ぶらんこ
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2004年08月30日(月) それぞれの

友人の知り合いがやっているお店へ行った。

(オーナーが撮影した)写真と詩。
(たぶんその彼が仕入れた)プロの画家さんの絵と詩。
そして、そこに隣接したマッサージ・サロン。
「小さなお店ですが、お世話になった方々への感謝と思いをいっぱい込めたお店です。
なにか、探しているものを見つけるお手伝いができるかもしれません。」
招待状に、そう書かれてあった。
オーナーは、お坊さんだそう。



それぞれの探しものがあったかどうかは置いといて。。。
帰り道の姉の言葉が忘れられない。

「写真と絵とマッサージかぁ・・・わたしたちもう既に揃ってるし」


わっはっはっはっは!! 大爆笑!(←身内ネタ)


確かに、それぞれがそれぞれの想いで、求め合い、引き合えたら、
もしかしたら??? 
なーーーんてことも思ったり。。。


悪くはないけど、でもわたしは、もっともっと時間をかけて探したいな。


2004年08月26日(木) バリア・フリー

近所にとても良い温泉施設を見つけた。
「健康ぷらざ」という名前のその施設には、温泉を利用したプールがある。
「温水」プールではない。れっきとした「温泉」プールだ。
プールの後にはお風呂にも入れる。しつこいようだが、もちろん温泉のお風呂。
プールも温泉も(望むのであればジムも)すべて利用しても300円なり。
素晴らし過ぎる。感涙モンだ。

そのことを母に話したところ、母は是非連れて行って欲しいと言う。
膝の悪い母には、きっと良いに違いない。
でも施設を利用するには水着が必要だ。買わねばならない。
しかしそれよりも、母に水着を「着せる」ことが想像出来ない。
・・・思わず噴出してしまった。


そういうワケで、少し前から母が来ている。
このところ、脚全体にしびれと痛みがあり、リハビリが思うように進まなかったからだろう。
成果はともあれ、ひきこもりがちだった母が外へ出ようとしていることが嬉しい。

母のために水着を購入し、早速出かけて行く。

水着(&水泳帽)姿の母は、とてもかわいい。
見ているだけで楽しくなってしまう。
そして、母もわたしの姿を見て笑っている。
わたしたちは笑いながら、プールの水のなかへと進む。


母が水のなかを歩く。
脚が軽い、と言いながら歩く。
「跳んでみるといいよ」とわたしが茶化す。
「そんなことしたら体が倒れるよ」と母は言う。
「浮力があるからおぼくれないって」と、わたし。
すると何も言わずに母は笑っている。


母は何周も何周も、水のなかを歩いた。
わたしはときどき泳いだり潜ったりして、顔を出しては母に手を振る。
こころがシンクロの真似をして、突然水中からわざとらしい大きな笑顔で飛び出す。
母はそれを見て、笑い転げながら歩いている。



水のなかはバリアフリーだ、とよく聞く。
本当にそのとおりだと思う。
母のあんな笑顔を見られただけでも、充分だ。。。



余談だが、ちょっと不思議に思ったことを母に尋ねてみた。
「水着着るの嫌がるかと思ったけど、そうでもなかったね」
すると母はこう言った。

「ちゅぬ シマなてぃ へぃき」

なるほど。。。そういうこともバリア・フリーというわけか。笑


2004年08月25日(水) リカバリ

PCの調子が良くないなぁ・・と思いながらも修正するべくだましだまし使っていたら、ついにクラッシュした。
モニター上に見たこともないレターが並ぶ。
あぁ〜あ。。。もうどこへも行けない。


しょうがなく、リカバリを実行。
初体験。

・・・が、3回もやり直すことになる。
この原因はある程度わかっている。
したがって、威張れることではないが、リカバリのやり方を覚えてしまった。
次回はバッチリだろう。(あっちゃ困るけど)



それにしても、リカバリってすごい。
すべてを消して、新たに始めることが出来る。
まさに復活。
死んでこそ、というやつだろう。


PCに特別なファイルなんか保存しておくもんではないな、と思う。
もちろん、バックアップすれば良いのだろうけれど、まぁそれほど特別なものもないし。。。

思うに、わたしの人生もおんなじだ。
特別と思っていたものも、消えてしまえばなんてことないものだったりする。
というか、消えてしまっても良いものばかりなのだろう。


抱えているものを、重くしてるのは自分自身。

と、いうことだな。。。きっと。


これからも、ファイルはすべてウェブ上にしよう。あらためて、決定!

・・という考えは良くないのだろうか???笑


2004年08月20日(金) いのち

ずっと昔、運転中に動物を轢いてしまったら決して振り返ってはいけない、と聞いたことがある。
可哀相と、思うことさえも良くない、と言われた。
理由は、その動物の魂が付いてくるから、だそう。憑いてくる、という意味だったのかもしれないが、よくわからない。
そんなことを言われても、、というのが実感だった。


今朝、道路の真ん中あたりで猫の死骸を見た。
正確に言うと、猫かどうかはわからない「それ」をよけて、通り過ぎた。
思わず、声が出た。
その子の変わり果てた姿を横目に確かめながら、十字を切った。
もう離れてしまっているであろうその子の魂のために祈った。
けれども、わたしは車を停めてその子を抱き上げ、葬ることはしなかった。
きっと、触れることすら出来ないだろう。
―いのちは形じゃないのに。



病院へ行った。
これまで行けなかったわけではない。
いろんなことが湧き出るように起こっては過ぎていき、その中で自分のことが後回しになっていた。
出来れば行きたくなかったから、というのもある。
病院はいつだって好きじゃない。

でも、今日は奮起して行ってきた。
そして、思ったよりは嫌な思いをせずに済んだ。
行ってきて良かった、とも思う。
これから、自分のことをもっと大事にしよう、と、素直に思う。
わたしを後押ししてくれた家族や友人たちに感謝している。



いのちは形じゃない。
いのちは響き合うもの。

生も死も、いのちだ。


2004年08月19日(木) 反抗

自分のことを非協調的な人間だとは思わない。
思わないのだけれど、もしかするとそうなのかなぁ・・・と、感じさせられる。
自分がしていること、しようと思うことが、世間的にものすごく酷いことのように感じさせられる。

そこに、強い憤りを覚える。



わたしはへなちょこかもしれないけれど、長いものには巻かれない。

協調的であることと、服従する、ということとは違う。


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