ぶらんこ
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 シーサー
口を開けてるのは、しあわせを呼んで 口を閉じてるのは、もらったしあわせを逃がさない あと、オスとメスがあるみたいだけど、忘れた〜 byこころ
昨夕、こころが沖縄から帰ってきた。 二泊三日の修学旅行。 台風接近もあって直前まで予定が立たなかったのだけれど、沖縄は台風一過で、とても良い天気だったらしい。 行く前は「せっかくの旅行なのに注意事項ばっっっっかりで嫌になるー!」と騒いでいたのだけれど、案の定にこにこ顔で戻ってきた。 旅行に出る前の晩、わたしは携帯待機の当番だったので旅行準備の手伝いもままならなかった。 夕飯のとき、いつ呼び出されるかわからないので言いたいことがある、とこころの両手を取り 「きっと素晴らしい旅行になるから、とにかく心から楽しんできなさい。」 そう言うと彼女は「先生たちは規則とか注意ばっかししか言わないからつまらない旅行になりそうーーって思ってたーー、と嘆いていた。 しょうがないかも。 完全に浮かれてる少女達を前に「信頼しているから自由に楽しみなさい!」なんて言ったらきっとみんなどっかへ飛んでってしまうに決まっている。 わたしは、「大丈夫。どんなにたくさんの注意事項があったって、楽しいことに変わりはないよ。」と送り出したのだった。
「お小遣いは1万円以内です」とのことだった。 1万円も要るのかぁ・・・と思いつつ、こころにぽっきり1万円渡した。 彼女はそんな大金をわたしから貰ったことがないので、眼を耀かせ受け取った。お給料の3ヶ月分以上あるものねー。 まぁ何に使ってもいいけど、くれぐれもあのときのような・・・そう言いかけるとこころがピシャリと制した。 もうやめて!あのときのことはわたしだって屈辱的な思い出なんだから〜。 意外。。。そうだったのか。 こころはインターナショナルのエレメンタリーでの修学旅行先で、ある漫画家に自分の似顔絵を描いてもらった。 そのとき持参金が不足していたので、担任にお願いしてお金を借りた。 描いてもらうことについては、どうでもいい。あのときわたしは「お金を借りて」というところに憤慨した。 金の貸し借りを簡単にしてしまうところに憤りを覚えた。先生も先生だ。なんで貸したりしたのだ。 よって、このことでこころは、こんこんとわたしの説教を聞くこととなった。もちろんダディも同じ意見だった。 「ほんと、なんであんなに描いてもらいたかったのか今はわかんないよ。TVチャンピオンって言葉に踊らされたんだ、くっそー。」 そうそう。そう言えばそうだったねー。わたしたちはふたりで大笑いした。 あの似顔絵師は、TVチャンピオンの王者だったのだ。わたしは忘れていたけれど、彼女はしっかりと覚えていたみたい。 これなら大丈夫でしょう、1万円。
帰ってきたこころに「お小遣いはどれくらい残った?」と聞いてみた。 わかんないなぁー。まだ数えていない。 おぉ。残っているのか!わかんないってあなた、いくらくらい使ったかはわかるでしょう。 うーん。2千円ちょっとかな。 え?2千円???何も買わなかったの? 買ったよ、ちょこちょこっと。え?まみぃ、もしかしてお土産欲しかった? いや、お土産欲しいとかは・・・まぁあると嬉しいけど。でも期待はしてなかったけど。。。みんなお土産買ってたでしょう。 うん、すごかったよ。 あなたはそのとき何してたの? 見てた。 ・・・そっか。。。。笑
お土産を買うことはないだろうなぁ・・・と予想はしていたのだけれど、見事に当たった。 日本へ帰ってきてもうだいぶん経つし、もしかしたら他の子たちに触発されて買っちゃうかなーとも思っていたけれど。 影響されない、という点では素晴らしいものがあると思おう。 1万円でこころが買ったのは、自分用のTシャツ。沖縄!ってやつじゃなくって、なんともファンキーなやつ。 それから、水族館で売ってた魚の靴下。こころはジンベイザメ。わたしはクマノミ。あ、これがお土産でもあるな。
ちなみに、写真のシーサーは沖縄にいるわたしたちの友人が買ってこころに渡してくれたもの。(短時間だけど面会できたらしい) シーサーの後方にある緑は、母の日にこころからいただいたプミラ。

いつもの散歩道。 匂いを嗅ぎながら歩くぷーきー。 わたしは花を摘みながら歩く。 (画像ではほとんど見えませんが。。。)
摘んできた青いちいさな花。
ひょろひょろと細い茎もあれば結構太い茎もあり。 つる性の草にからまりながら花を咲かせてるのもあり。 あちこちで風に揺れてた。 野では見逃しがちなほどにちっちゃな花だけれど グラスに挿すと、ちょっと違って見える。 (右の写真をクリックすると大きな画像があります。)

只今 瞑想中
「あなたは顔に出さないからすごいと思う」 この前、同僚から言われた言葉が知らないうちに心のなかに残っていて、ふと気付くとそのことについて考えていた。 それは悪い意味でもなんでもなくて、たぶんどちらかというと褒め言葉なのだろうと思う。(そうか???) でも、自分自身はというと、断じてそうは思わない。 わたしはすぐに顔に出る性質だと思う。 友人からも「わかりやすいねー」と良く言われる。
じゃぁなぜ彼女はあんな風に感じた(ている)のだろう?
なんとなくだけど、今日、その答えがわかった。と、思う。 たぶん、わたしは嫌な気持ちになってないんだ、あの場面で。というか、あらゆる場面で。 それはきっと、職場だからなのだと思う。 「仕事」をしている自分=ナースとしてのわたし。だからなのだろう。 いろんな人がいて、いろんな性質があって。 そりゃちっとは嫌な気持ちになることがあっても、それほど気にはならない。 そんなモンなのかもね。。。と流す。 プンプン怒ってる同僚を見ると、不謹慎だけど、「すごいなぁ。。。」とすら感じる。 あんな熱意、わたしにはないなぁ・・と感じる。 たぶんいろんなことにある程度の距離を置いているからだろうなぁ。 近すぎると熱し過ぎるからね。 ある意味、わたしはそれだけ冷めた眼で眺めているのかもしれない。
しかし、わたしはいつもこころからはさんざん言われている。 「まみぃは態度にすぐ出る」だの「もうちょっと隠しなさい」だの。(←社会生活の場面において) きっと家族の前では無防備(無謀?)な自分になるのだね〜。
そう考えてみると。 職場でもそれくらい真剣にぶつかることがあっても良いのかもね、ときには。 でも「顔に出す」って表現、大抵は、なんか嫌なことが起こったときの反応のことを指すのだよね〜。
ゼローム神父さまのことを実はよく知らない。 母から「ゼローム神父さまはね」というようなことを何度も聞かされたので、名前は知っている。という感じ。 父が病床にいた頃にしょっちゅう病室まで来てくれたこととか、兄が亡くなる前に赦しの秘蹟を授けたこととか。 わたしも幼い頃、ゼローム神父さまに抱っこされたり頭を撫でられたりしたみたいだ。
ゼローム神父が亡くなられて3年が経った(らしい)。 今日、母のところへゼローム神父さまの記念誌が送られてきた。 大きな立派な本だ。 ゼローム神父が奄美に来た当時の古い写真から最近のものまでたくさん載っている。 わたしの村の教会の落成の写真もあった。今はもうない父たちが建てた教会だ。 知ってる人たちの顔もたくさん。 でも、父の姿はなかった。 ページをゆっくりとめくりながら何度も何度も父の姿が映っていないか調べたが、やはりなかった。 兄の話によると、彼はカメラを持って撮影する側だったらしい。 父らしいなぁーと、思う。
ゼローム神父さまのことをあまり知らないけれど、なぜか特別な存在だ。 不思議と名前を聞くだけでドキドキする。 なんなんだろ、これは。
ゼローム神父の記念誌への寄稿で、わたしたち(兄弟姉妹)の心と非常に通じるものがある言葉を見つけた。 「ゼローム神父さまはわんなんかのことムール知っとるっちょ」 といった下り。(まだまだ続く) かの島尾伸三氏の言葉だ。 読みながら、泣き笑いだった。彼の言葉はいつだってすごい。最高。 この言葉を聞いて苦笑するひとは・・・たぶんわたしたちと同じような気持ちなのかも。
ゼローム神父さまは島口をこよなく愛したひとだったという。 写真のなかの彼は、いつも大きな笑顔を見せている。
年寄りたちがそれぞれ 思うとき思うままに 誰かとそのひとときを過ごせるような そんな場所があるといい
誰かの家でもない 誰かの場所でもない 大きな樹の木陰とか 古びたベンチとか 誰のものでもない なんでもない場所 そんなところで夕涼みをしたり 朝の海を眺めたりする 誰ともなくそこへ出てきて 約束とか決まりごととかはなく ただそのひとときを過ごす
そこへ行けば 誰かがいる そんな場所があるといい
でも その風景のなかには こどもの姿もあったほうがいい そしてもちろん こどもたちとともにいる大人たちもいたほうがいい
どんなに年寄りが増えても 年寄りだけじゃない場所がいい
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