ぶらんこ
index|past|will
『少年時代の思い出』 〜舟づくり〜
小学校2・3年生の頃の話である。 私の父は、大工であった。 島のカトリック教会を建設していた宮大工のような仕事をしていた。村から村へ材木を舟で運んでいたそうだ。 父は、釣りが好きで休みの日は小舟に乗って子供達を釣りに連れて行ってくれた。 幼稚園の頃、私も一度だけ連れて行ったもらった日のことを鮮明に覚えている。
そんな父が病に倒れ、釣りにいけなくなった頃、兄たちの楽しみは、物をつくったり、自然のなかで遊び回ることだった。 もともと器用だった四男の兄がある日、舟をつくることに挑戦した。 父はそんな兄を黙って見ていた。
それから1ヶ月以上が過ぎた。台風の去った日に兄の小舟は完成した。小学校五年生の兄が一人で挑戦した舟づくりに、私は、驚きながら得意気になったものだ。
いよいよ、浸水式。 風の強い夏の日、兄弟五人で浜に小舟を担いで出かけた。 とにかく重かった。すぐ近くの浜が遠く感じた。まだ台風の影響が残る奄美の海は、荒れ模様。 大人たちが見ると、きっと、「あんな舟が浮かぶはずがない。」と思ったにちがいない。
だが、兄は強行したのである。横波が容赦なくぶつかり、みるみる舟に水が入ってくる。 兄は、二歳の弟を先に乗せ五歳の妹をこれまた担いで舟に乗せた。私と妹は力の限り舟を支えることに精一杯だった。 「いそげ、ちこ!みこ!乗れ!今だ!」 兄の叫びに、「無理でしょう。波で倒れるよ〜。溺れる!こわいよ〜。無理だって!」 「いいから乗れよ。押しながら乗れよ〜。船底がつくと進まないから。気をつけろ!」 真剣そのもの。 「まさか、この舟が進むわけない。沈むに決まっているのにぃー。」 心の中の叫びに風と波は容赦しない。びしょびしょになりながら、私は飛び乗った。その瞬間、「おおぉ〜!」気合いの声。 兄は沖に向かって舟を押しながら飛び乗った。まるで、風と波に立ち向かっていくようだ。 妹たちは怖くて泣いているというのに、兄は喜び叫んでいる。「浮いた!やったぁ!やったぁ〜!」完全におかしい。 同じ舟の中で、拍手。抱きつく。泣く。震える。喜ぶ。 でもそれはほんの一瞬だった。 兄の舟は、水がどんどん入り込み沈んでいった。 二歳の弟は恐怖で私に抱きついたまま。みんな海水浴のようにびしょぬれ。それでも兄は満足の顔。 私たち四人は、風呂桶のようになった小舟に浸かって兄の指示を待つ。 やがて、舟は横波にかぶさり転覆! 今度は海水浴気分になった妹たちがはしゃぎまくる。弟だけは泣きながら私にしがみついたまま。
なんとも不思議な光景であろう。今では考えられない遊びを昔はしていたものだと思う。 大人たちからみれば、無駄な時間と無駄な興味関心かもしれない。でも、無駄がたのしくてしかたなかった。 そして、家族の絆を深めたように思う。
記憶とは不思議なものだ。その後どうしたのか、あの舟はどうなったのか、全く覚えていない。 兄の自慢げな顔と弟の体の感触だけが鮮やかに蘇る。
ほんのり懐かしい少年時代の思い出である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
姉の書いたもの。 本人の承諾を得て、転載。
ここに登場する「五歳の妹」がわたしである。 自分自身の記憶としては、兄の舟を担いで浜に下りたこと、水が入ってきて心細かったこと、兄の悲しげな顔・・・などがある。 でもそれが自分の記憶そのものなのか、姉たちか語り継がれて、それがわたしの頭のなかで形づくられたものなのか、定かではない。 姉の文章を読んで、正直、羨ましいなぁ・・・と感じている。 姉たちの思い出はわたしのそれよりも父や兄貴達との共有がある。それだけの歴史がある。
でも、それがなんだっていうのだろう。 ただ今思うことは、姉の持っている感性と自分のものとが、限りなく近いものであるということ。 それがとても嬉しい。なぜかわからないけれど、笑いながら涙が出てしまうくらいだ。
少年時代のあの頃の自分たち。 それはかけがえのない素晴らしい宝物。でも、大人になるということはもっともっと素敵なことだと思えてくる。 なんかよくわからん、いろいろなことを、よし、とする「何か」が培われている。 最高なことだ。 感謝!
こころがギターを習いだした。 ギター教室に通わせてもいいかな、と思ったのだけれど、¥7.500@月3回(3時間)とのことで、あっさりあきらめた。 で、わたしの姉に教えてもらうことに。 といっても、コードの読み方や弦の押さえ方などを教えるだけだろうから後は独学かな。 それで良いよ、というか、そのほうが良いような気がする。
こころが習っている姿を見て触発され、わたしも久しぶりにギターを抱いてみた。 AmとかCとかG7とか。なんだか懐かしいゾ。しかも不思議と指は覚えているみたいだ。 つたないながらも、なんとか弾ける。なんとかメロディーになってる。 思えばわたしもこころくらいの頃に兄貴のギターをこっそりと借りて練習したんだった。 あぁ途中で投げ出したりせずに続けていたら・・・。 ま、そんなこと今さら言っても仕方がないけれどね。
それにしてもこころの最初の曲が「縁切寺」とは。 「なんだかすごい歌だねぇ・・・」と、こころ。 意味はちゃんと理解しているらしい。 一緒に口づさみながら、母はヘンテコリンな気分。かなり可笑しい。笑ってしまう。
さて、こころの目標としている曲は「飛行機雲」@荒井由美 わたしは「船乗り」@スピッツ
 選択 自由 苦痛 受け入れること 馴れ合い 冒険への不安
古いメモを見つけた。そこに書き留められていた言葉たち。
そのひとにとって何がしあわせなのか。 それはそのひとにしかわからないこと。 それでもひとは誰かのことを想って、心を痛める。
愛しい気持ちって、そういうごくごく普通の、ちいさな素朴な想いなのかもしれない。

伝えるのは「言葉」 伝わるのは「想い」
先週参加した研修で印象に残った言葉。 ひとは伝える術として「言葉」を使うが、相手に伝わるものは言葉以外のもの。とのこと。 言語的なものよりも非言語的なもののほうが圧倒的に多い、と。
確かに、テレパシーとか予知能力とか、そういった大袈裟なものでなく、ひとは皆、何かしらそういった力を備えているように思う。 考えてみれば、心当たりがあろう。 熱心な先生とそうでない先生。なんとなくわかる。 押し付けがましいひとと、さりげないひと。たとえ同じ言葉で何かを説明されたとしても全然違う。 なんとなく冷たい感じのひと。 話しかけやすいひと。
「わたし」に心が向けられているか。 向けられた心は「わたし」を信頼しているか。
そういうことを、おぼろげながらも、ひとは感じ取ることが出来る。
さて、患者さんのケアをしているとき、わたしはその患者さんにしっかりと心を向けているだろうか。
写真は、瀬留教会。 パイプ椅子が並べられているのが懐かしい。 わたしの町の古いお御堂は中央部分が畳で、両脇にパイプ椅子がそれぞれ縦一列に並べられていた。 そこへ腰掛けるのは、畳に座るのがキツイ年寄りたち。
こころが幼い頃から、母親どうしの付き合いというものが苦手だった。 苦手というよりも、興味がなかった。と言ったほうが正しいかもしれない。
それは、「社交的でない」というのとはちょっと違うような気がする。 いわば「お高くとまっていた」という言葉が一番近いかも。 積極的に他人と交わろうとしない。 もしかしたら相手を選んでいたのかもしれない。 うーーー。なんだか嫌なヤツだ。
でも、だからこそ、自分のなかで「疎外感」というものを感じなかったように思う。
こころは密かにそんな母親(わたし)のことを心配していた時期があった。 わたしが彼女の友人の母親と喋っているのを見てものすごく嬉しかったらしく、何を話していたの、と興味津々に聞いてきたことがあったから。 あのとき、あぁこの子はわたしに人並みに(というのかな?)母親どうしのチャットをして欲しいんだなぁ。。。 なんて、ぼんやりと思ったものだ。
そしてわたしは、今もさほど変わっていない。 こころの学校へ行くと、母親たちは何人かのグループになって話している。 わたしはにこやかに挨拶はするけれど、すすんでその中へ入っていこうとはしない。 だから、いつもひとりでいる。 特別それを苦痛だとは思わない。 思わないどころか、そのほうが心地良い。 それがわたしの持つ「スペース」なのだ。
そういうわたしを長年見てきたこころはどう思っているのだろう。 特別聞いたことはないけれど、「マミィはマミィだからね」と言うかもしれないな。
ところで、相手が子供とかお年寄りだったらそんなことないんだけれどなぁ。 なんでだろう??? 自己分析は続く。。。。(してないけど)
|