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2009年08月30日(日)

世評がちっともわからない

なんなんだろう?って思う。
世間とか社会とか、本当にわからない。
わからないから凄く怖くて不気味。

ねぇ、みんななんでいきなりそんなに自民党が嫌いになったの?
何か悪いことした?
してるのかもしれない。けど、それはここ何年ではなく、ずっとでしょ?

民主優勢が報道されて。
じゃあとゆり戻しがあるかと思ったら、はるかに勝ち馬に乗る人の方が多かったようだ。

リアルな話の気がしない。

票ってホントに数えているのかしら?
バーチャルの世界の話のような気がする。

一票の動きが理解できない。

まだ、ロックフェラーからロスチャイルドに覇権が移ったとか。
アメリカからの資金源が痩せたとか。
中国コネクションとか。
の方が理解できる。

いっそ、爬虫類型宇宙人が政財界の中心を乗っ取っているから。
それでも、"民意が動いた"より、理解できる。

そうであって欲しいとさえ思う。
あーだから私は陰謀論が好きなんだな。


2009年08月28日(金)

本当はどうしたかったの? by 松任谷正隆

前回のスイートJAMの話。
(BSチューナーの入っているTVから外部接続で録画しているので録画予約が出来ないのだ。
日曜日の再放送忘れないようにしないと・・・)

一言一句合ってるかは自信ないけれど、
山本さん達が作った曲の一部コード進行に対して、松任谷正隆さんが山本さんに問いかけた言葉。
「本当はどうしたかったの?」

聞いたときから、良い表現だとは思っていたが、時間が経つにつれ、どんどん存在が大きくなっていった。

自分が正解を教えてあげましょうでもなく、自分はこうしたいでもなく、
答えはあくまで作った本人が知ってるはず、という考え方が好き。

それは、目の前にいるその人、に対してだけでなく人間という存在に対する信頼感が含まれているからと思う。

「答えは常に自分の中にある」
宇宙的摂理?に対する信頼といっても良いかも知れない。
(信頼感が皆無だと、神の視点でジャッジするようになってしまう。
敗戦のトラウマを抱え続けた司馬遼太郎が頭にあるわけですが)


人の書いたDocを基に何かを作ろうとして、その作業の中でこの言葉を思い出し、
「しばらくこのスタンスで行ってみよう!」と思った。

こうすべきと直すのではなく、その人がホントは何がしたかったのかを、どこに行きたかったのかを
探すために、ちょいと手助けをする。
帆の向きを微調整する。
が、決してその人の船自体の性能を否定しない。
目の前のことに一生懸命で風を見逃しているかもしれないその人の代わりに、
周囲を見渡し風を読んで、ほんのちょっと別の風を呼び込んであげる。
でも船を操っているのはその人だし、目的地を変えることまでは踏み込まない。

どっか立ち位置の軸になるものが欲しかった。
とてもしっくりきて、落ち着いた。うれしい。
しばらくの間、心の床の間に「本当はどうしたかったのかな?」掛け軸を下げて過ごすことにする。
(けど、不満を押し切った『春よ来い』のアレンジの件はどうなんだとは思う。)


2009年08月27日(木)

『ドリアングレイの肖像』@世田谷パブリックシアター2回及びMY楽

運良くチケットが取れたので(別口では落選している)ドリアン観劇2回目にしてMY楽。

前回より、きゅっと全体が締まった印象。
間合いの太さを縞と見立てると、デザインが洗練されたとでも言うか。

バジルがこなれて来たからかな、と言う気もする。(おせぇよとも思うが)
私の中で彼はMelodyMakerではなく、RhythmMaker型の人なので、
彼がノると舞台のコントラストが鮮やかになる。

おかげで前回よりずっと楽しめた。
席が前方だったこともあり、ドリアンの綺麗な横顔も堪能。
鼻筋がやっぱり綺麗だな〜。
いや、正面から見る悲嘆顔も、いや酷薄な片頬笑いも絶品・・・と観劇と同時に鑑賞モード。
美しいものを見ると、それだけで気持ちがあがる。


人物造詣や舞台全体の印象は前回より変化なし。
ドリアンは内なる子供、矯正されていない欲望、人間の原型だし、ヘンリーは。

ヘンリーはやっぱり自分だ。
最後のドリアンの死体に指輪を持たせてからの歩き方が、特に。
あー自分のあんなリズムで歩くよなと。

加納さんは私の中でthinker。
視点と自分との距離をセンチ単位で設定出来るところがヘンリー卿に適役だなと思う。


先の日記で、
>例えばRENTと同日同時刻で公演チケットが出されて「どっち?」
>と言われたら、一秒も躊躇わずRENTを選ぶ。
と書いたが、今なら2秒は逡巡するかもしれん。

もちろんRENTを選ぶわけですが。
でも、追加でチケットを取ろうという努力をする気はしていないし、する気はない。
一夜の夢、宝石のような夢として大切に大切に取っておく。



2009年08月25日(火)

バッグ購入 & ドリアン感想一部追記

結局、旅行用にバッグを買ってしまった。街歩き用。
ANNA SUIで色はシルバー。
軽さと収納力、ある程度雨にも耐えられて、持ちやすい(肩にかけられる)
との必要条件を満たし、かつ、ある程度可愛かったので、つい購入。

およそ15。
おもちゃバックなら妥当な値段かと思いつつ、定価で買うとどこか"間抜けた消費行動"との後味が残る昨今

現在の旅行用が破れてきているとはいえ、まだ使えないこともなかったのにな。
(いや、旅先で破れが広がると収集つかなくなるからしょうがなかったのだよ・・・)
とかなんとか言いながら買ってしまった。

旅行前に靴とバックを新規ご購入とは、何とも気恥ずかしい。
せめて使用頻度を上げようと日常でもしばらく使うことにした。


ドリアン感想の追記。
他の人はどんな思いで見たのかしら?とつらつら感想を読んでいて、ちと驚く。

ドリアンには感情移入も何も、自分の中では人間の欲望の原型というか、
たぶん使い方としては間違っているのだけれども、文字通りの意味で"内なる子供"、インナーチャイルドであり、
気持ちのシンクロ率は100%デフォルトと思っていた。


特異・狂気・別世界というキャプションは逆に新鮮。
社会的な制約や合理的選択あるいは理性による抑圧を経て、そのままで表出することは一般にはまずなく、
その意味で魂むきだしで生きるドリアンは稀有な存在とは思う。
が、それは表出のするかしないかの話。

ドリアン的な情動は常道と思っていたが違うのか。ふーん

他の登場人物については。ヘンリー卿は一番近い、若しくは、かくありたい存在。
バジルは間抜けで可愛らしく可虐心をそそってくれる。
そうは振舞わないけど、振舞いたくもないけど、まぁ居るよねとは思う。

シビルが一番理解不能。完全に別世界の思考回路。
舞台で下手うつところはまだ3%くらいは気持ちがシンクロ可能だけれども、その後の自殺展開はちーともわからん。

"君は僕を失望させたんだ"
"あ、そう。じゃあ他を当たってくれよ。"  それ以上何かあるの?あるのか??


2009年08月24日(月)

『ドリアングレイの肖像』@世田谷パブリックシアター

結論から言うと、嫌いでは、ない。
が、例えばRENTと同日同時刻で公演チケットが出されて「どっち?」
と言われたら、一秒も躊躇わずRENTを選ぶ。

骨格は受け入れられる。
この間の陽炎の辻3と異なって、軸がずれてる感じはしない。
枝葉のところ。
何と言っても衣装だよっ!

宣材写真あんなにかっこ良かったのに!
SANKEI EXPRESSも良かったのに!

あのぺらぺらなソフトスーツはねーだろよ。
茶系でまとめたその他出演者に対してGRAY基調という方針はわかる。(あ、これだじゃれだったのか?)

にしても質感がカッティングが、もう少しなんとかならなかったのか。

2幕はさらに愕然と。
すっげー気持ちの悪い青みの入ったGRAYのスーツ。
やっぱりてろんてろんのソフトスーツで、しかも皺まで浮いてる!
あぁもう気持ち冷める!

以前から、妙に凝った茶人か俳人チックなGRAYが嫌いだった。
色自体ではなくその色のスーツが嫌いだった。

渋好みの江戸では四十八茶百鼠といい、茶とねずみ色のバリエーションが多彩だったという。
だから、日本には妙に凝ったGRAYが多いのか?
着物ならいい!ともかくスーツには止めてくれ!

と思いつつ、じゃあ本家ロンドンではどうなのよ?!と、わざわざCityに観察にも行った。

妙に青みがかったり、緑入ってたり、そんな気持ちの悪いGRAYのスーツは誰も!着てなかった。
やっぱりスーツっつーか背広には、それに合う色っつーのがあるんだよ。
百鼠は着物だけにして欲しい。
スーツには黒と白を混ぜ合わせた無粋で不器用で正統なGRAYが合う。
っつか、俺はそれしか認めねぇっ!(って突然"俺")


後の枝葉で言うと・・・
ヘンリー卿の一幕の台詞が聞き取りにくい。
慣れの問題なのかなぁ。
山本さんのは妙にクリアなのに、他出演者の一音一音の粒が捕らえにくい。
かなりキャリア重ねている方々だからなぁ、やっぱり耳馴染みの問題なのだろうか?

バジルは声は素敵なんだけど、素敵に演技をしている感が残る。
そこにその人がいる、っつー架空のリアリティ、
(つまり、実物どおりに演じたら多分リアリティが欠如しているように見えるはず。
あたかもそこにいそうで、でも実は絶対にありえない。そんな架空のリアリティ、)
がないように思えた。

背丈で言うと山本さんが一番でかくて、ちょっと妙な感じ。
もう一人二人長身が欲しい。
キャラ的にドリアンが一番でかいって、何か今一つ不自然では?
その所為か、山本さんが妙に猫背だったのも気に入らない。

2幕はともかく、1幕冒頭は穢れを知らない白の存在なのだから、そこで猫背である必要はないでしょう。



舞台を見ていて、「あ、あれに似ている」と連想が飛んだのはゴルトベルク変奏曲。

この舞台。もちろん話はある。
けれど、話が太くとうとうと流れるというより、泡のごとくぽこっぽこっと水面で弾ける散文詩的なイメージ。

どの場面も1つの主題のVariationsであるように見えた。
場面場面が短く転換していく様は、合わせ鏡の中で果てしなく続く絵のようで、宇宙的な奥行きも見せつつ、
人の平衡感を削いでいく。

始終くるくる回るセットと相まって、軽く幻惑された印象。
この感覚は悪くない。むしろ好みだ。


あと、ヘンリー卿の言うこと&振る舞いにことごとく「わかるなぁ」と思ってしまい我ながら苦笑。
違いは私は遊ぶ時は自分のおもちゃ(つまり自分自身)で遊ぶということだけ。

愛でる気持ちと相反するようで値は一つの破壊願望、無知や無垢への憎悪と愛情と。
わかるねぇ。

人を動かすスキルがないからやらないけれど、あったら。
自分のおもちゃじゃなく、人をおもちゃに遊んだらさぞ楽しかろう。


alain

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