2007年11月17日(土) |
those idiots who can have no superiority without racism |
ジェフリー・アーチャーの短編集'To Cut A Long Story Short'を読んでいる。彼の作品は翻訳だと俗になりがちなので、英語のほうが面白い。
白人優位主義だった男性が、自分のせいで死んだ黒人の心臓を移植してもらったことから文字通り「改心」する話が出てくる。ああ、お涙頂戴の話だなと思いつつ、あっさりと大泣き。後から確認したら、実話をベースにしていた。やはり、本物の持つ力はすごい。
人種差別はこの世で最も卑しいことのひとつだと思う。そのすさまじく醜い現実を知らない日本人が多過ぎる。日本人自体が、海外に出れば被差別対象になり得るのだ。ロンドン市内で黒人とすれ違いざまに"Jap!"と言われて殴られ、鼻の骨を折られた女子留学生の話を読んだことがある。他にも色々と読んだり、また実際例を本人からきいたりもした。
英語の生徒の中には、クー・クラックス・クラン(KKK)という言葉すら知らない人もいる。19世紀から今日まで、黒人を抹殺することを目的として活動している集団がいるということを知らないのだ。その気狂い集団は、迷彩服を着て武装して山中で「訓練」を行ったりする。その集合写真が堂々と'95年頃の'Newsweek'誌に載っていた。
起源は南北戦争直後の混乱にあり、そのへんの事情はマーガレット・ミッチェルの「風とともに去りぬ」を読むとよくわかる。あの作品は実は、ヒロインの恋愛や結婚生活のことよりも、南北戦争に直面した南部の白人たちを生き生きと描いたことに価値があるのだ。
しかし、いくら発生時の状況には同情の余地があったとしても、その後のKKKは単なる人類の面汚しだ。
だがこれは極端な例ではない。アメリカには日常的に差別が存在している。根深く、確信的に。
今日のABCのニュースによれば、テキサスで白人男性が、自宅の芝生の上にいた黒人男性二人を、隣家に侵入未遂とみなし、警察に通報電話して「撃ったほうがいいか?」と訊き、警察が止めたにも関らず結局二人とも射殺した。
はっきり言ってこの男性のような考え方のアメリカ人など珍しくない。ただ、実際に撃って、しかも問題として表面化する例が少ないだけだ。
こういう現実を知らない日本人には、レオノー・フライシャーがノヴェライズした「背信の日々」などはSFに等しいのか。あの作品の中で、KKKメンバーの7歳の娘はあどけなくこう言うのだ。「いつか黒んぼやユダヤ人をみんな殺したら、世の中がとってもきれいになるの!」
一応言うが、KKKはアングロサクソン至上主義だ。つまりその差別対象には、日本人も含まれる。
those idiots who can have no superiority without racism (人種差別でもしないと、他者より優れた点などひとつもない愚者たち)
昨日CNNのニュースで見たその女性は、80歳になっても尚、美人といえる聡明な顔立ちとほっそりした体つきをしていた。横にいる同年輩の男性は、彼女のそばを片時も離れずに手を握りしめている。「対」といっていい、似合いのカップルだ。
二人がいるのはアルツハイマー患者の施設。男性には54歳の妻がいて、定期的に夫を見舞いに来ては、他の女性の手を離そうとしない夫に話しかける。彼はもう、妻が誰だかわからないのだという。男性の妻は色黒で太った陽気な女性で、今となっては精気の抜けきった夫にはまったく似つかわしくない。同じ病のせいだろうが、毎日を共にしている彼女こそ彼の半身に見える。
この世に生きていると、色んな辛いことがあるけれど。これは相当に、相当に悲しいことだと思う。
愛し合っていた夫婦なのかどうかはわからない。もしかしたら彼女は、殆ど喋ることも出来ない夫の面倒を見ることなど真っ平かもしれない。でも、そういう問題じゃなくて。
忘れてしまうことのかなしさ。人間の存在は、価値は、人生は、すべて「記憶」にあるのだ。
ひとは、自分の記憶と、そして他者の記憶の中に生きている。もしもこの世の誰一人あなたのことを覚えていないんだとしたら、あなたの子供時代なんて存在しなかったに等しい。それを聞く耳が全くない森の中で木が倒れたら、そこに音はないのだ。
私はそれこそ子供の頃から、やがては来る老いをずっと念頭に置いていた。いつかは老いた自分と向き合わねばならない。それがどういうものなのか、弱者になるということなのか、賢者になるということなのか。女としては老いとはどうなのか。
周りを見ると、自分が老いるという当たり前のことを全く認識していない人間が多過ぎるように思える。経済的な心配はしても、老いとどう折り合っていくかなどと考えている若者は皆無に見える。だがそれはあまりにもうかつじゃないか?
きちんと尊厳を持って老いる必要がある。それが、自分と周りに対する義務だと思う。
60歳になった私、80歳の私は、今よりずっと素晴らしい人間のはずだ。それでこそ毎日を積み重ねて生きていく意味がある。
今日のCBSのニュースでは、生まれてから一度も別々の服装をしたことがないという80歳の双子の女性を取り上げていた。まるで漫画のキャラクターのように、上から下まで完全に同じ格好をしている。髪型も持ち物もいっしょだ。おまけにインタビューに対しては、同時に同じ台詞を答える。彼女らは同じ日に結婚して、どちらも息子を一人産み、同じ職場で働いたんだそうだ。二人は一緒にいて、とても幸せそうだ。
願わくば同じ日に埋葬されますように。世界にはそのくらいの奇跡がたまには起こってもいいと思う。
aging (年月を重ねる)
2007年11月15日(木) |
never ever |
仕事帰りに西荻BITCHへ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどがかかる。
ひとつおいた隣に座っている男性が話しかけてくる。「あなたはねー、美人に生まれたからわからないでしょうが、ブスの結婚式ってのは男は本当に萎えるんですよ。新婦がブスだともうがっかりなんですよ。そういう時は新郎側の親族が『もらってやったんだ』って強気だったりね。あなたにはわからないでしょうけどね」って。
直接ほめるわけではないが、私が「美人」だという台詞が何度か出てくる。
ふーん。
この人、以前にもここでやたらと話しかけてきたんで、私が「うるせえ、てめえ黙ってろ」って言っちゃった人なんだけどなー。
覚えてないのかなー。
今日のところは、あの時かかっていたニール・ヤングはかかっていない。マスターが頭を働かしているのか、私が「うるせえ」と切れるほど好きなものは一切かからない。
隣の席に来るよう勧められたが、「いえいえ」と曖昧に微笑んで辞退した。
大人になると、敵に会っても動じずにっこりしていられる。この、「動じなくなる」のは、大人になることの最良の点だ。これが出来ない大人もいて、そういう人間の年月は無駄だ。
そしてこれは大変意外なことだが、「敵」という人種は結局いないのであって、適当に微笑んでいれば、いつかうっかりやさしい気持ちになることもある。
今現在はこの人にたいしてそれはないけど。でもわからないんだよね。「絶対」なんてことは、この世にはないんだからさ。「絶対」なんて言葉を使うのは、お子ちゃまの証拠だものね。
注1: 美人と言われたから矛先が鈍ったのか?と思った方へ。
―――たりめえだろ。人間なんてそんなもんだよ。特に私は食い物とか与えれば一発だよ。
注2: Bunnyさんの場合、敵に会ってもにっこりするのは、相手の顔を忘れているからでは?と思った方へ。
―――おっしゃる通りで。実は上の男性も最初は忘れてました。
never ever (絶対)
2007年11月13日(火) |
The Lights In The Sky Are Stars |
昨日の日記に補足。ミステリーが全て娯楽的とは限らない。例えばハイスミスやエリンの長編には、不快といっていいほどの作品すらある。アルレーに至っては時々悪夢のようだ。これらの不快感は、乱暴に言えば純文学の領域だ。
一方エンターテインメントの要素を持つ純文学もあり、例えばモームがそうだ。彼が「私は、始まりと真ん中と終わりのある話が好きだ」というのを聞くと素直に感動する。「文豪」と呼ばれる作家は一様にこのエンターテインメント性を強く持っている。ドストエフスキーは見事な文豪である。「罪と罰」の書名は、立派にミステリーの歴史に残しうる。
そしてSFを語らねば。
これほど虐げられたジャンルがあるだろうか。かつて筒井康隆は「士農工商SF作家」と言った。(日本のSFはまたちょっと特殊なのだが)
SFの悲劇は、読んだこともない輩が平気で蔑むことだ。以前ある若い女性が、「SFって嫌いー。だって本当のことじゃないんだもん」とぬかしやがった。その女に字が読めるのかどうか知らないが、読むとしてもせいぜいハーレクイン・ロマンスがいいところだろう。実際にはそういう荒唐無稽な妄想小説やTVドラマのほうが全く現実性に欠ける。
SFとは、「整合性」を尊ぶジャンルなのだ。SF作家は、まず現実の天文学と物理学の基礎を理解したうえで、加えて更に、仮定上の天文学や物理の法則も覚えなくてはならない。つまり「タキオン(光速を超えるという仮定の粒子)」や、「ワープ」である。「ロボット三原則」や「タイム・パラドックス」のような「常識」もふまえる必要がある。
またその整合性をベースとした現実性も大切である。巨匠アイザック・アシモフは、「UFOを信じている人がいたら、その人は頭がおかしいと思いますよ」と言った。エクセレント。
しかし知性と理屈だけがSFではない。感情を激しく揺さぶる作品も多く、ハインラインの「夏への扉」、フレドリック・ブラウンの「天の光はすべて星」などはタイトルを言うだけで涙ぐみそうになる。架空の設定の向こうには人間臭いテーマもふんだんにあって、A・E・ヴァン・ヴォート(ヴォートが正しい発音)の「スラン」におけるミュータント排斥は、要するに人種差別問題だ。
カート・ヴォネガットが死んだ時、個人のブログに「ヴォネガットはSFだと言われているが、そんなことはない、ちゃんとした文学だ」とあるのを見つけ、思わずSFがいかに「ちゃんとした文学」であるかについてコメントをぶってしまった。
私はヴォネガットを読んで初めて、多くのSFが哲学を内包していることに気づいたのだ。
それどころか、SFこそが哲学を語りやすい。視野が無限の宇宙や悠久の時間に及ぶので、人間の卑小さを当然と受け取るからだ。
私は5、6歳の頃から、死が怖くて泣いているような子だった。巨大で絶対的で永遠の「無」が怖かったのだ。
その頼りない恐怖感を、ブラッドベリが、書いていた。ところが同時にそれは、目を見張るほどうつくしかった。
宇宙へ、独りで、一歩踏み出す、おそろしさ。
たったひとりだ。しかし、周りにはぐるりと、星がきらめいている。
The Lights In The Sky Are Stars (天の光はすべて星) *フレドリック・ブラウンの著書 (1953)
2007年11月12日(月) |
love for mankind |
先週KZ(g)にミステリー本をお送りしたところ、楽しんで読み始めたとの返信が来た。興味を持って頂ければ何より。
ミステリーやSFは、純文学に比べて低く見られがちだ。しかし、とんでもない話だと思う。はっきり言えば、純文学と、ミステリーまたはSFを比べれば、クズの混入率は純文学のほうが遥かに高い。何故なら純文学は、書くだけなら誰にでも書けるからだ。早い話が字が書ければOKで、例え文法がメチャクチャであろうが、話の筋が通っていなかろうが、ストーリーが途中で消えてなくなろうが、「それが私の文体」「これが芸術」とぬかしていられる。しかし、ミステリーやSFを書くには、きちんとした知識と理屈と技術と説得力が要る。
私自身は、純文学もSFもかなり読んでいるが、特に洋物ミステリーに関しては、趣味に偏りがあるものの、マニアと言っていいと思う。クリスティ、クイーン、カー、ガードナーの4人だけでも250冊近く読んでいる。エリン、ジャプリゾ、ボアロー&ナルスジャック、シューヴァル&ヴァールー、ドイル、ホック、アルレー、ハイスミスは、翻訳されたものは殆ど読んでいる筈だ。ウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)という名前などは口にするだけでうっとりする。
ところで送った本は、クイーンの編集によるショートショート集で、その名も「ミニ・ミステリ傑作選」という。
ミステリーのオムニバスは無数にあるし、クイーンの編集本もかなり多い。しかしこれは、セレクションも配置も特に素晴らしい。ミステリーを広義に捉えていて、収録された67編中には、純文学作家の作品も多い。例えばディケンズ、サキ、デュマ、モーパッサン、チェーホフ、ヴォルテール、トウェインなど。知識とユーモア、幻想、涙と人情、心理的恐怖、ありとあらゆる文学の要素が詰まっている。
この本を古本屋で50円で見つけたのは、小6か中1の時だったと思うが。子供心にも興奮し感動し、一気に読み通した。以後、今日までに何回も読み返した。これまでに読んだ2,500冊あまりの本の中で、(二度すら殆どないが)三度以上読んだことがあるのはサリンジャーとフレドリック・ブラウンを除けばこれだけだろう。
この本の最も見事な点は、全体のトーンがきれいに一定していることだ。まるでツェッペリンのアルバムのようだな、と思う。
お馴染みの作家陣(ミステリーでも純文学でも)の、どれもほんのちょっとずつ「いつものそれ」らしくない雰囲気を含んだ作品が多い。まるでこの本にあわせたかのように。――クイーン自身の作品ですらそうだ。
この本を最初に読んだ時に思ったこと。どうして私にこれほどの喜びを与える為に、これだけの人が書いてくれるんだろう?
私を喜ばせる為に書いているとしか思えなかった。
つまりね、そこなんだよ。純文学と、ミステリーやSFの一番の違いは。
純文学は、独りよがりな苦悩や混沌からだけでも書ける。だが、優れたエンターテインメントというのは、他の人類への愛なしには書けないのだ。
love for mankind (人類愛)
2007年11月11日(日) |
and no e-mail came |
OS(g)から電話で、ギターを弾きたいとのこと。・・・ああ、忘れてた。ちょっと前に彼から電話があった時に、「セッションする気ある?」って軽い気持ちで言ったんだっけ。
我が幽霊バンド'Quick & Dirty'(名前だけはかっこいいわあ)は、結成したもののギタリストがいない(あんまちゃんと探してもいない)ので、飲んでばかりで一度もスタジオに入っていない。なので、この際誰でもいいからギター弾いてもらって、リハしようかと思ったのだ。
しかしOSをちゃんとギターとして採用するのは、かなり問題がある。
かつてファンキー(b)は「狂犬のようなギタリストが欲しい」と言ったものだが、OSは「狂犬」ではなく、「狂人のようなギタリスト」なのだ。(いや、「廃人」か?)
OSとはただ話しているだけで、わけがわからな過ぎてキレそうになる。今日もかなり苛々したが、何とか話をまとめ、「じゃあ連絡するのに携帯メールアドレスを知りたいから、私にメールしておいて」と言う。言いながら、「・・・多分無理だろうな」と思う。OSが前回私に携帯メールを送ろうとした時には、待っていたら携帯に普通に電話がかかってきた。彼はそれでメールしたつもりなのだ。
今回も、私のアドレスを復唱した後に、「で、名前は?」と訊かれた。「このアドレス、Bunnyの名前はないの?」って。
・・・やっぱ無理だわ。
and no e-mail came (ええ、勿論メールは来ませんでした)
2007年11月04日(日) |
ヴォーカル、タンバリン、暴力 |
Windowsの辞書機能が壊れた。使おうとしてクリックするだけで、そのたびに画面が完全にフリーズする。DELLのサポートセンターに電話して救いを求めたが結局解決せず、後日OS再インストールをする羽目になったが。
その時のDELLとの電話の間、「DELLコネクト」なる機能を使った。なんと、こちらのPC画面を向こうが共有出来るのだ。あちらが「はい、ここクリックして下さい」など画面上を赤い丸で囲んだりする。・・・これは画期的。
ユーザー側にも便利だが、何よりサポート側が助かるだろう。ど素人相手に指示するのも楽だし、ど素人の説明に頼らず状況を把握出来る。
その後、ネット検索していたら面白いものを見つけた。いわく、「アンサイクロペディア」。勿論「エンサイクロペディア」の、はっきり言えば'Wikipedia'のパロディだ。
まだ規模が小さいらしく、音楽関連の項目一覧を出してみたらかなり偏っていて、例えば「ビートルズ」という項目すらないのに、「グレアム・コクソン」や「スティーヴ・ライヒ」がある。
あれこれ見たが、オアシスのページが一番面白かった。ある程度オアシスに詳しければ、これはかなり笑える。「元はハゲとデブなどが細々とやっていたバンドをギャラガー兄弟が乗っ取ったものである」という文には爆笑。(確かにそうだもんなあ)
「メンバー」の欄にポール・ギャラガー(単にギャラガー兄弟の長兄というだけで妙に有名な一般人)の名前があったりするのもツボをおさえている。ちなみに元ドラムが「クラブでのリクエストのセンスが悪いとリアムに殴られ」とあるのは、実は新宿ローリング・ストーンでの事件のこと。そして彼がリクエストしたのはオアシスの曲。
・・・こう書くと、事実のままのオアシスが既に面白いな。例えば「主な発言」欄に並んでいる数々のアホ発言が全て実際のものだというのがすごい。いじる必要すらない。
発言の中で初耳だったのが(当時話題になったようだが)、「ああ、オレも強盗はやったことはある、次はおまえらの家に入ってやる!」というリアムの言葉。それ以前にノエルが「強盗や車泥棒をやったことがある」と発言し、それに騒いだマスコミにリアムが放った罵倒らしい。
・・・本当にリアムって、最強のアホでかっこいいなあ。
ヴォーカル、タンバリン、暴力 (アンサイクロペディアによる、リアムの担当パート)
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