ぶらんこ
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2005年03月14日(月) ホントの気持ち

お酒は毒だと思う。
毒だから、飲みたくなる。
毒だから、美味しい。


もちろんわたしは、お酒が好き。です。
ビールは飲めないし、飲まない。けれど、ワインは大好き。
焼酎も好き。お湯割りなんか、素晴らしく美味しいと感じる。
それでも昔に比べると弱くなった。しかしながら、今でもまぁまぁ「飲める」ほうだとは思う。



お酒を飲むと、陽気になる。
酒を飲んで、暴れたことはない。(たぶん)
泣いたことは・・・・・ある。(もちろん)
でも、大体が楽しいお酒だ。歌ったり踊ったりする。結果、余計にぐるぐるマワッてしまう。
それくらい、しあわせなお酒になる。


お酒を飲むと気持ちが大きくなる。
それは、心を開いてしまってるような気分でもある。
いろんな呪縛がなくなって、思うままに喋ってる感じ。
普段は言えないようなこととかも、口からするすると出てくる。
それは「本心」と呼べるものに近い(ようにも思える)。
もし、周囲も酔っているのならば尚のこと。


でも・・・

酔っ払いの言うことは、本当は本心なんかじゃない。
ホントの気持ちなんかじゃない。
心開いてるわけじゃない。
それはたぶん、毒が吐かせただけの言葉。
薄っぺらな気持ちの、そのまた、うわっつら。

聞いている酔っ払いだっておんなじ。
実際のところ、彼らはなぁーーーーんも聞いちゃいない。
うんうん、なるほどと聞いてる姿・・・それは毒が見せる、ただの幻。



わたしはお酒が好きです。
お酒を飲む人も酔っ払いも大好きです。


けれども、もしも何か伝えたいことがあるのなら、
もしも何か聞きたいことがあるのなら、
酒なんか飲んでないときのほうが良いのです。


心は毒に支配され、魂はそこを離れるからです。
開かれた心と感じたのが、実は空っぽの心だったりするからです。





2005年03月13日(日) ひとり、ふたり

寒い一日。
天気は良かったのだけれど、風がとっても冷たい。
朝、高隈山には雪雲がかかっていた。
山の上が雲のなかにすっぽりと隠れていて、幻想的。。。。



母が遊びに来て一週間になる。
今回は比較的、身体の具合いが良さそう。気持ちも上向きな感じだ。
そういうのは見ていてよくわかる。そして、こちらまで嬉しくなる。


母は父に死なれてから、ずっとひとりでいた。
再婚なんて考える暇もなかった、と言う。
結婚は(父との)一回限りで充分!とも言っていた。
でも、ひとりでいることを淋しく思うこともあるようだ。
特に老夫婦を目にしたときなど、父のことを思い出すらしい。


わたしも、今、父が生きていたらなぁ・・と思うことがある。
そうしたら母は、どんなだったろう・・と思うことがある。
夫婦ともに年老いていくことの素晴らしさを思うことがある。
母はもっと笑っているだろうか。
もっとしあわせに感じるだろうか。


わたしはどうだろう。
自分が老いていくことをうまく想像できない。
そんなに長く生きていないような気もするが、きっとひとりでいるんだろうなぁ・・・と、思う。
淋しいかな。。。。? まだよくわからない。




2005年03月11日(金) 開放

3月になってすぐ、いつも行く窯元へと出かけていった。
5、6年くらい前にこの場所を知り、彼の焼く陶器に魅せられ、機会があれば訪ねている。
この窯元さんはとても素敵だ。作品も、ご主人も。


彼に、以前買った陶器のことを話す。
こんな感じのヤツで、ここがこうなってて、これくらいの大きさで。。。あの形はもう焼いてないんですね・・・みたいなこと。
すると、彼は決まってこう言う。
「思い出せないなぁ。。。」

最初はちょっと驚いてしまった。
「忘れる」なんて!そんなことって!
でも本当に彼は覚えていないのだ。おぼろげには思い出したりもするらしい。でも、殆どの場合、まったく思い出せない。

こんなことも言う。
「なんだって、そんなモン、創ったんかなぁ。わからんなぁ。。。」
えぇぇぇぇ??? ・・・思わず笑ってしまうようなお言葉じゃないか。


これが、職人としてどうなのか、或いは芸術家としてどうなのか、素人のわたしには全然わからない。
わからないけれど、でも、もしかしたらそれってすごいことなんじゃないかな・・・、と、最近、思う。

その窯元に行くと、工房の庭先に彼の古い作品が無造作に捨てられている。
もしかしたらそれはオブジェとして配置されているのかもしれない。わからない。
でもどう見ても、捨てたように、置かれたままだ。もちろん、雨ざらしで。
誰かが盗んで行ったとしても、彼は気付かないかもしれない。気付いたとしても、たぶん気にしないだろう。


彼はときどき、古い作品を「くれる」。
「捨てようと思ってたやつだけれど、良かったら持ってって。」と、さらりと言う。
以前どこかのコンクールに提出したようなやつも、いただいてしまったことがある。
「この作品のタイトルは何ですか?」
そのときそう聞いたわたしに、彼はちょっと恥ずかしそうに言った。「タイトルは、言えない。」「無題。なんとでも。」と、笑った。
可笑しくなってわたしも一緒に笑った。なんでもいい、だって。なんてまぁ。。。


古い作品に対する「こだわり」がない。ということ。
こだわらない、というのは、執着がない、ということ。
執着心がない、ということは、自由、ということ。
自由というのは、いつも、常に、新しい、ということ。



わたしは、自分には信念がある、と思っている。(へぼ信念だけれどね)
でも、本当はそんなものも要らないような気がしてくる。
「信念」というのは、ある意味「執着」みたいなものでもあるような気がする。
(あ、でも、へぼ信念くらいだったらちょうど良いのかもしれないな。。。。笑)


この数日間、書きたいなぁ・・と思ってたことがいくつかあったのだけれど、今となってはもう書きたくないというか、意味がない、というか。
時間が経つともうどうでも良かったことのような、今このときに書くにはそぐわないような。

しばらくPCが使えなくなって、ちぃっとばかり、いろんなこだわりから解放されたような気がした。
それは、開放、でもあったのだと思う。

日々、へぼ信念をぶち壊せ。  だな。。。




2005年03月05日(土) FAITH



 

  FAITH IS LIKE
  WIND UNDER
  YOUR
  WINGS
          Carol Endres





3月。
友人から貰ったカレンダーに上記の言葉が書かれている。
なんて素敵な言葉だろう。
添えられた絵もまた素晴らしい。
風になびく枝葉の下、天使が羽根をひろげて飛んでいく。(上の絵ではなく)



今日、こころの学年末テストが終わった。
本人曰く、まぁまぁの出来かな・・・といった感触らしい。
というか、終了した途端、元気になった感じだ。
「進級出来るかどうかの判定になる」という先生の言葉に脅えて泣いた日が夢のよう。。。。笑



FAITH

風のように自由なものでありたい。
だからこそ飛べる。
愛する。
与え、与えられる。



2005年02月27日(日) みんなおんなじ

誰も、誰かに、「あなたはこうするべきです。こうしたほうが良いです。」なんてことは言えない、と思う。
まぁ言ったって良いだろう。そらあなたの勝手だ。
でも、それは(言葉は悪いが)余計なお世話だと思う。
そしてわたしは心のなかで言うのだ。「うっせーが、ばーか。」(失礼、)
その誰かは(なんだ、コイツ)と思うだろう。(なんて愚かな・・・)と、思うだろう。
それはそれでいい。だから、ほっといてちょうだい。


未来は既に用意されている。と、聞く。
今この同じときにどこかの空間(airはあるのかなぁ?)を、とうとうと流れている。とも、聞く。
どちらでも良い。
おおいなる流れ。逆らえない運命。不可避なこと。
そういったものを否定はしない。
でも、自分で進む道は自分で決めるよ。誰の命令でもない。自分の意思で選択する。
わたしの意志がわたしの未来を創る。それがある程度用意されたものであれ。
そう信じている。


「こうしなければ、酷いことになりますよ」
そんなこと言われても、わたしは信じない。
「こうしておけば、素晴らしいことになりますよ」
そう言われてもわたしは信じない、自分がそれを望まなければ。


わたしはわたしの望むようにやります。あなたが決めることじゃない。
誰に何を言われても良い。どう思われても良い。人は関係ない。自分がどう思うか、だ。
基本的にそう思っている。
どうしたって、良くも思われれば、悪くも思われる。
それは人それぞれの見方であり解釈だ。
誰もそれに、口出しは出来ない。
その人の自由な選択だから。




わたしはわたしのやりかたで大丈夫。
わたしは自分で決めて自分でちゃんと決着をつける。
どんな方法でもどんなに時間かけても、自分の思うとおりに、自分の納得するやりかたで。

あなたはあなたのやりかたで。
わたしがそれで大丈夫なように、あなたもあなたのやりかたで大丈夫なのだから。
それだけの力を、人はそれぞれ、ちゃんと持っているのだと信じたい。

上も下も先も後もない。
良いも悪いも賢いも愚かもなんもない。
みんな、おんなじ。

だから、泣いてもいいし怒ってもいいし引き篭もってもいいし暴れてもいい。


わたしはわたしを信じます。
わたしはあなたを信じます。



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