不用品 買取 家庭教師 celeste blue

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本領

2009年09月01日(火)

今の仕事について間もなくのころ、先輩から言われました。

「6〜7月ころに、吐きそうなくらい仕事がイヤになる」

何度も転職を繰り返し、何度も同じ経験をしてきた私。
そんなの覚悟のうえです。

それでもやっぱり吐きそうなくらい職場に行くのがいやで、つねに何か失敗をしでかすんじゃないかってびくびくしていて、叱られたらかなりしょげ、同じ気持ちを分かつ同期だけに愚痴をたっぷりこぼし、そうして8月に入ったころ。
吐きそうなくらいイヤだったことがなくなりました。

もちろん、今も失敗はたくさんします。
それでも、スタンスが変わりました。

「失敗をおそれるのではなくて、失敗しないためには、どうすればいいのか」を考えるようになりました。

そう。
今までも、そうでした。
新しい職場に行くたびに、職場の「いろは」について知ることにうんざりしながら、ただひたすら慣れるのを待っていました。
そして、今回も、そう。

慣れることこそ、学びの一歩。

さて、9月が始まりました。
これからは、本領発揮といきたいところですね。

おやすみ。


すべておわり

2009年08月31日(月)

夏も終わるけれど、私の夏休みも終わり。

せつない。
ビッグサザエさんシンドローム。

おやす………ミ。



2009年08月30日(日)

セミの声がツクツクボウシに変わって数日。
いよいよ夏が終わります。
地上に出て1週間の命といわれるセミ。
それでも、土の中では数年、数十年と過ごしている種類もいるそうです。

地上での命は短いけれど、ホントは虫の中でも長寿にあたるほど長生きしている蝉。
地上で鳴く1週間は「土の中に帰りたいよう」と言って鳴いているのかもしれません。

今年は、そんな蝉の鳴き声を「うるさい」と思うことなく終わりそうです。
けっして冷夏ではなかったけれど、季節の風物詩が、少しずつ変わってきたように思います。

そのうち、蝉の鳴き声が聞こえなくなる夏が来るのでしょうか。
それとも、その逆……?

とにかく、夏はもう終わりです。

おやすみ。


訪問

2009年08月29日(土)

なんともフシギな空間でした。
長年つきあってきた友人夫妻。
その家に、なぜか生まれて一カ月も経たない赤ちゃんがいました。

赤ちゃんがいる以外には、なんら変わりもない友の家。
ソファーがあり、テレビがあり、夫がごはんを作り、妻がサラダを担当する。
何も変わりないのに、そこに、赤ちゃんがいる。

これまでも、赤ちゃんの誕生した家庭を何度も訪問しているけれど、今日のような感覚は初めて。
おそらく、今後もないでしょう。
それだけ、特別な感覚でした。

「老後は、タイに住むからいっしょに住もう」

相変わらず、このふたりは、私を将来まで連れていってくれます。
旅にも誘ってくれます。
夫婦+αに入れてくれます。

楽しくて懐かしい時間が過ぎて行きました。

また、遊びに行くよ。

おやすみ。


痛い

2009年08月28日(金)

激しく痛む両足の大腿。
そう、下りに弱い私は、いつもいつも大腿部の筋肉痛に悩まされます。
エレベータのない5階建ての5階に住む私。
今日はもちろん、外出禁止です。

それでも、トイレに行ったりごはんを食べたりベッドから降りたり、などと体は否応なしに動かさなければいけません。

おそらく、私の記憶している限り、生まれて初めて、筋肉痛に向けて湿布を貼りました。

効くという評判がありましたが、私には、それほど効きません。
でも、なんとなく気休めにはなりました。

糸はぷっつり切れたけど、また、次の山を考えようとしている自分にほっとしています。
そう、山登りは趣味なんですから。
私には、やりたいこと、やるべきことがあるのですから。

おやすみ。


筋肉痛

2009年08月27日(木)

朝5時の朝食に合わせて起床。
今日はとうとう下山の日です。
そして、もちろん、私の両足は筋肉痛に見舞われていました。

下りにめっぽう弱い私は、筋肉痛も手伝って、次第に歩みが遅くなります。
ゆっくりゆっくり降りて、ようやく上高地。
途中、かもんじ小屋で昼食をとり、上高地でお土産を買い、臨時バスに掛け乗りながら、平湯温泉で山の疲れを落としました。

帰りは、わがままを通してもらい、私の住む山まで送ってもらいました。
筋肉痛のため、電車で帰るのがとてもとても億劫だったからです。

家に帰っても、すぐには眠れませんでした。
切れてしまった糸は、ふたたび、つながるのでしょうか。
私は、これから、どんな気持ちで、山に登るのでしょうか。

おやすみ。


凧と糸

2009年08月26日(水)

眠れぬ夜を過ごしました。
20時前に布団に入り、21時過ぎには目が覚めてしまいました。
そしてそのまま午前3時過ぎまで、いろんなことに思いをめぐらせながら、起きていました。
やっと眠りにつけたと思ったら、もう朝5時。
朝食の時間です。

今日は、山頂を目指す組と、上高地に下山する組とで分かれます。
もちろん私は、山頂を目指す組。
手っ取り早く準備をして、あっさりと下山組と別れのあいさつをし、山頂へ向けて歩き始めました。

小さな雪渓をいくつか越えて、遠くからは直線に見えていたゆるやかな傾斜の登山道を登ります。
ザイテングラードと呼ばれる鉄ハシゴあり鎖ありのちょっと危険な岩尾根をいくつも越えていきます。
おそれていた場所だったけれど、リーダーの適切なアドバイスのおかげで、それほど恐怖を感じることなく歩くことができました。

最初の目標だった「穂高小屋」到着。
涸沢ヒュッテでもらったお弁当を半分だけ食べて、さて、頂上を目指します。
そして私の試練はノーマークだったこの先の岩場だったのでした。

最初の取っ付きから急な岩場をどんどん登ります。
高山病にかかってしまった仲間を気遣おうにも、自分のことで必死です。
リーダーは、私たち2人の世話を積極的にみてくれています。
さっきまで遠くにいた雲が、周囲に白いガスとなってたちこめてきています。
偽のピークをいくつか越えて、何度もうしろを振り返り、歩いてきた距離を確かめます。
確実に頂上に向かっているはず……、そう言い聞かせるように。

歩きながら息を整えながら、一歩、一歩、山頂へ向けて歩を進めます。
もうここまで来たら「引き返そう」なんていえません。
何があっても、山頂で3人で喜びを分かち合わなければいけません。

ふと、振り返るとさっきまでガスがかかっていた景色がどんどん、どんどん晴れていきます。
あ、空が見える……。
奇跡にも似た思いを感じながら、山頂へ着きました。

人はたくさんいたけれど、静かな山頂でした。
視界の端から端まで広がる山。
かつて登った燕(つばくろ)。そしていつか登りたい円錐形の常念、その隣の蝶ヶ岳。
槍の穂先に思いを馳せて、眼下に広がる谷とそして梓川の下流「徳沢」。

ここが、頂上、か……。
なんとなく、凧の糸がぷっつり切れたような気持ちになりました。
目標を見失ったような、そんな感覚。

………。
……………。

登りよりも下りのほうが大変でした。
コースタイムの倍ほどの時間をかけて下りました。
途中で食べたソフトクリームはおいしかったけれど、山小屋での生ビールは残してしまいました。

そして、今夜も私は眠れぬ夜を過ごすことになりました。
ぷっつり切れた凧の糸。
どっちが凧で、どっちが手元に残された糸なのか。

つれづれない今日一日の日記。
いろんなことがありすぎました。

おやすみ。



かれた、さわ

2009年08月25日(火)

車の運転を免除してもらいながら、実はほとんど眠れませんでした。
最初に1時間眠り、その後、高速を降りたころから、うつらうつら、うつつ……、としたところで、もう朝。
大丈夫か?私?! と思いながらも、今日は「涸沢(からさわ」までだし……という安直な思いでシャトルバスに乗り込みました。
途中、私の好きな「焼岳(やけだけ)」を観たいと思っていたけれど、睡魔に襲われたようで、まったく観ず。
気がついたら、上高地でした。

ま、いっか。

てくてく、てくてく。
上高地から涸沢まで行程約6時間。
初めての人からベテランさんまでいっしょに歩きます。
てくてく、てく。て、く。
てくてく、まさにてくてく歩いていたら、涸沢でした。

涸沢。
多くは語りません。
いっしょに行った人たちは、どんなふうに受け止めたのでしょう。

私にとってこの地は………。
多くは、語りはしません。

おやすみ。




大丈夫でしょう

2009年08月24日(月)

数日前に造ったザックをもう一度、点検。
必要最低限の物と、あれば便利な物、万が一のときにないと困る物、万が一のときにあると助かる物などの分別をして、パッキング終了。
結局、いつものようにシンプルな荷になりました。

今日の集合場所に行き、おにぎりをいくつか握り、みんながそろってから、ゆっくり出発。
今日から穂高山行です。

明日の朝、「平湯温泉」へ到着後、穂高に秘め守られた地「涸沢(からさわ)」まで行きます。

少しの緊張と、大きな期待。
晴れますように。
そして、私の体力と気力がこの数日間、持ちますように。

今年も、登ります。
地形図を読む限りでは、おそらく、去年の槍ヶ岳よりも、私にとって「怖い」山行きになることでしょう。

でも、大丈夫。
みんな、いるから。

おやすみ。


どうよ。どうよ?

2009年08月23日(日)

茫然自失になりながら、いつもの場所にむかいました。
私は、あのとき、これでよかったのか。
あのとき、もっと、かけるべき言葉があったのではないか。

それでも、夜勤の人少ないときにできることは、日常のことをいっしょう懸命にするだけ。

私の父は、こんなふうに、看護師さんたちに惜しまれて亡くなったのでしょうか?
おそらく、迷惑な患者だったのでしょう。
でなければ「強制退院」なんて、思いやりのまったくない言葉は出てこなかったと思います。

私は、今度、いつか母を見送るなら、この病院がいいな、と改めて思いました。
父が亡くなった病院は、サイテーだということを実感しながら。

いつのも場所では、お昼ごはんでした。
事前に伝えていたので、私の分もごはんがありました。
いつも、いつも、ありがとう。

今日はとくに、ありがとう。

人の死を迎えた後の私を、きちんと、受け入れてくれて、ありがとう。

おやすみ。

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celeste [MAIL] [アルバム「紺と碧」]

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