ぶらんこ
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友人の知り合いがやっているお店へ行った。
(オーナーが撮影した)写真と詩。 (たぶんその彼が仕入れた)プロの画家さんの絵と詩。 そして、そこに隣接したマッサージ・サロン。 「小さなお店ですが、お世話になった方々への感謝と思いをいっぱい込めたお店です。 なにか、探しているものを見つけるお手伝いができるかもしれません。」 招待状に、そう書かれてあった。 オーナーは、お坊さんだそう。
それぞれの探しものがあったかどうかは置いといて。。。 帰り道の姉の言葉が忘れられない。
「写真と絵とマッサージかぁ・・・わたしたちもう既に揃ってるし」
わっはっはっはっは!! 大爆笑!(←身内ネタ)
確かに、それぞれがそれぞれの想いで、求め合い、引き合えたら、 もしかしたら??? なーーーんてことも思ったり。。。
悪くはないけど、でもわたしは、もっともっと時間をかけて探したいな。
近所にとても良い温泉施設を見つけた。 「健康ぷらざ」という名前のその施設には、温泉を利用したプールがある。 「温水」プールではない。れっきとした「温泉」プールだ。 プールの後にはお風呂にも入れる。しつこいようだが、もちろん温泉のお風呂。 プールも温泉も(望むのであればジムも)すべて利用しても300円なり。 素晴らし過ぎる。感涙モンだ。
そのことを母に話したところ、母は是非連れて行って欲しいと言う。 膝の悪い母には、きっと良いに違いない。 でも施設を利用するには水着が必要だ。買わねばならない。 しかしそれよりも、母に水着を「着せる」ことが想像出来ない。 ・・・思わず噴出してしまった。
そういうワケで、少し前から母が来ている。 このところ、脚全体にしびれと痛みがあり、リハビリが思うように進まなかったからだろう。 成果はともあれ、ひきこもりがちだった母が外へ出ようとしていることが嬉しい。
母のために水着を購入し、早速出かけて行く。
水着(&水泳帽)姿の母は、とてもかわいい。 見ているだけで楽しくなってしまう。 そして、母もわたしの姿を見て笑っている。 わたしたちは笑いながら、プールの水のなかへと進む。
母が水のなかを歩く。 脚が軽い、と言いながら歩く。 「跳んでみるといいよ」とわたしが茶化す。 「そんなことしたら体が倒れるよ」と母は言う。 「浮力があるからおぼくれないって」と、わたし。 すると何も言わずに母は笑っている。
母は何周も何周も、水のなかを歩いた。 わたしはときどき泳いだり潜ったりして、顔を出しては母に手を振る。 こころがシンクロの真似をして、突然水中からわざとらしい大きな笑顔で飛び出す。 母はそれを見て、笑い転げながら歩いている。
水のなかはバリアフリーだ、とよく聞く。 本当にそのとおりだと思う。 母のあんな笑顔を見られただけでも、充分だ。。。
余談だが、ちょっと不思議に思ったことを母に尋ねてみた。 「水着着るの嫌がるかと思ったけど、そうでもなかったね」 すると母はこう言った。
「ちゅぬ シマなてぃ へぃき」
なるほど。。。そういうこともバリア・フリーというわけか。笑
PCの調子が良くないなぁ・・と思いながらも修正するべくだましだまし使っていたら、ついにクラッシュした。 モニター上に見たこともないレターが並ぶ。 あぁ〜あ。。。もうどこへも行けない。
しょうがなく、リカバリを実行。 初体験。
・・・が、3回もやり直すことになる。 この原因はある程度わかっている。 したがって、威張れることではないが、リカバリのやり方を覚えてしまった。 次回はバッチリだろう。(あっちゃ困るけど)
それにしても、リカバリってすごい。 すべてを消して、新たに始めることが出来る。 まさに復活。 死んでこそ、というやつだろう。
PCに特別なファイルなんか保存しておくもんではないな、と思う。 もちろん、バックアップすれば良いのだろうけれど、まぁそれほど特別なものもないし。。。
思うに、わたしの人生もおんなじだ。 特別と思っていたものも、消えてしまえばなんてことないものだったりする。 というか、消えてしまっても良いものばかりなのだろう。
抱えているものを、重くしてるのは自分自身。
と、いうことだな。。。きっと。
これからも、ファイルはすべてウェブ上にしよう。あらためて、決定!
・・という考えは良くないのだろうか???笑
ずっと昔、運転中に動物を轢いてしまったら決して振り返ってはいけない、と聞いたことがある。 可哀相と、思うことさえも良くない、と言われた。 理由は、その動物の魂が付いてくるから、だそう。憑いてくる、という意味だったのかもしれないが、よくわからない。 そんなことを言われても、、というのが実感だった。
今朝、道路の真ん中あたりで猫の死骸を見た。 正確に言うと、猫かどうかはわからない「それ」をよけて、通り過ぎた。 思わず、声が出た。 その子の変わり果てた姿を横目に確かめながら、十字を切った。 もう離れてしまっているであろうその子の魂のために祈った。 けれども、わたしは車を停めてその子を抱き上げ、葬ることはしなかった。 きっと、触れることすら出来ないだろう。 ―いのちは形じゃないのに。
病院へ行った。 これまで行けなかったわけではない。 いろんなことが湧き出るように起こっては過ぎていき、その中で自分のことが後回しになっていた。 出来れば行きたくなかったから、というのもある。 病院はいつだって好きじゃない。
でも、今日は奮起して行ってきた。 そして、思ったよりは嫌な思いをせずに済んだ。 行ってきて良かった、とも思う。 これから、自分のことをもっと大事にしよう、と、素直に思う。 わたしを後押ししてくれた家族や友人たちに感謝している。
いのちは形じゃない。 いのちは響き合うもの。
生も死も、いのちだ。
自分のことを非協調的な人間だとは思わない。 思わないのだけれど、もしかするとそうなのかなぁ・・・と、感じさせられる。 自分がしていること、しようと思うことが、世間的にものすごく酷いことのように感じさせられる。
そこに、強い憤りを覚える。
わたしはへなちょこかもしれないけれど、長いものには巻かれない。
協調的であることと、服従する、ということとは違う。
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