2005年02月12日(土) |
小麦粉三連休 2日目 |
土曜日。
夫は朝早くから出勤し、私はひとり実家へ。
休みの日に一人だとだらだらしてしまう。
朝のうちにスーパーへ行って買い物をし、それからようやく実家へむかう。
かばんの中にはお菓子作りの本と、コーンスターチ、ベーキングパウダー、
クッキングシートを忍ばせていく。
あまったコーンスターチを使いきりたくて、実家でクッキーを焼こうと思い立ったのだ。
ついでに最寄り駅で江国香織さんの「赤い長靴」を購入する。
実家につくなりお昼ご飯をいただく。
最近、実家の玄関先で「ただいま」というか「おじゃまします」というか悩むようになった。
結婚したばかりの時や一人暮らしの時は「ただいま」と言って帰っていたのだけど、
一度考え出すとなんだか「ただいま」ではおかしいような気がして、
なんと言ってよいかわからず、今回は「おなかすいたー」と言いながら部屋に入った。
遊びに行くことは前もって言ってあって、父親が「いらっしゃい」と出迎えてくれ
る。
「いらっしゃい」ってことは私はお客か・・・?と考えてみたり。
コーンスターチを使った「さくさくクッキー」を作ってから、
父親と梅を見に行く。
さくさくクッキーはおいしく焼けたけれど、家族の反応はいまひとつ。
母親は相変わらず仕事で、兄は相変わらずだらだらしていて、
父と私だけ寒さに負けず外出した。
久しぶりに父親とふたりきで散歩。「城南宮」まで行く。
梅は3部咲きにも満たない状態で、ぽつりぽつり咲く梅を申し訳程度に眺める。
時計回りに境内をぐるっと一周してから、また家に帰る。
帰る途中で、今夜は兄もいないことだし、4人で飲みに行こうということになる。
父が母に連絡をとり、私が夫に連絡をとった。
こういうとき、携帯電話って本当に便利だなと思う。
行きつけの飲み屋にそれぞれ集合し、
いいだこのお刺身としめじバター、それからだし巻き玉子を注文する。
手羽先、ねぎ焼き、もう一回しめじバター、お刺身盛り合わせを追加。
生中二杯とにごり酒コップに半分で、なんだか妙に酔っ払ってしまい、
大きな声で、いろんな話をした。
新聞のクイズをどうやって解くか議論したり。
前回、年末にこの4人プラス夫のご両親とで忘年会をしたとき、
にごり酒にずいぶんやられてしまったので、
お互いちゃんと家にたどり着くんだよと励ましあいながら店を出た。
そこから、記憶はとぎれとぎれなのだけれど、ちゃんと二本足でたどり着き、
歯だけ磨いて眠ったように思う。
時間的にはそれほど遅くなかったはずで。
けれどもあまりの眠さに撃沈。
あっという間の一日だった。
またお米をあんまり食べなかったなぁと思う。

2005年02月11日(金) |
小麦粉三連休 1日目 |
前の晩、旦那さんは会社の人と飲み会があったので、
私は前々から予定していた通り、ひとりぶんのお好み焼きを
フライパンで焼いて食べる。
フライパンで焼いたお好み焼きって、おいしいと思う。
実家にいたころはホットプレートで焼いていたけれど、
一人暮らし及び結婚してからはもっぱらフライパンで焼いている。
蓋をして、じっくり弱火で焼く。
生地づくりのポイントは、野菜からでる水分を考えて、
粉っぽいかな?というくらい水分を少なめにしておくこと。
関西だからか、お好み焼きが晩御飯、ということがよくあるのだけど、
関東方面の方は晩御飯がお好み焼きってことあるのでしょうか。
どうでもいいことだけれど、子供の頃はお好み焼きはおかずで、
白いごはんもお茶碗についでちゃんと食べていました。
今はお好み焼きオンリー(プラスお味噌汁とか)ですが。。
夕飯の後、9時くらいからがんばってチーズケーキを焼く。
フードプロセッサーをつかって混ぜてみる。
うーん、どうだろう。
*
そして今朝、きっちりしっかりしまったチーズケーキを食べる。
いちおう、彼の誕生日ぱーちー第2弾。
手書きのマッサージ券(本当に作りました)と、
少し早いけれどバレンタインのチョコ(普通にスーパーで売っている
おいしいチョコたちの詰合せ「小枝」とか「アーモンドチョコレート」とか
「チョコフレーク」とか)をあげる。
ケーキにろうそくも立てなければメッセージも添えられていない、
ただのチーズケーキを二人でむしゃむしゃ食べる。
ハッピーバースデーの歌だけは歌う。
11時ごろおでかけ。あてもなくドライブ。
「休日に本屋で立ち読み」というのが夫にとっては至福の時であるらしく、
古本屋に「クッキングパパ」を探しに行く。
私もつられて立ち読み。久しぶりに「紅茶王子」を読む。
近くまで来たから、という理由でエフラットカフェーに向かう。
そこは「関西一おいしいロールケーキ」が食べられるという触れ込みで、
実際のところ、こりゃ関西一かも!と思うふわふわのおいしさ。
持ち帰りはいつも予約でいっぱいで、すぐに売り切れるという。
どうやったらこんなにふわふわの生地をつくることができるんだろう?
そのカフェにアルバイト募集の張り紙があったけれど
「18歳〜25歳まで」と書いてあり、
「なんと!私たちもうあかんやん!」と嘆く。
なんだか他人事のように思っていた年齢制限。
そこで働くわけでも働きたいわけでもないというのに、
実際枠からはずれてみると妙に悲しい。
家についてからチーズケーキをまた食べる。
夜は夫が「だんご汁」をつくってくれる。
小麦粉を水でといて、味噌仕立てのお鍋に、スプーンでひとつひとつおとしたもの。
三連休一日目はそうして終了。
夕飯の後は「クッキングパパ」を読みふける。
2005年02月09日(水) |
思い出とか、そんな甘い響きの記憶ではなくって、ただそこにある日常の記憶の |
昨日はスーパーで買ってきた生カキで、
牡蠣フライなんてしてみたり。
外はサクッと軽く、中はジューシーであたたかい、海からの恵み。
結局のところ、すべての揚げ物は揚げたてが一番おいしいのだ。
と、おおげさにそう思う。
うーん、なかなかおいしいねぇ。
にっこり。と、しながら、
私むかしは牡蠣フライ苦手だったんだよなーと、ふと思い出したり。
そしてついでのように、何年か前に食べに行った串揚げ屋の串の、
上品すぎちゃってなんだか場が盛り上がらなかった飲み会のことを思い出す。
イメージとしては揚げたてをはふはふとほうばって、合間にキャベツをかじり、
みんなでワイワイと生ビールを飲む。というものだったんだけど、
そのお店に行ってみたら、なんとも上品に揚げた串(小さい)が
ちょろりと皿に盛られて出てくるというスタイルだった。
もちろんキャベツなし。
牡蠣フライを食べながら、ふいにそんなことまでとりとめもなく思い出した。
なんだか書いているうちに、また大阪の地下で安い串を食べたくなってくる。
今度行こう。
*
さて今朝は、
テイエの紅茶を飲みながら眠い頭をゆるゆると目覚めさせていく。
電車の中で二度寝をしてしまうと、いつもの倍も眠たくて、
ちっともしゃっきりしない。
おいしい紅茶は午後までとっておきたかったけど、誘惑に負けてしまう。
うん。負けてもいい。
それにしても、記憶の連鎖って不思議だなと思うのだけど、
ちょっとした事柄に、瞬間的に様々なことを思い出している。いつも。
紅茶。
というひとつの言葉に対しても、書きながら、江国さんの小説の事とか、
友人のこととか、レピシエという紅茶屋さんの店先の風景とか、
いろんなことが脳裏をよぎっている。
その中で、
私はきまぐれにここにいくつかを書き記し、
いくつかを心の中だけに留め、書き記さないことを選んでいる。
それはなんだか、自分の(きまぐれではあるけれど)意志というより、
無意識に近いなにか刷り込まれたDNAのせいというような気がする。
これを書いて、これを書かない。
それはきっと、文章の癖ということでもあるんだろうけれど。
まだ幼かったあの頃、「おかあさ〜ん、紅茶いれて〜」と言うと、
毎朝コーヒーが飲めない私のために母が入れてくれた紅茶。
出勤前のばたばたとした時間だったろうなぁと、今なら思うけれど、
あの頃は、母親が朝ごはんを目の前に並べてくれるのが当たり前だった。
学校まで徒歩10分の私は、ぎりぎりの時間までぐずぐずとしていて、
早く飲んでしまいなさい。と、よく急かされたものだ。
紅茶といっても、ティーポットで飲むような洒落た紅茶ではなくて、
スーパーで大量に安く売っているデイリーパックのような紅茶で、
それにたっぷり砂糖が入っていた。
今では考えられないけど、
ごくあまの、紅茶というより甘いシロップを飲んでいるような、
そんな紅茶だった。
でも、それが好きでおいしいと思っていた。
ちょっと渋かったり、甘みが足りなかったりしたら、
「お母さん、もっと甘くして」と不機嫌になって言っていた。
懐かしいなぁと思う反面、でもそれはついこの間のことのような気もして、
「ときめきトゥナイト」みたいに、
過去の扉を開けてそこに行くことができるような、
そんな遠くて近い記憶でもある。
その時その時は、粗雑に扱ってきた食べるという行為が、
実はいろいろなところで強烈に記憶として残り繋がっているんだなと思う。
毎日毎日のことなのに、あからさまに雑多なこととして葬られている行為。
少なくとも私の生活の中ではそうだ。
でも、食べるということが、物語の中に現れたとたん、
すばらしいこととして印象に残る、その不思議には気づいていた。
何気ない朝食のシーン。
熱いコーヒー。サラダ。こんがり焼けたトースト。
たったそれだけのことが、
書き記されることで明確な意図をもち、何かしらの感情や記憶を誘引する出来事になる。
私の朝は、やかんでたっぷりのお湯を沸かすところから始まって、
それをコーヒーに変身させたり紅茶にしたり、スープにしたりするのだけど、
あまったお湯は、車のフロントガラスの氷を溶かすために、
ポットに移してとっておく、ということをする。
毎朝何気なくしている行為だけれど、
きっとそれもまたどこかである種の記憶と繋がって留まるのだろう。
そしてふいに、「アラジン」の魔法瓶の鮮やかな赤色を、思い出すことになるんだろう。
薄暗い朝の部屋の空気。キッチンのオレンジの明かり。
ステンレスのシステムキッチン。
壊れかけたオーブンレンジ。
あんまりこげ色のついていないトースト。
テレビからもれ聞こえる華やいだ笑い声。
そして赤い魔法瓶。
そういうことをひっくるめて、瞬時に思い出すのだろう。
またいつか、きっと。
こうやって書いている間も、いろんな場面がゆきすぎていく。
それは、あろうことか私の毎日だけでなく、
このエンピツ日記で読ませてもらっている人達の、
見たことがないはずの日常の風景までも、一緒にゆきすぎていく。
書き記されたものの力。
食べ物の力。
そして記憶の力。
紅茶を飲みながら、ぼんやりした頭でその不思議を思う。