ぶらんこ
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町で開催されたアートフェアーへ出かけたことが引き金となったのか・・・ふと思い出したことがある。
中学2年か3年の頃、美術の時間に「人物画」というのがあって、わたしは親友の顔を描いた。 机をくっつけ、彼女と向かい合うように座り、わたしは彼女を、彼女はわたしを、それぞれ描いたのだ。
当時のわたしにとって、彼女はいちばん近い存在だった。 お互いを「親友」と呼んでいた(と思う)。
あの頃のわたしは非常に屈折していて、自分を表面に出さないようにしていたが、彼女には(比較的)防御を緩めることが出来た。 自分のすべては出せなかったけれど、そうしたい、とは望んでいた。 だから彼女には密かな恋心も打ち明けた。(彼女の他、誰にも言わなかった、否・言えなかった。と思う、たぶん)
本当に彼女のことが大好きだった。 名前も、姿形も(綺麗な子だった!)、頭の回転が良いところも、適度に運動が出来るところも。 何より彼女は面白かった。 あんなに綺麗な顔のどこからどうやって、あのふざけた思考が飛び出してくるのだ?と思った。 もちろん、思考は顔から発生するものではない。つまりはそのギャップが新鮮で嬉しい驚きで、不思議と波長が合ったのだろう。
その彼女を人物画のモデルに選んだ。 白い画用紙を前に、わたしの2B鉛筆は、さらさらさらと動いてくれた、ためらうことなく。 今でもはっきりと覚えているのは、まず彼女の眼から描き始めたということ。 眼というか、眼の部分。眼球と瞼、その周囲。その後に、鼻、頬、耳、口、それから顔の輪郭。 (実は、漫画を描くときにはいつも顔の輪郭からはじまり、眼、鼻、口・・と描いていたので自分自身ちょっと驚いた)
さて、こうして仕上がった絵にわたしは大満足だった。 わっ似ている!と思った。これはまさに○○じゃ〜!と思った。 彼女はというと、「えぇーーーこれ酷いよ、、、」と不満気だったが、別に気にならなかった。 いいの、自分で好きだから。
思いがけず、美術の先生からも絶賛された。 特徴をよく捉えている、というようなことを言われた。彼は他にも何やら言っていたが、残念なことにまったく覚えていない。
とにかく、誰になんと言われようと、わたし自身がその絵を気に入った、ということが大きかった。 なんとも形容しがたい、しあわせな気持ちだった。
それからしばらくして、中間だか学期末だか、美術のテストがあった。 教科書に載っている、美術一般の事柄や美術史からの何やらが問題として挙げられていた。 が、問題用紙の二枚目(だったと思う)最後の問題は「担当の試験官を描きなさい」で、ページ半分程が四角で囲われていた。
生徒たちがざわざわっとしだした。 それを見越していたかのように先生はわたしたちをなだめ、「ハンサムに描いてよー」などと言って笑わせた。
わたしは・・・
結構、自信があったのだ。 あれだけの親友を描けたのだから、先生なんて簡単カンタン〜ってね。
ところが、鉛筆が動かない。全然、まったく動かない。 おいおい時間がなくなっちゃうよ。早く描かないとーーー。
もちろん、焦れば焦るほど全然ダメ。 しょうがない。無理に鉛筆を動かす。顔を上げる。先生を見る。線を描く。線を太くする。細くする。消す。その繰り返し。
どれくらいの時間だったのか。とうとう鐘が鳴り、試験終了。
そうやって出来上がった先生の姿は・・・
とーーーっても
ちっちゃかった!!!
まぁーーわたしは自分の絵を見て愕然とした。どうなっちゃったの、わたし!
似てなくないことはない。が、違う。これは違うでしょうー。 正直、うろたえた。 すべて消してしまいたいとう衝動に駆られた。 でも、多少の点数は貰えるだろうと、そのまま提出した。
その後は、案外良い出来だったのかもよ?と思い直したり(言い聞かせたり)もしたが、いやあれはいかん、、、と、さらに落ち込んだ。
結果、テストそのものの点数は悪くはなかった(と思う)。 絵に対する点数は、高くもなく低くもない、といったところか?(全然覚えていない)
覚えているのは、筆記試験と一緒に絵を描かせて点数にするって卑怯じゃないか、と思ったこと。 また、いくらかでも点数になる・・なんていうイヤラシイ気持ちを抱いた自分が情けなく、なんとも腹が立ったこと。
う===嫌な思い出だ。
ところで、その親友とはもう長いこと会っていない。 一度、5年か6年前に島へ帰ったとき、遠くから姿を見たことはある。 あっと走り寄って声をかけようかと思ったが出来なかった。 彼女はふたりか三人の、まだ小さなこどもの手を引いて歩いていて、その姿を見てなぜか躊躇してしまった。 彼女じゃなかったかもね、と思ったりもしたが、いやあれは絶対に彼女だ、と変な確信もあった。 実際、彼女が島に住んでいるかどうかもそのときは知らなかった。
あのとき声をかけなかったことに後悔はしていない。 でも、もしもいつかまた会えたなら・・・
はて。何を話したら良いのやら?やっぱりわからんけど。。。 そうなったらそうなったで、楽しみではある。かも。
今、思うのは。。。
あの頃、自分をさらけ出せなかったと同時に、彼女のこともよく知ろうとはしなかったのかもしれないな〜ということ。 自分のことで精一杯だったのかもね。自分ばっかり見てたから。色々ぐじぐじ悩んでたし、そのことは彼女にも言わなかったしなぁ。 いわゆる「思春期」てヤツ、と姉に言われたけれど・・・
あ・案外、彼女もおんなじだったかもしれないなぁ。。。
底へ降りていくのに
どれだけの時間を費やしたろう
ここが深淵か
或いはもっと深いのか
わたしは闇を欲する
もっともっと
わたしを包み
わたしを飲み込むほどの
苦しみこそがわたしの支え
痛みこそがわたしの糧
闇に限りはない
ひたひたとどこまでも続く
じっと目を凝らす
拡がる闇を見る
闇は休むことがない
わたしに寄り添い
わたしを放さない
わたしは闇を見る
闇に
果てがあるかのように
その日は食事の支度が遅くなり、どこかへ出る気分でもなかったので、ではカレーの残りを食べようか。ということになった。 しかし、カレーにするにはご飯が足りない。 今から炊くのもなぁ・・・としばし思案した後、カレーうどんにしようという名案が浮かんだ。 そこで、普通のカレー1人前、カレーうどん2人前を準備した。
その日はわたしとこころと姉との3人であった。 いざ食卓へと持っていくと、3人とも「誰がカレーで誰がカレーうどんになるのか」という顔になった。
早速こころが「誰がどれ?」と訊いてきた。 ちょっとした沈黙の後、「じゃんけんで決めよう」と姉が言った。
またじゃんけんかよ・・・という空気が一瞬流れたが、とりあえず皆それに賛成した。
ラッキー!最初に勝ったのはわたしだった。わたしは迷うことなくカレーうどんを選んだ。 姉とこころは熾烈な戦いを繰り広げたが、結局こころが勝ち、彼女も嬉々とカレーうどんを選んだ。 姉は、「負けた人がカレーうどんじゃなかったの〜〜〜?」と、戯言をのたまった。
ほっほっほっ どうぞどうぞなんとでもお言いなさい。 「わたしは最初からカレーうどんが食べたかったもんね」 「カレーうどんのほうが美味そうだし」
勝った人はなぜか心も広くなる。「少しなら食べても良いよ」とか言ったりして。
兄弟姉妹を持つ良さというもののひとつに「真剣勝負」があると思う。 それはつまり、「容赦ない」ということ。 たとえば、何かを得るため「ぶつかり合う」こと。 その中には、本音を隠したり出し抜いたりということも含まれる。 そしてそれは歳が上だとか下だからというのは関係しない(少なくとも当人達にとっては)。 結構、ダーティー。純粋な汚さ。
と、ずっと思ってきた。 兄弟姉妹とはそうやって育っていくものだと思ってきた。 でも、そうでない家庭もあるんだなぁ・・・というのを大人になってから知った。 それは親の考え方とか家庭の経済状態だとか、色々な環境の違いから来るのだろう。
なので、「じゃんけんで決めよう!」と言ったとき、例えば相手から「あげるよ」なんてすんなり言われると拍子抜けしてしまう。 え?欲しくないのか?と問いたくなる(問うてしまう)。 欲しいことは欲しいけど、そこまでして欲しいわけじゃないからいいよ。なんて言われたりしたら、もう・・ホントに困ってしまう。
大体、「じゃんけんで決める」という発想すらない人もいる。 それはどういうことだろうか。競争意識がない?それとも渇望感がない?
こころはひとりっこだ。 そういう予定でそうなったわけではないが、結果的にそうなってしまった。 ひとりっこというのは、分けたり奪ったりする相手となる兄弟姉妹がいないということだ。 それは、常になんの障害もなく物が与えられる。ということになり兼ねない(もちろん、こどもが欲しいのはモノではない、心=愛情だ)。
と、いうことを意識してきたつもりはないのだが、どうもその「相手」役を自ら引き受けてきた感がある。 なので彼女はよく、「じゃんけんで決めよう!」と(わたしに)言ってきたし、今もそうだ。
相手となるからには、一切手を抜かない。真剣に勝負に挑む。 そこらへんを、母親らしからぬ・・・と言われたりすると、まぁ確かにそうかもね、とは思う。(それが何か?)
そう言えば以前、大皿に盛った鶏の唐揚げが残り少なくなったとき、皆でじゃんけんをしたことがあった。(しかし狡い話題だ、、ははは、、)
その夜のメンバーは、わたし、こころ、姉ふたり、母の5人だった。 さて、母抜きでじゃんけんを始めようとしたら、珍しく母が「母ちゃんもじゃんけんする」と言うではないか。 いつも誘うと「母ちゃんは要らんからいい」と断ることが多かったので驚いたが、皆、手放しで母の参加を喜んだ。もう俄然、勝つ気マンマン。
さて、仕切り直して、じゃんけん。
確か鶏は3個残っていた。最初のふたりが誰だったか忘れてしまったが、なんと3人目に勝ったのが母だった。
母は「では、いただきます」と言って軽く会釈した後、「はい、これはこころにあげるから」と言った(!)。 こころは、えっと驚いてから「いいよ、おばあちゃんが勝ったんだから・・」と(一応)遠慮がちに言っていたが、顔はもうにやにやだ。
「母ちゃん、そら駄目でしょう!」 「そんなんじゃ勝負っち言えんがねー」 「じゃんけんした意味がない!」
娘達の雑音に、母はびくともせず、にかっと笑ってぴしゃりと言った。
「母ちゃんが勝ったのだから、母ちゃんのしたいようにしていいの」
・・・うぅ、、、確かにそのとおり、、、
かくしてこころさんは、「おばぁちゃん、ありがとう〜〜〜!」と満面の笑みで鶏を頬張ったのだった。 しかも彼女は先に勝ってたよな気もするのだが、そこらへんは無理に記憶を抹消したのかおぼろげだ(確かめるつもりもない)。
ところで我が家の公平な選び方としては、じゃんけんの他に「あみだくじ」もよく登場する。 まぁどちらも文句のつけようのない公正さだと思うので、自信を持ってお勧めしたい。
つまり、何が言いたいのかというと、「真剣勝負」というのは、愛そのものだと思うのです、我が家では。
歳のせいなのか? 姉たちといるとよく昔話に花が咲く。 夏に帰ったときにも色々話した。笑った。泣いた。
なんだろうなぁ・・・昔の、島の我が家には、とてつもない明るさがあった。 「貧乏子沢山」という言葉がそのまま当てはまる我が家にあった、底抜けの明るさ。 あれはどこから来たのだろうね? 姉妹4人が揃ったとき、そんな話になった。
相当の貧しさだった。と、今になってしみじみ思う。 その反面、当時は殆どの家庭が貧しかったでしょう・・とも思う。実際、そう思っていた、「どの家もおんなじ」って。 いやいや片親だったからね。やっぱりかなりの差はあったんだろうねぇ。。。
不思議なことに、自分達は「貧しい」という感覚がなかった。 厳密に言うと、貧しいという「認識」はあった。それがいつ頃からなのか?兄弟姉妹それぞれ、違うのだろうと思う。
「よその家とうちは違う」という気持ちは覚えている。 それは、父親が死んでしまって、もうこの世にはいない、ということ。 それは、もうどうしようもないことだということ。
「貧乏〜貧乏〜」と、近所の子供たちに囃された記憶はある。何度かあったと思う。 強烈に、そしてこれが最後だったと覚えているのは、小学校4年生の頃の教室でのことだ。 たぶん彼には、悪気というか本気というか、そういうのはなかったのだろう。 椅子の上に立ち、両腕を揺らし、他の子らを扇動するように面白可笑しく叫んだだけ。 みんなはくすくす笑っていた。 わたしは・・・恥ずかしい!と思った。そして、なんでバカにされるのだ?と、憤りを覚えた。 よく覚えていないが、悲しかった気持ちもあったかもしれない。でも「怒り」のほうが強かった。
・・・バカにするな!
そうだ。バカにされたのだ。貧乏だからって、バカにされたのだ。 それは不条理なことだ。それはあってはならないことだ。貧乏であることが何が悪い。 バカになんかされるものか。バカになんか、させない。
・・・っていうのがいつも根底にあって、それで勉強を頑張ったような気がする。
というのは姉の見解。なるほどそうだったかもしれない。そう言われてみればそうだったのかもしれない。 あぁ なんというか・・・イヤラシイ・・・ははははは。
皆と同じ位置に立てるのが「勉学」。 覚えるべきことを覚えたり、頭を使わなきゃならんときは思いきり使ったり。
わたしは覚えていないが、父はとても教育に熱心だったらしい。 彼自身は充分な教育を受けられなかったが、非常に頭の切れる人だったそうだ。 兄や姉たちは父親のことが大好きだった。テストや通知表の成績が良いと父が嬉しそうだったので、余計に頑張ったそうだ。
そういう経験も、学ぶ姿勢に繋がったのだろうか。 そしてわたしの場合は、そういう姉たちを見てきたからか。
我が家は楽しいことだらけだった。笑ってばかりいた。お漏らししてしまうくらい、笑ってばかりだった。 もちろん泣くこともいっぱいあった。きょうだい喧嘩も沢山あった。 わたしはというと、ちぶって(拗ねて)家出したことも数知れず(笑)
それでも我が家が一番だった。
あの明るさは、どこから来たのだろう。 思い出すと今でも笑いの零れる、我が家のあの雰囲気。
島の、あばら家のような、古いふるい、懐かしい我が家の 明り。
入院している母へ、姉の携帯電話を介してメールを送った。
量は少なくてもいいから、出されている食材はなるべくすべて少しずつ口にして欲しいこと 食事を摂ることで体力がつき、腸の動きも良くなるということ 痛みがあるときは遠慮せずに看護師に伝えること 娘(姉のこと)が来たのだから、色々なことを気に病まず安心して療養してください
などなど。 かなり気弱になっているらしかったので、母の気持ちを損なわないよう心がけたが、しんみりし過ぎてもな・・と、最後にこう付け加えた。
「トラウなよ」
これは「喧嘩しないでね」という意味。(姉と母はよく似ているせいかよくトラウから・・) きっとふたりで笑っているだろう、と思っていたら、ほどなくして返信が届いた。 開いてみると、そこには一言。
「むどぅてぃくよぉぉぉ」
思わず涙が零れてしまった。。。母の言葉そのままを姉が打ったのだろう。
すぐに返事を送った。母に倣って、島ユムタで。
本当に・・・夏には帰れるようにしたい。 と、強く思う。
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