蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 KILL TIME

たっぷりとしたフリルリボンのついたヘッドドレス。
すいてもさらさらと落ちる自慢の髪。
夜の子猫みたいな大きな瞳はとてもきらきらとしていて、血管まで透けちゃうような白い肌と対照的に黒い。
柔らかそうな唇に乗せた後頭葉みたいな赤が薄く微笑んで。

なんて魅力的。

鏡を覗き込んだあたしの視界には、そんな自分が映り込む。
うん、今日も最強に可愛い。
春めいた爪のパールピンクと胸元に付いた同色のリボンが似合いすぎて、うっとりしてしまう。
それくらい、今日もあたしはこの世で一番の美少女だと思うし、それは覆りようも無い事実。

けれど、そんな最強の美少女のあたしでも、勝てないものが一つ。

「ねー」

「……」

「ねーってば」

「……」

それは、『暇』という物凄く厄介で厄介な、天敵なのだ。

先週はゴタゴタして死にそうだった――比喩じゃなく死にかけた――けど、今週は南の島以上に穏やかな日々ばかりが続いてる。
最初は楽しかった。
買い物へ出かけては思う存分買い漁って、着飾って、朝になるまで遊んで。
でもそれも三日も過ぎれば、いつもの事だけど飽きた。

ベッドの上に、ごろりと転がる。
ふわふわしたスカートが足に纏わりついた。
ぺちゃんこになっちゃうかも、と思ったけど。
今日着たら明日には着ないんだから、どうって事ない。

「ねーってばっ、聞こえてんでしょ、無視しないでよ」

「うるさいな、アンタは」

服の裾を掴んで強く引っ張ろうとしたところで、義正が面倒くさそうに振り返った。

鎖骨までまばらに伸びた黒髪に、凛とした顔立ち。
そして潤みがちのくせして冷たい色をした目。
華奢で頼りなさそうな体躯は、あたしとたいして変わらない。
急に振り向く度、女の子かと見紛うのはいつものことでむしろ気にならなくなった。

ややこしい容姿をした奴。その程度の認識。
可愛さならあたしのほうが断然上だし、と言えば、義正は冷めた目で溜息を吐いた。

「んで、何。さっきからぎゃあぎゃあ煩いんだけど」

「何よ、聞こえてんじゃん。ならさっさと返事しなさいよね」

「…アンタの用事なんて、たいていロクでもないから関わりたくないんだろ」

「なによ、その、他人事みたいな言い方」

ベッドの上に横たわっていた体勢を起こす。
床に座っていた義正を自然と見下ろす形になって、満足する。
この位置関係は、とても正しい。
だって、あたしは。

「他人だろ」

何を今更、とでも言いたげに義正は眉を寄せ、床に座って読んでいたらしい分厚い本にまた視線を落とす。

「違うよ」

「…何で」

面倒臭いって思っている事を隠そうともしない、生意気な態度はむかつくけど。
今日は特別に許してやるか。

「他人なんて同等みたいに言わないでよ。ご主人様と犬だよ、あたしと義正は。他人どころか主従だもん、立ち位置が違うんだから測るレベル自体、最初からおかしいのよ」

一気にまくしたてて、舌を出せば、相手は本から顔も上げずに「意味、ズレてる」と小さく答えた。

「うーるーさーいー。そんなハナシがしたいんじゃないの。あたし暇なの、暇。それをどうにかしてよ」

そう。今日は一日暇で暇で仕方がない。
この穏やかでたおやかで麗らかな昼下がりの午後、みたいな空気は嫌いじゃあない。
でも今日はそんな気分じゃないのだ、あたしは。

「アンタなあ、」

さも迷惑そうな表情を崩さずに、相手はあたしを軽く睨んだ。

「だってしょうがないじゃん、暇なんだもん」

「じゃあ寝てろよ」

「バッカじゃないの。そんな貴重な青春の一ページを無駄に破り捨てるような真似、なんでしなくちゃなんないの」

「……正気で言ってるのか?」

「あー、もう、うるさい。ちゃんと払うものは払う、それならいーでしょ」

その言葉に、義正が目をこちらに向けた。
さっきとは明らかに違う、ある程度にあたしを意識した目。
斜めにしていた体を戻し、ゆらりと立ち上がる。
着崩れていたシャツをきちんと羽織って、足音は勿論なくて。
現金な奴。

「じゃあ行く」

「どこへ?」

さっさと玄関へ向かう小柄な体を目で追いかけ、呼び止めた。

「ミステリーツアー」

靴を履き終えた義正が振り返る。

「ミステリーって。何すんのかわかんないじゃん」

「それでいいんだよ、暇なんだろ、早く用意すれば」

「用意って何を用意したらいーの」

服装のチェックは終わったし、お化粧のノリも問題ない。
何も持っていない両手を広げ、首を傾げた。
必要な物。なんて、咄嗟に浮かばない。

「ガムとナイフと銃があれば充分」

「現金は?」

「必要ない。それを調達しに行く」

軽く伸びをした義正が、欠伸を噛み殺したような顔で楽しそうにそう言った。
釣られたように、あたしまで笑顔になる。
そうそう。そういうのを待ってた。そんな感じ。

どこへ襲撃に行くんだろ。
官邸か?いやいやあんなとこにお金なんかないな。
でも一回くらいあそこで銃乱射とかしたら、楽しそうなんだけど。
今度、提案してみようかな。

ガムを一つ放り込んで、ゆっくりと噛む義正が、玄関に座り込んだ。
白い肌に映える赤い首輪が、黒髪の合間から見えて。
当てはあるのか、思考中みたいな表情じゃない。

資産家、銀行、楽しければどこでもいいけど。
昼日なたに小さなトランクを引っ張りだし、春の陽光以上にほわほわした気分。
さて、今日はどれだけ餌食に出来るか。

それを思うだけで、あたしの心はわくわくした。

【END】

**********
KILLTIME。暇潰し。
別サイトでかつて掲載していた「犬と殺し屋」の主人公たち。
設定を考えるに近未来になるのでしょうか。

2008年07月24日(木)



 「夢」(篤史+泉)

駅から徒歩、十五分。
地上一階分階段を上りきった正面にある、一面硝子の扉。
外観は悪くない。黒とオレンジを基調にしたデザインは、寧ろ洒落てると思う。

人通りが少ないこの沿いで、ある程度客を確保出来るのは、それなりに宣伝効果が上がってきたせいだ。
何とか足を運んでもらう。それが第一段階。
その次は、どれだけ値段に見合った手技と満足を渡せるか。
一人前には程遠い。俺自身はそう思ってる。
ただリピート率が高い事は、少しばかりの自信に繋がるようになってきた。

座った客の頭の高さを平均にして、上壁は硝子張り。
客は視線を感じさせず、立ったままのスタッフのみが外から見える。
縦長になる店内は、広くは無い。
五人のスタッフが各自の仕事に従事するためには、ぶつからないように動き回るにも技がいった。

休業日にシャッターを開けて、雑巾片手に店内を見回す。
昨夜居残ったチーフのおかげか、既にかなり綺麗に清掃されていて、あまりやる事は無いように思えた。

「何、ぼうっと突っ立ってんの」

背中に走る掌の感触。
それはすぐに離され、泉さんはさっさと扉を開けて中へと入って行った。
今週は泉さんと俺と、もう一人が清掃担当になっている。
…だった筈なんだけど、そいつは体調不良とかで来れないと連絡があったのがさっき。

嘘くさいったらありゃしない。

梅雨時期に珍しい晴天、それに休日が重なれば時間外勤務になる掃除なんて、誰だってやりたくないのは本音だ。

なのに、泉さんは「お大事にね」なんて笑みまで浮かべて電話を切るもんだから。

「休むって連絡入れた時の態度の差が俺の時と、すげえ違う気がするんですけど」

言外に皮肉を込めた台詞に、華奢な背中は答えてはくれなかった。

「あぁ電気付けないで、先にライト拭いて欲しいんだけど」

薄く笑みを浮かべ、こちらを振り返る。
巻いた髪が、鎖骨の辺りで揺れるのが妙に扇情的だと思った。
それらを眺めながら、気怠く頷き返せばまた笑われた。

「変な所で根に持たないでよ」

「持ってないです」

俺は多分、感情が表に出やすい。
面白がったような泉さんの表情を見ていれば、鏡で確認しなくてもよく分かった。

「だって、ほら。あの子、多分もう辞めると思うし」

「あの子?」

「佐々木くん」

佐々木。
さっきの電話の主。
そして半年程前に入って来た新人でもある。

「あたし、向上心の無い子には手を掛けない主義だから」

「案外放任なんですね」

「努力家には手塩を掛けるよ」

唇の合間から歯を見せる笑い方は、子供っぽいけれど泉さんがやると悪くない。

「じゃあ、俺は芽がある?」

わざと配管を剥き出しにしたままの高い天井を見上げ、素直な感想述べる。あのライトを拭くには、脚立がいるな、と周囲を見渡せば驚いたような顔をした泉さんと目が合った。

「何? びっくりした顔してる」

時々、無意識にぞんざいな口を利いてしまう。
いつもはその度に注意を受けるのだが、今それを言われることはなかった。

「するよ、そりゃ。なに、杉本くんは自分は芽が無いって思ってた?」

「そーゆーのって自分で判断するもんなんですか」

昨夜使ったのか壁際に置いてあった脚立を運び、また天井を見上げた。
大きなメインライトは四つ。

「するものだよ、自分で。俺は人よりずっと出来るぞって。だからこれくらいはって当たり前に出来るようになるじゃん。まあ、自信家過ぎるのもどうかと思うけど。向上心って、結局そういう事でしょ」

内窓を拭いているらしい泉さんの声が、遠くなる。
陽射しが床に伸びる。
梅雨空の合間の上天気に、清掃なんて、と思うけど仕方ない。
脚立の一段目に脚をかけて。

俺は人よりずっと、ずっと出来るような。
そんな人間に。

「なれるって思ってますよ」

視界の端で泉さんが振り返る。
そちらは見ずに、真っ直ぐ上だけ見上げた。

「…だっていつか、この店の店長になるから、俺」



窓より高い位置にあるその周囲は、妙に薄暗い。
まだ日の高いこの時刻では、そんなに無理な労働でもない。
ただ、定期的に清掃はしているからそんなに汚れてはいないけど、不安定な体勢になりがちな作業は、楽しいとは言えなかった。

「杉本くんさぁ」

「…何ですか」

最後のライトを拭き終わった後、降りて来た俺を待ち構えていたように、泉さんが脚立の傍に立っていた。
窓を拭いていた雑巾はもう手になく、代わりのようにモップを両手に抱えるようにして俺を見る。

「あげないからね」

つい、と寄って来て俺の鼻先に突きつけられた指は、次の瞬間には下を指差す。

「は?」

何のことか分からなくて、同じようにして下を向いた。
下を向いたって、あるのは見慣れた床だけ。

「この店。あげないからね」

怒ったような、笑いを我慢しているような、不思議な声の響き。
そのまま顔を上げれば、間近に笑いを噛み殺すような表情をした泉さんがいて。

「変な所で根に持たないでください」

目を細めてそう言えば、器用に片眉がぴくりと跳ねた。
髪に付いた埃を払ってくれる、細い指。
薄いピンクベージュの爪が、目の前を通り過ぎる。
綾にも似合いそうな、柔らかい色。

清掃が終わり戸締りする泉さんの背と、この店を景色に。
階段を下りて見上げるようにして、外観を眺めた。

「あげないからね」

いつのまに来たのか、冗談めいて俺を睨む泉さん。

「見てただけじゃん」

両手を挙げて苦笑すれば、「送ってあげる」と車の鍵の音がした。



俺がここを譲り受けるのは、もう少し先の話。

**********
サイトでの「短文お題」で書いた「夢」を短編にしたものです。
いずれ譲り受けることになるそうです。


2008年07月14日(月)



 BLACK×WHITE④

次の日のおれが挙動不審だったのは、言うまでもなく。
そのことでいつもより嘲笑された気もするけど、それどころじゃなかった。どうしても気になってしまうのは、一番後ろの席に座る彼女のこと。

教室での久川さんはいつも以上にいつも通りで、一人静かに席につき読書中。邪魔をするような奴は一人もいなくて、そんなことは当たり前だとでも言うようにゆっくりと頁をくる細い指。
日に焼ける様子もない白さ。
昨日あの指と絡んだんだと思うと、目が離せなくなって座ったまま盗み見た。

「――つ」

広げた本に落されてた視線が、こちらを向く。あまりにも唐突にそうされたせいで、動けなくなってしまった。蛇に睨まれた蛙。なんか違うけど、心情に差異はないはず。息を飲むような妖艶な目。同い年なんて、信じられない表情の作り方。白い指が持ち上がり、自分の唇をなぞる。赤く色付いたそこを撫で、おれを見る目は微かに楽しそうで。駄目だ、蛙どころか。

見えない鎖が、体中に巻き付いた気がした。

今日のコイツ、つまんねぇな。
頭の上で交わされる会話はどこか遠くて。去っていくクラスメイト達の背中。おれがたいして反応をしなかったせいか、いつもおれを取り囲む連中は、面白くなさそうに教室から出て行った。
いわゆる子息令嬢の多いこの学校では、放課後に居残ってまでおれに構うような暇な人間はほとんどいない。

それでも今日ほど、そうして欲しいと願ったことはないだろう。単純な暴力よりも、久川涼子との約束のほうがよっぽど息苦しい。

彼女と二人で話すなんて、前のおれならそれこそ夢にも昇る気持ちになったはず。でも昨日のことがあってから、その概念は変わった。何を考えているのかわからない。それは前からで、同じ。息苦しく思うのは、言われたら何でもしてしまいそうなおれ自身。
おれと何かしたい訳じゃないって。
じゃあ何で呼ぶ?
酷いことをされるのに慣れてるわけじゃない。でも向こうはそう思ってるのかも。艶やかな微笑みの中に潜む、嘲笑。それがすごく、怖かった。

通されたリビング――と呼ぶには広すぎる――部屋に置かれた坐り心地の良さそうなソファに招かれ、座るように言われた。
こんなの、座るのも初めてなら、見るのも初めてで。
見た目を裏切らない坐り心地の良さに、緊張を忘れて感嘆した。

白の革に包まれたソファは、おそらく二人掛けなんだろうけど、四人くらいの許容量は充分ある。それぐらい大きくて。
ローテーブルを囲むようにして、同じ色の一人掛け用ソファが両端に一つずつ。
何を想定して置かれたのかはわからないけど、その時点で一人暮らしには不必要に思える。
金持ちにこれくらいは当たり前なんだろうか。
それとも来客がそれだけ多いとか。

そんな思考を読んだかのように、ポットを乗せたトレイを手にした久川さんが、来客は初めてだわ、と告げテーブルに置いた。

「い、いただき、ます…」

その台詞を飲み込むように頷きながらカップを持ち上げた手は、知らない震えていて。何に対してかはわからない。誤魔化すようにして笑う。それを見て、彼女が微笑む。

優越感を覗かせるような、純粋に楽しむような。とにかく学校では決して見せない笑い方。
頬にかかる艶やかな髪。真っ黒な目。


恐る恐る行ったこのマンションの玄関口に立つすらりとしたシルエットを見た時は、心臓が跳ね上がるかと思った。
見慣れた制服。だけど、久川さんが着ると特別に見える。赤地に紺の格子。そのスカートが翻って、おれを案内したのが三十分程前。

天井が高い。
壁も床も落ち着いた色合いで、大きな家具が幾つかあるのに狭さなんて全然感じない。
これだけで一室、なんだよな。
他にも扉が幾つかあったけど、ぴったり閉まったそこは覗きようもない。
おれ、何してんだろ。
何インチかわからないけどやたら大きなテレビが壁にかかり、そこには古い映画らしくモノクロの映像が流れていた。

ぼんやりと眺めながら、またカップに口を付ける。
まだ緊張してるけど、さっきよりはずっとマシ。
内容もあまりわからない映像を見上げていた俺の前を、赤いスカートが横切って。
――…。
一気に緊張が蘇る。

ソファの片側が軽く沈む。おれの、すぐ左側。

「あ、の……」
「何かしら」

吐息がかかるような間近で、久川涼子が微笑んでいた。

【To Be Continued】
**********

※このページでの連載はここまでになります。


2008年07月10日(木)



 BLACK×WHITE③

本音を言えば一人で帰りたかった。久川さんと肩並べて歩くなんて、自然に呼吸をするには、あまりにも近すぎる。

情けないことに、指先まで震えてしまっていた。何度かそう言い出そうと思った。ここでいい?って。でも。

こんなに暗くなってから帰るなんて初めてだわ。暗に送れというような雰囲気に飲まれて、一人で帰りたいとは言い出せなくて。

時々話し掛けてられても、相槌を打つ以外おれは最後まで黙りっ放し。つまらなくて面白味のない奴。そういう風に思われても仕方ない。話せないものは仕方ない。人が苦手って訳じゃなかったけど、この数ヶ月でおれはすっかり視線を伏せることが当たり前になっていた。

ましてや相手は、ずっと憧れていたクラスメイト。すらすらと話せるほうがどうかしてる。

何も言わずに歩き出した方角は、明らかに駅とは違う。久川さんの家なんて知らないし、相手だって同じだろう。なのに彼女は躊躇うことなく、俺がいつも通る道を歩いていた。

おれの家はこの学校からわりと近くて。四十分近く歩いたところにある、さして新しくもないマンションに家族と住んでいる。

他のクラスメイトみたいに、送り迎えがあるわけでもない。そんな家の差さからして、学校に馴染めない大きな理由なのかもしれなかった。



「私の家、あそこなの」

あの角を曲がればいつも帰り掛けに寄るコンビニが見える、というところで久川さんの足が止まる。

「実家はもっと遠いわ。だから通学に不便のないように、マンションを都合つけてもらったの」

事なげに言う内容は、通う私立校ではある程度通じるのかもしれない。生憎と一般家庭に生まれ半ば無理を通して入学したおれには、そんな理由で家から出る事が当たり前なのかどうか区別がつかなかった。

ここら辺は区画を境にして、途端に土地の値段が変わるらしい。見るからに洒落た外装に、テラスのようなベランダ。うちのマンションとは大違い、ということだ。建設中からこのマンションが賃貸ではないのは知ってる。母親が溜め息を吐きながらそんなことを言っていて、父親は明らかに聞いていないふりをしていたのは確か先月上旬。

「すごいね…」

溜め息とともにそう言ったのは、あまりにも感嘆したからだ。

だからかどうか知らないけど、それまで澄ました顔をしていた久川さんが、少しだけ息を漏らすようにして笑った。

「え、な、なに」

何か変なことを言っただろうか。

「帰り道に二文字以上話したのは、初めてね」
「二文字…?」
「さっき、すごいねって言ったわ。それまでは『あぁ』とか『うん』しか言わなかったのに。あなたでも驚くことがあるのね。不思議」

唇の両端が上がる。品の良い笑い方に、思わず見惚れた。

「明日、学校が終わったらここに来ない?」
「え…あ、う…えぇ!?」

その微笑み方のまま言うものだから、内容までしっかり把握出来ていなくて。危うく頷いてしまうところだった。明日、学校が終わったらここに来て。確かにそう聞こえた。…悪趣味な冗談だ。

「来てくれるでしょう?」

細めた目は、三日月のように柔らかで澄み切っていて。いつも無表情な彼女が浮かべたとは思えない極上の笑顔に、おれは馬鹿みたいに見惚れるしかなくて。

でも、何でおれなんか。すぐに浮かぶ疑問をぶつけると、久川さんは訳が分からないといった風に首を傾けた。

「不思議なことを言うのね。クラスメイトに家に誘われて、どうして困るの?」

「だ…っ」

だって、そんなの変じゃないか。いくらおれが頭悪くても、それぐらい分かる。今まで何の接点もなくて、おれに一片の興味さえなかった久川さんが、急に話しかけてきたり、家に誘ったりするなんて。誰がどう考えたって、おかしい。

「何を動揺することがあるのかしら。誤解のないように言っておくけれど、私はあなたと何かしたい訳じゃないわ」

「は…」

言葉もない。マンションの玄関口から伸びる光が、久川さんを照らし出す。その光景はやけに幻想的で、現実味に欠けていた。今これは夢だと言われれば、きっと素直に頷ける。

「約束よ。明日、ここで待ってて」

優しく言われているのに、強制的にしか聞こえないそれに、おれは黙って頷くしかなかった。

2008年07月08日(火)



 BLACK×WHITE②

ばしゃばしゃと頭から水を被る。

誰もいない手洗い場は、しんとしていて余計惨めな気分を押し付ける。ちかちかと点滅する照明さえ、おれを笑っている気がした。
古びた蛇口を閉める、自分の手が視界に入る。抗うことも知らない、ひ弱な掌。

何で。こうなったんだろう。自問するけれど、答えなんて見つかる筈もなくて。

最初は仲良く出来ていたはずなのに。何でこんなことになったんたんだろう。何でおれは。どこへ行っても、こうなんだろう。

俯いたままにしていると、目頭が熱くなりそうで。人の気配が失せた校舎を背にして、感情のままに委ねる。

「なに笑ってるの?」

正直、心臓が止まるかと思った。おれは勢いよく顔を上げて周囲を見る。拭ってもいない水の滴りが、首を伝って制服の中に流れ落ちていった。

「ひ、さかわさん」

あまりにも突然すぎる現れ方に、凝視してしまった。本当に、彼女なのかって。それくらい、久川涼子という同級生が、おれの目の前にいることが驚きで。

「まだ残ってたの? もう七時よ」

時計に視線を落としたのを良いことに、その長い睫毛や綺麗な髪を見つめる。こんなに間近に寄ったのは、多分初めてだ。

「あ……う、うん」

髪につけられたのは輪ゴムだったり、クリップだったりして、思いの他外すのに時間がかかってしまっていた。あんな頭じゃ、外にも出れないから。

久川さんは無表情のまま、おれを見た。その目は河原の石ころを眺めるように、とても静かだった。でも逸らされない視線に、居心地が悪くて堪らなくて。

「ひ、久川さんこそ、こんな時間まで、」

何で残ってたの、と言いかけてやめる。関係ないって言われる気がした。彼女から話しかける権利はあっても、きっとおれには無い。

「告白されてたの」

「え」

「三年の人に告白されたの。付き合ってくれって。でも断ったわ、私、好きな人がいるから」

あると思わなかった返事。だけど何でもないことのようにそう言ってから、こちらに歩いて来るシルエット。

ちょっと変わったところはあるにしても、人目を引く美人で秀才の彼女が放って置かれるはずもない。告白なんて日常的なことなんだろう。おれと違って。

唐突に話し出したプライベートな部分は、久川さんにとっては世間話程度でもないらしく、薄く浮かべた笑みのまま小首を傾げる。そんな仕草の一つ一つさえ、おれを強く惹きつけた。

けれどすぐに自制する。こういうの何て言うんだったっけ。身の程知らず。そう、そんな言葉。好きな人がいるから。確かにそう言った。

そういったことに興味なんかないって見えるのに。見えたから、安心してたのに。更に手が届かなくなる相手。最初からおれが届くわけない。

「そ……なんだ」

やっと答えたわりには何も気の利いたようなことは言えいまま、黙って俯いた。グラウンドの砂を踏み付ける音。話は終わったらしく、久川さんは何も言わない。当たり前だ。おれなんかと話すだけ無駄だって、誰だって知ってる。

迷いのない歩き方は彼女によく似合う。だらだらとしか歩けないおれと正反対。そしてそのまま、おれの横を素通りして。

行ってしまうはずだったのに。

「あなた、いつも笑っているのね」

俯いた先に見える、綺麗に爪先を揃えた黒のローファー。それは随分と近くで、おれの心臓を跳ねさせるには十分な距離だった。

括られてたせいで、変に型がついた髪。化粧の痕がまだ残る顔。これは水で洗っても全部はとれなかった。さんざん引っ張られてるせいで着崩れた制服。でもたぶん、おれの顔は笑ってる。わかる。何されても、へらへら笑うように、出来てるから。

でも笑うしかない。

こうやって我慢すれば、いつか、皆飽きて。皆おれのことなんて、構わなくなる。だからそれまで。

勿論、久川さんがそんな深い意味で言ったんじゃないって、わかってるけど。わかってるから、ぎこちなく笑いながらその場から逃げ出そうとして足を踏み出した。

これ以上、向かいあっていたら、おれの中の久川涼子が大きくなる一方だと思った。そんなのは怖い。彼女にまで蔑まれた目で見られたら、おれはきっと立ち直れなくなる。

「待って」

不意に進路が立ち塞がれ、彼女とおれの距離がさらに狭まる。どうして行ってしまうの。そんな質問をされても困る。心の中まで覗き見るような、澄んだ瞳。

彼女は、おれの考えてることが、わかるのかもしれない。

馬鹿みたいだけど、足が動かない。ねえ、とか、それで、とか言われた気がした。でも頭の中は耳鳴りがしたみたいに、がんがんと嫌な音をたてて、ちゃんとした言葉では聞き取れなかった。

柔らかそうな唇が、何かを形作る。何度か。でも何を言われてるのか、破裂しそうな心臓のせいで、全く理解が出来ない。

肩に触れる、白くて細い指。俯いていても目に入る久川さんの唇。それがさらに近づいて。

「……つ」

おれの唇に、触れた。

有り得ない。顔を上げる。でも彼女の唇は離れない。間近にあり過ぎてぼやけて見える彼女の顔は、それでもとても綺麗で。少し冷えた、柔らかな感触。

キスされている、ということがリアルに認識出来てしまうと、一気に頭に血が上った。頭の内側から、激しく殴られたような衝撃。

何で?

「――ッ」

反射的に、突き飛ばしていた。

距離が空く。でも思ったよりも近くて。女の子相手に無意識に力加減したと言うよりも、おれがそれだけ軟弱なんだと思った。

こめかみが酷く痛んだ。ぐちゃぐちゃになった思考の片隅で、目の前に立つ彼女を認識した。

「酷いわ」

欠片も思っていない口ぶり。でもとても冷たく見える視線に後退りして、

「だ、だって」

「何なの?」

「あんなこと、するから」

「キスしただけでしょう?」

涼やかだけどその目は僅かに不快を交えていて。したほうが怒るなんて、理不尽だと思う。けど、そんなこと言えるはずもなく、黙り込む。「だけ」だって言われたって。

「ご、ごめん」

どこがごめんなんだ。自分が何かしたとは思ってないけれど、謝るしか選択肢を持っていない。何で。そう、何でキスなんか。そう何度も自問する。その言葉は、いつのまにか口に出ていたらしく、久川さんが首を傾げたまま薄く微笑した。

「何でって。私のことが、好きなのかと思って」

無意識に唇をなぞっていた俺に、落とされる小さな笑い声。慌てて目だけ向ける。何て?

「いつも私を見てるから、好意を持たれているのかと思ってたんだけど。違うの?」

息を呑む。気付かれてるなんて、思ってもみなかった。誰も気付かなかったのに。見てたことを知られたら、と思うだけで怖かったのに。

膝に力が入らない。動かない。動けない。

「私はあなたの事、好きよ」

「は、」

「好きよ。少なくとも馬鹿に騒がしいここの学校の人達よりはずっと」

形の良い唇が、弧を描きながら淀みなく動く。

「帰りましょうか」

久川さんが微笑して、俺の手を取る。滑らかな掌が重なり、華奢な指が滑り込むようにして絡みつく。

されるがままに、呆然と引かれる手に視線を落とす。彼女が何を考えているのかわからない。
今まで人と関わるのを拒絶していたような、彼女がおれに関わろうとする理由なんて。
理由付けをするなら、彼女もまたクラスメイト達の『ゲーム』に参加したのかということだけ。

「俺…」

そんなこと、考えたくもないけど。だって彼女には似合わない。誰かの考えに従うなんて。でもどうして?自問に答える声は、当たり前だけど存在しなかった。

「さあ、早く」

グランドに落ちる校舎からの照明が、薄暗さの中でぼんやりと彼女の輪郭を浮かび上がらせる。透けるような白肌に赤い唇。それが僅かに歪んで。次の瞬間には消えた、ように見えた。

砂利を踏みつける足音に、俺に背を向けて歩き出したのだと気付いて一人赤くなった。

暗闇の中に、溶け込んだみたいだった。指通りの良さそうな髪は、中途半端な薄闇よりよっぽど闇の色をしていた。

2008年07月07日(月)



 BLACK×WHITE①

目立たない、おれ。華やかな、きみ。

傍に居ることなんて出来ないって。ちゃんと知ってるんだけど。

知ってるんだけど、どうしてもきみばかり見てしまうんだ。




「これ、付けてみたら? あはは、似合うー」

「やだ、カワイイって。あ、駄目でしょ外したら。今日はこのまま帰りなって」

おれの席を挟んで、両隣から騒がしい声。

いつものことだとわかってるけど、抵抗すらできなくて俯くおれの頭を、クラスメイトが楽しげに弄っていた。

馬鹿にする為におれを囲む女の子達に、楽しくもないのにへらへら笑って返す自分が気持ち悪い。でもそれ以外、表情を変え方を知らない。

「ねえね、涼子、これ見てよ、可愛くない?」

誰かが呼んだその名前に、おれはさらに小さくなる。

「……興味ないわ」

いつもよく通る凛とした声が、今は冷たく突き放すような響きを持って返される。

おれはぎゅっと目を閉じる。聞きたくない。

久川涼子。

一番後ろの席に座る彼女は、きっといつものように本を開いて、一人で読んでいるのだろう。読書を邪魔されたせいで、明らかに不機嫌さが滲み出ていた。

同じ一人でも随分違う。一人であることを選んだ人間と、それを選ぶしかなかった人間と。

クラスの中でも一目置かれる彼女は、孤立していると同時に、誰からも憧れを受けている。そんな女の子だった。

そしておれも。彼女に憧れ――それ以上の気持ちを持っている。誰にも言えやしないし、言ったところで軽蔑されるだけだ。

「ざーんねん。涼子の好みじゃないってぇ」

「や、やめてよ」

小さく反抗しても、明るい笑い声にかき消されて解放されることはない。壁にかかった時計を、ちらりと見上げれば、自習時間終了まで後十五分と知った。

はあ、と誰にもわからないように溜息。

そんな気遣いしなくったって、おれの言うことなんて誰も聞いちゃくれないけど。

「カチューシャとかのほうが似合うんじゃない? ね、誰か持ってなーい?」

高い声が教室に響く。

まばらに座っていたクラスメイトの何人かが振り向いたけど、「ごめーん。持ってないー」という返事以外は笑い声だけ。

『お前、女になりたいのかよ。なりたいならしてやろーか?』

誰かがおれの座る椅子を蹴りつける。

それを皮切りにあちこちから聞こえる、笑い声の渦。

「あはは、そっちのほうが良さそうじゃん。じゃあメイクでもしてみよーよ」

「わ。それイイね」

勝手に盛り上がる周囲。

けれど、そんな顔で帰れるはずがない。さすがにじっとしていられなくて、顔を上げた。

「あ、の…おれっ」

唐突に声を上げたおれに驚いたように、皆はおれを見た。集まる視線に、顔が熱くなる。明らかに好意的ではない視線に、自然とおれの目線は下へと落ちた。

「おれ、やだよ…そんなの、け、化粧なんて…」

「は?」

ご機嫌そのものの表情が、途端に不機嫌そうな表情に一転する。冷たい視線。違う、寧ろ蔑みに近い。

友達同士が仲良く戯れている、という構図を剥がせば皆の中にあるのはおれへの差別だけ。「あ、の」何か言わなきゃ。何か。そう思って口を開きかけた時。

「……ッ」

「逆らってんじゃねえぞ」

唐突に顔面に衝撃。誰かが甲高く笑った。眼前に見える机の木目。おれの後頭部を押さえる、大きな掌。座っていた席の机に叩き付けられた、おれの顔。痛いなんてもんじゃない。鈍い音に想像する以上の、激痛に目の前がちかちかして、眩暈がした。

したたか鼻先を机に打ち付けて、自然と目頭が熱くなった。駄目だ。泣いたら、終わり。

「遊んでやってんだろ?」

「だよねえ」

「……」

指先で摘んでいたハムスターが噛み付けば、きっと飼い主はこういう顔をするのだろう。場違いにもそんなことを考えた。

おれはそれに対して、びくり、と体を奮わせることしか出来ない。嫌だって逆らって、裸に近い格好でトイレに閉じ込めれた先週のことを、いくら馬鹿のおれでも忘れることなんて出来なかったから。

2008年07月03日(木)
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