日々つれづれ
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今朝は早々と日記を書こう。 HPを削除した。削除するときは死期が迫ったときだと思っていたけれど、少しずつ覇気が薄れるとはこういうことか。
ネット内で存在することが苦痛になっている。 「絆」とか「繋がる」とか、だいたいがポジティブを売りにするビジネスへ繋がっていく「束ね」の一種にすぎない。すべてに満足している人、満ち足りている人などほとんどいなくて、それでも元気にポジティブに暮らしたいと頑張っている人たちがほとんどだろう。誰しもなにかしらの問題や悲しみ、苦しみのひとつやふたつ抱えていることだろう。私もそうして30年頑張ってきたが、人はそう器用ではなく、と・・いうか、私はそれほど器用ではなく、ひとつのことへの集中力は人が度肝を抜く勢いらしい。いや、「・・・らしかった」という過去形。だから、身近な誰もが、この慟哭の日々にはそれほど気づかない。ひょっとしたら「暢気に暮らしている」くらいに思っていることだろう。
人と接する時まで、言葉少なに笑顔のひとつも作れなくなればそれは最後だろうが、まだ私は、日常生活において人と接する時は普通。いや、むしろ元気であかるく社交的だから。我が子もそうだった。あの子は私によく似ている。あの子の友人たちが、うちに来るたびに言うのは「お母さんにそっくり。言うことまで似てる」と・・・。だから私はあの子が心配で仕方なかった。
どんどん覇気が薄れる私だ。書き続けていたものもすべてストップしてしまった。姪は、「家にいる時間に書いたらいいじゃないの」と言うが、“真実は小説より奇なり”。なにを書いてもくだらない薄っぺらなものにしか感じない。ある程度で削除の連続。もう今は書く気にもならない。
売れない人々、私にとっては“自称業界人”としか思えない人々が、この一年色々声をかけてきた。人の死をネタとして、お線香もあげることなく慟哭の不幸をネタとして捉え「書け」とはどういう人たちか。無礼千万。そんな人たちが作っているから薄っぺらなものしか、今の日本にはないのだ。衝撃的で動物的で殺戮的な紙芝居などで人の心は描けない。人の心は、なんでもない身近な日常の中に多くの感動が潜んでいるのだから。
「書くのはやめないほうがいい。早く何か書いてもってこいって言ってるだろ」とは“三流ではない業界人の学友”。そんなことを言ってくれる、仕事を超えた友人の言葉はありがたい。しかし、もう、書くことどころか、この世のなにもかもが嘘っぱちにしか思えないのだ。虫の息で暮らす様子を推察し始めた世間は 少しずつ「終わった人間」と敬遠し始めている。そうしていつか完全に忘れられていくのだろう。不遇な短い人生を閉じた我が子であったが、あの子が幸せをつかむ姿をみるその日だけを励みに生きてきた長く短い年月だった。
姪が仕事を変わり、新しい広告代理店での営業は、 うちの近隣がテリトリーらしい。
ということで、お昼にきたのでラーメンを作ってあげた。 いきなりなので何もない。まあ、姪なのでね。
1時間、うちで休憩してお昼を食べて、また仕事に出かけた。
私のことを「長生きする」と言っていた。
「いや、長生きしそうなタイプだったのにねぇ・・・というタイプが 意外といきなり逝くんだよ」
と言ったけど、笑っていた。
2012年11月06日(火) |
まあ、どうでもいいか・・・ |
今朝は卵焼きとポテトフライ、ワカメのおみそ汁を作った。
今月からは、何年ぶりかの朝型生活になった。
朝6時に朝ご飯を作る。
しかし、夜は深夜0時・・帰りが遅い。
日曜は、夜〜深夜まで大河ドラマと韓国ドラマ。 今一番楽しみにしているテレビラインナップの日曜日。
今はテレビしか、気休めのまやかしな楽しみはない。
「美男ですね」は、チャングンソクのクールなナルシストぶりと とぼけた感じのところの落差がおもしろくて声を出して笑える。
まさか、心から笑ったことがなかった一年、 韓国ドラマでチャングンソクに 声を出して笑わせてもらうとは夢にも思わなかった。 まったく興味もなかったから。
息子くんは7時半に家を出て行った。
ご飯が炊きあがったのが7時40分。はぁ・・・。
グタグタと文句言われつつ。。
しょうがないから朝からお肉??:−)
私が食べよう。
できたてじゃないと食べない息子くん。チンするのさえめんどくさがる。
しょうがない。子供の頃はチンして食べることも多かったから・・。
はぁ・・。
夕べは、はやばやと寝てしまった。 22時に目覚ましをセットして息子くんの帰りを待とうとおもったのに、 目覚ましに気がつかなかった。起きたら5時:−)
息子くんは、もちろん寝ている。ごはんどうしただろう・・・・。 最近、私が寝ていると起こさない。
今朝は早々と炊飯器をセットした。そろそろおみそ汁を作ろう。 過剰労働なのか?どこかに立ち寄って食べているのか?
最近、あやしい行動が多い(笑)
とうとう霜月になってしまった。あっという間だった。
私にとってはこの一年はずっと心に霜がおりてガサガサと冷たく刺々しく、ザラザラと胸の中で、その冷たさは痛さとしてずっと凍り付いていたようなもの。
我が子の死から一年。今月は一周忌をする。親族と我が子が親しかった友人数名だけに声をかけるつもり。
他人の子供の死を心から、しかも一年もして、よほど親しく長年関わってきた人でなければ悼みを感じる人などいないだろう。
葬儀でも「自分はいかに幼い頃可愛がっていたか」を第一声の言葉として言われるとさらにトーンダウンしたものだった。まずそういう人は、葬儀だけだから。その後、電話が来たり新盆やお彼岸に連絡が来たり訪ねてくるなどはない。
とにかく仏前に会いに来たくて来てくれていたのは、我が子の友人たちだけだ。来るたびに、形通りのものを持ってくるわけではない。
それでも、それが私には嬉しかった。我が子が本当に好きだったお菓子や、好きだった色の花束や・・・そういうものが一番嬉しかった。お盆やお彼岸のたびに、仏前は駄菓子屋ができるほど、好きだったお菓子で溢れていた。
そうして一年。
「元気に」の励ましの数々の声はありがたいと思いつつも、過剰なプレッシャーとなった。ペットが亡くなって一年もの間、それを気にかけてくれる他人はいないだろう。同じだ。他人の子の死など同じだ。
2ヶ月もしないうちに「元気になれ」「元気そうでよかった」の嵐だった。それは「元気じゃないと関わりにくい」ということだと思った。
トーンダウンしている様子をちらりとでもみせると人はさっとさりげなく距離を置く。元気な様子で、なにもなかったかのように振る舞うと声がかかる。
周りにとっては、その暗い不幸な存在が自分の近くにいることはあまりよい気分ではなかったのだろう。
私はまるで、重い鎧を着て砂袋でもくくりつけた足を引きずって歩くように、元気に元気に振る舞うようにした。そうしなければいけないと思った。
しかし、命を縮めただけだったのじゃないかと思う。そうして暮らした一年はなんだったのだろう。
誰も人の痛みなど、解るわけがない。解らないことをせめているのではない。解らない人たちに歩調を合わせて気を遣って暮らした一年に疲れ果てた。
やはりこの人の世は地獄だと思う。
だからといって、絶望しているわけじゃない。
いや、絶望しているけれど「それがコノよ」だと思っているので受け入れている。
我が子の死で、我が子へ石を投げるような言葉を吐いた人々のことを私は一生忘れない。恨みを持ってなにかをするわけじゃないが、あれが人の正直な姿だろうと思うだけ。
自分の命より大切な大切な命だった子への愚弄は、決して忘れない。
私の残りの人生は、最後まで「霜月」だ。そしてやがて「師走」がやってくる。それは私の最後の日々。
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