ぶらんこ
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誰かに「誕生日おめでとう」とお祝いの言葉を言うようになったのはいつからだろう。 考えてみれば、友人らにはかなり前から言っていたのだろう。例えば、学校とかで。 では、家族ではどうだろう。 兄弟姉妹に、「誕生日おめでとう」と最初に言ったのはいつだったろう。
「クリスマスおめでとう」ならば、物心ついた時から言っていた。というか、言い合っていた。 クリスマスはイエス・キリストの誕生日である。 イエスさま、誕生日おめでとう。ではなく、イエスさま、誕生してくれてありがとう。なぜならば、イエスはもう既に亡くなったおひとだから。 (イエスさまが「ひと」でありながら「神」であった、とか、そういうのは、ここでは省く)
そういう意味では、誕生日をお祝いする、という感覚は備わっていたのだと思う。 そして、それは小学校に上がり友人らとの関わりのなかで、さらに培われた。
あれは確か小学校4年生のとき。いや、もしかしたら5年生だったかもしれない。 同じ町に住む女の子から誕生日パーティーに招待された。 彼女とどれだけ仲が良かったかと言うと、正直、よくわからない。ただ単に、同じ部落内で、同じ教会に通っていただけのような気もする。 しかし、あの頃の友人関係というのはそんな感じだった。性も歳もバラバラで、集まれる者が集まって一緒に遊んだ。 遊ぶのに、約束とかそういうのもなく、ただ誰かがいるところへ行き、そこで何かを皆でする、という感じだった。
だから、パーティーをするから来てくださいなんていう「招待」に、からだも心も踊った。 パーティーという言葉の響きだけで、もうもうもう、めろめろーなのだった。
何人集まったのかはよく覚えていない。女子だけだったのか、男子もいたのか、それさえも覚えていない。 小さなプレゼント(文房具屋さんで選んだレターセットだった)を持って彼女の家に行き、そこでケーキやお菓子を食べジュースを飲んだ。 三角の白いサンドイッチも出た。バターにハムときゅうりの薄切りが挟まっていた。 わっ、洋食!と思いながら食した。我が家では決して目にすることのない料理だった。
(なぜか)主役である彼女が仕切って、皆で「劇」をして遊んだ。即興で作ったクリスマス劇だったように思うのだが、記憶は曖昧だ。 面白くっておかしくて、劇はなかなか前に進まなかった。皆がそれぞれ途中で笑い出すモンだから。
そんな中、だんだんお腹が痛くなって来て、こんなのすぐに治まると言い聞かせながら我慢していたのだが、それはどんどん酷くなり、泣く泣く家へ帰った。 帰ってからも腹痛は治まらず、うんうん唸っていた。途中で帰らねばならなかったのが悔しくて悲しくて、そして腹が痛くて、泣いた。 そして、しばらくしてから・・・吐いた。 夢のような食卓だったのに、あそこで食べたもの殆どすべてを・・・吐いた。 吐瀉物の中に薄切りのきゅうりとハムが混じっていて、とてもとても悲しくなった。 あんなに美味しかったのに。あんなに楽しかったのに。 吐いてからは少しずつ腹の痛みがおさまり、いつしかそのまま眠った。涙も枯れてしまった。夢物語の悲しい結末だった。
実は彼女とは誕生日が近かった。3日とか4日とかの違い。 彼女から誕生日パーティーの招待を受けてから、そうだ自分もしよう、と決めた。 彼女より先にしたのか、或いはその後にしたのか、それはまったく覚えていない。しかも、彼女を招待したのかさえ、覚えていない。 あの頃はただ、お誕生日パーティー、というものに憧れていたのだと思う。
しかし我が家は貧しかった。母は女手ひとりでわたしたちを育てていて、学校から帰っても家にいることはなく、いつも工場で機を織っていた。 母に誕生日パーティーをしたい、と言ったとき、母がどんな風に答えたのかどんな顔をしたのか、それもよく覚えていない。 だが、わたしの願いは聞き入れられた。ひとりで準備も片付けもする。それが母の注文だった。そしてお金をくれた。
いくら貰ったのだろうか。その金額ですべてを工面しなくてはならない。わたしは真剣だった。 ジュースは必須だ。そして、ケーキ。しかし、いくらなんでもケーキは無理だった。 母のくれたお金がケーキを買えるような金額でないことは知っていたし、そもそもケーキを買うにはバスに乗って「ケーキ屋」というところへ行かねばならない。
ケーキみたいなお菓子を買おう。
あの頃のわたしはなんて逞しかったのだろう。出来ないことを悲観することなどなかったのかもしれない。
わたしはいつも行く「ふくやま商店」で、ケーキっぽいお菓子を探した。 はたしてそれはあったのだ。 ピカピカと光る銀紙に包まれた、ふわっとしたケーキのようなお菓子が、透明のプラスチック箱に並んでいる。 そのお菓子はいつだったか教会の集まりで口にしたことがあった。これだ、と思った。 予算内でおさめるために、その他のお菓子をあきらめなくてはならなかった。しょうがない。このケーキがあればそれでいい。 もしもタイムマシーンであの頃の自分に会えたとしたら、わたしは言ってやりたい。その潔さは素晴らしい、って。よくやったぜベイベー、って。
当然のことながら、その日、母は仕事でいなかった。 わたしはオモテを丸く掃除して中央にオーセツダイを設置し、来てくれる友達の数分、コップを出して皿を並べた。 トゴラを探して見つけた食べものはなんでも出した。みかんがあったのは大収穫だった。 それから、ピカピカ銀紙のあのふわふわケーキをお皿に載せた。わたしの心もふわっとした。
不思議なことに、実体である誕生日パーティーそのものについては、記憶がない。 どんなプレゼントを貰っただとか、誰々が来た、だとか、何をした、とか、そういったことは思い出せないのだ。 唯一覚えているのが、あの銀紙のふわふわ菓子は、思っていた以上にぱさぱさしていて、中に挟まれたクリームがもうちょっとあればいいなぁと思ったことだ。 でも、がっかりはしなかったと思う。なんてったって、メインのケーキなのだ。
なんだかこうやって思い返すと、不完全で、一生懸命で、それゆえにものがなしい感じがつきまとう。 パーティーの準備をしているとき兄に馬鹿にされた記憶もあって、それはもしかしたら記憶違いなのかもしれないけれど、なんだか悲しくなる。 ノスタルジック。 兄は、身分不相応だと言いたかったのか、それともノーテンキでフルムンな妹が恥ずかしかったのか或いはただ単にそのボットぶりが羨ましかったのか。 いずれにせよ、今では兄の気持ちも少しわかる。 だから思い出す度、ハゲハゲ、キモサゲサー、という気持ちになってしまう。
兄弟姉妹で誕生日のお祝いの言葉を言い合ったかどうか。おめでとう、くらいは言ったのか。 それより何より、母はどうだったろう。 我が家に誕生日パーティーがなかったのは確かだし、プレゼントなんてモンもなかった。 プレゼントというのは、招待されたときに渡すものだと思っていたし。いわば、食券のような役割。 純粋に「誕生日おめでとう」と思ったかどうかも怪しいな。 わけわからぬまま、誕生日には「おめでとう」と口にし、何かをあげて何か(食べるもの)をいただく。交換。そんな感じか。 当時の我が家では当然ながら家族でそんなお祝いはなかった。そして、誕生日を祝う心が芽生えたのも、大人になってからだと思う。
しかし我が家族は「誕生日」を大事にしていたとも思う。 あの懐かしい我があばら屋のトゴラの壁、天井に届くくらいのあの高さには、亡き父が作成した家族の表があった。 そこには、名前、誕生日、霊名がそれぞれ書かれていた。 兄弟姉妹が多かったから忘れぬようにそんなことをしたのだろうと、ずっと思って来たが、いや父はきっとそういうことを大切にしたい人だったのだろう。 それぞれの名前に付随してくる情報を、誰が見てもわかるような形にする。そういう細かいことが好きだったのかもしれない。 父は聡明な人だったと聞く。父にしてみればごく普通にやったのかもしれないが、目に入る場所にあるそれを眺めるだけで、それぞれの心に何かが刻まれた。 父は無意識にもそれを狙っていたのか、或いはー。
わたしたちの家は火事に遭い、すべてが燃えてしまった。あの表も、跡形もなく消えた。 あれから、母は何度か誰にともなく、父ちゃんが書いたみたいにあの表を書いてくれ、と言っていた。 だが、もうそのころには家族の形態は変わっていたのだ。 父と母の子供たちであるわたしたちは、それぞれがそれぞれに独立し家族を持っていた。 表にするにはどこまで手を伸ばすのか。クヮ、クヮンキャヌウトゥ、トゥジ、マガンキャ? それが理由がどうかはわからないが、新しい表が作られることはなかった。 あの表は、父ちゃんがいて母ちゃんがいて、ぼろぼろと生まれたクヮンキャがいて、のもの、なのだ。
母ちゃんは今でもあの表のことを覚えているかねー。 覚えてはいるかもしれないな。でも、誰も新しくしなかったと、ヤナグリすることはもうないだろう。 それはそれで、ちょっと淋しくもある。
誕生日には「誕生日おめでとう」と言う。 いつだったか誰かが、誕生日は両親に感謝する日だ、と言っていた。 そんな風に思ったことがなかったので、新鮮だった。理屈はわかる。両親がいたからこそこの世に誕生した、ということ。 でも、どこか違和感のような、ちょっとおこがましいような気がする。なぜだかわからないけれど。
今年の誕生日、娘から「大人気ない」というようなことを言われた。まだ自分の誕生日をそんなに喜ぶのか、と。そんな大人はいないよ、と。 それは自分でもそう思う。わかっている。大人気ないどころか、幼稚だと言ってもいい。 あの頃からちっとも変わっていないのだ、泣きながら吐いたあの日から。真剣に悩み、計画を立て、ひとりで準備したあの日から。 誕生日というものへの、純粋な、憧れ。喜び。馬鹿みたいに指折り数えて迎える、マイ・バースデイ。
色々考えたのだが、誕生日は「自分の日」だと思う。 母の誕生日は母のための日。姉の誕生日は姉の、兄の、娘の、夫の(夫と娘は誕生日が一緒だけどね)。
誕生日というのは、「生」を確認する日なのだ。その存在を祝う、喜ぶ、尊ぶ。 それは死してからも変わらない。その人が生きていた「生」を心に蘇らせ、思い出す、抱きしめる。
「いのち」を祝う日。それがわたしの思う、誕生日。 だから、声を大にして言おう。いくつになっても心から祝おう。
誕生日、おめでとう。
ここ20年、いや15年くらいか。 自分という人間には何か欠けているものがある、ということに気付いた。 さらに、その欠陥は日常生活において支障を来すものではないのだが、いや実は支障を来していることに無頓着なだけ。ということに、気付いた。 たぶん迷惑をこうむっている人達もあったろうし、ただ単に、嫌な奴、と思って近付かない(近付かなくなった)人もあろう。
自分と他との違いにちょっとした戸惑いはある。が、だからと言ってもっと頓着せねばとも思わない。 どうせ意識的に固執しようとしても無駄だろう、それが出来るのであればそもそももっと「まとも」な大人になっていた筈なのだ。
この状態をなんと表現したら良いのだろうと考えてきたが、やはり「のーたりん」というのが最もふさわしいかと思う。
のーたりん、 考えなし、 ばかっくゎ、 ふるむんぐゎ、
そんなところか。
まともな大人になんかなりたくはない。 というのをこどもの頃から思って来たのだが、ここへ来てそれは確実に達成されたのだなぁ、とも思う。 たぶんどこか勘違いしてるだけの阿呆なのだろうが。
と、ネガティブなことを書き連ねているようだが、内心はちっともネガティブではありません。 まぁそこがのーたりんの良さ。 かもね。
第三者が主人公。 線が細くてどこか暗いイメージの女性。夫の横暴ぶりに離婚というよりも夫の元から逃げ出すことを計画している。
彼女はカルチャークラスに行くと言って出かけている。 逃亡するための荷物を取りに家へ戻ったら、夫が帰って来ていた。 彼女は怪しまれないように振る舞うのだが、夫は執拗に彼女のことを観察している。 (夫とおぼしき人物は、ずんぐりむっくりの中年。 彼はがまがえるのような風貌で、嫌な顔つきをしている。服装はぱっとしないスーツ)
どこかへ出かけるのか、と夫に訊かれ、ええ、ここへ行ってみようかと、と某パンフレットを見せながら答える彼女。 そこには、樹海の様子が映し出されていた。(この場面でわたしは、そんなことしたらバレてしまうのに!と、焦っている) 男は、パンフを手に取り、じっと眺めながら、ほぉ、なかなか良い場所じゃないか、と言っている。 それを見ながら彼女は静かに後ずさりをし、、、
いきなり樹海の中へとそのまま入って行った。
わたしは樹海の中側から彼女を見ている。彼女は樹海をどんどんと進む(つまりわたしの方へと進んでくる)。 樹々が深くなり、彼女の身体がやっと入るくらいだ。 外界の灯りが次第に遠くなり、彼女の夫が「おい!おい!!」と叫ぶ声も遠ざかり・・・ とうとう、樹海の深部へと入り込んだらしい。外界の様子はここからはもう何も見えない。 と、同時に、樹々の間隔も広くなり、彼女はほっと安堵しながら、その中を進む。
が、しばらすると、どうも何か巨大な建物のなかにいるような感覚に襲われる。 暗がりの中でよくよく見ると、太いパイプなどがある。 ふと、何かにぶつかった。と思ったら、彼女の頭よりも高い位置で誰かが動き・・・どうやらそれは浴槽のようだった。 誰かがお風呂に入っている?
彼女は息をのんで、じっと佇む。見つかったら夫のところへ戻されてしまうのではないか、と恐れている。
しかし、やはり見つかってしまう。 目が暗闇に慣れたのだろう、どうやらここにはもっと大勢の人がいるようだとわかる。
彼女はある女性に連れられ、更衣室へと案内された。 そこは巨大な施設になっていて、老弱男女、大勢の人達が暮らしている。 どのような団体なのかはわからないが、彼らは温厚で、彼女のことを暖かく迎えてくれている。 何かの基地なのかもしれない。よくわからない。
いつしか樹海に入ったことも、夫からの逃亡についても、彼女はあまり考えなくなってしまう。 そんなとき、新しい大勢の新参者とともに、彼女の娘もやってきた。 彼女は娘との再会に喜び(わたしはこのときまで彼女に娘がいることを知らなかった)、ここは安心できるところだから、と説明している。
・・・
富士樹海の中にそういう巨大な秘密基地があったなんて、、、と驚きながら、わたしは樹海の中を歩いている。 樹海の中へ入ると、そこは磁場が狂ってしまっているので迷って二度と外へは出られなくなるというが、 それは外界からも中の様子がまったくわかり得ない、ということなのだろうか、、と考えている。 現代の科学をもってしても、中でこのような施設があるということは隠されている?そんなことが可能なのか???
そんなとき、 「馬鹿野郎!おめぇがそんなことをしたら、すべてが狂ってしまうだろうが!」 と、腕を強く握られる。振り向くと、そこには犬夜叉が(!)
犬夜叉はいつもの赤い着物を着ていた。 かっこいいいいいいいいい、と惚れ惚れするわたし。
犬夜叉は、枝で地面に何やらシンボルのようなものを描きながら、 おめぇ、これでこの前のような地震が来たらどうするんだよ! と、もの凄い形相で怒っている。
地震・・・地震・・・地震・・・
地震があったっけか、、、と、考えるのだが、何も思い出せない。 ぼんやりと思い出せたのは、樹海での計画は、世界を救う鍵になるということだった。
しかし、犬夜叉に会えて、これでもうすべては安心、と、内心、非常に短絡的に喜んでいる。 そしてそれを表現してしまうのは、いくらなんでもこの場面では不謹慎だろう、と、努めて平静を装う。
島にいる。 バスに乗っている。向かっているのはうちの教会。 神父さんが一緒に乗り込んだ。なぜかFather Rだ。彼はもうすぐ定年退職される。
途中、携帯が鳴る。 幼馴染みのタイラからだった。 春にわたしの娘と山で花摘みをした話をしている。だいぶ前のことだったが、そうだった、そんな話を聞いたなー、と思い出す。
あのときバイト代としていくらか貰って・・で、今日その残りが届いたんだけど、とタイラが言う。 「それがね・・・150万だったのよ」
ARE YOU KIDDING ME!? 思わず大声で言ってしまう。英語だったものだから、周りの島っちゅたちがはやし立てる。 慌てて小声で聞き直す。本当のほんとうに?
タイラ曰く、前回分のなんたら分を教会に寄付したからそれを差し引いて、140万。 それを半分にして70万、ちゅうことになるけど、それでいいだろうか、と。
頭のなかがぐちゃぐちゃだ。70万、70万、、、もう雑念だらけ。 神父さん、ごめんなさい。わたしはそこから教会に寄付は出来ません、しません。 Father Rの後ろ姿を見ながらそんなことを思う。
タイラは(今大学に通っているらしい)、「わたしのは通学のバス賃に消えると思うー」と笑っている。
わたしはというと・・・ 今回の旅費をそこから出してもお釣りが来るな・・日本の銀行にそのまま預けるか、それとも、、、とめまぐるしく妄想中。 小学2年の娘には大金だ。親が管理するのが当然のこと。。。と自分に言い聞かせる。
タイラに、姉2に電話するよう話す。70万はとりあえず姉2に渡しておいて。 番号を確認しようと急いで自分のノートを開くのだが、その部分が濡れていて文字が滲んでしまっている。うー。 そうだ、姉3に電話して!姉3に電話してくれれば姉2にも通じるから!
わたしは姉3の番号を必至で思い出しながらタイラに伝えている。 頭のなかでは、70万、$7000、70万、$7000・・・と、繰り返している。
Oまま&パパがやってきた。 それまでどちらも実際に会ったことのない犬仲間だったが、今回初めて、一緒にLAまで行くことになった。 彼らはVWの大きなワゴンでやってきた。芥子色の車体にVWというシルバーのロゴが光っていてとてもお洒落な感じ。 なるほどやっぱり、と(なぜか)納得する。
我が家で一泊した後に、一緒に出かけることになった。 Oままは起きた後、テキパキとキッチンに立って朝食をこしらえ始める。 その間わたしは、うちも出かける準備をしないと、とやや焦りながら支度をする。 犬たちのためのベッドとかブランケットとか、、外は雨だからラグも持って行ったほうが良さそう、とか。 夫が同行するというので、ほっと安心。彼女たちの車に付いて行くにしても、LAまで車で行く自信がなかった。夫が一緒ならなんとかなるだろう。
朝食もままならないうち、Oパパが急かすような形で出かける時間になった。 荷物を運んでいるとき、Oままが、「あーこの子、おしっこしちゃってるー」と言った。 あ、Cosmoだ!!と、すぐに思う。夫にCosmoを連れ戻すように言うと、CosmoがVWのワゴンから出て来た。あぁ、、、 Oままが、「あーあ、びしょびしょ。うち、一度も失敗したことなかったのに」と漏らす。 ごめんなさい、、、平謝りに謝って、夫にCosmoのこと、ちゃんと面倒見てよ!と、ちょっと八つ当たり。
おしっこ漏らしたんじゃなくて、あいつ、マーキングしたのよ、きっとね。夫とそんなことを言い合いながら、心中穏やかでないわたし。
いよいよ出かける、というとき、Oまま&パパが車の中から「じゃぁ、後を付いて来てね!」と言ってにこやかに手を振る。 わたしはまだナイトガウンのままだ。まだ準備全然出来てないのに、、どうしよう、、、 しかしCosmoの粗相のことがあったので「わかった!」と明るく言って家のなかへ戻ろうとするのだが、足が、、、足が動かない。 両足が痺れてしまってどうしても動けないのだ。
ここここここで、また迷惑かけるわけには、、、そう思いながら、なんとか足を出そうとする。 のに、動けない。あああああ、、、
すると後方から「冗談、冗談」と笑い声。 それでふと、痺れが取れて、急いで家へと戻った。キッチンには夫がまだいて、何やら探している。 ストーブの上には料理しかけの白身の魚がいくつか。時間がなくてそのままになってしまったのかもしれない。 それにしてもOままは和食の朝食も作れるんだ(完成しなかったけど)、とやたら感心してしまう。
犬たちの準備をしながら、自分自身の支度がまだ全然出来ていないことに気付き、愕然とする。 が、夫に急かされ、とにかくなんでもいいからいくつか着替えを詰め込んだ。
気付くとわたしたちもVWワゴン車の中にいる。結構、広い。犬たち(4頭いた)はのんびりとくつろいでいる。
途中、山の上のほうで、誰かを降ろした。いつの間にか乗っていた女性。見たことあるが、誰だか思い出せない。 オクラホマのほうへ行くので、ここまで一緒に乗せたんだ、いつもしてるんだよ、とOパパが話す。 なんて心の広い夫婦なのだろう、と、感動する。 それから、なんでわたしたちまで同行しているんだろう、と急に疑問に思う。 ふと見ると、娘も一緒にいた。
なんか、犬だけじゃなく人間まで大迷惑の家族じゃないか、とやけに後ろめたい気持ちになった。
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