ぶらんこ
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星を読むことが出来ると素敵だなぁ・・・と、思う。 でもわたしは星を読めない。 それどころか、せいぜい、おおくま座かカシオペア座を見つけられる程度だ。 冬の大三角形なんてものも、横で教えてもらったってなかなか見えない。 その代わりに、自分で勝手に星をつなげて星座を作ったりしている。
占星術(Astrology)とは、天空に輝く惑星と星座宮の関係から、地上の個人の運命を占うらしい。 正確な星の位置を知るには、生まれた日、時間、場所などが関係してくるという。 確かに単純に考えても、奄美大島と礼文島では月の出時間なんかは違ってくる。(そういう意味なのかな?) 詳しいことはよくわからない。 よくわからないのだけれど、なんとなく星占いは好きだ。 宇宙の法則のようなものを感じてしまう。
少し前に、今年(2005年)の個人チャートを見せてもらった。 でもわたしは、自分の生まれた正確な時間がわからない。 (母に聞いてもまったく覚えておらず、母子手帳のような出生時間の記された書類もなかった。) なので、そのチャートは、その日の星のおおまかな位置から出されたものだと思う。 正確な出生時間がわかったらほんの少し違ってたりするのだろうか。。。 それでも、「自分のもの」という感覚で見せてもらった。感謝。
ところで、弟は12月29日生まれだ。 でも父親が役場に届けるのが遅れたために、書類上は翌年の1月6日となっている。 兄弟姉妹のなかで、彼だけは病院で出生したらしいので、たぶん出生時間も記されているだろう。(ちょっと羨ましい。)
「それにしても出生時間が不明だなんて、残念〜〜〜。」 そんな話をしていたら、いちばん上の姉曰く、 「わたしたちの誕生日だって、本当に合ってるかどうか、怪しいわよ。」
妙に納得してしまった。。。。
あぁ星の位置がますますズレていく、、、、(なぜか笑える)笑!!
以前、愛知県・知多半島に誕生しかけた「南セントレア市」という新市の名前が撤回された。 今後、合併の是非を問う住民投票とともに新市名のアンケートが行われるらしい。 セントレア。 ちょっと画期的だな・・と思ってしまった。 もしそれが空港名でなければ、撤回されることもなかったかもしれない。(そういう発想もなかったかもしれないが)
市町村が合併されると、新しい名前が生まれることが多い。 島でも合併が予定されていて、新市名の公募が行われていた。(たぶんまだ決まっていない、と思う)
わたしの住んでいるところは、今のところ、合併の噂を聞かない。 山と畑しかないところなのに、どこかに何かしらの財源があるようだ。
すぐ隣の市は、合併が予定されている。 周囲の町、いくつかの名前が挙げられているが、最終的にどれくらいの範囲まで及ぶのかは、わからない。 エリア的には結構大きくなると思う。
名前はどうなるんだろうね。。。。 以前、そんな話になった。
市町村の名前は、地域に根ざしたものだから、合併されたからって、それがなくなるのは淋しいものだと思う。 特に、吸収された形で消失してしまったら尚のこと。 そういう意味では、(新)鹿児島市なんて、なんの魅力もないよ。
どうせなくなるのなら、素敵な名前が良い。 これまでとはまったく違った感じの名前。
「大空市」とか「青空市」とか「大地市」とか。空が広く土地も広い、という意味で。 或いは「大海市」。これは芋焼酎の名前だけど。。。。笑 「のんびり市」とか「ゆったり市」というのもいい。
どうでしょう???誰も賛同しないかな。。。。笑
 「結局、私のほうは遊びだったということね?」 「大きな意味ではそうだね。」 「大きな意味ってなによ。」 「こういうやりとりはもうやめようよ。楽しかったことまで、だめになってしまうよ。」 「もうだめになってしまったから、同じよ。」
『ハゴロモ』 よしもとばなな
大きな意味ってなんだろう・・・。 この本を読んだとき、この言葉が胸にチクリと刺さった。 なんてこったい、まるでわたしのために用意されたような。
大きな意味。 勝手に大きく解釈しないでよ。 まず最初にそう思った。 良い表現だ。これじゃ何も言い返せないじゃないか。 そうも思った。 優しいようで冷たい。 嘘っぽいくせにホントのほんと。
ずぅーっと昔、意識を薄める練習(?)をしていた。 それはまず、「意識する」ことから始める。 呼吸を意識する。瞬きを意識する。心臓の鼓動を意識する。 どれもこれも、いつもは無意識に行われているわたしのなかの生の営み。 そのみっつすべてを意識するように集中してみる。 それから、(ちょっと矛盾しているのだけれど)意識的に意識を薄めていくのだ。 意識していることを意識せずに、呼吸を、瞬きを、鼓動を、感じ、見、聴く。 そうすると少しずつ意識が薄れていく。 雲がどんどんとその形を変えながら動き膨らみ消えていくような感じで。。。。
大抵、成功の一歩手前くらいで終わってしまった。 時に、成功した(っぽかった)こともあったような気がする。 けれども、意識が薄まったことを意識してしまっているのだから、それが成功と呼べるのかどうかはわからない。 ばかばかしいほどに、ややこしい。。。。
大きな意味というのは、それに似ているな、と思った。 どんな感情でもすべて包み込むもの。 あなたが意識しようが意識しまいが、おおいなる愛はすべてを包み。。。。
わかっているつもりになっても心が痛む。 それでもいいのです。大きな意味では、きっと。
ひょんなことから幽霊話をするはめに。
以前は幽霊(らしきもの)を見ることがあった。 もう随分前のことだ。 不思議とそれがなくなった。同時に、金縛り(らしきもの)も消失してくれた。 どうしてかはわからない。
見ようと思えば見えるのかもしれない。 と、いうよりも、そのように意識して認めるなら、見えるような気がする。 でも、きっと以前とは違った形(雰囲気)で見えるだろうし、怖いと感じることもないだろう。 どうかな・・・そんなこともないかな。。。笑
うまく言えないのだけれど、わたしはたぶん、自分の意識が映し出したものを見ていたのだと思う。 それは自分自身の意識だったり、誰かの、何かの意識だったり。 そして、わたし自身がそのことを怖がっていたので、より恐ろしげな雰囲気をかもしだしていたように見えたのだと思う。 過ぎてしまったから、そう思えるだけなのかもしれないけれど。
今は何に対しても「悪い」という感じを受けることは少ない。 少しはある。でも、たいしたことない。というか、あまり気にはならない。 わたしには関係のないことだ、と思っているからだろう。 背負う気持ちがないからなのだろうと思う。冷ややかなモンだ。
良いものは見えるような気がする。 たとえばこの家。 天使に護られている。これは、ホント。 きっと、もっともっと「意識」すれば、天使の姿も映し出してくれるだろう。そのうち。。。笑
と、いうようなことをこころに説明した。 彼女がどこまで理解したかはわからない。 少なくとも、真剣に聞いてくれていた。けっして馬鹿にすることなく。(さすが「ほんこわ」部員だ。笑) まぁ・・・実のところわたし自身も理解はしていない。 想像の域さえ超えれば見えるのだろうなぁ。もうじきだと思うのだけれど。。。。笑
こころと話していると時々、「それっていつの時代の話?」と聞かれることがある。 いつの時代ったって、もちろんわたしが生きてる時代なのだけれど、彼女にしてみればはるか大昔のことのように思えるらしい。 まぁわたしの場合、正直なところ特殊な環境にあったので、彼女の気持ちがわからなくもない。 が、それを抜きにしたとしても、平成生まれの彼女にとって昭和は想像のものでしかないようだ。 カラーテレビなんて言葉は、わたしの説明を聞いてちょっと間があり、理解した途端に笑い出していた。 ふむ。。。確かに時代の差は<かなり>ある。と、思う。
彼女はわたしの昔話が大好きで、今でもよく話して聞かせる。 島という自然・生活環境に加え、わたしの家庭環境をも織り交ぜて話さなければ、(オチは)なかなか理解できない。 というワケで話は長く大きくなり、彼女にしてみればさながら冒険物語のように聞こえるらしい。 (不本意ながら、オチじゃないところでよく笑い転げたりもしている。)
わたしは、話をしながらあらためて過去のことを思い出している。 思えば遠くへ来たモンだ。。。我ながらこの変化によく付いてきたよなぁ・・・と、思う。 たとえば、我が家に黒い電話が来た日のことを今でも覚えているのだけれど(この話はこころに大ウケだった)、 今では携帯電話なんか持つような身分になった。。。そんなことは夢にも思わなかったよ。ホントに。
そう考えると、現代に生きる老人たちは本当に凄い! と、心から思う。 彼らは大正、昭和、平成、と3つの時代を生きてきた。中には明治を知っている人もおられるだろう。 戦争があり、貧困があり、開発があり、発展があり。。。 昔は川へ行って、手足を使い洗濯していたのが、全自動の洗濯機を使うようになった。 たぶん村長さんとかの家まで行ってラジオを聴いていたのが、今じゃ自分専用のテレビを見ている(かもしれない)。 しかもちっちゃなボタンのついたリモコンなんかを操作したりして。 手で掬ってもらって鍋に入れ持ち帰ったお豆腐は、水漏れなんかあり得ない完璧なパックに入っている。 他にも・・・赤信号で待つとか、白線の内側で順番に電車を待つ、とか。。。
それに個々の経験も含めると、本当に様々なものすごい変化を、受け入れてきたんだなぁ・・と、思う。
身近な例で、こんなことがある。(ちなみにこれはカトリックの話) 全国的なものなのか鹿児島県下のものなのかよくわからないのだが、何年か前に「祈り」の言葉が改正された。 以前の難解な文語体から、現在の言葉に直されたのだという。 確かにわかりやすい。わかりやすいのだけれど、わたしは今だに覚えられない。(覚える気もないけど。) でも、母は新しい祈りをスラスラと唱える。すごいなぁ、、、と感嘆してしまう。
そう言えば、日本の教会は何十年か前まで、ラテン語でミサを行っていた。(それが文語体の日本語に翻訳されたのだった。) いちばん上の兄貴なんか、酔っ払うとラテン語で聖歌を歌ったりする。(かなり面白い。) つまり母は、祈りを、ラテン語、文語体、そして現在の形で唱えることが出来る。 祈りなんて言葉じゃない、と思うのだけれど、言葉に込められる力というものがあることも信じているので、やはり素直に尊敬する。 母も含めて歳を重ねた人というのは、きっと、とても柔軟なんだろうなぁと、思う。
新しいものを取り入れるには古いものを捨てていかねばならない。 程度の差こそあれ、そんなモンだと思う。 もしも捨てきれないのであれば、新しい容器を準備する必要があるだろう。 古い油の入った容器に新しいのを入れる人はいないからね。 増えた写真のためには新しいアルバムを。新しい花を植えるためにはそれなりのスペースを。
たぶん、人も同じなのかな・・・と思う。 新しい自分になるためには、古い自分ではいられない。 新しい自分を受け入れるということは、古い自分を捨ててしまう、ということ。 過去も未来も、今の自分とともにあるのだろうけれど。。。
今日はいちにち雨降りで、そんなことを考えていた。
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