2009年12月20日(日)
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心に小さな磐音さまを
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明日は朝イチからちょいと分岐点。 プレゼンっつーわけではないけれど、道なきところに道を作るための、第一段階。 まずは方角と大雑把な完成形を共有することが目的。
以前は、こう言おうとか説得しようとか自分の考えをアピールしようとか、 自分を実力を一毛の漏れも無く、どころか実力以上に有能であることを見せようとか思っていたなぁ と昔を思い返していた。
前夜の今。 思うことは。 「『本当はどうしたかったの?』を見つけてあげること」by 松任谷正隆@スイートJAM そして、心にはちっちゃな磐音さまを。
心ってどこ? と思った時に、ころころ変わる心、揺れる気持ちは胸にあるように思うけど、 受け入れる核は仙骨の内側にまぁるく有るような気がする。 それが心(しん)なのかも知れない。
そう、ロルフィング関連の本で読んだんだけど。 ころころ変わるから心。 でも揺るがないから心(=芯)
って言うんだって。面白いね。
ということで、ココ大切なのでREPEAT。 心(=しん)にはちっちゃな磐音さまを持って相対する。 静けさを、人を思う気持ちを。
何回目だか判らないけれど、やっぱり山本さんの磐音さまを見ることが出来て良かったよ。 ストーリーやカメラワークやナレも含む演出には多々不満もあったけれど、でも合えて良かったよ。 ありがとうって素直に思う。
2009年12月18日(金)
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雅様ーーーーーーーーーっ
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YahooにSANSPOに(新聞も買っちまったぜ(汗))Oriconに。 動画も見ちゃったよ。 映画見るまで見ないで取っておけ!とも思ったけど、「おあずけ!」出来るはずも無く。 あ"−見ましたよ。何度も何度も見ましたさ。
「ぞくぞくするよ」 それはこっちの台詞よーっ!!と。
うーん。困った。 期待の敷居が高くなりすぎるとー。
日テレNEWS24のサイトにはこんな絶賛まで! 「山本耕史がすごい、素晴らしい演技、原作を完ぺきに再現している」いう称賛の声が日に日に高まっているという。
あーもうっ!あおるなあおるな。
ときゃいきゃいしつつ、ステラのインタを読み、 その「しーーーーーーーーん」とした静寂に恥じ入る。
喧騒と流行と思惑と功利と野心と世間には常に風が舞っている。それは誰の周りにも。 うぉんうぉんという、もしくは虫の羽音のようにぶんぶんと、そんな風の音に合わせつつも、 気持ちの奥には常にしんとした静寂を。
明るくリズミカルに。 でも心の奥に"しーん"と静けさを保つ。それはまさに"芯"ということで(笑)。
磐音さまには私も色々なことを教えていただきました。 前にも同じことを書いた気がするが、感謝とともに見送りたい。
2009年12月15日(火)
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『陽炎の辻』ファイナル 他
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別にそう忙しいわけではないが。
なぜか仕事が4つ重なり、あっちとこっちとあれとそれ。と言う状況。
こんな時は気の玉がぐーっと競りあがって、喉もと過ぎて、頭まで上がってきてしまう。 上からぐっと押さえて押さえて、気持ちの重心は常に低く、とイメージする。 と何か、穏やかでいられる。 それでいて、実はそのほうがすばやく動くことが出来る。
力を抜いたほうが強い。古武術の真髄。 玲圓先生=榎木孝明の本で読んだ。
玲圓先生と、言えば『陽炎の辻』14日は忘年会だったそうな。 同日の会見記事もWEB各所で読んだ。
3年間かぁ、お疲れ様でした。 やはり、一旦ここで一区切りなよう。いつか何らかの形でという芽はあるにしても。
うん。何か潮時な気はする。 2・3と骨格自体がぐらぐらしていくのが歯がゆかったし、 原作自体も最近物語の吸引力が薄いというか支点がぼーっとしている印象。
お疲れ様でした。 と感謝と共に見送りたい。 正月時代劇、FINALEは満開の拍手で見送れるといいな。
現在、HDDには火と汐/磐音さまプレマップ/彼岸島宣伝 が続けて入っていて、 流し見するのが幸せ。
『オリガ・モリソヴナの反語法』のこと。 書くの忘れてた。最後まで読んだ。 愛を持って見守りつつ、個人のテリトリーを尊重した距離感が大人な印象。 緊張感があって憧れる。
物語展開自体も起伏に富み引き付けられた。 現代と過去を行きつ戻りつする時間軸のずれがリズム感を産み、 さらに、各登場人物がもっさりしておらず、言葉が振舞いがぴちぴちと跳ねていて、元気が出る。
素敵な本でした。
3冊で500円コーナーの一冊なのが申し訳ないくらい。 勢いでまた買ってしまい、彼女のエッセイを一気に3冊読んだ。 エッセイも素敵。
十年以上前なのに、今の話?と思えるのは日本が停滞しているのか、 もしくは視点が日本に埋没していないが故に、時代の一歩先を見ることが出来た人なのか?
3:7のような印象である。
2009年12月13日(日)
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『まさに私はヘドウィグでない』件
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なぁんで"自分はヘドウィグだー"と思えないのかを、薄くでも一週間ずっと考えてきた。
結論。 自分は全然カタワレを求めていないからなんでしょうね。 満ち足りてるっつーか。 欠落とか欠乏感を最早感じていない。
既にYou're whole (from "Midnight radio")
鈍磨しているのか、自己欺瞞なのか、客観的事実(そんなもんがあるのか?)か否かはさておき。
と思ったところで、思い出した。
そういや、"良くも悪くも完結していて、他人が入り込める余地がない" と言われたなぁー。 生来の情報収集癖と屁理屈がさらに完結を助長した。
言うなれば、 ある種の貝が、自分の殻の中の異物をくるんでくるんで真円の真珠にしてしまうように、 そんな綺麗なものっつーことではなく、おそらく自分の中のトゲであったり傷であったりしたものを、 もうくるんでくるんで丸くてカワイイものにしてしまったのだ。
それはごまかしであるのかもしれんが、 もう、その真珠を手のひらで転がしてめでるか、繋げてネックレスにしちまうか、その段階まで来てしまった。 欠落も欠乏も向こう傷も追い傷も、既に弄ぶおもちゃであって、痛いものではない。
「ずっと一人だったね、と言われる」 と土スタで山本さんが言っていたこと。別れ際に言われるそうだ。
聞いた時あぁこれは判る 同じこと言われてきた と思った。 でも、結果は同じであっても過程はきっと全然違う。
彼の場合、きっと間口は全方向に開かれていて、一番奥の扉、奥の奥が開かないのかも知れない。
私の場合は、きっと最初の扉がないのだろうね。 オリハルコンでコーティングされているに違いない。
だから、手遊びとしてしか、人の心を触れない。 優しかったり、可愛かったり、親切だったり、愛想良かったり。 んなもんは簡単なことなんですよ。 これだけ、HowToが流布していればね。心がなければなおさらのこと。
ってとこまで考えてさてどうしようかと。
うん。でも今悪い状態ではないのよ。 "楽しそう"って言われるし。 例えば電車の中、街歩き、すれ違うだけであっても不機嫌な人より、Happyな人の方が気分良い。
自己充足していれば、口先手先だけってあっても、人に感じ良くするのも簡単。 ま、いっかぁー。(深く考えないのも完結に至る大きな要素である)
ということで、HedwigでないWholeな私は、Henry(@ドリアングレイの肖像)のようにおもちゃを壊す誘惑に退けつつ、"この愛を分けてあげる"(Hedwig2009の千秋楽アンコールの山本さんのMessage)方向性で動くことにする。
つもりだが、平家のみならず望月は欠けるものであり、何時まで続くやら。
『オリガ・モリソヴナの反語法』を読んでいる。
まだ読みかけなんだけど、文中で、某バレリーナを明らかにそれとわかる仮名で出した上、 "凡庸な才能"と斬って捨ててあって、「おぉ言うねえ」と思った。 (しかもストーリー上さしたる必要性も無く)
父親がバレエ団にスタジオ立ててやった見返りにプリンシパルになったんだ、と。
実際に彼女の舞台を見る機会も無く、先日引退してしまったので、もう機会はないため、 力量についてはしらん。見たところでわかったとも思えん。
ただ、海外のコンクールでの受賞暦もなく、海外バレエ団への所属経歴もないのに、 妙に大物扱いされていることに違和感はなくはなかったので、そういうわけか・・・と腑に落ちた。
けれど、憤りはない。 バレリーナにとって容姿も才能であるならば、財力もまた才能なのだろうと思う。 自分が役を奪われる立場だったら、もちろん不条理だ!と不満で暴発しそうになるだろうが。
けれど、傍から見たら、プロorセミプロになる程度までバレエを習い続けること、 いや、そもそも子供時代にバレエを習って何年かでも続けられること、 それだけで充分"お金持ち"であり、その中でのすったもんだは、要するに、コップの中の嵐というか、 坊ちゃん嬢ちゃんのままごと、という気がして、好きにして、としか思えん。
それに彼女の身体は鍛錬の跡を感じさせる。 下手の横好きなのかもしれないが、でもただ金で役買って安穏としていたわけではないだろう。
世の中そういうもんじゃね?いいんじゃね? との感想。
そうそう、『彼岸島』裏予告見れました! あの絵の本を買う気にはなれず(結構ネカフェで読んだ)、思い当たる4桁を片っ端から入れていったら、すぐHIT! 貧乏人は知恵で立ち回るということでしょうかね。
雅様。 えろい。
楽しみ。いやぁこのどすけべ野郎!
alain
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