2008年02月05日(火) |
Hey babe, your hair's alright |
ネットでBBCのラジオを聴いていたら、愛するグレアム・コクソンがマイケル・ジャクソンの音楽を口を極めてののしっていた。相変わらずダサい喋り方だけど(イギリス発音はおっさんおばさん臭い)、思ったことを全部べらべら喋ってしまうのが可愛い。
愛の力であなたの言ってることも大分わかるようになったわ。おかげで昨日来たTOEICの結果はリスニングが455点だった。イギリス(+カナダ+オーストラリア)発音を取り入れた新TOEICになってからの最高点だ。(旧TOEICの最高は460点)
なのに。疲れ目のせいでさっぱりだったリーディングが、案の定405点という低さ。(前回は450点) 両方の最高点を足せば900は超えるのに。なんでこう、あちらを立てればこちらが立たずなんだ。
ネットを見ていたら、愛するリアム・ギャラガー(オアシス)がイギリスで、2007年ワースト・ヘアのミュージシャン部門第二位に選ばれていた。二位とは半端な。一位はと見ると、ベイビーシャンブルズのボーカル。バンドの音は知っているが顔を見たことがないので、早速ネット上で髪型をチェック。
・・・だっせえ。
こんなのにリアムが負けたのかと思うと。どうせなら堂々と一位にしてあげたかった。
で、ベスト5にホテルが入ってた。・・・キルズがファッションで評価されるなんて。例の女優とつきあっちゃったせいで、こうやって妙な具合に注目されているんだろうか。
キルズは来月新譜が出るらしい。二人の間の尖ったエロが失われていなければいいんだが。
Hey babe, your hair's alright (リアムの髪型は可愛いわよーだ) *Rebel Rebel / David Bowie (1974) の歌詞。
2008年02月02日(土) |
Believe me, nothing is seen really. All's in the mind. See me, I am a lie, really |
昨日の日記のタイトルは'sending out'だが。
これはポリスの'Message In A Bottle'のラストの歌詞から'S.O.S.'が抜けたものだ。
2002年と2005年の日記に記している、「世界に向けてSOSを発信する」の、その「SOS」が抜けた。
今も同じ気持ちで虚空に発信しているが。大きな違いは「助けてほしい」と思わなくなったことだ。どうせ誰も助けてくれない。
誰も、誰かを救うことなど出来ない。人間が生まれてくることに意味はない。こんな簡単な真実に直面出来る人間は殆どいない。それに直面しようと足掻くことにこそ生きる意味はある。
だからやはり。虚空への発信は大事だ。
ある意味、初心に戻るんだ。
kazuさん(g)からメール。色々あって、仕事を辞めてしまったらしい。
「十代の頃から2、3年ごとに心の状態のバランスを崩していたが、今回は一時的に社会生活を行う事が困難になってしまい、人前に出る事が苦痛になった」といい、「理解してもらえるだろうか」と訊いているが。*この話が同情を引きたいが為の嘘だと後日判明。
返信を書く。「私はねー、生まれた時から心のバランスがぐらぐらぐらぐらしていて。もーなんかもー、やってられっかって感じなのよーーー。いつか大人になったらこれがいい感じに安定するのかしら、って。ソレだけを期待して生きてるのよー。社会生活なんかはなっからアレなんで。だから会社員とかになれないの。人前に出るのも大変ですから。もー」
「自分がとても無価値な存在に感じる」というkazuさん。・・・あ、そんなの毎日ですとも。「どうせ誰も私のことなんか愛してないんだわ」は私の得意の台詞だし。
でもね。そんなの馬鹿なんだよ。そんなの特大の馬鹿なの。だって。そんなの間違いなんだもの。
私を愛してるひとはいる。親が、親戚が、友だちが、元ダンナが、私が死んだら大泣きする筈だ。この世に生きていて、自分が死んだら泣くと確信出来る人間が5人もいればその人間は非常に幸福だ。だって、人間は基本的に全員無価値なんだから。
kazuさんが神様のように崇めるジミー・ペイジも、西新宿をうろつく若い女の子から見たら、ただのやさしそうなおじさんがいいところだろう。通りすがりの赤の他人からすれば、殆どの人間は何の価値もない。
愛は美しい妄想だし、救いは煌くような錯覚だ。
だけど。物凄く物凄く綺麗なイリュージョンだ。
ジミー・ペイジやジョン・フルシャンテのギターはその美しい錯覚をつくれる。だから、彼らのように弾くこと、彼らよりも上手く弾くことには何の意味もない。
Believe me, nothing is seen really. All's in the mind. See me, I am a lie, really (嘘じゃないよ。本当に見えるものなどない。全ては心の問題だ。僕をごらん。僕の存在は本当は嘘だ) *Dissolve / John Frusciante (2004) の歌詞。
2008年02月01日(金) |
sending out |
生徒が焼きたてのクロワッサン8個(プレーン6個、チョコ2個)とチーズケーキを2個持ってきてくれた。全部私一人への差し入れである。この生徒は前にも同じ店のクロワッサンを10個差し入れてくれた。ミニサイズとはいえ10個である。その時はさすがに(我慢して)1日半はもたせたが、今回は授業が終わるなり一気食いしてしまった。
ただでさえ、先日「お母さんの手料理で元気になった」という言葉に感激したらしい母から、あの後3回も食い物の小包が届いていて、母の愛を全て賞味期限内に食いきるのに大変だっていうのに。
夕べ。日付が変わって2月になった直後に、bbsを本格的に閉鎖した。昨年10月末に一旦停止した時点では、TOEICの点数が上がり次第再開の予定だったけど。
実はあの時からわかっていたんだけど。前々からbbsを閉じようかという考えはあったんだよね。TOEICはひとつのきっかけでしかなかった。で、停止してみたら、思った以上に大丈夫だった。なくてもやっていける。
実際は、停止する寸前のbbsはすごくいい調子で回っていたし、楽しかったんだけど。そういうことではなくて。
例えば。新年を迎えたり。誕生日になったり。そういう時に、いつもbbsにかなりの数の書込みがある。とてもとても嬉しい。でもその直前には、「書込みしてもらえるかな?」と期待と不安の入り混じった気分が多少なりとある。で、書込みがたくさんもらえると安堵する。
・・・なんかそれって。みっともねえよな。と思うわけ。
書いてもらえるのはとっても有難い。でも、それを期待する自分は嫌だ。「mixiはお中元お歳暮の感覚だから好きになれない」などと言いつつ、それじゃおんなじじゃない。ねえ?
サイトを始めた当時から、bbsは自分にとって一番優先順位が低かった。そしてbbsにおける自分は、たまの例外を除いては、それなりに他人に気を使って明るく社交的に会話していた筈だ。だからしょっちゅう、「日記とbbsでは別人だ」と言われた。じゃあどっちが本当の私かというと、どっちもつくりものですけど。(だって人間の全ての記述物は虚構なんだから) でも、どちらかというなら日記の方が、ずっとずっと本当の私だった筈だ。ここではずっと、どれだけ嘘をつかずに自分をさらけ出せるかに挑んできたんだ。
一昨日、あるメールをもらったことが原因で、ネットの人間関係にあらためてうんざりした。そのメール自体は私のことを考えて送ってくれているのだが、適当なフィードバック及び外部からの働きかけ(こうしたほうがいい)に対しての反発が起こり、結局それがbbsの完全閉鎖につながった。
つまり、このサイトにおける「受信」をシャットアウトしたわけだ。
・・・すっごく偉そうに聞こえますか。聞こえますよね。うん。
でもいい。そんなことくらいで切られたり、それでへこんだりするようで、こんな恥さらしなサイト5年もやってられっか。
昨年から何度か漏らしているが、日記自体も止めようかという考えはしょっちゅう起こってはいた。が、アクセスが多いのだ。2008年1月(一ヶ月間)のアクセスは11,938件。正直この数だけが、私をこの5年間支えてくれた。アクセスが少なかったらここまで続いていないと思う。
数が多い理由はわからない。恋愛沙汰で大騒ぎしてアクセスが跳ね上がることはあるが、男関係がえらく希薄な時期もアクセスは特には減らない。でも、そのへんの分析はしないようにしている。「数が多い=人気」でないのは重々承知だし、中には私への悪感情から執拗にここをチェックしている人間もいるかもしれないとは思う。(人生の無駄遣いだからやめなさいね)
でも単純に、数が多い、というのは凄いことだ。
bbsを停止して3ヶ月、日記のアクセス数は全く減らない。だったらいいや。私はもう、発信だけでいこう。
数が減ったらやめる。それまではまだとりあえず続けよう。
*5年弱の間にbbsに書き込みして頂いた213人の方々、またbbsを訪れて下さった全ての方々へお礼を申し上げます。有難うございました。
sending out (発信)
2008年01月31日(木) |
A picture is worth a thousand words. |
ああ、アメリカに行って投票したい。
ヒラリー・クリントンは面白すぎる。呆れるほど感情を丸出しにしているくせに、CBSのインタビューで「あなたが最後に怒ったのはいつ?」という質問に対して、「私は怒るのが嫌いなので、怒らないようにしているの。最後に怒ったのは、明け方にうちの犬になめて起こされた時ね。でも怒って犬をびっくりさせちゃって可哀想なことをしたわ」(以上Screaming Bunnyの記憶によるダイジェスト訳)などとしゃあしゃあと言ってのける。その舌の根も乾かぬうちに、アイオワで大敗して激怒する。その後ニュー・ハンプシャーで勝って得意満面。
「女である」というだけでも価値があると思っていたが、「女に任せるからこんなことになるんだ」と言われる危険性もかなり孕んでいるなあ。
ちなみに上記の同じ質問を受けて、「昨日」と即答したのがジョン・エドワーズ。インタビュアーに「他の候補は皆、『ええっと・・・あれはいつだったろう』って答えるんですよ」と言われ、「そんなのは嘘だよ」と爽やかに言った彼が私のお気に入りであったが、そのエドワーズも潔く機を見て昨日撤退してしまった。
共和党はもうどうでもいい。腹黒そうなジュリアーニが降りたのは大変よろしいが。
バラク・オバマに投票したい。この人は、知れば知るほど驚きだ。
昨日出たニューズウィーク誌によれば、オバマは、黒人の少ないホノルルのエリート校にいた当時のことをこう述べている。「私はアメリカで、黒人の男性になろうとしていた。見るからに黒人である、ということをのぞいては、周囲の人間は誰も、黒い肌をもつことの意味がよくわかっていないようだった」
「見るからに黒人である」とは、なんとも、聞くだけでため息が出る。彼は母親が白人なのだ。この状況、この言葉は、そのまま文学になる。
その経歴は道徳の教科書に載せたいほどで、ひたすら金にならず他人の為になる道を選んできたようだ。その一方では、若い頃に酒・煙草・マリファナ・コカインをやっていたことも認めている。
「世の中をより良く変えたい」などと本気で思う人間が、本当にこの世にいるんだろうか。私のような徹底的に駄目な人間は、他人がカネの為にこしらえた建築物を見てすらめまいがする。それをつくり上げる手間と時間を思うと、気が遠くなるのだ。なのに利己的理由ですらなく、社会の為に身を捧げるって?
マーティン・ルーサー・キングJr.の、"I have a dream."という言葉で有名なあの演説の録音を聴いていると、どんどん熱狂的に高まっていく声音に、感動するよりも恐怖心が先に立つ。考えている内容が真逆なだけで、質的にはヒットラーと同じような人物ではないかとすら思えてくる。オバマが演説する時の口調はそのキング牧師に似ているが、しかし狂信的な感じはなく、ただ理性と確信に満ちている。
世界を救おうとしている気違い―――例えば捕鯨船に体当たりする左翼連中など、殺意に近い嫌悪を覚える手合いはいくらもいるが。オバマを見ていると、澄んだ目で世の中を変えたいと思っているように見えるのだ。
子供の頃から現在まで、どの写真を見ても、なんとも真っ直ぐなあたたかい表情をしている。
人間は見た目じゃない、などと寝言を言う連中がまだまだ多いが。実際に人間は、その長い歴史において、ずっと見た目で他人を判断してきた。今もし続けている。
オバマは黒い肌というわかりやすい見た目で差別され、今はそれを武器にして戦っている。そして、その見た目―――顔が非常にいい。
A picture is worth a thousand words. (一枚の写真が何よりも多くを語る=百聞は一見に如かず)
えーと。詳しく書かないほうがいいと思うので全部すっ飛ばしますが。
メッチャ親しみやすかったわー。ジミー・ペイジ。
帰りにBITCHに自慢しに寄って、6時半帰宅。
Thank You (以上です) *Led Zeppelin の曲。(1969)
夜、都内某所から電話が入る。「今からジ○ー・ペイジが来るけど、来る?」って。
「えええええ」と逆上し、終電までに行くと返事。こういう話は「結局来なかった」に終わる可能性もあるから、終電ギリギリで行こう。
興奮で一瞬気持ち悪くなり吐きそうになるが。(もともとこのところ吐気があったしw) わくわくすると同時に、「寒くて家から出たくない」(ああっ、私の馬鹿っっ)というのもあり、来ないかもという予測もあり。何だか準備する気になれず、生徒の使ったコーヒーカップなど洗ったり。
とりあえず顔だけ洗ったところに「明日になった」という連絡が。あー、やっぱり。
家から出なくて済んだのでなんとなくほっとしたりなんか。
けど。その後聞いたあることが原因で、会いたい気持ちがかなり失せた。
明日はどうしようか迷っていたが、LEO(g)に連絡してみたら行きたいという。授業後だと間に合わないかもしれないけど。一応行ってみよ。
はきけがしちゃう *貴婦人の散歩 / パパイヤパラノイア (1986) の歌詞。
2008年01月24日(木) |
shouldn't take it for granted |
母(実は昨日から銀座のホテルに滞在中。仕事で来ているので会う暇がない)に電話して、昨日母の手料理で元気になったことを報告したら、ものすごく喜ばれた。親っていうのは、とにかく子供に食べさせることが本能だからなあ。親でなくても、「食べさせたい」という気持ちは「愛」だと思う。
私は小学校から高校まで、しょっちゅう学校に遅刻していた。(人に歴史あり。じゃなくて、私に進歩なし) 家をぎりぎりに出る時、母が「ごはんは?!」と言うので、「そんな時間あるワケないでしょっ!!!」と、非常識なと言わんばかりの態度で家を走り出ていた。時には、トーストに何かを挟んで渡そうとしたりする母を、「いらないっ!!!」と邪険に遮ったり。
大人になって自炊するようになってから、あれだけは悪かったとしみじみ反省した。
ごはんをつくってあげるというのは、大変な愛情なのだ。それは買物の時から始まっている。何をつくるか考え、材料を揃え、料理し、見栄えがいいように盛り付ける。全て、「美味しい」というたった一言を期待しての「愛」だ。ましてうちの母は、当時から父より働いていながら、毎朝きちんと凝った朝食をつくっていたのに。
それを、「いらないっ!!!」って。
・・・おかーさん、ごめんよ。思い出すと今でも胸がつぶれそうだわ。
私自身は、元ダンナと出会って初めて、「食べさせる」喜びを知った。それまでは、彼氏が皆お料理上手で、常に食べさせてもらっていたのだ。
何をつくってあげても、感激して食べるひとだったなあ。
20代前半の頃に、バンドのギターがうちに遊びに来るというので、「ごはん作ってあげようか?」と言ったら、「どっちでもいいよ」って感じで反応が薄い。そこではっと気づいた。こいつ自宅っ子だわ。当時友人の9割が一人暮らしだったので、ゴハン作ってあげると言えば大喜びされるのが普通だったのだ。それ以来、自宅っ子にはお料理してあげないと決めた。
家を出てみないとわからないことが山ほどあるよね。
shouldn't take it for granted (与えられて当然と思うな)
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