私の雑記帳
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遊びに来ていた姪を東京に送っていったついで?に 子供と久しぶりに東京散策。 足がパンパンにむくみ、正座が出来ないほどになっており 極限に疲れている。 自分の日ごろの運動不足を嫌!!!というほど感じる。 田舎はすぐに車なので都会の方が運動不足にならないといつも思う。 東京に住みたいなぁといつも夢みたいなことを思う。 たとえバカな夢でも持っていないと残りの人生、やっていけないよ。
2009年08月11日(火) |
未来への不安が増しただけ |
早朝の地震、遂にきたかと思うような猛烈な揺れだった。地震は小さいころから慣れていたがさすがに今朝のが一番ひどかった、 少しずつ集めていたお気に入りの食器類が食器棚から落ちて割れ、破片はバケツ一杯分にもなった。高価な物ではないけれど、自己満足で集めた物だけに1度も使わずにごみになってしまった器の山ですごく気分が沈んだ。 書棚も倒れ、ガラスが全壊、飛び散って片付けるのに難儀した。ガラスは本当に厄介、飛び出した本ももう元に戻せない。たんすも倒れかけ、娘は下敷きになる一歩手前だった。倒れたたんすが別の低い棚につかえてギリギリ難を逃れたのだ。台所を含め、家の中はひどい惨状。地震対策用の家具を固定する道具も、あまり役には立たなかった。もっと強化しなければならないけれど、そういうのも買うと結構な出費である。
うちはマンションの3階なのでより強くゆれを感じたのだと思う。 部屋の壁掛け時計が落下していて、半日後に見つけたときに時間がちょうど5時7分で止まっていて、なんだかそれがリアルに怖かった。
食欲があまりなく、夜中にお腹が空いたりするので困る。また副作用で更年期障害のような感じで異様に汗をかく。 寝たのが3時なのに5時の地震で目が覚めて、とても調子が悪い。今日は9時から受診日で、腹に3回目の注射をした。次回、手術の説明になるらしい・・。
命があってよかったとプラス思考になりたいとは思うが、なにもかもスッキリしない事ばかりでグレーな気分が続く。
2009年08月07日(金) |
大原麗子と「獅子の時代」の思い出 |
私が見たことのある数少ない俳優の一人である大原麗子が亡くなった。
大原麗子を見たのは、高校1年の夏休みだった。 父や知人らと何か用事があって上京したついでにみんなでNHK放送センターの見学コースに立ち寄ったが、その日は好きで見ていた大河「獅子の時代」の撮影はなかった。夏休みの間に、私は同級生の友人と東京に日帰りで遊びに行く計画があったので、私はNHKに「獅子の時代」の撮影がある日はいつか?と往復はがきで問い合わせてみた。するとそれについての返事をいただいた。文末には「この葉書をもって、事務所の方にいらっしゃい」と書かれてあった。 私は、馬鹿正直にもその葉書をもってNHKを訪ねた。すると、事務所の方々が何か話しているようだったが、「撮影は○時からなのであと1時間くらいしてからもう1度来てください」と言われた。何がなんだかその時はよくわからなかったが、とにかく時間をつぶして再び事務所に行くと、今度は若い女性が出てきて「ご案内します」といって私たちを見学コースではない、いわゆるスタジオの方へ案内してくれたのだ。 田舎の高校生の私たちに、その女性が「部長のお知り合いですか?」と歩きながら尋ねてきた。私は撮影スケジュールを問い合わせたら返信ハガキに事務所を訪ねるよう書いてあったと伝えた。 とにかく、それで見学コースではなくスタジオの隅から見せてもらったのが「獅子の時代」の大原麗子の出演シーンだった。 もちろん、スタジオ内に入るという経験自体が初めてだったので、すごく緊張した。本物の俳優を見るなんていう機会はそうはない。
いまでも、その時に私のハガキの返事をくれたのが誰かはわからない。 (葉書に差出人の名前はあったのだが、スタッフの重要度など知るよしもない高校生であったことと、そのハガキをその後に紛失してしまっている) もしかしたらプロデューサーご本人であったかもしれないと後年、仕事の同僚に言われた。 だいたい「今度見学にきたら事務所を訪ねていらっしゃい」なんて書いてくれて、おかげで特別待遇のスタジオ見学なのである。(大河だけでなくいろいろ案内してもらった) とにかく、そんなわけで大原麗子と聞くと「獅子の時代」を思い出す。 たとえ気まぐれでもあの頃は、そんな視聴者に優しいスタッフもいたのどかな時代だった。
2009年07月31日(金) |
「クロスオーバーイレブン」 |
「もうすぐ、時計の針は12時を回ろうとしています。今日と明日が出会う時―クロスオーバーイレブン…」
来週から1週間だけ復活するらしい。(パーソナリティは津嘉山正種) 夜遅くラジオを聴くような生活から遠ざかっていたので、いつごろ終了したのか全然知らなかったが(〜2001)、NHK-FMの40周年記念で復活するそうだ。
私は初代の石橋蓮司の頃から二代目の清水紘治までをよく聞いていた。当時は学生(始まった頃は中学生)だったし日常的に深夜のラジオは身近だった。静岡ではまだ民放FMはなかったし(当時どれほどFM東京を聞きたかったことか・・)エアチェックのためによく聞くのはNHK-FMだった。
ドラマ好きだったせいで石橋蓮司も清水紘治もどちらの顔も知っていた。石橋蓮司は悪役が多かったので、こんな仕事もやるんだなあと感心した記憶がある。それがある日気がついたら清水紘治に変わっていてびっくりした記憶がある。清水も悪役が多かったけれど、大谷直子の旦那(当時)の印象も強かった。
富山敬や横内正はほとんど聞いた思い出はないが、 津嘉山正種は1982年から終了年まで長くやっていたので、わりと聞いた印象がある。
オープニングの有名な曲はアジムスの「フライ・オーヴァー・ザ・ホライズン」という曲で、半年ほど前に急に思い出して懐かしくなりCDを入手したばかり。
テレビやラジオからパソコンと過ごす時代になってしまったが、意外と?ラジオはいいと最近見直している。
2009年07月30日(木) |
「貧乏だったけど惨めに育てた覚えは無い」 |
昨日の久米の番組のゲストがビートたけしで、注目して見た。 たけしの母(さきさん)の言葉で印象的に覚えているという言葉の一つが「貧乏だったけど惨めに育てた覚えは無い」というもの。 教育熱心だった母親らしいが、いわゆる「学」というものがなくても迷いの無い子育てをしたことがなにより羨ましい。 状況により、貧乏と言うのは仕方が無いことだと思うけれど、惨めではなかったというのは、いまの私には胸に突き刺さる。
うちはある意味、今日の米に困るほどの貧乏ではないが、嫌と言うほど惨めな状況、みじめな生活、なのである。 ずっと前からずっと自問自答を繰り返す。「そんなに私はダメな人間なのか?」「利口ではないけど底抜けの馬鹿というわけでもないのに、なんでこんなに愚かな人間になってしまったのか?」 「愚痴ってたってしょうがないじゃん」と、もう一人の私が言う。「テメエで何とかしろよ。言い訳すんな」
私は人が怖い。軽口をたたくのは得意だが、他人の言葉態度に敏感に一喜一憂してしまう。 自分がないのだ。北野さきさんのように、信念のようなものがない。自分自身にも子育てにも。
私の自尊心の回復はどうにか仕事にありついて自立生計を立てられる事に尽きる。それがわかっていて、外に出るのが怖い。 そんなに私は馬鹿じゃないとプライドばかり高くても、実は人より随分劣っているのだ。手先がうんと不器用だし、数の扱いも苦手だし、何にも出来ないろくでなし。でも、とにかくいつか必ず人並みの自尊心くらいは取り戻したい。人より優れていなくていい、自分の力で生きていたいのだ。 子供にも惨めな思いをさせている。高校の部活の活動費で学校からお金を渡された。部費の無い部活なので、ちょっと動くと交通費がすこしかかったりする、その費用を気遣ってだしてくれるというのだ。学校の趣旨はわかるけど、それは大変に惨めである。 娘は高校から奨学金だし、母親(私)は働いていないし。こんな進学校にうちのような家庭の子供は滅多にいない。そういう意味では娘はよく頑張った。でも母親の私がこんなだもの。世間が怖くて外に出られないんだもの。 それでなくても40代の何のとりえも資格も無いオバサンを雇ってくれる会社は無い。しかもこの不況。
散々いじめた妹は高校入学前に私を追い抜き、大学を出て公務員になり、優秀な医学部をでた医者と結婚した。私が東京に残りたかったのに、現実は私が田舎に戻り、妹が東京暮らし。 なにもかも裏目裏目の人生。公務員にもなりたくはないし、なにも医者と結婚したいわけじゃない。 でもあまりにも惨めなんだよ、私が。
自己憐憫はみっともない。 いつか必ず自立できるチャンスがあると思って今の惨めを乗り切るしかない。 それにしても、長ったらしいへたくそな文章だ。
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