ぶらんこ
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2011年08月06日(土) ままごと

苦労だと思ったことはなかった。ような気がする。
人から見るとそうなるのか、と、ちょっと驚いた。

過ぎてしまえば色んなことを忘れてしまうモンだ。
辛かったこともあったが実はよくは覚えていない。
思い出すのは、くだらないけど笑えることばかり。

「ままごと」のような暮らしを全力でやっていた。
だから楽しくて明るくて前向きに見えたのかもね。








2011年07月22日(金) デトックス

「薄情」と「現実的」


似ているようで違うのか

それとも

違っているようで同じことなのか



さて、


解毒には何が必要か








2011年07月12日(火) てんつゆ

てんぷらをつけて食べるてんつゆ。
熱いてんつゆに揚げたてのてんぷらをさっとくぐらせていただく。大根おろしとしょうがが入っていると尚よろし。
あ〜てんつゆてんつゆ。
魔法のつゆ、てんつゆ。
なんてセンチメンタルな響き、てんつゆ。





  ・・・・・・




その日、わたしたちは近所の蕎麦屋へ食事に行った。
その蕎麦屋は消去法で辿り着いた場所であり、やりきれない思いを振り切るようにして入った店だった。


母のためにはうどんと天丼のセットを頼んだ。
大きなどんぶりに入ったうどんは母にとっては食べ辛いだろう、と、店員に取り分け用のお椀をお願いした。
ほどなくして店員さんが持って来てくれたのは、子ども用のキャラクター椀と小さなフォークだった。
もちろんわたしたち家族には「小さな子ども」はいない。
届けてくれた店員さんがそれに気付いたとは思えない。いや、気付く気付かないというよりも「気にしていなかった」。


水色のお椀を前に、どうしたものかとしばし思ったが、熱いうどんを冷ますためにそれを使った。
母は「それでいいよ」と言っていた。「お椀はお椀、変わりはしない」と。


天丼も食べるといいよ、そう言って勧めると、殆どてんつゆがかかっていないのに気付いた。

「これって、てんつゆ、かかってるのかね・・・」

姉のひとりがそう言い、皆でそれぞれその天丼を確認した。

「かかってない、、、」
「かけ忘れ・・・?」
「どうだろか、、、」
「これじゃぁご飯の部分が食べられんよ」
「これは、、、酷い、、、」

てんぷらには辛うじててんつゆがかかっていたが、ご飯にはその名残が表面にほんの少し付着しているだけで、ほぼカラカラ状態だった。

「どうする、、、」
「店員さんが戻って来たら、頼めばいいんじゃない?」
「えぇ、、、」

先の子ども用お椀&フォークに心なしか傷付いていたわたしたちは、それぞれ皆、心のなかでちょっとした葛藤があったに違いない。
しばし沈黙の後、

「言おう。頼もう」
「そうそう。もしかしたらかけ忘れたのかもしらんよ」

そんなことはあり得ない、と思いつつ、それぞれが奮起して言い合った。

「もう少してんつゆをかけてくださいませんか、っち頼もう」
「いや、てんつゆを少しいただけますか、っち、別に頼めばいいよ」
「なんのてんつゆ?っち思われるよ」
「なんで〜普通に頼めばいいがねー、てんつゆください、でいいよ」


誰が言うかというのは決めていなかったのだが、店員がちょうど通ったとき、姉のひとりが「すみません」と声をかけた。
成りゆき上、その姉が言葉を続けた。

「あの、、、この天丼、、、てんつゆがかかっていないような、、、あの、、、てんつゆ、、これで、、かかっているのでしょうか、、?」


あぁ、、、そんな言い方じゃ、、、しかし、とき既に遅し。
店員さんはちらりとその天丼に目をやってから、は?なんのこと?風な目でわたしたち全員をぐるりと見返し、

「てんつゆがかかってないと言うのですか」

と、言った!いや、本当に!

わたしは気が短い。とてもとても短い。姉妹のなかでいちばんに、短い。
もちろんカチンと来た。ドッカチーン!じゃ。


「かかっているのかもしれませんが、ちょっと少ないように思うのです。もう少してんつゆをいただくことが出来ますか」

ひるんでなるものか、という想いで言った。店員さんは、ちょっとの間わたしを見てから

「いいですよ」

と言い残して去って行った。そして、てんつゆを少量(超、極少量)持参して戻って来た。

「ありがとう・・ございます・・・」


しかしそのてんつゆは美味しくなかった。
哀しい味がした。
こんな気持ちになるのなら、てんつゆなんかなしで食べれば良かった、、、と思ったくらいに。


母は「あんたたちの〜お店の人に対して失礼じゃ〜」というようなことを言っていた。
あ〜母ちゃん母ちゃん母ちゃん!


母ちゃんは知らない。
わたしも姉も、あんな風に言葉にして言ったけれど、心のなかは暴風雨で、言った後もドキドキして・・・


「まみぃたちは小心者だからね。お店の人はそういうのわかるんだよ。だからあんな馬鹿にした態度で応対するんだよ」

こころの言葉に妙に納得。
もっと毅然とした態度で、心を開いて、これこれこういうわけだからお願いできませんか、と頼めば良かったのだ。

だけどね、あのお椀のことで傷付いてしまったのだよ。
あのとき、母を馬鹿にされたような気がして憤慨したのだ。そして、どこか萎縮してしまったのだ。
あぁ、けれど、もっと堂々としていれば良かった。萎縮する必要などなかった、母はわたしたちの大事な母ちゃんなのだ。


「母のためにお願いしたのです。出来ればこれでなくて、普通のお椀をいただけますか」


きっと次は(本当の)心の声に従って、それを言葉にしなくちゃいかんね。
そして、てんつゆを美味しく美味しく、いただこう。





2011年06月09日(木) ポンテオピラト

その日のコーキョーヨーリはオミドウで行われた。
確か、ケンシンの直前だったような気がする。


オミドウの中では静かにしなければならない。という気持ちになる。
小さい頃からそう教えられたからなのだろうが、それよりも何よりも、十字架にかけられたイエス像のせいかもしれない。
祭壇の左側にある、赤ん坊であるイエスを抱いたファチマのマリア像のほうは、何度見ても心奪われるくらいに綺麗だと思ったが、
正面にある、手や足、脇腹から血を流している十字架のイエス像は、注視してはいけないような、怖々と見上げては目をつむってしまう、
そんな感じだった。



わたしたちは畳の上に、2〜3列にサマジキリ(正座)になった。
その日はシスターがコーキョーヨーリの担当で、彼女はわたしたちに向かって立ち、静かな、抑えた声で話をし始めた。
そして、皆に向かってこんな質問をした。

「イエスさまを殺したのは誰ですか」

わたしは指されるのではないだろかと不安に思いつつ、頭のなかではめまぐるしく考えを巡らせた。
イエスさまを殺したのは・・・殺したのは・・・
十字架に磔になったイエス像をちらりと見上げてはまた下を向く。

 確か、これ以上の苦痛を与えぬようにと、兵士がイエスに葡萄酒をすすめた。
 だがイエスはそれを断り、十字架の上で苦しまれた。
 なかなか息絶えぬイエスの脇を兵士は槍で突き、とどめを刺した。
 殺したのは、その兵士?
 いや、兵士は上からの命令に従っただけだ。
 そうだ・・・命令したのは・・・

 ・・・ポンテオピラト?


そう思ったとき、誰かが手を挙げた。驚きだ、まーきが手を挙げている。
シスターは穏やかな様子でまーきに答えを促した。
まーきは恥ずかしそうに、ちょっともじもじとしながら半分だけ立ち上がって、

「わたしたち、人間」

はっきりとした声でそう言って、また座った。


 わたしたち?わたしたち???

わたしは心の中でぐるぐるとその言葉を反芻した。わたしたち?


シスターはすっと目を閉じ(それから大きく息を吐いたような気がする)、そうして、とても静かな声で言った。
「そうですね、わたしたち。イエスさまを十字架にかけたのは、わたしたち人間ですね」



今でもあのときの衝撃を忘れられない。
わたしたちって、わたしたちって、わたしはあのとき、まだ全然、生きてもないよ?
一瞬、本気でそう思った。意味がわからなかったのだ。わたしたち?

 あぁーーーまーき、まーき、まーき!!


本当のところ、まーきの言ったことの意味はてんでわからなかったが、でもなんとなく、もの凄く深いことをまーきは言ったのだ、と思った。
もの凄く深いことを、まーきは知っているのだ、と思った。
それから、自分のことを、ただの頭でっかちな、それでいてなーんも考えていない、デケー、フルムンなのだと思った。


まーきはシスターの言葉を受け、照れくさそうに、でも嬉しそうににやにやして、その顔はいつものまーきだった。
でも、あのときわたしの中でまーきが変わった。

 まーき、すっごい!!まーき、かっこいい!!

まーきにそれを言ったかどうかは覚えていないけれど(言ったような気もする)、確かにそう思った。
(ちなみに、この話はだいぶん後になって実際にまーきに話したのだけれど、彼はこのことをまったく、かけらほども覚えていなかった!)




しかし。
実のところ、今だにあのときの答えが自分のなかではわかっていない。
わたしたち、人間。
そうかもしれない。でも、本当にそうだろか? と、思ったりもする。
いや、違う。そうだろうと思う。ほぼ、そうだと思う。ただ、まだ自分自身で導き出した答えではないような気がする、まーきみたいに。



 ・・・・


*ケンシン=堅信。
洗礼を受けた者があらためて洗礼を受けるような儀式で、(思い違いでなければ)中学校入学の直前に行われた。
というのも、式に着る制服を小学校のやつにするか中学のにするかという話が出たような記憶があるから。
結局、小学校の制服で統一しようとなったとき、密かにほっと安堵したのを覚えている。
(中学の制服はまだぶかぶかに大きかったのと、姉からのお下がりだったから嫌だったのだろうと思う)


*ポンテオピラト
(大)昔はポンシオピラトとも言っていたような気がする。
ローマ帝国のユダヤ地区総督。
イエスが十字架にかけられるとき、「わたしはこのこととは無関係だ」と言って、手を洗った。
裁判中、イエスを何度も助けようとしたが出来なかった。が、結局は良いとこどりをしただけという感もある。
ピラトという言葉を唱えるとき、そこに自分の姿が見えそうで、しゅん、となる。







2011年06月05日(日) コーキョーヨーリ

毎週土曜日はデンドーカンでコーキョーヨーリだった。
昔はコーキョーヨーリと言わずケイコと言っていたような気がする。なぜに「稽古」なのかわからない。
祈りの暗誦とかがあったので、そう呼んでいたのか?寺小屋的な意味合いか?


コーキョーヨーリというのは「公教要理」。
カトリック要理、カトリック教義という意味で、いわば「日曜学校」のことだ。が、当時、日曜ではなく土曜の午後にあった。
土曜日は学校が半日だったので、学校から帰って家で昼ご飯を食べて(土曜の昼はいつもイトメンラーメンだ)、
確か2時とか2時半くらいからコーキョーヨーリへ行った。今の時代でいう「学童」のような役割もあったのかもしれない。


デンドーカン(伝道館)はオミドウ(御堂=教会)の隣だ。
信徒たちのための会堂であるデンドーカンはオミドウと違って、こどもらは声を出したり笑ったり泣いたり遊んだり出来る。
コーキョーヨーリは好きじゃなかったけれど、友達と一緒なので遊びの延長みたいな感覚だった。
祈りの暗誦も適当だったし、神父さまの話もさらっとしか聞いていなかった。
問題のようなものを出されると、どうやって答えるかと周りの友達らと目を合わせたし、実際、覚えなくともなんとかなった。

年齢が上がるにつれ、祈りの暗誦に指されることはなくなった。きっと暗誦出来ているものと思われたのだろう。
また、祈りよりも教義的な、より踏み込んだ内容が主となったのだろう。
「お告げの祈り」は今でもあやふやだ。昔からぴしっと最初から最後まで唱えられた試しがない。
わたしがしっかりと唱えることの出来る祈りは、少ない。とてもとても少ない。
その上、数年前に祈りが文語体から口語体に変えられた。まだわたしたちがテキサスにいた頃だ。
よって、新しい祈りのほうもいまだに覚えておらず、古い文語体でしか唱えられない。
その点、母ちゃんは凄い。新しい祈りもすらすらと唱える。
大昔のゴミサ(ミサ)はラテン語だったというから、母ちゃんはラテン語、文語体、口語体のトリリンガルだよ。



コーキョーヨーリの日、家に迎えに来てくれるのはまーきだった。同じ歳の従兄弟。
まーきはいつも「まぁーこさーん、行ーこぉぅー」と声をかける。
普段は呼び捨てなのに、コーキョーヨーリの迎えのときだけ、さん付けになった。
あの、まぁーこさーん、行ーこぉぅー、という、歌うようなかけ声が忘れられない。
今日はコーキョーヨーリは行かん、と思っていても、まーきが呼びに来ると、いっぎりぃーとか言いながらも、一緒に行った。


なんでまーきはいつもうちに寄ってくれたのだろか?
イサコーバ(叔母さん)に言われてやっていたのだろうか?
それとも母ちゃんに言われてやっていたのだろか?


幼い頃のまーきはいつももじもじしている恥ずかしがりやだった。
わたしは男勝りで、そんなまーきを引っ張っていたところがある。
ちょびっと、ヒンナブッテイタ部分もあったと思う。
あぁ、、まさか、まさか、、、「呼びに来いよ」とでも命令していたのだろか???
もしそうだったとしたら、、、なんと恐ろしい、、、ごめん、、、


まーきはとても優しい男の子だった。
優しかったまーきのことが大好きだった。








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