ぶらんこ
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2006年07月11日(火) あなんだろー

 
    「あなんだろうー」ってどういう意味?
    と、こころ。
    「あなん」「だろう」
    「あなん」→「ある」が「ない」=「ある」の否定???

    語源はどうであれ
    「違うでしょう」「そうじゃないでしょう」
    これが変じて
    「まさかそんなことはある筈ない」
    という感じかな?


    


                                       右の写真は、見事ガラを釣りあげたこころさん。

                                       あなんだろーーーーー!(←一匹も釣れず終いの誰かさん・心の叫び)                   










2006年07月04日(火) 捩花

訪問先の患者さんのお宅で捩花がテーブルに飾られていた。
散歩のときに摘んできたのだそう。
まっすぐにすっと立つ茎にぐるぅりと花がらせん状についている。
そういえば日本へ戻ってきたばかりの頃、こころはこの花を見つけて「SpiralFlower」と呼んだ。
そのまんまじゃーん。

それにしてもなんて素敵な形だろうと思う。
まるで天を祝福しているみたい。
じっと見ていると、花と一緒に空へ向かっていく気分。


ぐるぅりぐるぅり。。。
おんなじところを周っているようだけれど、ちゃんと上へ上へと進んでいる。
なんだか自分の姿が見えてくる。
ぐるぅりぐるぐる。。。
いろんなことをくり返しくり返しおんなじところを歩いているような気にもなったけれど。

でもおんなじなようでいて実はまったく違ってる。きっとね。
だって去年の今頃の自分。どんなだった?
10年日記というのがあるらしいけれど、ここもまんざら悪くない。
わたし、少しは前に進んでいるようだ。
読み返して思い出してみたりして。。。(でも、あんまり過去のものを読むのは好きじゃない。)



夏が来て秋が来て、季節はいつもと変わらず過ぎていく。
月は満ち、また欠けていく。
くり返しくり返し。でも、けっしておんなじじゃぁない。
そしてその流れのなかで、わたしも変わっていったのだろう。
すべてを包む大きな流れ。
悪くない。
ちゃんと良いほうへと向かっている。



今日は兄貴の命日。
7月4日はIndependenceDayでもあるので、忘れることはない。
毎年、何かしらの想いを重ねるのだけれど、今年はりんとした捩花の姿が心に残っている。




2006年06月29日(木) ぼっち

中学の頃の同窓と久しぶりに会った。
たぶん16年ぶりくらい。
彼と再会して、不思議な感覚を味わった。
懐かしいというよりももっとしっくりくる何か。
隔たりを感じさせない何か。


彼とは特別に親しかったわけではなかったかもしれない。でも、仲は良かったと思う。
会ってみて、あらためて確信した。
あの頃わたしたちは仲良しだった。笑

彼は、面白くて賢くて面倒見の良い奴だった。
目がでかくて睫毛がバサバサと長い。髪の毛は根元からまっすぐ立っていて、髪が伸びると坊主頭はその形を保ったまま拡大していった。
でも、わたしの記憶の核を成すのは、彼がとても穏やかで控えめで優しい、ということ。
彼は誰からも好かれていた。


わたしは中学の頃の自分をあまりよく覚えていない。
抑圧されていたからだと思う。
思う存分、身体を動かすことが出来なかったから、他のみんなとは何かが欠落している、という感覚が今もある。
それなりに楽しかっただろうし(いや、実に楽しかった筈だ)、笑ってもいた。
でも、他の人たちからほとばしるような、はじけるほどの情熱や喜びがなかった。
少なくとも、そう感じて過ごしていた。
だから、空想の世界へ翼を広げることが多々あった。
そこでわたしは自由に走りまわり、いろんなことをする。
ストップをかける医者も教師も誰もいない。


だからかもしれない。
昨夜、彼はこんなことを言った。
「あなたはあの頃、ひとりでいることを好むというか、人と一緒じゃないというか、独特だったよね」
今日になって彼の言葉をこころに伝えると「えっ、もしかしてマミィって『ぼっち』だったの???」と、のたまう。
いや。それがね、その後にこう言われたのだよ。
「だけどもそれはけして『仲間はずれ』とか『ひとりっきり』とかじゃなくて、なんちゅうか自分の世界を見てたよな。きらきらした目で。」


へぇーーーーっ!!
という感じ。
いやはや実に驚いた。
そうか。そうか。そうだったのか。というか、そういう風に見てた人がいたのか。


なんだかとても愛しくなった。
「ぼっち」だと感じながらも夢見る少女だったあの頃の自分に。
それを見てちっとだけ嬉しく感じていた君に。


あの頃わたしはすこやかにしているみんなが羨ましかったし、運動の出来ない自分がみんなよりも不幸だと感じていた。
同じラインに立っていない自分が悲しかった。これからどうなるんだろうと不安もあった。
そんな自分自身を前面に出すことをしなかったのは、どうしようもないことだと思っていたのと、同情されたくなかったからだと思う。
「明るいわたし」を演出することで、なんとか自分を保っていた。
でも、きっと、自分のなかの何かは「希望」の光を見ていたのだろう、自分自身では無意識であっても。
どうしようもない、とあきらめるよう言い聞かせていたつもりだったけれど、わたしの魂はそうじゃなかったのかも。
彼と話をしているうちに、そう思えてきた。
そっかー。あんなに辛かったけれど、本当のほんとうは、大丈夫だったんだなぁー。
なんだか、あの頃のわたしに何か声をかけてあげたくなった。



あの頃わたしたちは誰もがお互いを名前で呼び合っていた。
それは40歳になった今も変わらない。
あの独特のイントネーションで名前を呼ばれると、意識はワープしてあの頃に戻っていく。
時間というものは一方向に流れるわけじゃないんだなぁ、と心から思う。




2006年06月28日(水) きらきら


  「自分がどこからやってきたのか・・・そして死後どこに帰っていくのか」
  という疑問に思いをはせた途端、自分が“理性の領域”を離れ、“ハートの領域”に入ったことを悟ります。
  それはとても健康的なことだと思います。

                                              By Jonathan Cainer









2006年06月14日(水) ふたりのり


   今日の仕事はおしまい
   おかぁちゃんを後ろに乗せて
   さぁ帰ろう









          





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