ぶらんこ
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少し前に受け持っていた患者さんが亡くなった。 ぽっかりと心に穴が開いた気分だったのが、少しずつそのこと(たぶんそれは喪失の感覚)を受けいれられつつある。 というか、その穴を日々の雑事に紛らせ考えずにいることに慣れてきた感じの今日この頃。。。
来週から新しい患者さんを受け持つことになった。 病名こそは違えど、亡くなった患者さん同様、厚生大臣が定める特定疾患の難病の方である。
今日、ソーシャル・ワーカーさんからその方のケースの詳細を紹介していただいた。 難しいケース。 なんとなく・・・気が重い。。。
このところずっと、亡くなった患者さんに対し、はたして自分は何をしてきたのだろう、と考えていた。 なんにも出来なかったんじゃないか、と思う。 もっと何か出来たんじゃないか、と思う。 ああすれば良かった。こうすれば良かった。そういう想いを巡らせるときりがない。
でも、その人にとって何が出来るか、などと考えるのは危険な「驕り」でもあるような気がする。 わたしが彼との関わりのなかで何か(今こうして葛藤していることも含めて)を得たのだから、彼にとっても「何か」はあったのだ。 そう、思いたい。 なぜなら、人と人との関わりというものは、けっして一方通行ではないから。
もっと純粋な心で、患者さんに向かいたい。 純粋に、その人のもっているものすべてを認め、信頼したい。
2006年01月03日(火) |
starting over |
 Happy New Year!
・・・・・・やっぱりブルースは男前〜
今年は新しいことが起こりそう。 というよりも、その何かはもう始まっているのかもしれない。
休暇での出来事を反芻しながら、少しずつ思いつくまま書き留めていこうかと思っている。
2005年12月20日(火) |
ask yourself |
I want everything. I want nothing.
もしかしてこのふたつ まったくおんなじことなのかもしれないね
どうですか?
自分自身に
問うてみよ
もちろん
良い意味で!
You may say I'm a dreamer...
 “自分が何を望んでいるのか”
といったことを深く考えるのは、日々の暮らしのなかではついついおざなりになってしまう。 でも、「そうじゃない」とか「なんとなく違う・・・」といった感覚はときにあるんじゃないかな、と思う。 それはきっと、自分が「望んでいない」ことだからなのかもしれない。 望んでいないことをするのは苦痛だ。 それはきっと「(今)しなくても良いこと」なのかもしれない。
この前、仕事が長引いて帰りがもの凄く遅くなった。ものすごーーーーーく、遅く。 やっと家にたどり着き、リビングルームに行くと、こころが一生懸命アンテナを動かしていた。(こころには早いうちで連絡を入れていた) うちのテレビは映りがメチャクチャ悪い。 アンテナの位置で、まったく見えなくなったりもする。 こころは両膝をついて、そのアンテナを微妙に動かしながら奮闘していた。 それを見たら、思わず涙がほろり。。。と出てしまった。
つっ立っているわたしに気付いたこころが、「まみぃ!どうしたの!?」と叫ぶので、余計に涙があふれてしまった。 見つかっちゃったので、そのままをいをいと泣き出した。もうどうとでもなれ、という感じ。
こころはわたしをソファに座らせて、ハグしてくれた。 「かわいそうに、まみぃ」と言いながら。 彼女に優しくされたので、わたしはもっと泣いた。 どうせだから、と馬鹿みたいに盛大に。
そして、口をついて出たのは、帰り道、あれやこれやと考えていたことではなく、至極単純な言葉だった。 自分でも驚くほどに。 そしたらなんだかアホらしくなってきた。 たくさん泣いて言いたいこと言ったら、すっきりした。 こころの食べたらしい空のどんぶりを見て、「まみぃもラーメン食べたい」とつぶやき、ふたりで大笑いした。 (こんな母親、いないだろうなぁ・・・・・・)
ちょっとばかり無理をしたり、わざわざ困難なことを選んだり。 それもまた、自分が「望んでいること」なのだろう。 なぜなら、そうしないことのほうがもっともっと苦しいから。 そして、わたしが望むことはわたしにしか叶えられないし、誰かが望むことも、その誰かにしか叶えられない。 わたしはわたしのやりかた。誰かさんは誰かさんのやりかた。 「こうしてあげたい」とか「こうしたほうが良い」とか、そういうのは、きっと余計なお世話なのだ。 「過信」はいかんし「指導」はいらん。 それは看護師と患者(介護者)でも。 自分でちゃんとやりたいようにやっていくのだ、人間という生きものは。 それで良い。それが良い。
写真は11月の朝の海。 光る海はあなたとよく似ている。
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