の『古畑任三郎』も終わっので、お正月気分からは本当に脱出しなければならない。 去年末からずっと、毎日、空が白い。そして、ものすごく寒い。今日は雪がちらついた。
師匠から年賀状が届く。 師匠というのは、大学時代のゼミの教授だ。ネット上では彼女を「師匠」と呼ぶことにしている。 研究室で卒論の相談をしているとき、師匠は私のことを「完璧主義なんじゃない?」と言った。おそらく、言外に「そうじゃなくてもいいのよ」という意味を含んで。私は自分のことをそんなふうに思ったことが全然なかったので、ものすごく驚いた。でも、師匠が言った文脈で考える限り、完璧主義という言葉はたぶん当たっているのだ(他の点では、決して完璧主義ではないと自信を持って言える)。私は、完璧にやるのが当たり前だと思っていたから、「完璧主義」なんていう特別な性質が自分とは結びつかなかったのだ。普通はもっと「穴が開いていても別にいいや」って考えるものなのかな、と目からウロコだった。 年賀状の文面は「その後レヴィナスは読んでおられますか?」という言葉で締めくくられていた。その言葉遣いがとても美しく感じられて、師匠らしいと思う。質問で終わっているのも、私たちの繋がりが続いていくようで(師匠がそれを望んでくれているようで)嬉しかった。師匠と話していると心がすうっと落ち着いていく、その感じを思い出した。 レヴィナスというのは、エマニュエル・レヴィナスのことで、私が卒論で扱ったユダヤ系フランス人の倫理学者だ。私をレヴィナスと引き合わせてくれたのも、師匠だった。
先生、ごめん。 卒業以来、レヴィナスは読んでいません。一年くらい前に、内田樹さんのレヴィナスとラカンに関する本を読んだだけです。 でも、あれからずっと、レヴィナスは私の中に居続けています。これからもずっと、それは変わらないと思います。
小説を読んで、久しぶりに号泣する。 江國香織さんの『落下する夕方』。 実はこの小説、半分くらいまでは「ストーリーはあまり好きな方じゃないなぁ。でも、この文章と空気が好きだから読めるんだよな」と思いつつページをめくっていた。だって、主人公の置かれた環境が私だったら絶対に耐えられないものだし、不健全さが度を越えているから(と言っても、多くの人が想像するであろう不健全さとは、たぶん種類が違う)。 ところが、半分を過ぎた頃からだんだんと世界に馴染んでいって、そして、250ページの真ん中まできたとき、現実が一瞬で消失した。 自分の心の凹凸にピッタリはまり過ぎる小説や映画に出会うと、現実とフィクションの世界の境が分からなくなる。 物語を第三者的に受け取って感動したりかなしんだりしているのではなくて、私が主人公に成り代わってストーリーを経験しているみたいだった。 あれ、と思う。あれ、私はどこを生きているんだっけ。 目の前に広がった世界は、絶望的にかなしくて、困った。 読み終わっても自分の立ち位置をうまく掴めず、現実に戻るためにパソコンで少しゲームをした。 驚くことに、『落下する夕方』の世界はそのあともずっとひそかに続いていた。ご飯を食べてテレビを見て、お風呂に入った、そのあとまで。 夜中、目を覚ましたとき、私は反射的に「華子は?」と思った。「華子」というのは、登場人物の一人だ。あれが嘘だったらいいのに、華子のいつもの気まぐれならいいのに、もしくは、私が今の今まで悪い夢を見ていて、やっと目が覚めたということならいいのに。本気でそう願っていた。そうして、しばらくベッドの中でぼんやりしたあと、私はやっと理解する。そうだ、私の世界には、最初から「華子」なんていなかった。 あの、夜に突然起きたときの「華子は?」という感覚は、本当に不思議な体験だった。 作家が世界を新たに創造するというのは、こういうことなのだ。私の中に、華子のいる世界を完璧に創られてしまった。
江國香織『落下する夕方』
| 2006年01月04日(水) |
それは自分で掴むんだ! |
毎年始にやっている(と思われる)「さんまと玉緒のあんたの夢叶えたろか」を途中から見る。タイトルはうろ覚え。もしかしたら微妙に間違っているかも。 テレビを見ていて「もし私が出るんだったら…」と想像を膨らませる人、実は結構いるんではないだろうか。私もその一人だ。 「いいとも」に出た場合にお友達として誰を紹介するかはまだ決めていないが(その前に、誰から電話が回ってくるんだ!)、「食わず嫌い」でリクエストするメニューはだいたい決めてある。嫌いなものはマカロニグラタン(……って、ここで発表したらダメじゃん)。思い出ソング・ベスト3を考えることもある。あとは、徹子さんのマシンガントークに負けずに話す技を身につけねばなるまい。 ……いったい何を目指しているんだ、私。 まぁ、そんなことはどうでもいいのだが、今日も例にもれず、テレビを見ながら「私の夢は何だろう」と考えていた。 「〜あんたの夢叶えたろか」を見ながら考える以上、自然と「テレビ局の財力とコネを使ってTBSに叶えてもらいたい夢」が前提となる。とりあえず、以下のことを思いつく。
1.どこかのホールで、私だけのためにYOSHIKIにピアノで『Amethyst』を弾いてもらいたい。 2.稲葉さんに目の前で弾き語りをしてほしい。 3.私の小説をたった一冊でいいから書籍にして、江國さんに解説を書いてもらいたい。 4.プロ(それも、一流)の方にメイクとヘアアレンジをしてもらって、自分では買えないような素敵な洋服とアクセサリーを見につけて……その恰好でどうしたいのかは分からない(汗)
ここまで考えて、はたと気がついた。 3番の場合、江國さんに解説を書いてもらうにふさわしい小説をまず私が書かなくちゃいけないのだ。そして何より重要なのは、この夢はテレビ局の力で叶えてもらうんでは意味がないということだ! これだけは、自分の力でそこまで到達しないと全く意味がない。 というわけで、3番は却下。 4番は、1番とも2番とも組み合わせられる。 YOSHIKIと稲葉さんなら……YOSHIKIの『Amethyst』がいいかな。 目の前で弾き語りをする稲葉さんなんて、それを落ち着いて聴いている私なんて、想像できないのだ。 小さなホールの真ん中で一人、『Amethyst』に涙する私なら、不思議なことに何となく想像できてしまう。ピアノはもちろんクリスタルピアノ。私はメイクも髪の毛もきちんとしてもらって、アメジストをあしらったアクセサリーを身につけて行く。服装は…『Amethyst』なら、透ける素材のワンピースがいい。演奏が終わると、私は深紅の薔薇の大きな花束を渡して、握手してもらう。手を握りながら、たぶん、「YOSHIKIの指って、本当に白くて繊細なんだな」と思うんだろう。そのあと、ものを創り出すということについて、二人でほんの少し語り合うことができたら素敵だ。「血を流しながら生み出す」ということについて。 それが叶ったら、その日のことは一生忘れない。
TBSのスタッフさん、私の横を通り掛かってくれないだろうか。そして、「あなたの夢は何ですか」と訊いてくれないだろうか。
高校時代の恩師から年賀状が届く。 この先生の字にはかなり特徴があって、一目で先生の字と分かる。丸文字で、筆圧が強い。 ちなみに、先生は男性である。顔は濃い。「ちょっと顔が薄いアラブ方面の人」と言っても通用するんではないだろうか。性格は真面目だ。顔が濃くて真面目で、しかし字は丸文字なんである。このギャップがかなり強烈だったので、黒板に書かれた先生の字を初めて見たときには、きっとクラス中が「おお!」と思ったに違いない。 とにかく、一度見たら忘れられない字なのだ。おもてには差出人の名前は書かれていなかったけれど、手書きの宛名を見ただけで「あ、T先生だ!」とすぐに分かった。
先生のお宅は、お子さんが二人とも受験生なのだそうだ。親としてやきもきしたりドキドキしたりしている様子が、短い言葉からでもよく伝わってきた。 けれども、こういうとき、私は親の立場ではなくて受験生本人である子どもの気持ちに思いを馳せる。私と直接関係あるのが親の方だとしても、だ。年賀状のあいさつ文を読んだ瞬間に先生のことは忘れ去って、受験期のあの独特の焦燥感や閉塞感や緊張感や重圧から来るストレスの塊を思い出した。 何事も、一番大変なのは本人だ。先生のお子さんたちも親の知らないところで悩んだり道が見えなくなったり周りからの期待に押しつぶされそうになったりしているのかなと思うと、「受験なんて終わってしまえばどうってことないよ。だから、人生賭けちゃだめだよ」とこっそり言いに行きたくなった。 自分自身を振り返って不思議なのだけど、受験の真っ只中にいるときって、どうして「この結果が全てだ、これで人生が決まる」みたいに考えてしまうのだろう。本当に大事なのは「希望が叶うかどうか」ではなくて、「自分のその後にどういう影響をもたらすか」なのに。
親と子がいたとき、私はできるだけ子どもの目線でいたいと思う。本当の意味で言葉を持っているのは大人だけだ。だから、大人は子どもに対して絶対的に優位なのだ。子どもの気持は子どもの方が分かるというのは当然かもしれない。でも、子どもの心情に寄り添ったり子どもをあるがままに受け入れたりするべきなのも、それができるのも、言葉を持っている大人の方だ。それなのに、世の中を見ていると、自分が第三者であるにもかかわらず親の目線でものを言っている人が圧倒的に多い。だから、せめて私だけは、と思うのだ。 普通に生活していれば、人間というのは過去をどんどん忘れていく。いつしか、子どもだった自分のことさえも。「大人になるにつれて親の気持ちが分かるようになってきた」というのは、それはそれで結構なことだし必要なことなのかもしれないけれど、それと引き換えに「子どもの自分」を忘れてしまうのでは、成長とは呼べない。 結局のところ、私は子どもだった自分を忘れたくないだけなのだろう。 あるのは、感情。ただ、それだけだ。いま生きている子どもたちやこれから生まれてくる子どもたちのことを真剣に想っているわけではないし、大人としての正義や道徳やヒューマニズムなんてものも、自分の本音を突き詰めれば、実はどうでもよいのだ。
| 2006年01月02日(月) |
飛躍したいときほど謙虚に、と。 |
昨日に引き続き、ひたすら映画を観る。またまた3本も観ちゃったヨ。 昨日観た『アナライズ・ミー』の続編『アナライズ・ユー』に、ジョニー・デップに惚れるきっかけだった『パイレーツ・オブ・カリビアン』(観るの、2回目だ)、ハル・ベリーがアカデミー主演女優賞を取った『チョコレート』。 『アナライズ・ミー』と『アナライズ・ユー』に出てくるロバート・デ・ニーロの腹心ジェリーは、ものすごくいい子分で、感動すら覚えた。ジェリーを主役にした映画を作ってもらいたいくらいだ。「裏切り裏切られ」が当然のマフィアの世界で、彼だけは何があってもずっとデ・ニーロについてきたのだ。しかも、支え方が決して目立たず、ちゃんと分をわきまえているのだ。なんていいヤツ!…マフィアにいいヤツも何もあったものではないが。 『チョコレート』でヌードを見せたハル・ベリーの体は、本当にきれいだった。無駄なものが何一つなくて、豹みたいに美しい。 そんなわけで、無事、DVDの返却期限(明日)に間に合った。めでたしめでたし。
ところで、今年の抱負……と言うよりは心構えみたいなものを考える延長で昨日今日とちょっと思うところがあって。 幸せなときは、得てして周りが見えなくなる。自分の幸福に浸ってしまって、大切にしなければいけない人たちの痛みに鈍感になりがちだ。そして、さらに始末に負えないのは、自分の幸せな空気を他人に押し付けようとすることだ。「ね、私、こんなに幸せなの。見て見て」と。 大切な人にいいことがあれば、その話を聞くのは嬉しい。けれども、自分が話し手となるときは、「私が聞かせたい私の幸せな話は、必ずしも誰もが聞きたいわけじゃない」ということを肝に銘じておかなければと思う。自分が幸せだからと言って、誰もが喜んでくれるわけではないし、誰もが感じ良く受け止めてくれるわけでもない。それは悲しいことでもなければ人間の心の狭さという問題でもなく、当然のことだ。そういうことへの想像力がないと、すぐ隣にいる人が抱えた事情に思いが至らなくて、他人を無用に且つ無自覚に傷つけかねない。 「他人のふり見て我がふり直せ」とはよく言ったもので、自分にもそんなことがあったなと思い当たることがあって反省した。風化させるには早すぎるけれど反省するには遅すぎる、そんな微妙に昔の話だ。 今年は、もしかすると転機が訪れるかもしれない。そうだといいなと願っている。何かがちょっとずつうまくいって、ここから脱出できたとしたら、その転機に有頂天になるあまり、周りへの配慮を忘れて他人を不快にさせることがないようにしなくては、と思った。そうでないと、主観的であれ何であれ、絶望を知っている意味がない。
新年あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いいたします。
家でひたすら映画を観る。 一本目は、ずっと前に録画してあったのを今更ながらに父が観ているので何となく付き合った『あぶない刑事フォーエバー』。観るの、3回目くらいだ。でも、何度観ても面白くて飽きない。 二本目は、去年録画したまますっかり忘れていた『ファム・ファタール』。ずっと「なんかよく分からん映画だな」と思いながら暇つぶし程度のつもりで観ていたのだけれど、終了約30分前の大どんでん返しにまんまとやられ、「うわっ、すごい! 何て面白いんだ!」とテンションが一変した。音楽が坂本龍一と書いてあったので少なからず期待するも、聴いてみるとラベルの『ボレロ』をアレンジしたものだった。 三本目は、年末年始の退屈防止に借りてきたDVDの中の一つ、『アナライズ・ミー』。お正月はこういう軽めの映画がいい…と言いつつ、予想外にちょっとじんわり来たりもする映画だった。『レナードの朝』を観て以来、ロバート・デ・ニーロが好きだ。特に、弱っているときの彼がいい! そしてそして、私はどうやら「精神科医もの」が好きらしい(どういう括りだ!)。『息子の部屋』や『パッチ・アダムス』なんかも好きだったし、今度『グッド・ウィル・ハンティング』も借りてくる予定なのだ。
なぜか毎年恒例となっているのだが、元旦の私のお昼ご飯は「シーフードヌードル」である。年末に食料を買い溜めするとき、「元旦用にシーフードヌードルを買っておいて」と頼んでしまうのだ、どうしても。カップラーメンの中では、あれが一番おいしいと思う。 そして、これまた我が家の不思議な習慣と化しているのだが、年末にはここ何年も続けてヨックモックのクッキーを買っている。年末に買うけれども、それは年内は開けてはならず、元旦に解禁となる。誰かがはっきりと決めたわけでもないのに、何だかそういうルールになっている。 そういうわけで、今年は『アナライズ・ミー』を観ながらシーフードヌードルとヨックモックを食べた。 そう言えば、年始に映画をがんがん観るのも恒例となっている。今年はDVD返却の都合上、3日までにあと3本観なきゃならんのだよ。ちょっと借りすぎた…。
映画を立て続けに観て、お腹もいっぱいになったあとは、私からは出していないけれど頂いた方への年賀状書き。たまには自分の手で字を書かないと、どんどん漢字を忘れていく今日この頃…。
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