ぶらんこ
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2009年08月05日(水) 島の未来

港でフェリーを待っているが空模様が怪しい
空を覆う灰色の雲がみるみるうちに黒く厚く垂れ込めてくる
にわかに雨が降り出した・・・と思う間もなく土砂降りになった
辺りは風と雨とで殆ど何も見えない

わたしは紺の浴衣を着ている
今夜は夏祭りだ
浴衣は袖の部分がやけに短いが丈のほうはなんとか見られた
他の人がどう感じるかは別として

スコールが止み辺りが静かになった
外を見るといつの間にフェリーが着岸していた
誰かが「こっちこっち」と叫ぶ 「早くしてください!」

声のほうへ行くと作業着を着た小柄な男性が階段口に立っていた
「船に乗る方はこちらから行ってください 急いで!」

わたしは港の待合室にいた
待合室は最上階(といっても2階だが)にある
示された階段は下方に向かいゆるやかにカーブしていた
そして海水に満ち満ちている


「大丈夫です そのまま進んでください
入り口はすぐにわかるようになっています」

浴衣を着ていたので一瞬躊躇ったがそんなことを言っていられない
乗り込むときはいつもこうなのだ
それに 島へ向かうフェリーはこれが最終便である


わたしはするりと両手を伸ばしそのまま海水に身体を預けた
(思っていたよりも水は温かい)
トンと両足に力を入れ水のなかを眼を開けたまま進んだ
(思っていたよりも眼は痛くない)

水の中はライトグリーンだったりライトブルーだったり色を変えた
いくつかの大きな透明の光の輪がときおり揺れた
しばらく進むとフェリーの白い横腹に扉が開かれているのが見えた
なるほど彼が言ったとおり すぐわかるようになっている

フェリーに乗り込みしばらく泳ぎ進むうちに海水が引き いつの間にか普通の階段を上がっていた
甲板へ出るともう船は港を出た後だった


島へ着くまでに何時間かある
わたしは寝ころがって休んだ
日差しはそれほど強くはなく風も弱かった

島に到着したとき辺りは薄暗くなり始めていた
水平線の彼方に少しだけ橙色の名残が見えた

わたしの旅館は港のすぐ近くにある
旅館へ行くと皆すでに食事を済ませていて、女性達はお風呂の順番を待っていた
この旅館の宿泊客は女性ばかりだ

気の良さそうなおばちゃんがにこにこと夕食を進めてくれた
「アラ汁をあっためようか 何も特別な料理はないけど」
わたしは、申し訳ないがこれから友人の家へ行くことになっている、と断った
友人には島へ来ていることを言ってはいない
でも歓迎してくれるだろう どうしても今日のうちに会いに行かなければ・・・


旅館を出て商店街のほうへ向かった
島の中心地とも言えるところだが、一本のちいさな道路の両脇にさびれたようなお店が並んでいるだけのものだ
時間が遅いせいか殆どの店はもう閉まっている
だがけっして少なくはない人達がそこらを往来していた
街灯の下ではおばちゃんがたが顔を寄せ合って話し込んでいる

友人の家までの道のりを頭のなかで反芻しながら歩いた
この島は相変わらず何も変わっていない だからきっとすぐにわかる筈

商店街を抜けセメント塀に囲まれた家々を何軒か過ぎ ふたつめの角を左手に曲がる
そこが友人の家だ

と、ふたつめの角に男が座っていた
男は黒づくめのスーツを着ている 背が、とてもとても、とても高い
彼の前には学校用の机が置かれていて(長い脚が両脇から伸びている)、机の上には白い紙切れが積まれていた


その男性は有名な元バレーボール選手とよく似ていた(もしかしたら本人なのかなと思うほどに)
眼が合ったので何か言おうと思ったが、彼の名前をどうしても思い出せなかった
軽く会釈をして通り過ぎようとしたところに声をかけられた

「ご友人さんのところは今ちょっと立て込んでいますが・・・
あぁ でも、あなたであれば行っても差し支えないでしょう
というか、むしろ、是非行くべきです どうぞ行ってあげてください!」

意味がわからない、という顔をしていると 彼はにこやかに手をあげ自己紹介をしてきた
「驚かせてしまいましたね 僕は彼の友人で川越といいます
あなたのことはよく聞いています 奥さまからも聞いています 
今回は、本当に残念なことになりました」

角からちょっと覗きこむと、友人の家は葬儀屋による装飾で包まれていた
家の門には大きな提灯が灯されている
わたしはドキッとして目の前が真っ暗になった 闇のなかで世界がぐらりと歪んだ
どうしよう、、、

「あっ違います 彼も奥さんも大丈夫です 亡くなられたのは別の方です」
彼は慌てて付け足した
わたしは眼を閉じたまま大きく深呼吸した 良かった・・・
 
「あなたの知らない方です 実は彼らもそんなに親しかったわけではない
ただ、彼らにしかこのようなことが出来なかった というだけです」


「あの わたし、こんな格好で来てしまったんですけど、、、」
そう言ってから自分の姿をあらためて見ると、それはもう酷かった
ずぶ濡れになった浴衣はところどころ乾いていて、その部分に強い皺ができている
顔や髪はどうなっているんだろう・・・わからないが想像は出来た
Do I look...? なぜか英語で言いかけて、止めた
このうえなく酷いに違いはない

川越氏は、「大丈夫です そういうの気にする人達じゃないことはあなたこそよくわかっている筈です」と快活に答えた
それはいささか場違いな明るさにも思え、わたしはますます変な気分になった


おずおずと門をくぐった
入り口は大きく開け放たれていて 中に友人たちが小さく座っているのが見えた
彼は喪服、奥さんのほうは着物の喪服であった
ふたりとも憔悴しきった顔をしている
前に会ったときよりもさらに年老いて見えた

「あの、、、」
入り口に立ったまま声をかけると彼女のほうが先に気付いた
「あぁ!まぁまぁ・・・まぁ・・・!」

「あの、、ごめんなさい、連絡もなしに、、、」

ふたりはわたしの言葉を遮り、立ち上がって近寄り、心から歓迎してくれた
彼女は、いつものようにわたしを抱きしめてくれた
その身体が前よりも小さくなっていて、わたしは胸が痛くなった
でも、ふたりの顔がほんの少しだけ明るくなったような気がしたので嬉しかった

それから、「ごめん、説明するのは後でもいいかな 説明のしようもないんだけど・・・」と彼が言った
彼女は悲しそうな顔で俯いていた
わたしは なんと答えたら良いのかわからず ただ黙って頷いた

彼らはまた同じ位置に戻って正座となった
わたしも部屋の片隅に座った
淋しいお葬式だ・・・と思った
写真やら線香やらはなかった 花もなかった 弔問客も少なかった
もしかしたらお葬式とはまた違うものなのかもしれない 

ふと、そこに懐かしい友人がいるのに気付いた(十数年ぶりの再会だった)
彼はとても疲れた表情をしていたが、わたしの姿を見たときほんの少しだけど驚き、そしてわずかに微笑んだ(ように見えた)
わたしは顔がこわばってしまってうまく表情を作ることが出来なかった
ぎこちなく口元を動かしただけになってしまい申し訳なく思った


「で、どうするよ」
正座したままその友人が言った
どれくらいの時間が経ったのだろう わたしたち以外はもう誰もいなかった
「わからん」と、彼は苦しそうに答えた
彼女は黙ったまま眼を閉じうなだれていた

どうやらわたしは来てはいけないときに来てしまったようだ
しかも、出て行くタイミングをも逸したらしい 
が、もうどうにもならない 
そのまま空気のように座っているしかなさそうだ


「島はどうなる」
「わからん わからんがどうにかせんと」
ふたりは難しげな顔で話している


わたしは、終わりのない話題だ・・と心の中で思い、すっかり途方に暮れてしまう
そのときふと、さっき通ってきた商店街での人々の言葉が浮かんできた
「投票場所はこちらです 選挙会場はこちらです」


でもわたしには選挙権がないのよ・・・

そのことで、なぜかとても救われた気持ちなる






2009年06月04日(木) こんなきもち

さて 行きますか

用意はいいですか

わたしは変わったと思いますか

どうでしょうか

待っててくれて ありがとう

では 行きます





海に入るときは

こんなきもち







2009年05月09日(土) 自我

夜中に親に隠れてこっそりと家を抜け出す。
というのは、中高生くらいでは珍しいことではないのかもしれない。
わたしの場合、親ではなくて「教官」だったけど。。。

 

中学を卒業した後に入学した准看護学校は全寮制だった。
小さな学校で、全生徒数は30人前後だったと思う。
寮にはふたりの教官が一緒に住んでおり、週交替で学生達を監督していた。

寮の規則では確か「外出・外泊ともに月に1回限り」となっていた。
また、門限は夏と冬で違っていたが17時頃だったと記憶している。

当時わたしはその学校と並行して高校の通信教育を受講していた。
入学前、学校側に「看護学と並行して定時制の高校に通いたい」という申し入れをしたのだが断られたので、やむを得ず通信教育となった。
それも「看護学の成績に響くようであればただちに通信教育のほうを中止する」という約束の下、ようやく許可を得たのだった。

通信教育では、毎月各教科のワークを提出することに加え、月2回のスクーリング参加が必須だった。
スクーリング日(日曜日)には、指定された場所(電車で1時間ほどの女子高だった)まで行き、実際に授業?を受けたり運動?したりする。
体育の単位取得のためというのがメインだったように思う。秋には「体育祭」というのもあった。

だが、、、正直あまり役には立たないというか、15-6歳のわたしにとって年上の方々との交流は楽しいものではなかった。
共通の話題もない(その土地の方言が理解できなかった部分もある)。
彼らはとてもエネルギッシュだった。わたしは一番若かったので何かと借り出されたが、彼らのほうが遥かに活力があった。
出来る限り明るく振舞ったのだけれど、いつも「空回り感」が拭えなかった。
結局、最後まで疎外感を感じた。きっと、わたし側の心の問題だったんだろうな・・と、今は思う。


そんなスクーリングのために月2回外出していたので、それ以外の外出・外泊は必然的に不可能だった。
まして、遠距離通学だったがため門限にも遅れたのだが、それを特別に許して貰っていた。
周りの学生からは、そのことでチクリと嫌味を言われることもあった。「まこちゃんは特別でいいよね」

面白くもないスクーリングへと出向き、周囲からは特別視される。
自分のことを理解してくれる人なんて誰もいない。
あの頃はそんな気持ちで暮らしていた。それだけが心を占めていたわけではないけれど。


ある夜、兄が東京に来る、という電話があった。
兄が仕事で東京に来る。時間は短いけれど、皆で会おうということになった。まこも来ないか?
そういう内容だった。

会いたい! と思った。
行きたい! と思った。

けど、外出は2回しか出来ない。今月もスクーリングだけでいっぱい。

「先生に訊いてみれば?」と言われたような気もするが、実はよく覚えていない。
覚えているのは「絶対に行くから!」と答えたことと、親しい子だけに話し、こっそりと出かけたこと。


朝、タクシーを呼んで駅まで行き、何度か乗り換えて新宿へ向かう。
ロマンスカーに乗り込んだときには、学校のことも寮のこともすっかり頭から消え去った。

携帯電話のない時代、どこでどうやって兄弟姉妹と落ち合ったのか?もう記憶がアヤフヤだ。
とにかく、兄と会った。姉たちも一緒だった。
新宿で何をしたんだっけ?なんか食べたのかな???あぁ、全然覚えていない、、、
なぜか、兄が白いジーパンをはいていたことと、「バレたときには兄が先生に話してあげるが」と言ったこと。
(後にこれを兄貴に話すと兄はすっかり忘れていたけれどね)

帰路。
新宿小田急線のホームで兄たちと別れた。寮に戻りたくなくて戻りたくなくて仕方がなかった。
ロマンスカーの中でひとり、さめざめと泣いた。そんな自分の姿を想像するだけで、今も胸が痛む。
寮に戻ってまた孤独な生活が始まるのだ、、、



ところがどっこい。そんな感傷に浸る暇はなかった。
寮に戻ってみると、事実を打ち明けていた友人が困った顔で言うのだ。
「先生にバレちゃったよ・・・もう大変なことになってる」



その週の担当教官は日頃、特にうるさくない、どちらかというと楽チンな先生だった。だから、ちょっと甘く見ていたのもあった。
どうしてバレてしまったのか。何かきっかけがあったような気もするが、もう覚えていない。
とにかく、わたしが朝のうちにいなくなったことに気付き、隠れて外出したことを知ったらしい。
神妙な面持ちで彼女の部屋を訪ね謝罪したのだが、あんなに感情的な先生をそれまで一度も見たことがなかった。
夜叉のような顔で怒られた。「あなたのせいで!」
目が赤く腫れぼったかったので、泣いていたのだと思う。
さっきまでわたしも泣いていたのだけれど、そんな気持ち、どこかへ吹き飛んでしまった。

それから、もう一人の教官と面接し(こちらのほうは怖い存在)、学校長とも面接し、反省文を提出し(させられ)た。
ひょっとして停学とかなるのかな、、と思ったがそれはなかった。(あったっけ?)


反省文には「本当に悪かった」というようなことを書いた。でも罪悪感は殆どなかった。まぁ少しはあったけど・・・先生を泣かしたし。
確かに隠れて外出したのは良いことではない。でも、外出したことについては後悔してなかった。
なぜなら、バレたっていいという気持ちで出かけたし、正直に理由を言ったって、どうせ許可はされないだろうと思ってたからなぁ。
あ・・・今の台詞はこころがよく言うやつと似てるぞ。。。笑


まぁ若いうちだから出来たことなのでしょう。内容からすればかわいいモンですな。


ところで、この後に実はもう1回だけ、教官に隠れて外出したことがある。
それはわたしだけでなくクラスの有志何人かで、オールナイトのアイス・スケートへ出かけたのだ。
友達の彼だかが夜中に車で迎えに来てくれて、確かあけがた4時半頃に戻った。
で、これはバレなかった。笑

友人たちはその後も何度か出かけていたけれど、わたしはその1度限りだった。
理由は夜の富士急ハイランドが寒かったのと眠かったのと、そんなに楽しくはなかったから。
思うに、この年代って、考えてるようであまり考えてないのかも(わたしだけかな?)



ところで、もし、こころさんが夜中にわたしたちに隠れて出かけたりしたら・・・

なるべく感情的にならんようにしたいものですが・・・内容にもよるか?笑


でも、本当に隠しておきたいことは親にもきっと言わないんだろうな〜。








2009年05月07日(木) ガーブリ

今はどうなのかわからないが、昔、わたしが小学校の頃は、授業が始まるときに決まり文句(挨拶)があった。
生徒は日直さんの掛け声で席を立ち、先生に向かって一礼しながら「お願いします」と言うのだ。
当時は悩むこともなく皆に倣ってしていたのだけれど、なんだか軍隊みたいだな。起立!礼! なんて「号令」って言ってたし。

まぁそれで大抵の先生は「はい、お願いします!」とか言って授業を始めた。
が・・・当時、ひとり、ちょっと(?)変わった先生がいたのだ。



彼は理科の先生だった。
確か低学年の頃は担任がすべての教科を任されていたが、4年か5年からは理科や音楽は専門の先生がいた。
だから彼に教わったのは4年生になってからだったと思う。

「理科室」は校舎1階の端にあり、奥に倉庫のような資料室の付いた、大きな教室だった。
普通の机ではなく、作業台のような大きな机がいくつか並んでいて、生徒は班に分けられて座った。
黒い遮光カーテンを引かれた窓際には怪しげな液体瓶が置いてあり、タマゴから孵化する雛(鶏)が順番よく並んでいた。
(けっして見まいと思いつつ、ついつい目をやってしまっては酷く後悔したものだ)
他にも、虫やら貝殻やら石の標本があったり顕微鏡やらビーカーやらがあったり独特な匂いもあったりで、とにかく特異な雰囲気を放っていた。

そんな理科室は、どこか神秘的かつ魅力的な場所だったのだが、あまり近付きたくない場所でもあった。
その理由が、彼(=理科の先生)だったのだ。


彼は、一言でいうと、「怖い」先生だった。
どう接したら良いのかわからない、近付き難い先生。


理科の授業は、とにかく「緊張」の時間だった。
(他の子はどうだったのかわからない、少なくともわたしにとってはそうだった。ええかっこしぃの小心者だったからね)


まず、授業がなかなか始まらないことが多々あった。

起立、礼、 お願いします
そう言ってから座った後、なぜか先生が何も言わないのだ。
子供たちが、なんなんだろう・・・と思い始める頃、

「お願い・・・・・・されません」

先生の、低く抑えた声が教室中に響く。


最初の最初にこの言葉を聞いたときは、子供心にうろたえたよ。
お願いされません、って、、されません、って、、、どうすればいいのよ???

たぶん、このとき先生が「やり直し」とか言ったのだろう。
今になって思い出すのは、何度も繰り返された「お願いします」という言葉と、目を閉じたまま顔を横に振る先生の姿、
え?また?なんで?という気持ち、馬鹿みたい、、、というあきらめ、じゃったら授業なしで帰らせてくれ!という悲痛な願い・・・まぁ色々。
けど、そんなこんなの葛藤とともに、やっぱりその度いちいちうろたえるのだから、純粋だったのかも。


あの頃の自分たちがそんなにふざけてたのかどうか。 今ではもう思い出せない。
教師にかなりコントロールされてたんだなぁ・・・と、苦々しくは感じる。
子供にとっての「先生」という存在って、強大なんだなぁー ってね。

嫌いな先生ではなかったようにも思うが・・・どうなのかな。
思い起こすと「怖い」というイメージしか湧いてこない。というのが、ちょっと淋しい。
あ、でも、先生が「お願いされません」と言ったとき、たまーにちょっと口元が緩んでいたことがあったのは覚えている。
怒っているだけじゃなかった。それは確かだ。


そうそう。彼のあだ名は「ガーブリ」だった。
誰が付けたのかはわからないし、由来も知り得ない。
TVか漫画のキャラクター名のような気もするし、怖いイメージを名前にした島口なのかもしれない。

はげー、ガーブリ、好っかんかったーーー!

直訳すると、「ガーブリ(先生)は好きではなかった」だが、島口で言うとね、愛情がこもっているのだよ。(と、思いたい。笑)



 ・・・


ところで、なんでこんな話を思い出したかというと−


こころがあるクラスで日本の学校について説明する機会があったらしい。
彼女はそこで、小学校の頃の体験入学の話や、約3年間の中学生活の色々を話したのだそうだ。

 そのときね。。。授業の始め方についてマミィの『お願いされません』の話もしたかったんだけど
 あはは!それは〜 英語にしても意味が伝わらないちゅうか説明が大変でしょう〜
 うん・・・だから話さなかった
 それにしても、そんな話あなたよく覚えていたわねー


というワケ。笑


ちなみに、この国では授業開始の決まり文句などはなく、「お願いします」に合致する英語自体、存在しない。
あえて言うならば、
 Good morning/afternoon! という先生の言葉に
 Good morning/afternoon, Mr./Mrs. xxxx! などと子供たちが返す。

これも小学校くらいまでかも。。。しかも、日本の学校みたいに授業と授業の間の「休み時間」もないから、状況が違ってくる。
また、高校生ともなると、先生が入室しようがしまいが授業が始まろうが始まらまいが、「勝手にどうぞ」ってな態度だろう。


規律で強制するか、規制なしで自由にするか。
まぁどちらにしても、ティーンエイジャーの中身はさほど変わらない。だろうね。笑






2009年04月02日(木)

大昔・・・たぶん12か13歳くらいの頃だったと思う、ある夏の日、母にこんなことを訊いた。

「お盆っちゅうのは仏教の考えでしょ?じゃぁなんでまぁこ達もお盆するわけ?」

で、母の答えは以下のとおり。

「なんでそんなこと言うのね、やっちゃいかんちはどこにも書いとらんよ」

いや不思議じゃやーち思ってのことよ、と言ったが母は一蹴。

「そんなの仏教だからとかキリスト教だからとか区別しようちする方のがおかしい。ぐじゃぐじゃ言わんで、早くハカザレして来い」


ハカザレとは「墓ざれ」である。(ザレはたぶん洗い清めるという意味か)
お盆の前に、墓石を綺麗に洗い磨いて墓所に新しい白砂を敷き詰めておくのだが、この砂採りがまた大変な作業なワケで・・・。
(現代は墓石だけでなくその周囲も大理石?が敷かれているので、白砂を敷き詰める作業をするのは少なくなった)

暑いテダの中、眩しく光る白砂を集め、墓所まで運んで敷き詰める。
花瓶を磨き洗い、新しい花を挿し、そこらに咲いているクロトンの葉を付けたし飾る。
墓石を水をかけながら磨き、拭きあげる。
(作業の後は(一応)手を合わせて祈る)
最後に、竹箒で白砂をならし、墓所の周囲は箒の綺麗な線で敷き詰められる。

以上が「ハカザレ」である。



・・・主題から逸れてしまった。


「区別しようちするほうのがおかしい」という母の言葉に、当時のわたしは
質問の答えになっとらんが・・と思ったのだが、ハカザレしたくない言い訳と取られるのが癪だったので、それ以上追求しなかった。

そのうちに、深く考えることもなく、毎夏、お盆を迎える前にハカザレし(ハカザレは年に何度かあったけど)、堤燈を飾った。
それは暮らしのなかに充分に滲みついていたから、特別に意識することもなくなった。
亡くなった父の霊が我が家に帰ってくるという想いや感覚はなかったが、お盆には父や先祖の霊を思い起こした。


そして、だいぶ後になってから、お盆というのが仏教の行事でもないらしい、ということを知った。
確かこれを知ったのは、日本人の宗教観について調べていたときだった(30歳くらいの頃だったかも)。

そのときに先の母の言葉を思い出し、なるほど。。。と妙に納得したのだった。

これは、西洋文化(西洋思想)からすれば、非常に矛盾したものかもしれない。
けれども、その矛盾こそが日本人の良いところなんじゃないの?と思う。
矛盾を抱えることをよしとする何かがあって、さまざまなものを取り入れ、融和させていくことが出来た。のか?

残念ながら、適切な文章で表現できないのがもどかしい。


あ、だから母の返事も強引だったのかも?
日本人たるゆえに、ということか(これこそ強引か?)






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