ぶらんこ
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昔、登校拒否をしたことがある。 小学校の頃に2回。 保育園の頃に1回。(これは登園拒否?)
登園拒否は最後まで遂行された。 何が理由だったのかは思い出せない。 たぶん、学校が休みかなんかで兄貴や姉たちが家にいたので、わたしも一緒に遊びたかったのかもしれない。 わたしは「行かない!」と兄弟たちに宣言し、押入れの中に篭った。 そこで兄貴は、わたしの代わりに弟を保育園へ行かせることを決めた。 (よくもそんなことが出来たモンだ・・・と、今になって思うのだけれど。) 弟はわたしの通園バックを肩から提げさせられ、嬉々として出かけて行った。 わたしはそれを押入れの壁の穴から見ていた。 ほんのちょびっとだけ、弟をうらやましく思った。こんなことしてるよりも、保育園に行ったほうが楽しいのかも。。。とも思った。 それでもやはり、これで確実に休めるんだ。。。という開放感で満たされた。 なのにその後、どうなったのかはまったく覚えていない。 どうやって押入れから出て行ったんだろ?笑
登校拒否の方は完遂されなかった。 二度とも、母に無理やり手を引かれ、学校に連れて行かれた。 大々的に遅刻したうえ、泣きはらした目で一日を過ごす羽目となった。 自分でしたこととは言え、かえって目立つようなことになり、後悔の気持ちでいっぱいだった。 そして、二度目の挑戦が撃沈されたとき、母には何をやってもかなわない。。。なんとなくそう思った。 だから三度目はなかったのかもしれない。たぶん。
学校を休む、ということはなぜか罪悪感を伴う。 大人になった今じゃ、そんなに悪いことでもないと思うのだけれど。 だから、おたふく風邪で休んだときなんか、幸福感でいっぱいだった。 正々堂々と休めるからね。 「ズル休みじゃないんです。わたしは病気なんです。」 身体はキツくても、なぜか嬉しい。むしろ、どこか誇らしくもあり。 なんとも不思議なこども心の葛藤。
「ズル休みは良くない」と、多くの人は言うだろう。 大体に、「ズル」という言葉自体がもう既にネガティブだ。 では何が悪いのか?というと、たぶん、第一に理由が「嘘」だから。かな。。。
たとえば、風邪でもないのに風邪です、と言ったり、熱がある、と言ったりする。これは真っ赤な嘘だ。 まぁ「わたしは今日ズル休みをします」と言ってもいいのだろうけれど、それでは相手も困る。 ズル休みをするときというものは、休むことを決めているのだから、その時点で「嘘」をつく覚悟でいる。 (そう考えると、「ズル」というのも、なかなか正直な行いであるようにも思えてくる。笑)
それから、第二に、簡単に休もうなんて考えず、もっと我慢することが(も?)必要。或いは大切だから。と、いうこと。 「ちょっと今日はだるいので休みます」では、誰も納得しないだろう。 だるいのはあなただけじゃないよ、みんな辛いし苦しいよ、とか。 そんな理由は「ズル」だ、とみなされるわけだ。 けれども、そもそも苦痛の度合いというものは人それぞれであり、万人に通用する数値に置き換えることは出来ない。 数値はあくまでも、その人自身の「感覚」でしかないわけだから。 なので、たとえ自分が10の苦痛がある、と感じていても、相手はそう受け止めてはくれない。 相手にとってそれは、2だったり5だったりするわけだ。 ということは・・・ 「我慢することも必要」という言葉もナンセンスに聞こえてくる。 あなたに我慢できてもわたしに我慢できるとは・・・そんなの誰にもわからないでしょ。
学校を休むためには正当な理由がいる。 ここで言う「正当」とは、学校という場所が勉学のために通う所、ということを第一である。ということを前提とした上でのもの。 簡単な例では、風邪をひいて咳が酷い、とか、熱が高い、とか、そういったことは「正当」だろう。 でも、熱があったって薬を服ませて行かせる、と判断する親もいる。 咳をしていてもマスクをつければ良い、と判断する親もいる。 となると、正当な理由というのは、 「親が子に対し、学校を休ませる必要がある、と判断した場合」 ということだと思う。 熱がなくても、これでは勉強にならないだろう、というのが理由で休ませることも出来る。 要は、親が責任を持って判断すれば良いわけだ。
と、まぁ。。。長々と能書きをたれたのだけれど。
たまには「休み」も良いもんだと、わたしは思う。何事も、経験するべきだと思うから。
でも、「ズル休み」というものは、非常に(!)気まずい。 まず、電話をかける時点で、思わず声がうわずってしまった。。。 嘘をつく覚悟がきちんと出来ていなかったのだろうなぁ。。。まいった、まいった。 はっきり言って、もう二度とこういったことはしたくない。笑
しかし、「我慢」ということに関しては、充分過ぎるほどに学んでいる。と、思う。 だからときには理由もなく休んだって良いように思う。 (とは言っても、理由は必ずあるのだろう。意識下であっても。) 今日、学んだことがあるとしたら、「嘘」をつくこと(つかせること)の後ろめたい気持ち。 それから、なんとも言えない開放感! そして「共有」!!
たまには「ズル(?)」も良い。のかもしれない。。。笑
使命感とか義務感ではなく
地位や立場といったものは
無に等しい
姉のお店ではいつも穏やかな曲が流れている。 どこまでも優しく、静かで心地良い。。。 曲じゃないときもある。 1/f(ゆらぎ?)とか呼ばれる音。 森に流れるせせらぎや鳥のさえずり。波の音。波と遊ぶイルカの声。。。 こういった音は、疲れた体と心に良いのだろうと思う。 休息を求めてやってくるお客さんにはきっと必要な「癒し」の音。
時々わたしも(お客さんのいないときに)ひまし油パックをやってもらっている。 温かいひまし油パッドをお腹に当てるのだが、ベッドに横になって音楽を聴いていると、とろとろといつの間にか眠ってしまう。 疲れてるわけでもないのに。。。と、不思議に思う。 でも無自覚なだけで疲れているのだろうな。。。たぶん。
「癒しの音楽」といったようなことが書かれているCDを聴いていて、思い出した場所がある。 ナウシカが呼び寄せられた幻の庭。 今、手元に原作本がないので、その場所の名前が思い出せない。。。 (全7巻の漫画版「風の谷のナウシカ」に出てくるシーン。映画には登場しない。)
そこは、きらきらとした光が降り注ぎ、そよ風の吹く平和な「護られた」場所だった。 外界からは見えない。つまり、存在しない場所だとも言える。 ナウシカはそこへと入り、そして、いつまでもそこにいたい、と願う。 すべてが調和に満たされたその場所に。
けれども、ナウシカはやがてそこから出て行く。自分の力で。 引きとめようとする強い存在に、彼女はきっぱりと言う。 「無駄です。オーマに名前を与えたときから、わたしは心を閉ざしました。」
わたしは映画になったナウシカの曲たちが大好きだ。 わたしにとっての「癒し」の音楽だと思っている。
腐海の中で、胞子の結晶が雪のように樟気の森に降り注ぐときの、どこまでも透明で静かな、美しい音楽。 蟲たちがざわめき始め、森が異様な雰囲気になるときの緊張した音楽。 ナウシカが怒りに燃え上がり、闘い、人を殺めるときの、荒々しい力強い音楽。 王蟲が登場するときの、神々しくも重厚な音楽。 ナウシカの心をあらわす、深いふかい悲しみの音楽。 風をつかみ、空を飛ぶ、優しくてとても自由な音楽。
いろんな音に、メロディーに、サウンドに、自分の心が重なる。 憤り、苦痛、自責、抗い、激しさ、悲しみ。。。 自身の中の感情が、音楽とともに体中の細胞ひとつひとつにしみわたっていき、ほとばしる。 そして最後に、心は静かな喜びに満たされていく。 希望。しあわせ。祈り。。。 そういった言葉が心に浮かんでくる。 なぜかわからないけれど、いつもいつも涙が出てしまう。
音楽というものは本当に美しいなぁ。。。と思う。 それに響きあう、ひとの心も美しいのだろうな。。。と思う。
そして、「癒し」ということもまた、そういうものなんじゃないかなぁと思う。 優しいだけでない、静かなだけではないもの。 交響曲のように。 出会い、経験、共有、変調、放出、受容。。。
一連の流れがあってこその、美しさ。
ひとには、たくさんの水と風があれば良い。そして、少しの火。 多過ぎる火は何も生まない。
・・・
「風の谷のナウシカ」を見た。 先の言葉は、ミト爺(たぶん)がクシャナに言ったもの。
水と風。火。
わたしは「水」の星座。
今日は雨降り。。。
 すれ違いざまに、こんな言葉をかけられた。
「もう少しですよ。」
なんて良い言葉なんだろう。。。
これまでずっと、自分に言ってきた言葉。 これからもきっと、ずっと、言い聞かせるであろう言葉。
もう少し。 もう少し。
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