| 2010年03月27日(土) |
「世界のナベアツ」(そしてまた父の事ですみません。) |
どうも「世界のナベアツ」 今年の年末は大活躍の模様(笑) Aさんっ!ガシッ☆(肩抱きしめ)
オレと一緒に泣こうか? 「明日があるさ」を「夏コミがあるさ」に置き換えてヤケ歌やで。
なんてね・・・。 ではまた父の事を少し・・・・
囲碁が好きな父でした。
自分はもの心ついた頃から、父が碁盤に碁石を打ち付ける音を聞いて育ちました。 もちろん碁盤は足付き。 我が家の日曜の朝のテレビはもちろん 『日曜囲碁講座』 あの独特な秒読みの発声。
「10びょ〜う」
納豆が糸引いてる様な読み方だよなあ、と子供の頃はいつも心の中で盛大に突っ込みを入れてたものでした。
父は会社勤めをしていた頃よく「囲碁大会で優勝したぞ」と、トロフィーとか楯とかもらって来てました。 それでもここ10年は人と対局する事も無く、常に詰め碁集とにらめっこする日々…。
「碁会所に行けば?」 「パソコン買ってインターネット囲碁やってみなよー!(名前はsaiで!・・・ってヒンシュクものだよな)」
何度も勧めてみたのですが、父の中に何か思う所があったんでしょうね。 首を振るばかりでした。 60歳を過ぎ今までの職場を退いても、父はずっと勤めていた会社の系列の友人から紹介された派遣業務に着いて70歳の誕生日まで働き続けました。 (なんちゅうか、週一しか休みの無い自分よりも給料はいいわ派遣なのにボーナスいい感じで出てるわで羨ましかったです)
70を前にしての数年は週に数日の出勤でよく、気は楽であったと思います。 その代わり母が 「家に居る時間が増えて何かイヤだ」 と、よくダダをこねていましたが。 (そう言う割には容赦なくアッシーにコキ使ってたような)
そして70歳の誕生日に退職。 やっと会社勤めと言うものからおさらばしました。 仕事人間だった父。 さぞかしがっくしキてんだろうな?と思いきや。 父はどこで聞いて来たのか、隣のそのまた隣町の公民館の囲碁サークルに入ったんだと母から聞いた時は驚きました。 あれほど何年にも渡って我々が勧めてたのにガンとして首を横に振り続けてて、何で今?! ・・・・っつか何で地元でなく、歩いて40分もかかるとこなのさ?!(駅で二駅先です) と思いました。
実家に電話。すると 「ちょこちょこと楽しそうに出掛けてるわよ〜♪」 と母。そしてその母の声も楽しそうに聞こえました。 今まで父の休日の趣味と言えばひたすらウォーキングすることばかりでしたから(しかも距離は半端ないし) 母にしてみれば、父が他人と関わる趣味を持ってくれたのが嬉しかったんだと思います。 こう書くと父が人と接するのが嫌いなヒッキーみたいに聞こえるかも知れませんが、そうではなく・・・・と言うか、昔は職場の組合活動で先頭切ってあれこれやってて、やれ週末は全国大会で熱海だの打ち合わせで小田原だのへ出掛けしょっちゅう家を空けてたくらいな人でした。 それが60を境にどちらかと言うと他人との接触を絶つような感じになったのが、母にはどうも解せなかったのでしょう。 (と言うか母は自分の趣味がテニス・ゴルフと完全アウトドア派。仲間でワイワイやりたい派なので、一人地道にやるというものがどうもひっかかるらしく、小学中学と器械体操をやってたおいらは「何が楽しくてそんな根暗なスポーツをやってるのかわからん!そんなものとっととやめてしまえー!」と何度も言われたもんでした。(遠い目))
「この間、囲碁サークルのトーナメントで優勝したんだよ」
とニコニコ言う父。 「ほぅ・・・・それは良かったねえ。そのサークルって人数は何人くらいいるの?」 自分はせいぜい多くても3〜40名だとカタをくくって聞きました。(酷っ!) 「少なくても100名は居るよ。リーグ戦で何日かに分けてやったから」
「!!!!!」
人との対局は多分10年ぶりに近かったハズ。 その間はひたすら詰め碁集とのにらめっこのみだったんですから。 それで優勝? へぇ・・・・父って囲碁強かったんだ。(←酷い)
そして大会の参加人数が100名以上・・・・。確かに。 あの公民館はデカイ。 うちの階段の年寄りも電車使ってまでそこの公民館に出掛けてってる位だしな。(地元の公民館には目もくれずに)
そこの公民館へ行く道は、丁度うちの会社のエリア内なので仕事で車を飛ばしていると、時々トコトコと歩いている父と何度かすれ違いました。 後続車が付いてる手前、いきなり停まる事も出来ずさりとて父の姿を見て黙ってられる性分でもない自分はハンドルを握りながら 「おお〜〜〜い」と手を振りますが気がつかないんですよねー。 父は歩くスピードも速いし、歩いてる最中はただひたすら無心に前を向いて歩くことに集中してますから(笑) しかも、公民館へ行くコースもなぜか超遠回りな道を選んでる始末! (自分ち)→(公民館とは方向が正反対の隣町)→(おいらが住む町)→(公民館) ウォーキング好きにもほどがあるよ! ・・・・っつかいくつ町をまたげば気が済むんだよ?!オヤジ!!
そのコースをこっちが聞いてもいないのにニコニコと丁寧に説明してくれる父に向かって 「有り得ねえ!」 「何で?普通は最短コースで行くもんじゃね?」 「これから頭使って疲れるのに、その前から疲れちゃうじゃん!信じらんね〜よ!」 と、何度言った事か・・・・・。
でも父にとっての生き甲斐は「囲碁を打つこと」と「万歩計の数を増やすこと」 この二つなんだよなーーー。 わかっちゃいたけど、自分にはマネ出来ねえ!としみじみ思ったものでした。
ただそのリーグ戦。 父は入ったばかりだと言うことでシードされてたらしく優勝後 『アイツはシードされてたから優勝出来た。』 とカゲ愚痴を叩かれたらしい。 それが悔しかったんでしょう。 次回大会に向けて更に勉強を重ねていたようです。
その矢先のがんの告知でした。
無念だったと思います。 それでも最初の(夏頃)の入院時には欠かさず「詰め碁集」を持参していました。 「あ♪・・・・枕元に詰め碁集♪本のタイトルに”塔矢名人の詰め碁集”とか書いてあったらどうしよう?!」 なんて本気でドキってるバカ娘がここに・・・。 しかしそれも11月からの入院時には持ち込んではいませんでした。 「詰め碁集、持ってこようか?」 って言ってもただ首を振るだけ。 夏の頃の入院はまだまだ希望があった。 入院期間もせいぜいが4〜5日。 気分は「ちょっと病院に外泊?」くらいな感じだったと思います。
9月終わり頃までは新潟から来た親戚衆を連れ、自分で車を運転して食事に出掛けてた位でした。 出た食事もペロリと綺麗に平らげてましたし。 そして10月から始まった猛烈な吐き気。 とにかく見ていられなかったです。 一日中吐き気に悩まされてました。 そんなんじゃ詰め碁集なんか読む気にもならないよね・・・・。
自分、つわりが酷く妊娠する度に一ヶ月で5キロとか痩せてた人です。(3人とも毎回) 吐き気の辛さはイヤと言うほど身に染みています。 毎日買い物の行き帰りに道端でも吐いてましたから。 しまいにゃ吐くもん無くなって胃液→血ぃ吐いてたしのう。 吐くと言うのはとにかく、気力と体力を奪います。 そんな父の吐き気は11月に入って、抗がん剤を止めてからもずっと続きました。 モチロン「吐き気止め」は処方してもらってましたが全然効かない。 「せめて好きなものを食べて欲しい」 と思うのが家族の想いじゃないですか。 特に父は美味しんぼさんです。 ラーメンは池袋のどこどこ。 渋谷系店もあるけどオレは池袋系の方が好きなんだ。 とかこれを食べるんだったら門仲(門前仲町)のあの店。とか話し出すとキリがない。 「桜餅はやっぱり長命寺だよ。」 とわざわざ買ってうちに届けてくれたこともありました。 (その写真は以前フォト日記に上げた記憶があります。)
吐き気が少し治まってきたのはもう本当に最期の頃。 2月半ばあたりぐらいからかなあ。 吐かなくなったわけではなく、一日に2〜3回くらいになったと言うことですが。 もうその頃には病院食などはノドを通らない。 (なので自分が代わりに美味しくいただいていました。) なるべく口当たりのいいものを・・・・と果物をあれこれ買いました。 「なんで冬なんだよ」 って何度も思いました。 夏だったらもっと果物は沢山あったのに、よりによって今は冬。 高いメロンを清水ジャンプで何度か買ったけど、やっぱ一味足りない。 夜中、24時間スーパーの果物売り場を毎日うろうろ徘徊してはあれこれ果物を手に取ってみては「はぁ・・・・あんま美味そうじゃねえな・・・」とタメイキついてました。
そんな事を思い出しつつ、きっと父は今頃あちらで自分が食べたかったものをお腹一杯食べてんじゃないかな? と思わずにはいられません。
ああ・・・・フォト日記に上げた時の桜餅の画像、見つけた♪
食べ応えありますよ。
21日↓の日記で父の事でのあれこれでの現在の心境がまるでPTSDみたいに・・・と言う書き方をしたのはイカンよな…と思いました。
昔、ハタチそこそこの頃、伯母を看取りました。 寝たきりでしたので着替えから下の世話まで全て一通りやりました。 そんな経験をしていても、この4ヵ月間の出来事はあまりに強烈過ぎて未だに心が引きずられっぱなしです。
昼間、休憩時間を使って夕飯を作りに帰り夕方。 仕事を終えたら家には寄らず制服のまま病院へ向かっていました。 昼間は母が病院に行ってました。 最初11月の頃は、父のがんはもう手遅れなのだ、という事実にアタマが付いて行かず心の置き所が全くありませんでした。 昼間、何か父にあると母が携帯に「今日は吐いて大変だったから、食べ物持って行っても多分ムリだと思うよ」とかあれこれ伝言を入れてきました。 そんな言葉を思い出しながら病院へ向かう夜道に泣いてしまうこともしばしばで。 だからなるべく暗い道を選んで歩いてました。(苦笑)
流石に泣き顔のまま病室には行かれないので、病院近くで一旦休み、明るいアニソンとかガンガン聴いて気持ちを奮い立たせて病院のトイレで化粧直しをして(苦笑)行きました。 病室には長くて4時間以上はいましたので帰り道は神経の糸がプッツリと切れたようになり、また泣く・・・・と。 もう後は家に帰るだけなので大手を振って大泣きですよ、小学生のように。
そんな毎日が当たり前になってたので、今のこの生活の方が「非日常」に思えて仕方がないのです。
そして正直、父が亡くなってからあまり泣けないのです。 もうあの頃泣き尽してしまったのかも知れません。 色んな事は月日が解決してくれるんだろうとは思います。 けれど、それだけではどうも自分はダメみたいです。 なのでここの日記で心の内を文字にして吐き出してあの頃の自分が昇華出来れば・・・・と思います。
そんな昇華作業に付き合わされるゲスト様には大変申し訳無いと思うのですが、自分はどうも文字にして解消するタイプみたいなので・・・・(苦笑)
なのでもうしばらく、父のあれこれ話にお付き合い下さいませ。 あ・・・・もう日付が変わってしまう。
下で「スパコミ行かれねえ!!」と叫びましたら
>パワースポット、5月3日のイベントに行けないとは何という不運。どうして3日がいつもお仕事なのかわかりませんが、是非忘年会に世界のナベアツでも呼んで日頃の”3”に対する憤りを発散させたらいかがでしょう?
というコメントをいただきまして!(姐さま爆笑です) 本当に。 この会社に入ってからは3日と言う言葉は、自分にとって鬼門になりました(笑) うちだけでなく全国の営業所でも3日はそうなんだろうなあ・・・・。 と思っていたらそうではなく、3日にやる締め作業を1日にやっちゃってたり2日にやっちゃってたりしてるとこも結構あるらしく・・・・。 (それを元に社長がやる本社への報告締め切りは4日)
以前、3日が日曜とか祝日にブチ当たって休日出勤ばかりしているおいら達をフビンがって1〜2度、2日にずらしてくれた事がありました。 でも今回は5月2日は日曜。 あえて日曜にズラしてくれるかと言うとそれは考えにくい。 しかも長い連休なのでどちらにしても、通常の仕事で1日は出なけりゃなんないので同じ事だなー。
あ〜〜4日にでもずらしてくんないかなあ。
とにかく今自分に出来ることは社長に向かって念を送ることのみです(笑) そして忘年会には「世界のナベアツ」を呼んでうっぷんを晴らしてやります!
今年のスパコミ・・・・。
ジャンプ系は5月の3日・・・・ッスか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ガクリ☆ (うなだれ)
3日は日曜で会っても祭日であっても出社の日・・・・ 今月の3日も父が危篤の中、病院に連日泊まりみの中、そのまま出社したのです。
号泣。
| 2010年03月21日(日) |
今日は春コミ(でも嵐)【追加】ワンピニコ動サンジとエース編 |
今年新年の占いで 「貴女のパワースポットに行きなさい」 というくだりがありました。
ええ、モチロン自分にとってのパワースポットとはビッグサイト(イベント会場)ですねえ。(笑) 今日は大嵐な空模様ですが(書いてる現在朝5時過ぎ。雷まで鳴ってます)春コミですね。 自分は失礼させてもらいますが、会場に向かわれる皆さまはどうか気をつけ参加されて下さいね。(と言うか電車止まってるよ)
昨年末の冬コミ時は(自分は欠席)、父を病院から一時帰宅させてバタバタしていました。 11月末の時点で主治医から 「あと3ヵ月です」 と言われてましたので悔いのないように、とも思っていました。
そして現在。 今の自分は「父を失った喪失感」よりも看護生活での様々な体験や色んな想いがあまりに強烈過ぎて、未だにそれに気持ちが引きずられていると言った感じの日々を送っています。(PTSDに近いと言ったら分かりやすいか)
父を失って辛くて落ち込む、とかそんな生半可な気持ちではないのです。 何て言うか・・・・・看護していた時に抱いていたがんという病気に対する憎しみや悔しさ、そして悲しみや切なさが未だに根強く胸に巣食ってまして、その気持ちに押しつぶされそうなのです。
腹部リンパに出来ていたがんは、2月頃だったか。 首の付け根、左側の辺りにその姿を現しました。 最初「首の付け根んとこ、何か盛り上がってきたね」ぐらいだったのが、数日であっという間にテニスボール(を半分に切った感じ)以上の大きさの塊になりました。 「信じられない?!何これ?!」って言う位に大きい。 それに押されてのどぼとけが右側にずれてしまった位な大きさでした。
それまでがんは身体の中で暴れている、くらいな認識だったのですが、それが表からもハッキリとわかる様になったと言うのは衝撃でした。 もちろん父もかなり動揺してたと思います。 それががん細胞だと頭でわかってはいても 「これはなんだろう?」 と聞いてくる。(先生にも聞いていた) そりゃ聞きたくもなりますよね。 自分の首にあんなデカイ、コブとりじいさんのコブみたいなものが出来たら。 「そこまで飛んじゃったんだね(がん細胞が)・・・・」 と答えるしかなかったです。
着ている物を着替えさせる時や、身体を拭く時。 それはイヤでも目に入ります。 本当に憎かったです。その塊が。
あんな物が出来るんだ・・・・と先日友人に話ましたら 「義父もがんだったけど、それ出来たよ。うちの場合は出来た場所が首の後ろ側だったもんだから頸椎圧迫して、半身不随になってしまったんだ」 と言われました。 やはり大きさもうちと同じくらいな大きさだったそうです。 それは御本人も御家族もさぞかし辛かっただろうな・・・と思いました。
・・・・・・・・・・・・・と、ここまで書いてまた寝ちゃった。
雨あがったようですね。 母から49日をいつしようかと言われてまして、いつでもいいよと伝えてました。 昨日4月18日(日)にしたよと連絡がありました。 49日には納骨をするんですが、そもそも49日ってなんで49なのよ?とググってみました。 (すみません、無知で)
『人は死後、魂を清めて仏になる為に中陰の道を歩きあの世を目指す。途中7ヶ所の関門を通過する。(最初の関門を通る時が初七日)そこでは生前の罪が裁かれる。罪が重いと魂を清めるため地獄に落とされるが、遺族が法要を行い、お経の声が審判官に届けば赦される。 最後の49日目にえんま様の許可を頂いて、お亡くなりになった方も仏様として迎えられます。 その間に、生きている人達は亡くなられた方が無事検問を通過して仏様になれるように、殺生をしたり祝い事等で浮かれる事を自重して、この世からお祈りをします。 (インドの仏教においては、輪廻の思想により49日目に、次に六道中のどの世界に生まれ変わるかが決まると言われていた)』
つまり今頃父はこの世とあの世の間を次の生まれ変わりの為に、てくてくと歩いてるのか? ぷぷぷ・・・・きっとあのお気に入りの万歩計を腰に着け嬉々として歩いてるんだろうなあ、とか思ったり。 七ヶ所の関所で生前の行いについてのあれこれを吟味・裁かれているのか。 まるでRPGのようだ。と言ったら怒られそうですが、どうしてもえんま様がラスボスに思えて仕方がなくい、いや。頑張れ父。 ・・・って自分が言わなくともあの父だったらどの関門もオールオッケーな気がします。 裁くべき罪が無さ過ぎて「オマエつまんねえよ」とか言われてそうです。 ああ・・・それとも碁でも打ってるか?(これについてはまた後で書きたいと)
とまあ、こんな感じだったので今日の春コミは遠慮させて頂きました。 決して落ち込んでいるとか言うわけではないのですが上記の事情がございましたと言うことを、またもやダラダラと書かせていただきました、と言うことで。 次回は5月連休のスパコミですね。 そん時はどうか一緒にあちょんでやって下さい。 (姐さま、拍手コメントありがとうございました。そしてパチパチ君も本当にありがとうございます。)
ぷぷぷ・・・・・ こんなの見つけちゃったよ。
サンジ好きだよ。おばかなとこが。(ひど) ノリノリの曲がいいですねー。 (翼を下さい→彼女を下さい:バージョン)
そしてこれは↓・・・・・・
エーーーース!!(号泣) アニメまで待てない!!編です。 (ネタバレ入ってます。WJ読んでなくコミック派・アニメ派は見ない方が・・・?)
昨夜は結構時間掛けて打った日記が消えて「ををう・・・」 父の事を打ってましたが、流石にまた打つ気になれず・・・・。 そして下でも散々書いたので、今日は別の話題にします。
実は昨日、ここ2ヵ月ほど悩まされてた歯痛を治しに歯医者に行ってきました。 左下奥歯ですが歯磨きの時の水だけで非常にしみる! 痛い! 多分、詰めてある中で虫歯が密かに進行しているのかもしくは詰め物が外れかかってるのか・・・・と思ってました。 で、先生。 必死に詰め物を取ろうとしましたが全く動かず、結局麻酔かけて削りました。
・・・・・・・・・・・・
痛かった。 久しぶりにイヤな汗を大量にかきましたよ。 治療終了後のスカートは汗でびっしょりでした(おもらしに非ず) あまりの激痛でイスの上で背中が跳ね上がる跳ね上がる・・・・。
「麻酔・・・・効かない?・・・困った。これ以上麻酔強くするとな〜〜〜う〜ん」
とか言いながらガリガリ削ってる。 痛いんですケド。 涙もの。
「ええ〜〜〜っと削れましたが〜〜。特に虫歯もないようですし・・・・何でしょうかねえ・・・・・?あれ?あれれ?これは・・・ちょっとぉーーーー」
どうでもいいけど先生、いちいち煩いよ。
「あ〜〜〜・・・神経が出ちゃってますね〜」
え?神経って勝手に飛び出ちゃうもんなんですか?
「ホラ、この鏡見ててね。空気当てます(シュー☆) ジワーって血が滲んできたでしょう?」
ああ、本当だ。 歯のド真ん中。そこ針の先ほどの赤い点がジワーっと浮かび上がって来た。
「もうこうなったら神経抜くしかありませんね。残念ですが。」 この残念、と言うのは自分は神経を抜いたのは1本でこれで2本目になる訳です。 先生にしてみれば「この歳まで(大変に無礼者!)抜いた神経が1本だけなんて凄いですよ」 なんです。 自分は虫歯では無かったけれど原因不明の痛みで結局抜かざるを得なくなった上の奥歯。 歯の神経を抜くだなんてなってないよ!自分!!と思ってた位なのに、この先生との温度差にアタマがクラクラしました。 がこの後の先生の言葉で脱力。
「ボクなんか10本も神経抜いちゃってますからね!」
『先生・・・・そこ自慢するとこじゃないですけど?』
と盛大に突っ込み入れてあげました。 そしてまた麻酔針を何度もブスブス刺してから神経抜き開始。 最初は麻酔効いてなくて地獄の痛みでしたが途中からやっと効いてきました。 麻酔さえ効いてりゃこっちはヒマなので足を上げ下げして腹筋鍛えてみたりしてました。
そして今日もまだ歯は痛いです。 今度は来週の24日だったかな? しばらく通いです。
そして。 M様・G様・M様・Zちゃん・G様・・・・ 拍手・メッセをありがとうございました!
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