ぶらんこ
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2005年05月29日(日) 髪を切った

バッサリと。
・・・ということもないのだけれど。


昔、ものすごく長い髪の女の子が主人公の漫画があった。
タイトルは忘れたけれど、確か岩館真理子のやつだったと思う。
女の子は両親を事故かなにかで失くしてた。以来、ずっと、ひとりきり。
彼女は髪をずっと切らないで伸ばしていた。「この髪だけが、遠い記憶を持ってるから。」という理由で。
おぼろげだけれど、そんな感じの内容だったと思う。
物語は、そんな彼女を理解してくれる優しい恋人が出来て、ハッピーエンド。だったよな。。。
なんだかこうして文章にしてしまうと非常に陳腐になってしまうけれど、とっても素敵な絵だった。
わたしも髪を伸ばすんだー!などと思ってしまったし、こんな風に長い時を経ても、ふとフラッシュバックがあったりする。
漫画家ってすごいなぁ、と思う。絵描きであり、物語作家でもあり。。。。



人間の身体というものは、ひとつひとつの細胞から出来ている。
その細胞らがそれぞれ、皮膚であったり筋肉であったり赤血球であったり脳であったりする。
それら細胞は成長し、あるものは成長をやめ、あるものは分裂する。
部位によってその寿命も違ってくるらしいのだけれど、人間の身体の細胞のほとんどが約1年で入れ替わり、
すべてが入れ替わるのには約3年かかる、とされている。
(このことをきちんと調べたいのだけれど、解剖学の本がどうしても見つからないので、本当のところはよくわからない。
すべて、と言っても、髪の毛や歯、或いは爪といったものは含まれないのだと思う。)

どちらにしても、わたしたち人間の身体というものは、おのおのの細胞によって構成されている。
この一瞬にも、身体のどこかで新しい細胞が生まれ、同じように古い細胞が死んでいく。誰に命令されるわけでもないのに。
たぶん、細胞ひとつひとつには、なんらかの法則が働いているのだと思う。
それは何も人間だけでなく、植物であっても。
細胞には「心」のようなものがあるのかもしれない、と、誰かが言ってたけれど、きっとそうなのだと思う。
心。或いは、意識。ある本によると、「意識のひらめき」と書かれていた。


記憶にもっとも関与しているのは、脳細胞。。。かなぁ。
脳については(も)、未知の部分が大きいので、本当のところはどうなのかわからないけれど。
でも、脳細胞が死んでその記憶も消えてしまうか、というと、そんなことはない。
たぶん、古い細胞から新しい細胞へと受け継がれるのだろう。
だから人は、ある程度の記憶を持ち合わせているものだし、前世の記憶さえも持っている人がいるという。
死んでしまって、その肉体が滅びても、記憶(意識?)は生き続ける。たぶん、それがその人にとって必要であれば。なのかなぁ。。。。
そうなると、髪を切ろうが切るまいが、あまり関係ないのだな、なんて思ったりして。

でも、わたしが欲しいのは、「記憶」よりも「意識の拡大」だなぁ。
芸術家(表現者)と呼ばれる人たちって、そういうことを経験しているような気がする。無意識であっても。



うーん。。。。何を言いたいのか、よくわからなくなってしまった。。。。笑
まぁ久しぶりに髪を切って、なんとなくいろいろと考えた、ちゅうだけ。かもね。



2005年05月25日(水) すみのえの

たぶん知ってるあの場所は

遠い記憶のそのまた向こう

隔てるものはすべて放たれ

はてしないつながりを知る






2005年05月24日(火) 沖縄


           一番楽しかったところ
           美ら海水族館









                                                            一番心に残ったところ
                                                            ひめゆりの塔










2005年05月23日(月) 『愛する』の反対

「『愛する』の反対って、何だと思う?」
職場の同僚に聞かれ、ほんの少し考えてから答えたところ、
「すごい!わたし、わかんなかったのにー」と、悔しがられた。
思わず「やっほーぃ!」と大喜びのわたし。うほほほほ。
さて、答えはなんでしょう?


それは・・・『無関心』。
彼女曰く、マザーテレサの言葉なのだそう。昨日たまたまラジオで聴いたらしい。
でも、わたしが答えられたくらいだから、マザーだけでなくもっと多くの人が同じようなことを言ってるのかも。。。。


「愛する」の反対。
それは「嫌う」でも「憎む」でもない。
なぜなら、それらはある意味「気にかけてる」ということだから。だと思う。


『愛がもっとも気高く、もっとも神聖な行為であるのは、愛がその中に常に愛でないものまで包み込んでいるからです』
                                                         by タデウス・ゴラス


きっと、愛でないものだけ持つほうが、難しいのかもしれない。。。。




2005年05月22日(日) blessed

 
 海へ行こう。

 車があるってなんて素敵なこと。
 車を運転できるって、なんて素晴らしいこと。
 神さまありがとう。
 車がなければ、運転できなければ、
 こんな遠くまでひとりでやってはこれません。
 


大好きな海を見ながらにへらにへらと運転していたのだけれど、途中でパンクしてしまった。
なんてこと。見事にぺっしゃんこ。
よくまぁこんな状態で走れたモンだ、というくらいに。


パンクなんて初めてのことで、ちょっとパニックになってしまう。
スペアタイヤはある。でもジャッキがなさそう。(あっても使えないけど)
とにかく誰かに電話しよう。あーケイタイを持ってて良かった。
なのに電話が通じない、、、。圏外でもなさそうなのに(柱は3本立っている)、どこへかけても話中だ。
どうしよう、、、と思っているところへ、たまたま工事のお兄さんがやってきた。
なんてラッキー。彼はわたしの話を聞くと、鍵のかかった事務所を開け、電話を貸してくれた。
彼曰く、「ここらはケイタイは繋がらない場所」なのだそうだ。
ありがとう、お兄さん。


それにしても、JAFに入ってて良かった。
というよりもその前に、出かけるとき、お財布のないのに気付いて職場に取りに戻ったのも良かった。
お金はともかく、免許証もJAFの会員証もお財布の中だったからね。あー良かった。

電話でなんとか場所を説明し、JAFに来てもらう手配が出来た。
パンク修理は出来ないけれど、スペアタイヤをはめてくれるらしい。
「1時間くらいかかるかもしれませんが・・・」
市街地からはかなり離れたところなので、とのことだった。
そうだろう。ちょうど大隅半島を横切る感じで通ってきた峠道の頂上あたりだったもの。

JAFを待っている間、ぷーちゃんを連れてちょっとそこらを歩いた。
山を少し下っていくと、下のほうに人家がちょびっと見えてきた。小さな集落。
木々で覆われているけれど、底のほうから、川の水の流れる音もした。
それから車のほうへまた戻り、木陰に座ってぷーちゃんをブラッシングすることにした。
夕方でもないのに、ヤブ蚊がたくさん飛んでた。
そんなこんなで時間を潰してたら、JAFのおじさんがやってきて、さささっと作業を済ましてくれた。
ジャッキと工具さえあればわたしにも出来たかも。買っといたほうが良いかもしれないなぁ。。。。
さて、スペアタイヤは思っていた以上に貧弱だったし、なんとなく怖かったので、もう家に帰ることにした。
本当は水平線から昇ってくるお月さまを見る予定だったのだけれど。


ということで、今日はタイヤ修理をお願いするためにイエローハットへ出かけた。
ところが、修理よりも交換を勧められてしまった。うわー。
修理できないことはないけれど、タイヤの中のワイヤーが切れてるおそれがあるから、と。
それはとてもとても、危険な状態なのだ、と。
「これ、パンクしてからかなり走られたんだと思いますよ。」
なんてこと。。。。まったく、気付かなかった。です。。。。。。。。。
しょうがない。命には変えられません。交換してください。
ホント。命拾いしたみたい。
あのまま走っていたら、わたしもぷーちゃんも大事故で死んじゃってたかもしれない。


運転するとき(どこかへ遠出するときなんかは特に)、自然と感謝の気持ちが湧いてくる。
わたしの場合、車を運転していること自体が奇跡みたいなものだから。
アメリカでも、日本に戻って来てからも、免許取得には(今だから笑って話せる)相当のドラマがあった。
なので、今でも、運転するときには神さまにお祈りをする。
神さまありがとう。今日もこの車とわたしたちを護ってくださいますように。
何事もなく無事でありますように。
すべて良いようにしてくださいますように。



写真は、国道448号線の、内之浦町に入ってしばらく行ったところ。
拡がる海を見て思わず車を停めて撮った、一枚。
この写真を撮り、さて車に戻ろうか・・と振り返ったときに、パンクに気付いたのだった。。。。

たぶん、神さまが良いようにしてくれたのだと思う。
まだ生きなさい、ということなのだと思う。
いや本当に。

神さまありがとう。




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