遠くにみえるあの花火に
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2004年11月13日(土) りとろぐでプログ始めました

と、いうわけで、ようやくりとろぐを開始しました。

まだスタートしたばかりで、中身があまりありません。
はははー。

過去にゴザンスへ投稿したものが読める程度です。

こちらの日記と、同タイトルで始めています。

重なる部分も多いだろうなと予想されるのですが、
ここで、時々書いていた小説は、
りとろぐの方へ載せることになります。

まあとりあえず、ゆっくりがんばります。

■りとろぐ「遠くにみえるあの花火に


2004年11月11日(木) たりたくみさんの日記に寄せて/井上荒野『もう切るわ』読了




必要なのは不幸であることではなく、
幸せの中に潜む不幸を見つめられることであり、
不幸の中に横たわる幸せに気づくことなんだろう。

(11月10日 たりたくみさんの日記より)



ここでいう必要とは、小説を書くために必要なことという意味だ。
まったく、溜息がでる。
世の中はこんなにも、共感できる言葉に溢れているんだと、
つくづくそう思う。

幸せの中に潜む不幸。そうして、不幸の中に横たわる幸せ。

私はそれらをとても大切に思うし、また、それらこそが
ごくありふれた日々の中に、当たり前にあり、
また、当たり前なことと受け入れるべきことなのだと思う。

毎日の中でちゃんと、機微というものを拾いあげ、
幸福にも不幸にも、ちゃんと気づいてあげることが大切なのだ。

小説を読むということは、作家によって拾い上げられたそれら小さな機微を
見つめることであるし、そして自分自身の生活にふり戻った時、
あらためて自分自身の毎日の中にそれらを見つめる目を絶やさないようにと、
気づかせてくれることだ。

だからこそ、小説を書く作家というものは、
それらをきちんと拾い上げる能力を持っている必要がある、
ということなのだろう。


私はそういう価値観を好むし、そういう、
小さなものからしか、得られない細やかな人生のひだがあると思う。









さて、井上荒野さんの『もう切るわ』を読了した。
ついに読了してしまった。
けれども読了して、またすぐに読み始めた。


一人の男がいる。男には妻と愛人がいる。男から離れていこうとしている妻。
男からの電話をひたすら待っている愛人。
ある日、男は不治の病におかされ、死期を宣告される。その瞬間、ありふれた
三角関係が、奇妙に揺らぎはじめる。男が最後にあいしたのはどちらだったのか。
あるいは女たちが真実愛したのは誰だったのか。
・・・・・・・男と女の心の迷路を軽妙に描く傑作小説。

(井上荒野 光文社文庫 「もう切るわ」 裏表紙より)
 


ミルフィーユの日
アマゾンの蟹
鍵穴
ゾルキー
泡ガラス
スイトルヨ
川の犬
ピクニック日和
水の中
切符
赤いスカート
ペリメニ
太陽
キス
アイスキャンディー
もう切るわ


これらの単語で章立てされた物語は、小暮歳という一人の男をめぐって、
この男を「夫」と呼ぶ妻と、「歳さん」と呼ぶ女の、
二人の女の、かわるがわるの視線で語られる。

井上荒野さんは、あとがきでこんな風に言う。

「一人の男が死んでいく時間を背景にして、他者に向けてではなく、
むしろ自分の内部に向かって幾度も塗り重ねられ、塗り替えられて、
揺れ続けるものを、揺れるまま綴りだそうと考えたのでした。」


二人の、いや、三人の、揺れつづける真実。
それはどこにあるのだろうか?
揺れるままに綴りだされたものは、どこまでもどこまでも、
揺れつづけているようだ。

読み終えた今もまだ、そこここに「気配」を感じる。

その気配はさまざまな色をもっている。
愛人である女の、男を想う、まちわびた色。
別の男を愛そうと決めた途端、病に犯された夫と、妻をつなぐ悲しみの色。


今日の雨のように、いつのまにか、しとしとと、
私の肩や手や髪やまぶたに、物語の気配が降りそそいでいる。


2004年11月10日(水) つまり、疲れているのだ

水曜日だというのに金曜日のような心もちの日。
何回溜息を吐いただろう・・・?

つかれたつかれたつかれた。

頭の悪い小学生みたいに、そう落書きでもしたいような日。

仕事が忙しい。
仕事のことばかり考えている。
そんな気がしている。

本当はどうだろう?

物語のことばかり考えているのかもしれない。

つまり、疲れているのだ。




おいしいオムライスを食べて、元気出してね。
うん。ありがとう。








うん。ありがとう。










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