月に舞う桜
前日|目次|翌日
| 2006年05月31日(水) |
雨の季節に色づくのに「陽」の字を持つ花 |
忙しければ忙しいで文句を言い、暇なら暇でブツブツ言っている我侭な桜井です、どーも。 今日は暇だったなぁ。何だかんだ言っても、暇=楽なので、ありがたいんだけれども。楽な上に、今日は運のいい日だったし。本当、運のいい日と悪い日ってありますね。私の今の仕事は特にそんな気がします。
まだ青や紫やピンクに色づいていない緑色のアジサイを、部屋に一輪飾っています。団地の脇に咲いているもので、母が枝を切って来ました。地味なんだけれど、これはこれで趣きがあって良いのです。控えめ、それでいて存在感があります。 アジサイって、切り取ったものでも色が変わっていくんでしょうか。変わりますよね? 自分の部屋で季節の移ろいを目の当たりにできるのは、ちょっと楽しみ。
きっと本当はヤワな人間なのだけど、ヤワな人間であることを知られたくはない。 きっと本当は泣き虫な奴なんだけど、涙なんて見られたくはない。 きっと本当は、ヤワなことも泣き虫なことも誰かに知っていてほしいのだろうけれど、自覚すれば弱くなっていくばかりだから本心には気づかないふりをする。本当に本当に知ってほしい人は、まだ私の目の前に現れていないんだし。 何だかんだ言って、たぶん私は自分のことを結構気に入っているんだろう。たまに、ものすごく嫌いにもなるけれど。 時間を追うごとに運勢が少しずつ下降していくような日は、人のちょっとした優しさや気遣いが身に染みるほどありがたい。そして私は、自分にとって大切な人だけ世界に存在していればいいのにと、ひどく身勝手なことを思う。 我が身に降りかかった些細な不運を振り払うように、夕暮れの道を疾走した。夏の気配をたっぷり含んだ風を受けながら、顔を上げて、時速6キロで。頭の中では、帰り道恒例、浜崎あゆみの『Too late』。 期間限定物に弱い私は、大事な大事なマンゴーゼリーで機嫌を直す。これで厄払いは完了。大きな果肉の入ったゼリーは、自然のおいしさが詰まっていた。疲れた体には、甘いものが効く。でも、人工の甘すぎる味は却って疲れを増すから、やっぱり天然の甘酸っぱさがいいんだ。
| 2006年05月28日(日) |
焦燥と絶望と、それらに勝る光 |
「いつまでこの生活を続けられるんだろう」と、「いつまでこの生活が続くんだろう」と、その両方を時々ふと考える。 この二つは似ているようでいて、まったくの別物だ。言ってみれば、前者は未来への不安と焦燥で、後者は現在への絶望だ。 本当のことを言うと、私はそこまで未来に不安を抱いているわけではないし、そこまで現在に絶望しているわけでもない。でも、心の奥底に薄っすらと、その二つの感情を確かに持っているのだろう。焦燥や絶望と言えば大げさだけれど、「生きていれば避けられないもの」という程度に、薄っすらと。生きていれば、不安も不満も付きものだ。それらから完全に逃れることはできない。
大切なのは、マイナスなものを抱えないようにすることではなく、マイナスなものを抱えつつ闇に沈み込まずに光を見出して生きていくこと。 この一年で、私は随分そのことを学んだように思う。
| 2006年05月27日(土) |
バロメータと楽しい誤解と |
※26日(金)分も更新しています。
昨日の仕事帰りはコンビニ2軒とスーパー1軒に立ち寄った。欲しい物があったからではなくて、一週間が終わった解放感を味わうのと気分転換のためだ。 コンビニでは、素朴な包装が却って大人の雰囲気を感じさせるクッキーや、食べ応えがありそうな大きさの、つるんとしたフルーツゼリーが目についた。スーパーでは、新発売のカクテルパートナー「シンガポールスリング」。文房具売り場では、かわいい子猫の絵葉書。 それらは皆、心惹かれるものだったけれど、結局何も買わないまま、いつもより30分ほど遅い帰宅となった。欲しい物を我慢している感じは全然なく、むしろ「今度行ったら買って来よう」と楽しみを先に取っておくことで、私はちょっとワクワクしていた。 体はものすごく疲れていた。でも、心はそんなに疲れていないみたいだ。私の場合、目についた物を無闇に買ってしまうのはストレスが溜まっている証拠で、心惹かれてもそれを次の楽しみに取っておけるのは、精神的に余裕のある証拠なのだ。
ゴールデンウィーク中、絵手紙の3回目の添削課題を送った。先生のお便りつきで返って来たのは、昨日のこと。 その課題で、私はお気に入りの靴を描いた。バランスの悪い絵になってしまったせいで、先生の目にはそれが子供用の小さな靴と映ったらしい。それで、お便りを読む限りでは、どうやら私は子持ちと思われているようなのだ。 本当の私は、独身で、もちろん子供もいなくて、最近は職場と家の往復しかせず、休日は絵手紙も碌にやらずにただ引きこもっているような人間だ。でも、先生の中に描かれている桜井弓月は、小さな子供を持つお母さんで、子供と二人でのんびり散歩を楽しみ、子育ての合間に趣味で絵手紙をやっている、そんな女性なのだろう。 180度違う人間像。こんな誤解は、ちょっと楽しい。絵手紙を通して相手がどんな人物であるのか想像してみるのも、きっと楽しいに違いない。
腰が痛いです。喉もちょっと痛いです。昨日から、左手に痺れまでは行かないけれど何だか違和感があります。でも大丈夫。いたって元気です。元気だからこそ、あそこが痛いここが痛いと日記に書いていられるのです。
コンポのCDを入れ替えるのが面倒で、今週はずっとジュディマリを聴いています。私のコンポにはCDチェンジャーがついていないのでね。今日は�召竜な�だなぁと帰り道に思っても、結局、入れっ放しのジュディマリを聴くことになるのでした。 『そばかす』で1日を終える日々は、なかなか気分がいいですよ。 しかし、なんて面倒くさがりなんだ……。
面倒くさがりと言えば。 職場の座席は一人一人ブースになっていて、あまり開けっぴろげという感じではありません。 それを良いことに、最近は昼休みにマイブースで化粧直しをするようになってしまいました。自分でも、女としてどうなのかと思います(そして、ネタにちょうどいいと思って日記で公表している点も、女としてどうなのか……)。 私の席も車椅子用のトイレも1階にあります。ほんのちょっとの距離なのです。それでも、トイレに行くことすら面倒くさい……って、ほんと終わってるよ、自分! 4月は5階で研修していたにもかかわらず、ちゃんと1階まで下りて行って化粧直ししてたのになぁ。何なんでしょう、この変わりようは(人はそれを「慣れ」と言ふ)。 ブースになっているとは言え、私の席は通路側なので、誰か通りかかったら思い切り見つかってしまう。ちょっぴりスリリングな時間☆……って言ってる場合じゃない! さすがに、アイライン引いたりマスカラつけたり(←人様には絶対見せられない顔になる行為)はしませんが。
女としてどうなのか、と言えば。 休憩時間外でトイレに行くときは、研修指導に来ている親会社の社員に一言声を掛けます。 夕方、喉が痛くてうがいをしたかったので、ちょうど手も空いたことだしトイレに行くことにしました。近くにいた女性SSVにちゃんと断わってから行きましたよー、「トイレ行ってきます」って。 ……いや、ちゃんとした女性なら「お手洗いに」って言うと思うのですが、どうでしょう桜井さん。ちょっとした一言に品格というものが表れるのですよ桜井さん。
来週からは、きちんとお手洗いに行ってお化粧直しをしたいと思います。おほほのほ。
| 2006年05月22日(月) |
脱自、そしてただの名もなき女に。 |
アイデンティティって何なのだろう。与えられたもの? 押し付けられたもの? 自ら選び取るもの? 受け入れるべきもの? 難しくて、結局のところ私は分かっていないのかもしれない。 ブラインド越しに、よく見えもしない外を眺めながら、ただの25歳の女に戻りたいと思った。それ以外の一切の身分も肩書きも立場も剥ぎ取って。名前すらも、今は捨てたって構わないから(名前には、身分や肩書きや立場がついてまわる)。 心のどこかが確実にもやもやしているのに、原因を突き詰めれば自分や他人を否定することになりそうで、あまり深く考えないようにした。 受け入れてないなんてことは、ない。だって、もう25年と11ヶ月も「私」として生きて来たんだもの。でも、受け入れているのに、他人に「その」視点で自分という人間を見られることを拒否しているのは、どうしてなんだろうね。 以前みたいに、怒りやかなしみがあるわけじゃない。そんなものは、まったくなかった。ただ、不思議だったんだ。いつまで経っても、何を手に入れても、こんなに頑なであり続ける自分が。
帰り道、高校生カップルの自転車が私を追い越していった。力いっぱい自転車をこぐ坊主頭の男の子は何だか頼もしく見えたし、犬(たぶんパピヨン)を抱いて座っている彼女はキラキラと楽しそうだった。 二人の後姿を見送りながら、若いなぁと思う。 理由もなく、ただ何となく、でも確かに、今の私が欲しているものの象徴のような気がした。私にとっては、名もなき二人の高校生。 私だって、その気になればいつだって「名もなき者」になれるのだろう。余計なものはすべて脱ぎ捨てて、ただキラキラと笑う25歳の女に。
アイデンティティはとても大事なものだ。でも、ときどき鬱陶しい。そして、邪魔になったときは、簡易的に捨てて置いておいてもいいのかもしれない。
| 2006年05月20日(土) |
でも、ゲームが楽しいから、まぁいっか。 |
久しぶりの青空。でも、いつもの休日と同じく、引き篭もっているわけですが。「もったいないなー」と思いながらもね。そんでもって、パソコンでゲームなんかやっております。晴れた日に家でゲーム……うわー、25歳のうら若き乙女(自分で言うな!)の休日とは思えん。 そして休日は、1日の終わりがひどく悲しい。もっと満喫したいのに! と思いつつ、今日も早寝予定の私です。
上に立つ人間であればあるほど、謙虚であれ。 誰かが言った言葉かもしれないけれど、本当にそう思います。
| 2006年05月17日(水) |
そう言いつつ、帰宅早々ポテチを食べている矛盾だらけの女 |
「全国的に歩きタバコを厳しく取り締まってほしいぞ委員会」会長の桜井です、どーも。 だってさ、通勤中、前を歩く人の持ってるタバコの灰が風に乗って飛んで来るんだもの。こっちは白系の服だっつーの。朝から頭に来るっつーの。 しかも、だらんと下げた手にタバコを持って歩かれると、私の場合はちょうど危ない高さにタバコの火があるのだよ。近くを通るとき、ちょっとヒヤヒヤする。あれは小さい子にとっても非常に脅威だと思うよ。危ない危ない。
職場で、ちょっとした物書きチックな仕事を頼まれている。いや、250字程度で文章書いてね、というものなので、「物書きチック」ですらないかもしれないけれど。それにしても、なぜ私に白羽の矢が立ったのか、いまいち不思議なのだ。履歴書の趣味欄でも見たのか? それとも、単に一番年下だからか? 250字くらいなら喜んで書きますがね(いや、面倒と言えば面倒だけど)。それはそれとして、給与明細を見た瞬間に少しばかり仕事のやる気が失せた桜井なんですが、どうしましょう。 厚生年金って、毎月あんなに取られて、65歳になったら本当に支払われるんだろうか。厚生年金は要らないから、その分を財形貯蓄に回した方が将来のためには余程いいんじゃないかと思う今日この頃。
とりあえず、目下の課題は太腿についた肉をどうするかですよ。 何か最近やばいんだなー、このセルライト? セルロース? お昼に食べてる仕出し弁当に、必ず一品は脂っこいものが入ってるんだもの。困っちゃうよね(でも、食べる人)。
『トリック』を観ていた人にしか分からない話で申し訳ないのですが。 上田教授の『どんと来い、超常現象』を同僚に借りてしまいました。買って持っている方も持っている方だけど、借りる方も借りる方だわな。受け取るとき、周りの人に目撃されてちょっと恥ずかしかった……でも、いいんだ。これを読んでストレス解消するんだもん!
ところで、毎日何を着て行けばいいか悩みます。今の時期って気候が微妙な上に、洋服をたくさん持っているようで持っていないんですよね。でも、たくさん持っていないようで実は持っていたりもします。どっちやねん!
職場から資料を持ち帰ったは良いものの、整理し始めると収拾がつかなくなり、途中で嫌気がさした。電子化のこの時代、何でこんなに書類が多いんだ! 辟易しながらも何とか整理したのだけれど、ほしかった資料は手元にないことが判明……。自分で作る気にもならず(と言うか、資料を作るための資料を持って帰っていないんだもの)、何のために重いファイルを持って帰ったんだか。 と言うわけで、明日また、この重い資料を持って行かねばなりません。はひー。
そうそう、夏休みまでに小説を2本アップ! とか言ってみるテスト。でも、ここを読んでくれている人は、きっと誰も信じてないだろうなぁ。だって、私自身が信じていないんだもの。 じゃあ言うなよ! ってか? いや、人に言うことで自分を追い詰めて行くタイプだからさ。 こんなことばっかり言ってると、そのうち狼少年になっちゃうぞ<私 「また桜井ができもしないこと言ってるよ」と思わせておいて、陰でこつこつ頑張りたいところ。頑張りたいんだけどなぁ。
今週はずっと日記を書けませんでした。すみません。別に仕事が忙しいわけじゃないけれど、何だか精神的にバタバタしていました。 日々、些細なことでもいろいろ思うことがありますね。一つ一つを忘れないように日記の形で残していきたいのだけど、いざ書くとなると面倒になって、思ったり感じたりした瞬間の鮮やかさが薄れていってしまいます。それが時にはかなしくも残念でもあり、でも、そんなに悪いことじゃないとも思うのですよ。永遠なんてものはないし、なくていい。色褪せていくからこそ、「いま」は美しいんだもの。 とか何とか言いつつ、一週間を振り返ってみます。
月曜日 教育基本法の改正案のニュースに首を傾げる。個人の権利や自由が尊重されるあまり公共の精神が失われている、と言うけれど、本当にそうなんだろうか。そもそも、いまの日本社会で、個人の権利や自由は本当の意味で尊重されているんだろうか。様々な事件でたくさんの子供が犠牲になり、年間の自殺者が3万人を超え、格差が広がりつつあると言われるこの社会で? 個人の権利や自由はそれぞれが自分勝手に主張するものじゃなく、尊重「し合う」もの。「個人」というのはさ、自分のことじゃなくて、自分も他人も含めた一人一人のことなんだよ。公共の精神とは、個人を尊重し合うためにこそ必要なものだと思う。最初から一人一人が尊重されているのなら、公共の精神なんていう言葉をわざわざ持ち出す必要はない。でも、残念ながら、放っておくと私たちは他人のことなんて顧みずに好き勝手にやってしまう。だから、「公共性」や「社会のルール」という言葉で個人の尊重を促しているのではないの? 公共の精神が失われたら、それはどこかで誰かが泣きを見ているということだ。それじゃあ、個人の権利や自由が尊重されているとは言えなくなる。もし、昔と比べて公共の精神が失われているという見解が正しいのなら、それは個人の権利や自由が尊重され過ぎているからではなくて、逆に、本当に個人が正しく尊重されていないからなのでは? 「尊重」に「され過ぎ」なんてことあるわけないじゃない。意味を履き違えていることはあるとしてもね。 「公共の精神」と「個人の権利や自由」を相反するものを考えること自体、教育の根本思想として間違っていると思うんだけど、どうなんでしょう。公共性という言葉が悪用されて、どんどん生きづらい社会になるのはご免だ。
火曜日 カウンセラーもオペレーターも基本は同じだということを再認識する。両者とも、つまりは手助け(問い合わせに答えることも広い意味での「手助け」であるとすれば)を求めている人とのコミュニケーションが仕事なのだ。コミュニケーションで最も大切なのは、自分が何を話すかではなく、相手が自分に何を伝えようとしているかをいかに理解するか、ということ。相手が言いたいことを受け止めて理解しなければ、自分が何を話すべきなのか判断できるはずがない。
水曜日 職場に来た業者さんに、ちょっとときめく。脚立を抱えてフロア内を颯爽と歩き、手際よくエアコンのフィルターを換えて回る。男の人が体を動かして働く姿は恰好いい。汚れた作業着さえ、「働く男」の魅力を引き立たせるアイテムの一つになる。 しかし……ほんの数分いただけの顔もそれほどよく見たわけではない人にときめくなんて、何だか末期症状ではないかしら。女ばかりの職場というわけでもないんだけれどなぁ。でも、若い男の人がほとんどいな……(以下自粛)。
木曜日 帰り道、雨上がりの湿ったにおいに包まれながら、すべての人よ幸福であれ、と思う。木曜日だから疲れているし、空気は少しべたべたしていて快適とは言えなかった。でも、雨上がりのにおいが好きな私は、悪い気分じゃなかった。 本当にたまに、「世界中のすべての人がこの瞬間に幸せでいますように」と願うときがある。私は人を憎むし恨みもする。でも、そんな感情はどうでもよくなって、ただ誰もが幸せであってほしいと強く思うときが確かにあるのだ。それはちょっとした心の持ちようなのかもしれないし、いろいろな条件が重なって起きる奇跡的な自然現象のようなものかもしれない。私が分かるのは、自分の中で物事がうまく回っているということ。 愛する人たちや私を愛してくれている人たちはもちろん、かつて愛した人も、かつて私を愛し、そして離れていった人も、私を愛さなかった人も、私が傷つけた人も、私を傷つけた人も。それから、まったく触れ合わずにいる、どこかの誰かも。どうか、すべての人が幸せを感じていますように。それがたった一瞬の自己満足に過ぎなくても、私はそう願った。 誰かをとても大切だと思う瞬間は、そこでいったい何が起こっているのだろう。人は、何をきっかけに他人をとても大切な存在だと感じるのだろう。たぶん、些細なことなのだ。些細なことで、人は人を大切に思い、また憎みもする。 それが愛情なのか友情なのか、それともただの仲間意識か隣人愛か、そんな名称はどうでもいい。大事なのは、大切に思える人が確かにいるということだ。
金曜日 マズローの「欲求5段階説」について考える。 3段階目は「所属と愛の欲求」となっているけれど、愛し愛されたいという欲求は、もっと細かく分類・階層化できるのだろうか。家族や友人や仲間に対する愛情欲求と(異性愛者の)異性愛欲求は質が違うし、互換性がないと。友達だけじゃ充たされないけど、恋人だけでも充たされない。一口に異性愛欲求といっても、「誰かに愛されたい」と「あの人に愛されたい」ではまた違う。それらは、階層化されるものなのか? いや、私の感覚だと違うな。友達への愛情欲求が充たされたから次は異性として……なんて段階を経ているわけではないもの。 愛情欲求。不思議だ。生理的バイオリズムとも関係あるし。 たまにこうやって無駄なことを考えたりするのが、結構好きらしい。
今日 朝から雨。『王様のブランチ』で『パイレーツ・オブ・カリビアン�供戮陵醜霾圓魎僂襦A衒僂錣蕕坤献腑法次Ε妊奪廚漏羚イいぁ�私はオーランド・ブルームよりジョニー・デップ派なのだ。 片づけをしたり、産業カウンセラー協会の会報を眺めたりしていると、あっと言う間に時間は過ぎていく。こうして今週末も何もせずにだらだらと終わっていく予感。でも、いいのだ。無駄こそ豊穣なりと、誰かが言っていた。
※6日(土)分も更新しています。
5日間も休みがあったのに、もう終わってしまう! でもね、「明日からまた仕事でやだなぁ、ブルーだなぁ。しばらくは連休もないし」と思ってたけど、よく考えたら連休前と同じ日常が戻ってくるだけの話で、連休前と同じことを明日からまたすれば良いわけで、それならどうってことはない。と思うようにする。
毛布やタオルケットが好きだ。裸でそれらに包まるのは、特に好き。 裸で毛布やタオルケットに包まっているとき、連想するのは大人の甘やかな時間ではなくて、子供の無邪気で無謀な安心感。自分が、子供じみた感情に戻っていく気がする。 でも、例えばそれが大人の甘やかな時間で、となりに恋人と呼べる人がいるとしたら、私は裸で毛布に包まりながら、大人の顔と体と頭の裏に子供じみた感情を隠し持っているんじゃないだろうか。 裸になることは、自分を危険にさらすこと。自分を危険にさらし、なおかつ安心感を得ているとき、それが大人でも子供でも、根底で感情は繋がっているのだと思う。 夜眠るとき毛布がいらなくなり、布団も薄いものに替えて、ふとそんなことを考えた。
起きたら、と言うか、業を煮やした母に起こされると、10時だった。 味噌汁と残り物の炊き込みご飯でブランチに近い朝食を済ませ、昨日録画しておいた『ゲロッパ!』を観る。それが終わると、ちょうど『トリック』の再放送をやっていたので、引き続きテレビの前に座って観る。小腹が空けば、クラッカーをかじったりして。 ゴールデンウィークは新しい環境にも慣れて疲れが出る頃にやって来るのでありがたいけれど、5月病の引き金にもなると思う。連休はある種の非日常だから、そこから日常へ戻るときに労力がいるのだ。 寝過ぎてぼーっとした頭と、連休疲れの体(連休というのは、どうして疲れるんだろう)。それから、あっと言う間に休みが終わっていくことのかなしさと、社会復帰への気の重さ。自分が現実世界からちょっと浮遊していると言うか、隔たっている感じがした。体全体がぼんやりして、外界の時間の流れに馴染んでいないのだ。非日常の、非現実感。この気分が休み明けまで続くときっと5月病になるんだろうなと思い、テレビをやめて音楽にする。テレビはときどき、非現実感を増大させる。 こういうときは、B'z。『ZERO』とか『Liar! Liar!』とか、『BE THERE』とか。 しばらくすると、頭の中の薄い霧が晴れたように思考がクリアになって、体もすっきりした。大丈夫、世の中に地面に時間に、私はフィットしている。
| 2006年05月05日(金) |
多摩川を越えて、思う |
※4日(木)分も更新しています。
都内に住んでいる友達と食事するため、電車に揺られること約1時間。前にも書いたけれど、多摩川を越えると私にとっては遠出になる。東京はやはり遠い。でも、徒歩通勤ですっかり行動範囲の狭くなってしまった私は、久しぶりの遠出@東京進出がちょっぴり嬉しかった。たまになら、自分のテリトリーを抜け出すのは気持ちが良い。 東京と横浜。近いようで、あまり近くはない距離。いつも会う場所を決めるのに悩むので「何で東京に住んでるのよー」と文句を言ったこともあったけれど(以前は彼女も横浜に住んでいたから、余計に)、友達に会うことでもなければ東京なんて(町田なら行くけれど23区は)めったに行かないので、いい機会なのだ。横浜に住んでいると、たいていのことは市内で事足りてしまう。
食事の場所を決めていなかったので、ふらふらと探して歩いていた。とあるビルに入ると案内板に食事処の名前がいくつかあったので、エレベーターで向かった。が、しかし! 何とフロア中の店が休みだった! ゴールデンウィークなのに、何てことかしら。オフィス街のビルって、こんなことがあるので恐ろしいですね。路頭に迷いかける私たち。 幸い、そのあと少し歩くと、開店していて私も入れるお店が見つかった。方向音痴の私は、どこがどこやらさっぱり分からないけれど……。 料理はかなりおいしくて、本当にものすごくお腹いっぱいになった。ここ最近、おいしいものを満腹になるまで食べて、ただじっと座って喋っているだけのことが多い。絶対に摂取カロリーと消費カロリーのバランスが取れていないなと思いつつ、それでもデザートは食べてしまう。ビバ、女の「デザートは別腹♪」! そうそう、友達が教えてくれたのだけど、食事処には珍しく車椅子用のトイレがあった。素晴らしいね。入ってないから使い勝手は分からないけれども。
たくさん食べてたくさん話すと、帰るのが面倒になる。それは、東京にいても自宅の隣駅にいても同じだ。下手をすると、自宅から歩いて10分のファミレスにいても帰るのが面倒でしかたなくなる。 でも、えいやっと乗ってしまえばあとは電車が運んでくれるので、実際はたいしたことないのだ。 帰りの電車で文庫本を読みながら、少しお酒の入った頭で「美しさ」というものについて考えた。友達にもいろいろなタイプがいるけれど、どの友達に会っても、会った直後の私は「私も美しい人間になりたい」と何となく思う。そう思わせてくれるから、私はきっと彼らのことが好きなのだ。友情には、程よい尊敬が不可欠だ。まったく尊敬していなければ友達だなんて思えないし、尊敬の念が強過ぎると、おいそれと友達とは呼べない。 美しくありたい。できれば、内面も外面も。 いつか、「美しい人」について書きたいと思った。それから、多摩川を越えるときの景色も、小説に書いてみたい。 それから、ここが一番大切なところかもしれないけれど、少しずつ少しずつ、私たちはきちんと成長しているような気がした。25で、今年中に26になる私たち。
パスタとサラダとデザートだけで5時間半近く居座ってしまった。3時間くらいの感覚だったのに気がついたらそれだけの時間が経っていて、皆で心底驚いた。よくそんなに話し込んだものだ。 友人と一口に言っても、いろいろな時代のいろいろな立場の人がいる。小さな子供の頃から互いを知っている人、「多感な青春時代」というやつを共に過ごした人、互いに人格形成された大人として知り合った人。「私」という人間は一人でも、それぞれの時代の友人たちを話すとき、私の心のあり方も話す内容もさらけ出す部分も見せる顔も、少しずつ違う。どれが本当でどれが嘘ということではない。どれが私らしくてどれが私らしくないということでもない。私の中での友人たちの位置付けや彼らに見せる顔が少しずつ違っても、誰と接するどの時間もそれぞれに大切だし、それぞれに違った重みと意味がある。 今日、私は初心に返った。本当に初心に返ることができたのかどうかは分からないけれど、初心に返る必要があるとも返りたいとも思った。私の職業は産業カウンセラーではないけれど、少なくとも私は有資格者なのだ。だから、もっと人の話をきちんと聴けるようになりたいし、聴くことで役に立ちたい。でも、「うまく聴かなきゃ」と心が構えていては、聴けない。何も構えずに、まっさらな気持ちで耳を傾けること。そして、真っ直ぐに受け止めること。それを本当に心から「できた」と思えるようになるには、まだまだ時間がかかるのだろう。
ゴールデンウィーク真っ只中だけあって、横浜駅はいつも以上に混んでいた。駅のエレベーターには人がずらっと並んでいて、なかなか順番が来ない。 私の前にベビーカーが3台いる状態のとき、整理係の人が私に「お先にどうぞ」と言った。エレベーターというのは車椅子ユーザーだけのためのものではないし、優先順位で言えばベビーカーも同等だと思っている。だから一度は「ベビーカーの方も待ってらっしゃるので」と遠慮したのだけれど、係りの人は何度も「こちらに」と言う。何度も固辞するのも却っていたたまれないので、申し訳ないなぁと思いながら前に行かせてもらった。 困るんだよねぇ、こういうの。何が何でも車椅子優先! 見たいな風潮、誰か一斉に改めてくれんかね。先に行かせてもらうとき、ベビーカーを押すお母さんたちの視線に肩身が狭くなって、別に何も悪いことしてないのに「申し訳ない」と思って小さくならなきゃいけないあの感覚。 私は順番は守る主義なんですよ。それが社会ルールというものだと思うし、何より、私は周りに「ちゃんとした人」と思われたいのよ。「車椅子だからってずうずうしい」とか絶対に思われたくないのよ。 と言うか、あのエレベーターがもう少し広ければ、皆があまりイライラせずに気持ちよく使えるんだけどね。
| 2006年05月03日(水) |
春だから、おいしそうな色 |
5連休の初日と言うことで、心置きなく朝寝坊。がしかし、寝すぎて頭が痛い……。せっかくの連休だから、あれもやりたいこれもやりたいと思うのだけど、ぼーっとしてる間に時間はどんどん過ぎていって、気がついたら夕方になっている。 今日は何をしたっけ……そうそう、産業カウンセラー関係の講座情報を眺めたりしていたんだ。資格を活かせるようにステップアップするためにも継続学習はしたいと思っていて、いろいろ講座に行きたくなってしまう。でも、あまり張り切りすぎて土日に勉強に出かけると、疲れて仕事に支障が出るかもしれない。それじゃあ何にも意味がないので、気持ちをセーブする。いっぺんにあれこれ勉強しても、身につかないし。それに、講座ってお金がかかるんだよなぁ。年収の3%をキャリアアップのために使いなさいって、誰かが言っていたけれど。
それから、髪をアプリコットショコラに染めた。2年前に染めたきり放置していたら、すっかり黒くなってしまっていたから。上の方と前髪は結構明るくなったけれど、下の方はあまり染まってないなぁ。ちょっと残念。でも、自分が少しでもイメージチェンジするのは気分がいい。
| 2006年05月02日(火) |
プライドという名の自己防衛 |
研修で過去の対応事例などを聴かせてもらうのだが、ネタとして面白いものに出会ってしまう。実際の業務に入ったら、ここで取り上げたくなるようなネタはもっと増えてくるだろう。でも、業務の性質上、あまり書けない(書いてはいけない)のが残念だ。本当に残念。 歓迎しかねる人、こちらに敵意を持っていて何らかの危害を加えてくるかもしれない人が現れたとき、私はその相手を恐れる代わりに見下すことで、自分を守っているらしい。愛する人たちや尊敬している人たちのことは対等と言うより自分より上の存在として見ていて、彼らには真摯に誠実に、言葉も心も尽くしたいと思う。でも、自分の中で一度見下した人間は、もう徹底的にランクを下げる。「こんな人を相手に、自分が真剣になる必要はないな」と思いながら、その気持ちを悟られないように笑みを浮かべる。私は今までもそうやってきたし、今もきっとそうなのだろう。これから先のことは、分からないけれど。 心の中で他人を見下すのは自己防衛のためなのだと、今日やっと気づいた。何からの防衛かと言うと、プライドを傷つけられることからの。やはり、私はまだまだ下らなくて薄っぺらなプライドを捨てられないようだ。 恐れを自覚できて、それを外に表明できるのは、一つの強さだ。本当は恐れているかもしれないのに見て見ぬ振りをして、代わりに見下しては鼻で笑うのは、自分が弱さを抱えていることの証。 でも、「下らない人間になめられてたまるか」と思って余裕を見せることで、私は生き延びてきた。そうしなければ生きて来られなかったのかどうかは今となっては分からないけれど、そうやって精神的に生き延びた時期があったことは確かだ。たくさんの人たちに支えられてきたことは言うまでもないけれど、自分で自分を守ってきたことも紛れもない事実なのだ。だから、私は今までの自分のやり方を否定しない。明日になったら、否定するのかもしれない。これから先は、やり方を変えるかもしれない。けれども、少なくとも今日は否定していない自分がいる。 私はときどき、自分が持っているプライドを本当に下らなく思う。でも、捨てられないし捨てたくない。
| 2006年05月01日(月) |
LOVEでもLIKEでもなく |
※4月30日(日)分も更新しています。
その人への気持ちを動詞で言い表すとき、LOVEでもLIKEでも完全には説明できない人がいる。 LIKEは、確かに正しい。でも、それ以上の特別な何かがある。 恋愛感情の意味でないなら、LOVEも正しいのかもしれない。でも、ちょっとしっくりこない。 RESPECT? そうかもしれない。でも、これも少し違うかもしれない。 例えば職場からの帰り道、暖かい風に吹かれて町を見下ろしながら、ふとその人を思い出す。悩んでいるわけじゃない。迷っているわけでもない。でも、導いてほしいと思う。私の心の道しるべでいてほしいと思う。ひそやかに、それでいて切実に。それは、私の勝手な願いだ。その人は、私のLOVEでもLIKEでもない気持ちを知らないし、知る必要もない。 出会っていなければ、私の人生は大きく違っていただろう。もしかすると、私は今ここに生きていなかったかもしれない。私にとっては、それほどの出会いなのだ。そんなふうに言い切れるほどの出会いを、一生のうちにどれくらい経験できるのだろうか。きっと、そんなに多くはないと思う。人との出会いはどれも貴重で特別で大切なものだけれど、それでも。 私は、その人みたいになりたいと思った。誰かにとっての、LOVEでもLIKEもなく、けれども心の支えであるような、そんな人に。 いつか、胸を張って会えるといい。実際は、もう二度と会わない可能性のほうが高いけれども、胸を張って会いに行けると思えるように成長したいんだ。
|