絵梨の日記
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きれいな言葉で書きたい、というのが気持ちの中にあります。 洋服やさん、洋品店、あるいは和服なら呉服屋さん、とか。 言葉の調子やリズム、想定されるイントネーションにも、なんとなくでも 気を配って、きれいな日本語をつかいたいです。
梅雨に入りましたが、まだまだかあっと暑い日が続きます。 暑気払いのできる食物で、主になすやきゅうり、トマトですが、 そうしたからだを冷やす食べ物などを取り入れ、乗り越えて行きたいです。
『プリンセス・クラシック』というCDを借りて聴きました。 なかなか音質もよく、聴きやすいラインナップでした。 ブックレットが洒落ていて、こうした夢へいざなうような、優雅なアルバムで音楽を楽しむと、心まできれいになるようでした。
音や音楽は、言葉で表せない感動です。 いつもそれでなやみます。 詩は音楽にすこしは近いのでしょうが、でも、やはり遠いです。
それでも果敢に、文章修行に取り組もうと思います。 朝から落ち着いた気分でPCに向っている 絵梨
英語ひとつ、小説ひとつとっても、道のりはながく果てしない。 どんなに近付きたくても、遠くひとすじの光りさえ見えないときもある。 でも、くじけない。 そうした強さ、タフさを今まで出会った人たちから、受け継いでいこうと思う。 どんな道だって、頑張っている人がいる。 そうした、いちずな人々のため、なにかが残るものを書き残せたら。 そしてそれが、少しでも人間の善に触れえるものであるならば。
テーマにしたいものが大きすぎて、まだ摑みあぐねているけど、 もとめつづければいつかは輪郭だけでも見えてくるのではないかしら。 精進おこたりなく、一時もゆるみなく自分の領域には心を研ぎ澄ませていよう。 そして、いつも笑っていよう。
絵梨より。
自分に合ったことを探すのも、簡単そうで難しい。 早起きは好きだけど、いつもできるわけじゃなかったり。 メイクも、肌の状態によっては楽しくなかったりするから、 好きじゃないのかもしれない、と思うことさえある。
書くことはどうか。 自分に合ったコンテンツで、ぽつぽつと書いているのが気持ちいいみたい。 気持ちのあせりとはうらはらに、すすまないことが多いけど、 でも、ひさびさに日記を書くのも、自分としてはまずくない。
なぜって、また、書けてうれしいからだ。 単純に、そうかもしれない。
うまくいえないけれど、いろいろほかの先達の書いたものを読んで、 日常を生きて、少しは考えていると、パソコンで書き物をできる時間って ごくわずかだ。わたしの場合。
書くことはアウトプットだから、かな。 考えがすすんだときに、こうして書いていると、進歩があるように見える。 でも、そうすると、書きたいから来ても、進歩のあることを書けるとはかぎらないみたいだ。。それではいやだけれど。
今日は気持ちよく晴れて、すがすがしい朝だ。 梅雨に入ったばかりの、晴れ間だけれど、季節にも晴れ間があるように、 わたしにもちゃんと、時々は晴れ間があるのかな。
バイリンガル作家、というものがあるらしい、と知ったのはつい先日。 母国語以外でも、作家活動をするひとたちの、最近の呼称らしい。 自分のめざしたい道が、かすかに見えた気がした。 そうなれたらいいね、と母にいったら、うなずいていた。 英語で書くことも、自分の書く能力の向上に役立てたい意識だから、どこまで英語で発信できるかは別として、いい目標になると思う。
自分に合った道。 今はこつこつ、ひとりでも続けていきたい。 こうして、どこかの媒体で発表の出来ないことでも、気持ちでも、毎日でも、大切にしたい。 自分の適性を見極めるのはむずかしいけれど、そうしたい。確実に進む中で、十年後のわたしが、笑って進んでいられるように。 今はむずかしそうでも、手に入れられるもの、自分の魂に沿うものならば、きっと続くだろう。 英語での発信が鈍りつつあって、まだ前途多難だけれど、日本語でも、英語でも、頑張っていきたい。
時々しかこれなくて、ごめんなさい。元気にしています。 ではでは。
少し体調がすぐれなくて、ここのところ寝込んでいた。 昼間は無理して外出するが、夜はばてていて。 なかなか、日記にこれなかった。反省。。
今日はおだやかな曇りで、陽射しも緩かった。 でも、動くとそこそこ汗ばむ。風があったので、気になるほどではなかったが。
昨日は 中沢けいの『楽隊のうさぎ』を買って、半分ほど読んで見る。 すらすらよめて、ときどきくすりと笑う仕掛けあり、ふうんとうなる 仕掛けあり、涙あり。 涙はおおげさなものではなく、ほんの少しほろり、とするほど。 こうしたさりげない、青春系の小説は、ほとんど書いてこなかっただけに、 魅力的だ。 今は少しずつ読んで、栄養になるものを溜めている感じがする。
普段書くときは、読んでいてなんとはなしに書く作業に移り、のってくると周りが見えなくなるけど、 でも、このなんでもない積み重ねがたいせつなのだな、と思う。日々と、その積み重ねだけでは見えてこないものの、読書は教えてくれる。 ちいさな日々の楽しみ方や、ひととの付き合い方、距離のとり方、青春の振り返り方、つづり方。もろもろ。
本を読んでいて、飽きないなあ、と思う。本は欠かせない。 恋愛をするときにだって、本は欠かせない。バリエやストックになるし、話題にもなる。なにより、自分以外のひとをしるチャンスにもなる。 そして、くれぐれも、生身の人間は本よりもっと怪奇であることを、知っておかねばならない。 それでも、本が好きだ。そして、自分のバイブルが自分の書いた小説になったら、こんな嬉しいことはないなあ、と思うこの頃・・・
とりとめなくて、申し訳ないながらも、またあした。 絵梨
太宰の『パンドラのはこ(むずかしい漢字)』。 高校の頃、挫折した作品だ。 今、映画化の折、ふたたび脚光を浴びている。 あの頃は、あの、なんでもない語りが痛かった。 今は、おなじような曲折をへてきた者として、 それなりに理解あって読める。(まだ数行のみだけれど。。)
浪人のときに、そして、留年を経て、 つかんだ自由はやりきれなかった。 とくに、単位のひとつの取りこぼしのために、 ふつうの人生とスケジュールからはみだした、ふがいなさ。
そのことを、ぞくぞくと思い出した。 あの頃の自分がこれを思い出していたなら、 どこかで読んでいたなら、きっと違っただろうし、救われもしたろう。
今となっては叶わないが、でも、今でも救われる思いがする。
暗くなりがちな作風の私が、いつも念頭にすくなからず置いていることがある。 「救いのある文章にすること」 それが、どんなものなのか、はっきりと定めているわけでもなく、 どんなものが理想か、抱いているわけでもないが、 ただ漠然とであっても、ずっと思ってることである。
今日は、これから麦茶で喉を潤しながら、ぼつぼつ執筆にいそしもう。 急がなくていい、慌てなくていい。今、できることから、着実に進もう。
太宰からはなれてしまったけれど。 水無月のはじめより
絵梨
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