ぶらんこ
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先日、海岸線をずっと走った。 寒波が近づいていたせいか、天候のわりに、海は時化ていた。 強い潮風をすぐそこに感じるほどに、海面は白くうねっていた。 やっぱり海の見えるところっていいなぁ・・と、心から思う。 朝に夕に、陽に照らされた海を、風の見えそうなその海面を見る。 雲が映り、雨が走ってくる。 浜に下り、波打ち際を歩く。 流木を拾って家に持ち帰る。 石ころに絵を描く。拾い集めた貝殻を洗って飾る。 あさひの昇るところを見ながら食事する。(出来るなら東側がいい)
そんな場所で暮らせたらどんなに素敵だろう、と思いをはせる。 でも、台風が来るたびにわくわくもしてられないかな、と思う。 車だってすぐ錆ついちゃうだろうな。 それに・・・津波が来たら家はあっという間に流されてしまうんだろうなぁ、、、とも、思う。
時々、自分の居場所というものについて、ぼんやりとおもうことがある。
島は土地が少ない(山が多い)ために、住むには案外、お金がかかる。 それでも島の中心地から離れた、いわゆる不便な場所は、比較的安いらしい。 ちいさな集落の、そこからもまた離れた場所などは、島特有の人付き合いからも若干、距離を置ける。 そんな場所になら、住んでみても良いかも。。。 わたしがそんなことを口にしたとき、母はこう言った。 「人と離れては暮らせんよ」
いつまでも健康なわけじゃない。 歩いて行けるところにお店があるとか、誰かとすぐに会えるとか、そういうことがすごく大事。 それは、歳をとると尚のこと。 ひとり遠く離れて暮らして、若いうちは、健康なうちは、それを自由だと感じて楽しめるだろう。 どこへ行くにも、車があればなんとでもなる。 でも、いつまでも車を運転できるわけじゃぁない。 何もかもひとりでは出来なくなるだろう、きっと、いつか。
「そばに人が居らんと寂しいよね」 これは、新潟中越地震被災者である、あるお婆さんの言葉。
自分の居場所について、ぼんやりとおもうことがある。
地に足をつける、ということ。 身軽である、ということ。 生活を楽しむこと。 生きること。 生きることを、感じること。
自分の居場所を、自分自身を祝福すること。
2005年01月31日(月) |
what I want |
こころが「モデルになりたい」と言い出した。
というか、彼女は以前からそのようなことをおぼろげに思っていたようだし、わたしに対して口にもしていた。 それが最近になって、やや積極的になってきた観。 どうやら、友だちの影響らしい。そんなことだと思った。しかしまぁそれも悪くはないだろう。
「やってみればいいんじゃないの?」 と、わたしは答える。 挑戦してみるだけでも価値はある。と、思うから。 本当になりたかったら、自分でどうにか道を切り拓くだろう。 心を何かに向ける・・・夢中になる、ということは、どんな理由やきっかけであれ、素晴らしく、美しいことだと思う。
彼女は最初、わたしに反対されると思っていたらしく、とても驚いていた。 別に反対する理由なんか何もない。 逆に、なんて自由な発想なんだろう! と、感心したほどだ。(わたしにはなかった発想) だから、自分の願いのためにやれることをやれば良い。 ただし、お金を払うようなときは事前に相談してくれなきゃ困る。 つまり、モデルになるための学校に入りたい、とか、なんらかの登録料を払わなければならない、とか。 (そうなるときはとりあえず今はあきらめてもらうことになる可能性が高いけどね、とも。)
そう説明すると「もちろんだよ!ありがとうマミィ!」と、彼女はものすごく喜んでいた。 さて、一体どうやって挑戦するつもりなのか? たぶん、オーディションだな。。。笑
「なんでモデルになりたいの?」 と、聞いてみた。「ケリィがやるから?」 「いや、違う。」 と、こころは言う。 「まぁそれもあるけど、でも・・・かっこいいじゃん!」 かっこいいか。そっか。そら、かっこいいだろうよ。笑 「でも、服とかいろんなのって、貸してもらうだけだと思うよ。ただで貰えるわけじゃないよ。」 「そんなのくらい知ってるよ。ただ、やってみたいなって思うだけだよ。」 そっか。 きっと彼女の頭のなかには、カメラマンとかスタイリストに囲まれ、素敵な服を着てポーズを取る自分の姿があるのだろうなぁ。 それが雑誌とかに載っちゃったりして? みんなに「すっごぉ〜い!」とか言われちゃったりして???
せっせと洗顔に励み、3Dの本を見て視力回復(眼鏡からの脱出)を夢見るこころさん。 どうでもいいけど、自分がやりたいことをしているときのあなたは、とっても綺麗だなぁと思うよ。 やりたいことに向かう心が、光り輝いてくるんだろうな。
モデルか。。。 なれるかどうかはさておいて・・・さて、ダディはなんて言うかな?
わたしはこのことに対するわたしの気持ちをちゃんと伝えます。 あなたはあなたで、自分の気持ちを相手にわかってもらうように伝えなくちゃならない。よね。 What I want is...(何をしたいかと言うと・・・)
楽しみだ。。。笑
『出汁』と書いて『だし』と読む。 デヴィ夫人はこれを「でじる」と読み、「それだけは言って欲しくなかった、」と言われていたが、わたしも心の中でそう読んでいた。笑
うちは、鰹節といりこで、だしをとっている。 鰹節は、母が遊びに来るたびに島から大量に持ってきてくれるので、買ったことがない。 ただで貰えるものだからケチケチせず、思いきり使っている。 いりこは去年、ある催し物でいただいた、鰯(イワシ)を粉末にしている自然食品。 これを、鰹節でとっただしに小さじ一杯くらい加える。 そうすると、本当に、ものすごぉ〜く、美味しくなる。 ふぅ〜 しあわせ。。。って感じ。笑
ふんだんに鰹節を使えるようになってからは、市販の顆粒だしは便利だけれど、なんとなく抵抗もあって、ほとんど使わなくなった。 (もう買わなくなったので使えない、ということもあるのだけれど。) 鰹節でだしをとるのは手間がかかることなのかもしれないが、たいした手間ではない、と最近思うようになった。 たぶん時間に余裕があるからなのかもしれない。でも、気持ちの持ちようかな、という気もする。 だいたいに「鰹節」と言っても、ちゃんと削られたものだし。
昔(まだわたしが幼かった頃)は、本モノの(?)鰹節を1本手渡され、「削って。」と言われたものだ。 我が家には、今は懐かしい木で出来た鰹節削り器(というのだろうか?)があった。 この作業は、ときに楽しく、ときにうらめしいものだった。 特に、もう小さくなった鰹節なんか堅いし持ちにくいしで、削りにくくてしょうがない。 もう充分だろうと思ってそっと小箱を引き出すと、たいして入ってなかったりして、「まだまだ全然、足りん!」などと言われたりして。笑
今では「花かつお」と書かれたパックの削り節を使っているのだから、まったくもって楽チンだなぁーと思う。
昔は、どの家にも鰹節削り器があったのだろうけれど、今は骨董品のようなものかもしれない。 ずっと以前のことだが、『通販生活』でどこかの職人さんが作る鰹節削り器が紹介されていた。 それも決して、安くはなかった。かなり高かった、と言っても良いくらいだ。 素朴な、昔ながらの方法は、今では「贅沢」となってしまったらしい。 『さぁ、削りたての贅沢をご家庭で味わえます!』
便利なものはどんどん求められ、安くなる。 そうでないものは需要が少ないので、高くなる。 不便をお金で買う、贅沢。
うちには一応、鰹節削り器がある。(かの職人の『名器』ではなく) あるのだけれど、使ってはいない。台所の戸棚にひっそりとしまわれている。 時々それを目にすると、鰹節を削っていた幼いときのことを思い出す。 西日の射す台所で、しゃんしゃんと無心に鰹節を滑らせた。 湯気をたてる鍋。姉の後姿。水屋に並べられた器たち。
なんともノスタルジックな光景なのだけれど、ついつい笑みがこぼれてしまうとっても贅沢な思い出。。。笑
『ファルちゃん』
作:ないる(姪っこ)
針金と綿で出来てるそうです。 大きさは・・・今度聞いてみよう。
少し前に見ていたテレビで、ある先生がこう言っていた。 「怒鳴ったり、威嚇したりするのは、教育じゃぁないんです。」 これは確かな真実だと思う。 すごい言葉だなぁ・・と思った。 それに何より、そんな言葉を口にすること自体が、素晴らしいなぁ。。。と思った。
それを見ていて思わず、「わたし、こころに怒鳴ってるよなぁ・・・」と、呟いた。 こころがすかさず、「そうだ、そうだ!」と得意げに言った。 すると、傍にいた姉が、「だって教育じゃないから。暮らしだから。」と言った。 ふむ。。。これも確かな真実だなぁ・・妙に納得してしまった。
暮らしと教育。 母ちゃんと先生。
確かに違うはずだ。笑
お店で泣き叫ぶこどもに、真剣に怒ってる母親がいた。 言葉で言ってわかる年齢とか、感情的であってはいけないとか、いろんなことがあるけれど、 親と子って、本気でぶつかっているんだなぁ・・・と、見ていてあらためて思う。。。 まっすぐなこどもの気持ちには、向かうこちらも真剣でなければならないのだ。
さきの先生と母親と、おんなじものがある。 それは、深い愛情が基盤になっている、ということ。
3日前から、我が家の前のちいさな道の拡張工事が始まった。 以前からそんな知らせを受けてはいたが、いざ始まってみると本格的かつ大がかりなので、正直、驚いている。 それにも増して、淋しく、そして悲しい。
我が家は、国道からちいさな道を入ったところにある。 その道は車一台がようやく通るくらいのものだ。 対向車が来ると(殆どそんなことはないが)、どちらかが後退して道を譲らなければならない。 そんなちいさな道をくねくねとちょっと登って行くと、我が家が見える。 わたしもこころもこの場所が大好きだ。まるで外界から隠された秘密の場所みたいに思える。 そして、そんな隠れ家へ誘うこの道は、ちょっとした自慢でもあった。 誰も知らない道、と言っても過言でないくらいの。
実際、こんなところに人が住んでいるなんて誰も思わないだろう。。。 我が家の周りには4軒しか家がない。 少し離れたところに、古い屋敷が一軒。 そして、(よーく見ると)拡がる畑の真ん中に、大きな屋敷が一軒。 ここは、近くの集落からもはずれた、ゴミ収集車も来ないような、ちいさなコミュニティー。 畑と雑木林とあぜ道に囲まれた場所。
道路の拡張工事に伴って、雑木林の伐採が始まった。 容赦なく切られ、倒される木々たちは、トラックであっという間に運び出される。 我が家の目の前はすっかりと視界が開かれてしまった。 たぶんまだ半分も終えてないだろうに、なんとも言えない空虚感だ。 もう台風の度に、前庭が、折れた枝々や落葉たちで覆われることはないだろう。 台風でなくても、笹の葉なんか、掃いて集めてを何度も何度もくり返す、終わりのない作業だった。 でも、それは竹林がそこにあったからのこと。 竹も松の木も、なんだか知らない名前の低木も、みーんなぐしゃぐしゃに潰されて、取り払われてしまった。。。 そのうち立派な舗装道路が出来上がるのだろう。 大きなゴミ収集車も通れるようになるだろう。 国道を行く車たちもまた、ここを通ってパチンコやとか電気やとかに行くのだろう。 もしかしたら、近くの空き地も、既にどこかの不動産やが買ってしまってるかもしれない。 そうして、似たり寄ったりの建売住宅がどんどこ建っちゃうのかもしれない。 畑だって、切り売りされていくのかもしれない。ここらの他の地域と同じように。
わたしは、田舎に住みたいくせに、都市に住むのはもう無理だと思っているくせに、便利を求めて止まない。 生ゴミを処理する器械が欲しいと思っているし、どこに住むにもネットの繋がる環境であることを望む。 洗濯機のない生活なんて考えられないし、乾燥機があるなら尚のこと、嬉しい。 エアコンはあまり好きではないけれど、あるに越したことはないと思う。 鳴らないケイタイでさえも、キャンセルはせず使って(?)いる。
道路の拡張は公共事業だ。 もう随分前に決められ、その予算案が通り、いろいろな順番を待って、着手されたのだろう。 それは、人々の暮らしをよくするための目的で行われている。はずだ。 たぶんどこかの大きな道路と繋がり、交通の便が良くなったり、どこぞの街の渋滞が緩和されたりするのだろう。 そのためには木々の伐採も仕方のないことなのだろう、と思う。。。
だけど・・・あぁーあ。 夕陽が沈み、月の帰る場所が、なーんもない、つまらないところになってしまったなぁ!
昨日、お隣さんとの境界に植えようと思って少し前に買った木を植えてみた。 マンサク2本とモクレン1本。 植えてみたら、めちゃめちゃ、ちびっこく見える。 しかも向かい側にある雑木林がなくなったおかげで、思いっきり風の通り道になってしまった。 今朝の強風には、よく耐えてくれたと思う。。。笑 この木が大きくなるには、何年も何十年も、かかるだろう。 そのときまで、わたしはこの家にいるのかどうか、わからない。 どうなるかわからないけれど、どうか大きく育ちますように、と願う。
いろんなことは、なるようになってたことなのかもしれない。 しょうがないことなのかもしれない。 大きな流れのなかの、いろいろなこと。 それでもそれらはすべて、人が選択してきたことの結果であり、大きく言えば、その経過なのだと思う。
わたしは、未来には、大きな道路ではなく、大きな木を残したい、と思う。 大きな流れのなかにも、自分の意思というものがあり、それが未来をつくるような気がする。 まだ、よくわからないけれど。。。
マンサクの木がもうちょっと大きくなったら、この木の向こうから朝日が昇るだろう。 わいん片手に縁側に座り、モクレンの木の上から満月の昇ってくるのも見えるだろう。 今から楽しみだ。。。笑
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