ぶらんこ
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話せば話すほどに、これまで知り得なかった、その人の一面を知る。 それは思いもよらぬことで、新鮮な驚きで。 へぇ。。。。と思ったり、えぇぇぇ、、、とがっくりしたり。 自分とよく似ている・・と感じていたものは、少しずつ、ゆっくりとほどけていき、新しい何かが作られていく。わたしのなかで。 たぶんそれは「その人らしさ」みたいなもの・・なのかもしれない。わたしのなかの。
人を知る毎に、自分とは違う「何か」が増えていく。 決定的な違いを見つけることもある。 それは頼もしいような、頼りないよな、嬉しいような、淋しいよな・・・。 掴めそうで、はかない何か。
それが、ときになにかの拍子で、心地よい音がする。 心の奥深く、普段は気付かないようなところに、ちょうど良く置かれたように。 コトリ、と、音が聞こえてくる。 トクン、と、心は応える。 そんなとき、あぁわたしはこの人が好きだなぁ・・・と、思う。 知らされたいろんな違いも、知らないいろんなことも、すべて忘れてしまう。 どうだっていい。関係ない。 それくらい、素敵な響きがする。
そんな友人が何人かいる。 彼らは、それぞれにさりげなく、わたしを見てくれている。 知らん顔しながら、放っておきながら。。。。 彼らにとってのわたしも、そんな存在でありたい、と思う。 ありがとう。いつも感謝しています。
人は、自分のことがいちばん好きなのに、いつも自分以外の誰かを求めている。 自分のことで手一杯なくせに、いつも自分以外の誰かを気にかけようとする。 どうしてだろう? 自分に不足しているものを、その誰かで補おうとしているのかな?
自分とまったくおんなじな人なんて、いないだろう。 なのに、この世界のどこかに、そういう人がいるような気がする。 馬鹿げた考えかもしれないけれど、心のどこかで、そんな風に信じている。
その人と一緒にいると、どんな音が聞こえてくるのだろう。 心はどんな音で応えるのだろう。
それはそれは、素敵な響きだろうと思う。 ちいさな聞こえないくらいの音だけれど、それは始終、響いているような気がする。 お互いに出ない音を補い合うかのように、優しく響きあうような、そんな気がする。
大きな洋館の前に立っている。 わたしは友人と一緒に、海へ続く道を歩いていた。 この洋館は、以前もあったような、なかったような・・・なんとも不思議な気持ちで見上げている。
高い鉄門はとても重々しい感じがしたが、よぉく見ると葉の模様が施されている。ところどころに小鳥がとまっているのが、なんとなく愛らしい。 ふと、門の右側に掲げられた飾り看板のようなものに目がいった。 楕円形のそれは、鉄門と同じ素材で作られている。そこには、大きな一本の樹が美しく彫られていた。 惹きつけられるように見入っていると、ほどなく、中央に「楡」という文字が浮かび上がってきた。 楡(にれ)? わたしは、この立派な樹木が楡の木なのかもしれないな、と思う。でも、もしかしたらこの洋館に「楡」という人が住んでいるのかもしれない。
「ねぇ。楡の木って、どんなだったか覚えてる?」 友人に聞いてみた。と、同時に、その看板(表札?)の中がぐぅん、と動いたような気がした。
楡の樹に風が吹き、葉がざわめき、膨らみ。。。。
それは、全体としては楡の木なのだけれど、部分的に見ると違っていた。 まず、右上半分に建物。その手前には鉄門。 建物の左手には森が拡がっている。 そしてその森を抜けると岩場があり、そこにはアスレチックのような遊具があった。 その遊具は、複雑ながらも岩場から坂のようになって空き地へと繋がっている。 空き地には大きな楡の木が立っている。 そこを抜けると、鉄門。 その門をふたりの人間が見上げている。
わたしたち???
よく見ると、アスレチックでは小さな者たち(小人?)がせっせと動いていた。 彼らは坂を下りて行くうようにも登っていくようにも見える。まるで安野光男の描く世界。見れば見るほど、わからなくなる。からくりの坂。 右上にある建物は、目の前の洋館。今になって、洋館の向こう側に実際、森が拡がっているのが見える。 きっと、中へ入ると池もあるに違いない。 その池を取り囲むように家があり、森があり、坂があり、空き地があり、楡の木が立っているのだ。
絵のなかの池に目を向けると、いきなり竜があらわれた。 竜は、ゆるぅりと頭を出し、音もなく(聞こえないのは当然だけれど)すすっと左へ進み、全貌は見せずにまた水の中へと消えていった。 「ちょっ、ちょっと今の、見た?」 思わず大声で友人に聞くが、彼は「ん。。。」と言っただけだった。 わたしはもう一度、じっと池を見つめてみる。 するとそこに、「楡」という字が浮かんできた。美しい大きな楡の木と。
(もう一度。。。) わたしは頭を振り、目を閉じ、心に念じてから、また目を開ける。
鉄門は閉まっている。 洋館の窓は開けられている。 森がざわめく。 からくりの坂では小人がせっせと動いている。 池には悠然とした竜の姿。 楡の木。
やっぱりここは楡の世界だ。心に念じていれば、きっと入れるはず。
「じゃ。。。行くしかないみたいだね。たぶん。。。」 友人に言われて、わたしは鉄の門に手をかける。
海風が吹いて楡の木が膨らみ、わたしたちを迎え入れてくれる。
2005年03月20日(日) |
Heal yourself |
自分に嘘をつかないこと 自分を誤魔化さないこと 自分を見つめること 自分のなかの いろんな気持ちを知ること
「忘れたい」と思うこと 「忘れない」と思うこと 「どうだっていい」と思うこと 「どうにかなりたい」と思うこと 「なんとかなる」と思うこと
あきらめること 受け入れること 拒むこと 求めること
そんな気持ちを 抱きしめること
自分を許すこと 認めること 信じること
愛すること
愛すること
すべてを信頼し すべてをまかせること
寂しさや悲しみは薄れていないのに、あの子の笑顔だけが次々と浮かんできて・・・
「喪失」の悲しみはとてもとても、深い。 愛するひとを失ったひとの悲しみを理解することなど出来ない。 出来ることがあるとしたら、ただ、そのひとの心に添う(その気持ち)だけだと思う。
悲しみは長い時間をかけることによって癒される。(その時間はひとによって違うだろう) また、表面上は普通の生活を送っていても深い悲しみを抱えたままの場合もあるし、そのひと自身さえ、それに気付いていないこともあると思う。
それでも、悲しみはいつか癒される。 それは生の営みであるように思う。 魂の成り立ちであるように思う。
わたしの悲しみも、いつか癒されるだろう。 悲しみは、悲しみのなかから生まれる何かに変わり、
忘れないけれど、忘れるだろう。 痛むけれど、痛まないだろう。
夕飯の準備をしていると、「あっマミィ、今日『いかそうめん』が来た!」と、こころが言う。 「いかそうめん?来た?」 なんのこっちゃい、と思いながら「これはいか納豆なんだけど・・」と言う。 ちょうど昨夜の残りのいかを使って「いか納豆」をこしらえていたので。 「いか納豆?」 今度はこころが首をかしげる。 「わっ、くっさーーーい!何それ!」・・・だから・・・いか納豆だってば。。。。
どうも噛み合わない会話になってしまったが、「いかそうめん」というのは、個人成績表のことだった。 そこには、各科目の点数、3科目・5科目・総合点数、クラス順位、学年順位、偏差値等々が書かれている。 たぶん、全体の表から、名前のラインに沿って切り、各生徒に渡すのだろう。 幅が1cmにも満たない細長い紙きれは、いかそうめんに見えなくもない。 先生がネーミングしたようだが、ジョークとしてはいまひとつ。。。(余計なお世話)
「で?どうだったの?」 するとこころはにかっと笑ってわたしに近づき、「あのね・・・」 なぜか内緒話のように耳うちしてきた。しかも息の声。
「えええええ?すっごぉーーーい!!!」 「えへへへへ〜〜〜〜〜」
でも、こころはその大事ないかそうめんを学校に置き忘れてきたらしい。 だからわたしは実物をまだ見ていないので、本当のところはよくわからない。 まさか見間違いだったりして。。。。 それよか、もうなくなってたりして!
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