うさぎのつぶやき
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今日近所のスーパーへ買い物に行った。 結構いいものが揃っている大きなスーパーなのだが、夕方はプライスダウンするのでたくさんの人が来ていた。 そこで、最寄の駅前にあるレストランのオーナーとばったり出会ってしまった。
彼が、かご一杯にスパゲッティを入れていたので「それっておいしいの?」と聞いてみたところ、「まあまあ美味しいで、100円やし・・・」という。
その店は“とても美味しい”と私は思っているのだが、そんな、特売のしかも100円のスパゲッティをしこたま買い込んでいる姿なんて、見たくもなかった訳で・・・。
食材にこだわりをもって出していると思っていた私は、とても憂鬱になってしまった。
今日、しーちゃんのお迎えに行った帰り道の会話
私 「しーちゃん、豆まきもう終わってしまったねえ 」
しー 「うん・・・でもね、まだあたしのおなかには、おにが“2”おるねん。」
私 「はあ?」
しー 「“じゃまくさおに”と“ねむりおに”やねん」 「しーはね、なんでもじゃまくさっておもうやろ、それとあさねむたいやろ?…だから!」
私 「ふ〜ん、誰がそんなことを言ったの?」
しー 「おともだち・・・ だからな、がんばらなあかんねんてぇ・・・」
なんだかとっても、いとおしい気持ちになってしまった。
今日はン十年目の結婚記念日。 昔々のこの日の今頃は、蔵王に向かう新幹線の中だった。
この後、6時過ぎごろに東京に着いて、銀座で真っ赤な可愛い“長靴”を 買ったっけ。(雪道を歩くのに便利だろうと・・・) その後、上野の駅前の何かゴミゴミした所で、アイスクリームを買って食べたような記憶が・・・
あぁ〜〜〜〜あの頃は、若かったなあ。 ピチピチギャルも真っ青なくらい!もうやめよ、昔の話さ!
不器用な生き方しか、できない人間がいる 心に思ったことを曲げる事ができず 『うそ』がつけない
そんな人間は、だからこそ「その場しのぎ」に取り繕うことができず かたくなに押し黙ったまま自分の殻に閉じこもったりする 他人に誤解されたまま、不本意な烙印を押されることも あえて受け入れなければならなくなってしまう
そんな生き方しかできないんだから、 違う生き方をすれば、きっとストレスに押しつぶされそうになるんだから
だから「不器用な生き方」と共存する方法を 早く見つけることだよ。 今日ふっとそんなことを考えてしまった。
xxxxxxxx<2003.02.03の徒然日記より>xxxxxxx ◆旧友 昨年末、とっても嬉しいことがありました。
さあそろそろ年賀状を書いて行こうかと言う時、気になっている人を思い出しました。と言うより、毎年いや、いつでも「あの人はどうしているんだろう?」って気になっていた人なのですが・・・。
誰にでも一人や二人は、いるものです。そんな人がね。
私は高校を卒業して、大阪のある会社にお勤めをするようになったのですが、 彼女は同期入社で、社員寮でも同室でした。
同じ宮崎から来たと言う彼女は人懐っこい笑顔が素敵で、いつも彼女の周りには人が集まってきて、楽しそうにしていました。 当時の私はと言うと、何というか気ままで、人嫌いで、大勢で皆が笑い合えるなんて、「嘘っぽい」と、変に構えた性格でしたから、彼女の資質や、性格や、才能やは大好きで十分すぎるほど認めていましたけれども、その周りに集まって出来る“輪”にはどうしても入ることが出来ず、いつも離れたところから彼女を見ていました。
ただ、同室でしたからお休みの日などは、二人で遊びに行ったり、コンサートに行ったり長期の休みなどには、一緒に旅行をしたり、帰省したときには、うちに遊びに来たりとたくさんの思い出はあるのです。
ギターを教えてくれたのも彼女でした。 上阪の際に、彼女は、ギターを持って来ていました。そして、当時はやっていた、フォークソングを弾き語りでいつも歌っていたのです。 それまで、洋楽(もっぱら、BEATLES ONLYでした)しか聴いていなかった私は、最初は「フン!日本の音楽なんて・・・!」と鼻であしらうような気持ちで、いたのですが・・・。
これが聴いて見ると、以外にも好かったのですね。 色んな歌を教えてもらいました。そしてギターも彼女に教わりました。 関西フォークはもう既に下火になっていたとは言うものの、私にとってそれは、まさにカルチャーショック状態だったと言っても過言ではありませんでした。
私は結婚を機に会社をやめ家庭に入りましたが、彼女は会社を辞めてからも違う会社でキャリアウーマンみたいに働いて頑張っていました。
やがて彼女も結婚しましたが、芸術的なセンスのある彼女はデザインなどの仕事をしながらの結婚生活でした。 お互い、大阪に住んでいましたので、時々は会ったり電話をしあったりしていましたが、ご主人の仕事の関係で、東京へ引越しして行ったのです。
何年か前までは、それでも葉書きのやりとりはあったのですが、いつの間にかそれも戻ってくるようになりどうしているのかいつも気になっていました。
「彼女のことだから、絶対パソコンを使っているはず、インターネットもやっているに違いない」と思った私は、自分で、インターネットを始めるようになった時から「彼女を探してみよう」と考えていました。
パソコンを触り始めてこうやってホームページまで手がけるようになって何とか人並みに触れるようになった昨年末、パソコンクラッシュでメーカーへ修理に出すことになった為それまでPCに向かっていた時間を、彼女探しに費やすことにしました。
ご主人の名前も分かっていたので、104で『東京の○○市△△××さん』で調べてもらいましたが案の定「そのお名前ではお届けはありません」との返事でした。その近辺を幾つか聞き合わせましたが、同じ答えで東京中では探せませんか?範囲が広すぎるかしら?と聞きましたら、「そうですねぇ・・・」と 申し訳なさそうな答えが返ってきました。 田舎の彼女の実家がある町にも聞き合わせてみました。実家は商売をしていましたので、「○○商店」で調べてもらいましたが「そのお名前ではお届けはありません」と同じような返事が返ってきました。
そこで、 当時私の上司だった方が今も会社にいらっしゃることを知っていたので、その方にお電話しました。 と言うのは、やはり同じ同期入社の、一人の友人がやはり彼女と親しくしていて行き来があったのを思い出したのですが、その彼女は、社内結婚だったんです。だから、ご主人が今も会社にいれば、たとえ転勤していても分かるだろうと思ったのです。 「いやあ久しぶりねえ、どうしてるの?」などの話の後で、用件を言いましたら、「分かるよ!2〜3日待って・・・調べるから」そう言って下さいました。
そして、返事が来ました。 「連絡ついたよ、彼は転勤で東京に行ってるけれど、奥さんは四国にいるらしいから電話して見たらいいわ」そういって電話番号を教えてくださいました。
その夜四国へ電話をかけました。 いきなりの電話で、その友人はとても驚いて、でも懐かしがってくれました。訳を話すと 「私も全く連絡ないから住所は分からないけれども、電話番号は・・・」「違っていたらごめん、」そういって教えてくれたのです。
あまりの感激にダイアルを回す指が震えて2〜3度かけ直ししたことを覚えています。 四国の友人から教えられた先は、やはり関東でした。 何度目かの呼び出し音の後、ようやく繋がり「はい、○○です」と言う声を聞いたときは、思わずコブシを強く握り締めていました。 かわいらしい娘さんの声でした。私の声は多分うわずっていたと思います。 あいにく彼女はまだ仕事から帰っていませんでした。深夜の帰宅予定だと言うことで、遅い時間の電話でも構わないと言うので、もう一度かけなおすことにしました。
久しぶりの彼女は、何事もなかったかのように「いやぁどうしたん?久しぶりやねえ」と暢気なことを言っていましたが、この時に至るまでのいきさつをまくし立て、「まるでストーカーみたい・・・」と自分で自分のことを言う私に、 「連絡せずにごめ〜ん」と笑い飛ばしていましたっけ・・・。 そして、ネットのことも話しましたが案の定、どっぷりつかって仕事しているとの事でした。 彼女の名前で、検索すればたくさんの項目が出てくることも分かりました。 あれほど電話を掛け捲ったけれど、目の前のPCで検索すればすぐに分かったものを、そこに知恵が回らなかったのですねえ。
でもお蔭様で、Mailもやり取りできるようになったし、このHPも見てもらえるようになったし、今年のお正月は、年賀状も届きました。
長い間気になっていたことが私の願ったように解決したその夜は、まるで雲の晴れた後みたいにとても気持ちのいいものでした。 これからの私のPC人生もこれまでにも増して、きっと楽しくなるに違いありません。
夕方から娘がビデオを見始めた 私は、夕飯の支度をしていたので、始めの方は見ていないのだけれども 食事の時もつけていたので、見るともなしに見ていたら、これがなかなかのもので、後片付けも後回しにして一緒に最後まで見てしまった。
「A Beautifull Mind」・・・。 ラッセルクロウ主演の話題作だという。 “幻覚に悩まされる病気”に打ち勝った一人の天才学者がその、打ち勝つまでを、そして、ノーベル賞を取るまでを描いた話だ。 幻覚を幻覚として認識しその幻覚に「出てこないでくれ、さよならだ!」と言い切れる強さ、すごいと思う。 しかも実話で、モデルが現在も大学で教鞭を取っているのだという。 幻覚に打ち勝つってすごいことだよなぁ〜。
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