ぶらんこ
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失恋という言葉は知ってたけれど 失恋という言葉は知ってたけれど
♪「好きだったひと」 南こうせつ
・・・
南こうせつのコンサートへ行ってきた。 なんて素敵なひと!
上の歌詞は「好きだったひと」というすぅごい昔のかぐや姫時代の初期の歌。 わたしは多分10歳とか12歳とかだったと思う。 なのにリアルタイムで知ってる。兄貴が聴いてたレコードを一緒に聴いてたせい。 だから歌詞を見なくても、今でも空で歌える。 こうせつと一緒に(大)合唱。笑
最後のフレーズ。 その先を言わないところが好き。 その先は聴くひとそれぞれのもの。 どんな言葉でも繋げられる。 創られ豊かに拡がる世界。
余韻。
うん。 わたし、そういう言葉が好きだなぁ。。。
宇宙ステーションで暮らしている。といっても、内部はどこかのホテルのよう。 老婆がちいさな宇宙船で旅行に出ようとしている。長い間帰らない夫のところへ行くのだという。 目の見えない老婆。目に見えぬものを見ることのできる老婆。 わたしは老婆がきっと夫には会えないだろうという気がして、何か声をかけようと思うのだが、 そんなことをいう意味なんてないじゃないか、と思い、やめておく。 わたしの考えも人々の考えも、老婆はすべて知っている。
宇宙船には少年もひとり乗り込んでいる。 ふたりが知り合いかどうかはわからない。 どこの惑星へ向かうのだろう。
ふたりのことが気になって、わたしは遠くからずっと眺めている。
訪問のときによく通る道にお気に入りの牧場がある。 そこにいる「マルチナ」という名前の馬が大好きだった。 彼女はいつも馬舎の中にいて、顔を外へ出していた。 他の馬たちが外を駆けていても、マルチナはそうじゃなかった。 だから彼女の存在に気付いたのだと思う。 車をゆっくりと走らせて、彼女の名前を知ることが出来た。 馬舎は一頭ずつお部屋みたいなのがあてがわれているようで、顔を出している彼女のすぐ隣に「マルチナ」と書かれていたのだった。 それからはいつもそこを通る度、「マルチナー!」と叫んで手を振っていた。 マルチナはわたしを見ているような見ていないような。。。
先日、その道を通ったらマルチナがいなかった。 珍しく外に出ているんだ〜。と思ったが、その姿を確認することは出来なかった。
昨日、そこを通ったとき、マルチナがいなくなったことに気付いた。 マルチナのお部屋が空っぽだったからではなく、そこに書かれている名前が違っていたからだ。 そこにはTMなんたら、と長い名前が書かれていた。 その隣も同じTMシリーズの名前だった。きっとオーナーが同じ人なのかもしれない。
マルチナは違う牧場へ移ったのだろうか。 それともレースに出る準備が出来て、どこかへ連れて行かれたのだろうか。 みんな外へ出ているのに彼女だけが馬舎の中にいたのは、そういう意味だったのだろうか。
マルチナがいなくなって、なんともヘンテコな気分。 いつも手を振っていたのに。いつも名前を呼んでたのに。 さよなら出来なかったなぁー。残念。。。 競争馬として、マルチナがたくさん活躍しますように。 競争馬としての役割を終えてからも、しあわせに暮らしていきますように。
マルチナのお部屋のふたつ向こうに、彼女とよく似た馬が顔を出していた。 鼻筋の白い部分が、マルチナよりもっと大きな範囲で出ている。 気になって名前を見てみると「ホッポーマリア」とあった。 わたしは彼女に、心のなかで「よろしくね」と挨拶した。
「心が平和であること」かなぁ。。。。
自分が真に望むことをしていること。すべてのことを。 辛かったり悲しかったり憤りを感じたりすることがあっても、 自分が望む道を進んでいることを信頼すること。
平和な心って、「調和」かなぁ。。。と思う。 穏やかなだけでなく、いろんなことを含み、包んでる。 そんな感じ。 欲張りだ。笑
〜古いメモより〜
「おやっとさぁ〜」 この言葉。 テレビのCMではよく聞く。 芋焼酎の名前にもなっている。
先日、この言葉を初めて生で聞いた。 訪問先の患者さんの家で、お客さんが「おやっとさ〜」と言いながら何かを届けに来たのだ。 どうやら畜産組合のお年始のご挨拶がわりの品物だったらしい。 おばちゃんは「ありがとさんね〜」とお礼を言っていた。
わたしは感激してしまって「初めて聞きました!『こんにちは』の意味でしたっけ?」と訊ねた。 するとおばちゃんは「いんや。お疲れさんです、っちゅうことじゃいねー」と教えてくれた。 それが妙に嬉しくて、なぜか心のなかの良いところへと入ったようで、リハビリを終えたばかりの患者さんに「おやっとさぁ〜」と言ってみた。 患者さんはにっこりと笑って頷いた。奥さん(おばちゃん)は「そうそう。そんな感じで使うんよ」と喜んだ。
なんとも気分が良くなって、それからも事ある毎に「おやっとさ〜」と口にしてみた。 最後にはおばちゃんから「そう何度も使うもんじゃなかよ」と、笑われた。
・・という話を先日、友人にしたところ。 「そんな風にここの言葉を使おうとする姿勢って大切だね、良いことだと思うよ」と言う。 間違った使い方であったとしても、だ。
そんな風に言われて、あらためて思い返してみた。 鹿児島の言葉=かごんま弁=ヨソ言葉 これはわたしの中でずっと変わらずにあった式だ。 今もそうだと思っていた。 でも、どうやら違ってきたらしい。 何かが変わった。 その「何か」とは「自分」なのだろう。
それは素敵な発見だった。 そういう「ゆるやかさ」って良い。 自分がなんぼのモンじゃ。 という感じ。
ところでもうひとつの式。 島口=島ユムタ=わきゃユムタ これは今も変わらない。 島のユムタは、なちかしゃ(愛しい)。 先の友人の言葉も、実際は島ユムタでのもの。 ユムタの向こうにある「情」のようなものを感じることが出来る。
友人に感謝。 あらためて思ったのだが、ひとと話すことって、常に新しい発見が伴うものだ。 彼がわたしを通して見つけたもの。 わたしが彼を通して見つけたもの。 お互いがそれを素直に口に出来ることもまた、嬉しいことだと思う。
♪歳をとるのは素敵なことです
みゆきの詩は最高。 この唄を一緒に口ずさめる関係というのも、また、ほらしゃ。
ユムタ っちば むじらさ やぁ〜。 どぅし っちば ありがて なんやぁ〜。
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