ぶらんこ
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2011年10月03日(月) 八月踊り

長兄が帰って来るというので、家の片付けをしている。
母ちゃんはとても浮き足立っている。兄貴に会わせようと、知り合いまで連れて来た。
母ちゃんが言うには、県庁の誰かとかなんとか。次兄の知り合いらしい。
わたしは忙しいなか、知らない人までやって来て、ちょっと困ってしまう。
母ちゃんが、「八月踊りでもてなさんばね〜」と言い、応接台やらを動かしてオモテに広場を作り、踊り始めた。
母ちゃんに合わせて、まぁ姉やたかおばも踊り始める。
わたしは最初、ぎょっとしてしまったが、母ちゃんの軽やかな八月踊りと、輝く表情を見て、なんとも嬉しくなる。
料理の準備をしないと・・・と思いつつ、ついつい自分も踊りたくなる。
八月踊りなんかしたことないのに。



 ・・・

8月13日に見た夢。
母ちゃんの調子がいまひとつで、介護に帰りたいが、、、と、ひとり悶々としていた頃。

夢のなかの母ちゃんは若くて、しゃきっとしていて、くゎんきゃに有無を言わせないパワーがあった。
自分のなかの母ちゃんのイメージは、今も変わらずそうなのだと思う。
だから、弱々しい母ちゃんを目にすると、胸が痛く、どこかとぅじない気持ちになるのだ。
悲しいのもそうだが、途方に暮れてしまう。といった感じ。


でも、そんなんじゃいかんのだろう。
今度はくゎんきゃがしゃきっとせないかんのだろう。


あるところで、こんな言葉を見つけた。


「介護や看取りというのは、動けなかったり制限された状況の中での心の思いを満たす手伝いをすること」



さて、どれだけの手伝いが出来るだろう。


やっと、年末に一時帰国の手配を済ませた。
今年も母ちゃん介護の真似事をさせて貰えることに感謝。


そうだ、八月踊りの練習もせんといかんね。





2011年09月06日(火) 信仰 

今でこそ母ちゃんは、色々いろいろ、「ちのちの」したり「やなぐり」したりするけれど、昔はどうだったよ?


 ・・・


昔(こう書くと、本当に遠い過去のように感じる、)母ちゃんは朝から晩まで働いていて、
くゎんきゃを学校に送り出したら、たぶん洗濯とか済ませてコーバへ向かったのだ。
日中、わたしたちくゎんきゃは学校に行って、家に帰って来てからはすぐ遊びに行った。
ちょっと大きくなってからは、洗濯物を取りこんでおくとか、そういう手伝いはした。ような気がする。


母ちゃんはいつも晩ご飯まで帰って来ない。
晩ご飯が出来る間際に、わたしたちきょでのひとりが、コーバまで母ちゃんを呼びに行った。
母ちゃんが帰って来るのを待って、それから皆で一緒にご飯をいただく。

「食前の祈り」は、ときに誰かが代表で唱え、大抵はそれぞれが胸の内で唱えた。
くゎんきゃは、ゆわさぬ、かっつれむん。
唱えるのは速いよ、超スピード。5秒もかからん。最初から最後まで拍を入れず一気に唱え、がっつく。
というよりも、形だけ唱えていたのかもしれない。食前の「ちとーことー」は習慣になっていたから。
母ちゃんは、そんなくゎんきゃに混じって、ひとり、目を閉じ、スローモーションのように十字を切って、祈っていた。
祈りを終えたあと、母ちゃんは一拍おいて、「いただきます」と言った。


晩ご飯を食べた後、母ちゃんはもう一度コーバへ行って「あとちょっと」の仕事をしてきた。
その後に帰って来るのは、夜遅い11時とかだった。
わたしたちくゎんきゃは、母ちゃんのために布団を敷いておくのが常だった。誰が始めたことだろう。物心のついた頃には、もう既にそんなならわしになっていた。
姉たちからよく、「母ちゃんのために布団敷いておけよ」と言われたのは覚えている。
母ちゃんは「トゴラ」で眠った。トゴラにはTVがあったので、母ちゃんの隣に自分の分の布団を敷いて、TVを見ながら眠ったりもした。



食事係は長姉から始まり、学年が上がるにつれて妹へと随時引き継がれていった。
たいした食事は作らなかった。否、作れなかった。あるもので何かをこしらえただけだ。
そんな中、母ちゃんの分はちょっと「特別」だった。
例えば、カレーとかスパゲティとか、いわゆる和食でないとき。そんなときは決まって母ちゃんの分は別に作った。
うどんを別にこしらえたり、ご飯とみそ汁と刺身とか、そういうの。
不思議なもので、当時、母ちゃんは洋食なんか食べない、と思い込んでいたらしい。
また、父ちゃん亡き後、母ちゃんはわたしたちにとって「家長」であり、無意識ながら尊敬の気持ちがあった。
同時に、わたしたちくゎんきゃは、シンプルに母ちゃんのことが好きだったのだなぁ・・と、思う。今さらながらに、そう思う。


母ちゃんは出される食事はなんでも、いつものようにゆっくり祈りを唱えてから、食べた。
遠い記憶を辿って、あの頃の母ちゃんの様子を思い出そうとするのだけれど・・・食事に文句を言うことなど、一切なかったように思う。



食事以外ではどうだったか。
洗濯物を畳まずそのままにしておくと、怒られた記憶はある。皺になるとかなんとか言っていた。
だから、母ちゃんが帰って来るまでに、誰かが畳んでおかないと、という気持ちはあった。
そうだった、あの頃の母ちゃんにも、ちょっとした小言はあったんだった。


日曜日。ミドウに行く日。当時、御ミサは月によって時間帯が違った。神父さんが各集落をまわるので、輪番制だったのだ。
「一番ミサ」と呼ばれる月は、早朝6時半からだった(と思う)。
「明日は一番ミサだからね」前の晩に、母ちゃんはいつもそうやって念を入れた。
そして、6時前くらいから、母ちゃんはわたしたちきょでを起こし始める。
が、誰も起きないもんだから、だんだん声が大きくなる。荒くなる。しまいには足蹴りが出る。
ま、二番ミサでも三番ミサでも同じことだったけれど(時間がずれるだけ)。

深夜ミサも同様だった。クリスマスイブの夜、大晦日の夜。深夜ミサはその名のとおり、真夜中からだった。
起きていられず眠ってしまうわたしたちきょでは、母ちゃんの怒号で起こされる。
身も心も半分眠ったまま、ミドウへ行く準備をしたものだ。



怖い母ちゃん。もうひとつ、思い出したよ。
わたしがいわゆる「登校拒否」をしたときのこと。
母ちゃんは容赦なかった。学校休みたい、と泣くわたしを、絶対に許さなかった。
あのときなんであれほどまでに学校へ行きたくなかったのか、実のところ、よく思い出せない。
いつだったか長姉は、「父ちゃんが亡くなった後だったし、どこか『愛情不足』だったのだろうね」と言った。
強烈に覚えているのは、「家にいたい」という気持ちだ。家にいたからって、母ちゃんがコーバへ行ってしまうのはわかっていた。
なのに、家にいたかった。学校になんか行きたくなかった。
泣いて、泣いて、さめざめと泣いて、母ちゃんが折れるのを待った。が、その戦法は効かなかった。
わめいて、大声出して、強情に粘って、母ちゃんがあきらめるのを待った。が、それは逆効果だった。

母ちゃんはいよいよ怒り、わたしはびんたを喰らわされた。
「学校に行かんっちなんか、父ちゃんは絶対に許さんよ!」
この言葉は効いたね。後は泣きながら母ちゃんに引きずられるだけだったよ。

遅刻して、みんなの一斉の視線を浴びながら、母ちゃんは先生に謝ってわたしのことをお願いします、と言っていた。
わたしは泣きつかれて、腫れた瞼で、帰って行く母ちゃんを眺めて、初めて、ごめん母ちゃん、と思った。
(けど、それを翌年また繰り返しちゃったのだけれど、、、)



明るい思い出も書いておこう。
いや、母ちゃんに関しては、実は明るい思い出のほうのが多いのだ。
これが、母ちゃんがよく言う「くゎんきゃはでけぶちで〜」だからなのかどうかはわからない。
母親ひとりにくゎんきゃがごろごろ。貧乏子沢山を絵に描いたような暮らし。
でもね、当時のわたしたちは、貧しいとは感じていなかった。それどころか、とてもとても豊かだったのだ。


今、思えば、本当に、今になって思えば、それは母ちゃんの資質の、母ちゃんという人間の暮らしぶりの、その賜物だったのではないだろか。



ある日曜日。ミドウの後に、母ちゃんはわたしたちきょでを「まんきち公園」に連れて行った。
まんきち公園は、山の麓にあるハカショを過ぎて、そのまま登って行くとある、湾を見下ろせる場所だ。
誰が付けた名か、まんきち公園。公園と言うにはおこがましい、当時はただの峠だった。

そこで、わたしたちはおにぎりを食べ、聖歌を歌った。
湾を臨みながら座っていたわたしたち。
いきなり母ちゃんは聖歌集を取り出して歌い出した。わたしたちきょではその後を追い、合唱した。
なんて光景!まるでサウンド・オブ・ミュージック!

わたしはこのことをよく覚えている。とても嬉しかった。何が嬉しかったって、あの朝、母ちゃんはこう言ったのだ。
「ピクニックに行くよ」
ピクニック!ピクニック!なんて素敵な響き、ピクニック。遠足じゃないよ、ピクニックだよ。
母ちゃんはとってもハイカラだったのだ。



 
 ・・・


今でこそ、今でこそ母ちゃんは、色々いろいろ、「ちのちの」したり「やなぐり」したりするけれど、昔はどうだったよ?


もしかしたら昔もそうだったのだろか。
ちのちのしたりやなぐりしたり、してたのに、わたしたちくゎんきゃはでけぶちで、そんな母ちゃんに気付かなかったのだろか。
わたしたちはへらへら笑ってばかりで、家がいちばんで、きょでが大好きで、母ちゃんが大好きで、
母ちゃんの抱えていた苦労、苦悩に、気付かなかっただけだろか。


それとも、母ちゃんのちのちの、やなぐりは、その昔、抑え込んでいたものが、今になってあぶり出されたのだろか。
本当は文句を言いたかった。
投げ出してしまいたいこともあった。
したくない我慢も沢山したろう。
本当は、本当は、辛かったことを、苦しかったことを、誰かに打ち明けたかったのに、それが許されなかったのか。
或いは、母ちゃん自身がそれを許さなかったのか。


母ちゃんはよく、「母ちゃんの十字架っち思って、」と言った。
母ちゃんの、「十字架の道行き」。
「信仰があったから、ここまで来られたんだっち思うよ」ともよく言った。

確かにそうだと思う。
母ちゃんと母ちゃんの信仰は、切っても切れない。

でも、母ちゃん。
母ちゃんの沢山の我慢とか苦労とか試練とか、犠牲とか、そういうのよりも、わたしの、わたしたちきょでの中にあるのは、
それは、母ちゃんのなかにある光なんだよ。母ちゃんが大事にしてきた、けっして消えることのなかった、信仰の灯。


その灯がわたしたちきょでを明るく照らし、わたしたちを導いたのだ。
その光が、わたしのなかの、わたしたちのなかの、明るさの源なのだ。


母ちゃんは強い女性だ。
こんなでけぶちくゎんきゃを9人も育て上げたのだから、凄いよ。
だからね、母ちゃん、これからも、ちのちの、やなぐり、なんでも来い! ですよ。
(いや、ちょっとは加減っかして欲しいけどー!)



母ちゃん、退院おめでとう。
この日が来たことに、感謝します。
神さま、ありがとう。母ちゃん、ありがとう。
姉ちゃん、兄貴たち、弟、ありがとう。
姪っ子、甥っ子、母ちゃんの孫たち、ありがとう。
みんなみんな、ありがとう。

これからも、みんなで、ばーさんのちのちのやなぐりに、長くながーく、付き合っていきましょう。 ね!









2011年08月29日(月) ぶらんこ(おとうと)

ぶらんこに乗るとき、ちょっとした恐怖心がわき起こる。
ぶらんこが空中に高くあがったときの、そのまま落ちてしまいそうな予感と、いちばん高いところから後ろに戻って来るときの、
お腹の奥のほうがすぅっと縮こまってしまうような変な感覚とが入り混じって、気持ちが高ぶるのだ。
一瞬、怖いっと思う、それでも繰り返し繰り返し、ぶらんこに揺られる。
意を決してぶらんこを止めると、どこかほっとする。ぶらんこを止めるのにも、ちょっとした勇気が要る。
これはわたしだけなのか、他の人もみなそうなのか。




クァイバにはぶらんこがあった。
正しくはコーミンカン(公民館)の敷地内にある広場。そこにぶらんこがあった。
クァイバは子どもの頃の遊び場のひとつだ。クァイバ、オミドウ、ハカショ、ハマ、などなど。


クァイバのぶらんこに乗るためには順番待ちをしなくてはならない。
その日、わたしはおとうとと一緒に列に並んでいた。
やっとわたしの番が来て、ぶらんこに飛び乗った。
あの頃は怖いなんて、そういう気持ちはなかった。高く高く、誰よりも高く!
地面を強く蹴ってぶらんこを漕ぎ、空を見ながら体をうねらせる。
もっと大きく。もっと高く。
座ってはいなかった。立って、思いきりぶらんこを漕いだ。

ふと、小さな子が近くに歩いて来るのが見えた。
あぶないっ、と思った。ぶつかるっ、と思った。止めなきゃっ、と思った。
けれども、大きく後ろに振られたぶらんこは、そのまままた大きく高く舞い上がり、その小さな子に向かって降りて来て・・・


その子に当たったのだ。いや、当たらなかったのか?
気付いたとき、その子は大声で泣いていて、大人が来て抱き上げ連れて行ってしまった。
両手はわなわなして力が入らない。足はガクガクと震えている。
どうにも出来なかった、どうにも出来なかった。と、心のなかで繰り返した。

それからどうなったのか、覚えていない。
この記憶が本当なのかどうかもわからない。
でも、あのふわっと落ちて来るときの、小さな子が近付いて来て、ぶつかりそうになる。それがスローモーションのように蘇る。

だいぶん後になって、おとうとに訊いてみたが、彼は覚えていないようだった。
もしかしてぶつかったのはおとうとだったのかもしれない、とも思ったのだが、そうではなさそうだ。
何歳くらいの記憶なのか。。。それもよくわからない。
ぶらんこに乗るときに怖いのは、このせいだろう、と、自分勝手に分析。





何年か前、島に帰ったとき、もう亡くなった「下のおっかん」の思い出話を聞いた。
「下のおっかん」というのはわたしの伯母。母のいちばん上の姉だ。

下のおっかんはコーミンカンの近くに住んでいた。
あの頃はすこぶる元気で、町中をあちこち歩き回っていたのだろう。コーバイとか宝勢丸に行った帰りだったのかもしれない。
これは、下のおっかんがクァイバでわたしとおとうとを見た話だと言う。


わたしはドキッとした。
あのときの事件のことだ。おっかんは見ていたのだ。事件の目撃者だ。
どうしよう、、、苦しくなった。もうとっくに時効かもしれないけれど、犯人はこのわたし。おっかんはそれを知っていた。
あの子、もしかして酷い重傷だったのだろか、わたしが記憶をもみ消してしまっただけで、本当は大変な事件だったのではないだろか。


心臓バクバク。
でもね、話の内容はてんで違っていたよ。


下のおっかんは、クァイバでのわたしとおとうとを見て、えらく感心したのだそうだ。
え???感心した???



その日、わたしとおとうとはぶらんこの順番待ちをしていた。
おとうとの番になって、おとうとがぶらんこに乗ろうとすると、誰かが横入りして来たらしい。
それを見たわたしは、列から飛び出して、相手に食ってかかった。

「次はたーしの番じゃがね!」

わたしはかなり怒っていたらしい。そして、おとうとは泣いていたらしい。
無理矢理勝ち取った、ぶらんこの順番。


「わんぬうとぅとぅの番どーっち。はげーきょでじゃがー、きょでがなしゃぬーっち、感心」


そんなことを下のおっかんは言っていたらしい。
わたしはそのこと、全然、まったく、覚えていない。
でも同時に、そういうの、日常茶飯事だったような気もする。


あの頃、わたしにとっておとうとは自慢のおとうとで、わたしは密かにおとうとのことが好きだった。
道で会う人たちはいつもおとうとうとのことを「かわいい妹」と言っていた。そしてわたしのことを「お兄ちゃん」と呼んだ。
おとうとは綺麗な顔だちをしていたからね、それも自慢だったっけ。





いしいしんじ氏の「ぶらんこ乗り」を久しぶりにまた読んで、おとうとのことを思い出している。
わたしにとって、ぶらんことおとうとは対になっているもの。
「ぶらんこ乗り」もおとうとが出て来る。姉とおとうとの話。


あれから何十年も経って、おとうとのあの綺麗な顔は微塵も残っていない。
なんてね。だいぶん変わったけれど、ちゃんとパーツパーツは重なる。


ま、お互いさまか。


「わたしたちはずっと手をにぎってることはできませんのね」
 (中略)
「ずっとゆれているのがうんめいさ。けどどうだい、すこしだけでもこうして」
 と手をにぎり、またはなれながら、
「おたがいにいのちがけで手をつなげるのは、ほかでもない、すてきなこととおもうんだよ」









2011年08月13日(土) ガシジャガ ガシジャガ

ダレニモイワレタコトナインバヤ

ジブンデジブンバホメカタジャ



母ちゃんの言うことは 深い

ような気がするどー



ガシジャガ、ガシジャガ






2011年08月08日(月) 夢のまた夢

友人まりえとキャンパス内を歩いている。
彼女は休講になったことでとても浮かれている。
この空いた時間にシャワーでさっぱりしようという話になる。

まりえに連れて行かれたシャワー室には、幽霊が出ると言う。
「凄く怖い思いをした人がいるって。そういうの、信じる?」
彼女はまだそういう目に遭ったことはないらしい。
わたしは、信じないことはないが自分は大丈夫だと思う、と答える。
信じ過ぎることと信じることとはちょっと違う。感じたければ感じる。見たければ見える。
わたしは感じたくないし、見たくない。だから感じない。見えない。そういうモン。
まりえは、良かったーじゃぁ自分たちは大丈夫ね!とか言いながらはしゃいでいる。


突然、叫び声が聞こえる。
まりえとふたりでその声のほうへ向かう。
恐怖におののいた女の子が、叫びながら、明らかに何かに抵抗している。
が、何も見えない。何も感じない。
何かそこにいるのだろうとは思うのだが、どうにも出来ない。
なんとか助けてあげたくて、まりえとふたりで祈りの言葉を唱えようとする。が、ふたりとも気が動転してしまって、なかなかうまく唱えられない。


そうだ彼に頼もう。
突然思い立って、その場を後にする。
まりえは気が狂ったようにわたしを呼んでいる。どこに行くのー行かないでー!


走って外へ出ると、幼馴染みのコウイチロウがちょうどこちらへ向かって歩いて来るところだった。
なぜなのか?彼の両頬には大きなこぶが膨れあがっていて、両耳の後方からは箸のような棒状のものが3本ずつ伸びている。
一瞬、何かの仮装かとも思ったが、あぁまた遊ばれたんか、、、とちょっと悲しくなった。
コウイチロウは青く腫れた瞼で笑いながら"Heyyyy!"と手を振って近づいて来た。
わたしはいつものように抱き合って頬にキスしようとしたが、両端から伸びたスティックが邪魔になって出来ない。

"What's up!"
英語だったのと酷い容貌とで、急に、コウイチロウじゃなかったような気がしてきた。
コウイチロウ(?)に、あるフットボールプレイヤーの居場所を聞く。
とても有名だから、彼のことを知らない人はいない。"Carlie. You know him."


彼はすぐに見つかった。
背が高くて、フットボール選手にしては痩せている。髪は肩くらいまで伸ばしている。
人を寄せ付けない、近付き難い雰囲気がある。誰も信用していないオーラがあって、気がすくむ。
が、そんなことを言っている間はない。思いきって声をかける。

"I need your help, Carlile."
Carlileは鋭い目でわたしを見返す。"Why do I have to help you?"
馬鹿にしたような顔で言われる。
"I know you have some kind of... power."

なぜか、彼の霊感について他言してはならないような気がした。周囲に人がいたので、あえて言わなかった。
彼は、なぜそれを知っている?という顔をしたように見えたが、すぐに冷たく言い放った。"So what?"
"Because I can't see, I can't feel, I can't help, but YOU CAN, THAT'S WHY!"


彼は地面を見ながらしばらくじっと何かを考えていたが、黙って立ち上がった。
周囲にいた連中が、まさかこんな子に付き合うわけじゃないだろう、とからかっている。
わたしは彼に付いて来るように言って、走り出した。


石畳の外廊を抜ける。
ゴシック建築の講堂の上には青い空が広がっている。
キャンパス内は美しい緑に覆われている。

Carlileに見えるものはなんなんだろう、と思う。
すべてが終わったら、彼は教えてくれるだろうか、と思いながら走っている。




 ・・・




ある教会へ行くところ。
教会全体の審査依頼による訪問だ。


小道を進んでいる。道幅は4�辰曚鼻�
両側に高いコンクリート塀がある。
日中なのに、なんとも暗く重苦しい雰囲気がある。

ちょっとした広場に出た。
門らしきものはない。
広場の向こうに教会があり、早速なかへ入る。


中では先に来ていた新人が座って待っていた。彼女はわたしの姿を見て、駆け寄って来る。
わたしは祭壇中央へ進み、十字を切って会釈してから椅子へ座った。
新人はわたしの動きにちょっと驚いていたが、隣に座ってからは堰を切ったように彼女の感想を述べ始めた。


左上方に巨大なポスター?がある。
壁から天井半分ほどまで続いている。
最初は、雲々の中に浮かぶ天使らの絵に見えたが、よくよく見ると色々な人の顔であった。
新人はHöhey höhenという文字を指し、「あれは教会にはふさわしくないのではないか」というようなことを言っている。
「何かのキャンペーンのようだ」


ポスターの中央部分にVenessiaという飾り文字を見つける。
信徒らがベニスに行ったときの記念か何かなのではないか?と思う。
Frankturtという文字もある。どこかの都市の名前か?Frankfurtの間違いか?
よくわからない。


祭壇に目をやりながら新人と話していると、突然、右側の像が動き出す。
ふたりとも、ひっと声が出てしまった。
像はゆっくりと近づいて来て、驚かしてすみません、と言った。
教会の修道女だと言う。
わたしたちの審査の様子を観察していたのかもしれない。


新人が、しゃきっとした態度で、審査結果(評価)を話し始める。
修道女は、とても謙遜的な態度で聞いている。

教会入り口までのコンクリート塀は、外界を遮断しているように見えるのでもっとオープンにしたほうが良い。
鉄製のフェンスか何かに変えて、中が見えるようにしてはどうだろうか。
門がないことはある意味好ましいことでもある。

「さて、教会内ですが・・」
新人は、巨大なポスターのことを話そうとするのだがしどろもどろになってしまう。
助け舟を出すつもりで、割って入る。
「おみどうにあの絵は・・」と言いかけて、御堂(みどう)という言葉に更に「お」を付けたら通じないのではないだろか、と思い、
御堂(みどう)と言い直す。

修道女は像に化けたままの姿で、うやうやしく真剣に聞いている。
黄色いペイントが厚く塗られた肌と白い布を見ながら、わたしは、Frankturtという言葉に、とても懐かしい響きを覚え、しきりに気にしている。




 ・・・



今朝の夢、2話。
この直後、ネットで某日記を読んでいたらイタリア/ベニスが出て来て驚いた。
ドキドキしながら、フランクタートという街の名前を探したが、もちろんなかった。








marcellino |mail