てくてくミーハー道場
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水曜日。
仕事は早く終わった。
花粉が飛んでない(←これが一番嬉しかったの(^▽^))
行こう。
映画へ。
というわけで、『チェンジリング』も『ヤッターマン』も観たかったのですが(話題の『おくりびと』は、去年の公開時に既に観ています←自慢)、もうすぐ上映終わっちゃう(こら)この作品を選びました。
でね、感想を一言で書くとね。
予想通りの“中途半端さ”だった(×_×;)どよん
(以下、まじでしらける完全なネタばれを書きますので、未見の方は読まないでください。本当に)
いちいちドイツ制作のオリジナル版と比べるのも意味がないし、本作は「比べる以前」の出来(あちゃー)でもあったのだが、既にぼくはオリジナル版『Knockin' on Heaven's door』を観ちゃってるので、どうしても「あ、ここはこうだった」とか考えてしまうのもダメな原因だったのかもしれない。
ただ、ぼくはドイツ版自体、そ〜んなに名作とは思っていない。
設定とストーリーを「雑だ!」と思ったのと、主人公の男二人が全然いい男じゃないので今イチ不満だった(こらっ)という記憶がある(なんか、青春映画にはつきものの「画面のビジュアル上の美しさ」も、なかったと思う。最後の海ぐらいだ、美しい画が出てきたのは。洋画にしては珍しいくらいだ)
ただ、音楽の入り方がキッチュでおステキと思ったのと、主人公が「もうすぐ死ぬ二人」なのに、演出はクスクスできる明るさに満ちていて、ストーリーも、笑えるところと深刻なところ、泣けるところが無秩序に出てきて、何となく現実離れしてるところもあって、そこがまたこの映画の一番いいとこだった(ぼくの大好きな邦画『チンピラ』に雰囲気が似ていた)
で、つまり残念なことに、今回の日本リメイク版は、その「雑」なところはそっくり残っていて、変にビジュアルのきれいさは向上して(だって、ベイベ(勝人)はめちゃ男前だし福田麻由子ちゃん(春海)は可愛いし)非現実さが悪い方へ転がってしまい、「都合の良さ」がオリジナル版では「そこがいい!」だったのに、リメイク版では「だから、都合よすぎるんだってば!」になってしまった。
例えば、逃げてる二人が警官に変装するところなんて、ドイツ版でも「うっわ、都合いい〜!(でも楽しい!)」と思ったところ。日本版では、ムリがありすぎる(だって、春海は中2の女の子なんだよ?)
このシーン辺りから、「この映画は『ファンタジー』だと思って観るんだ!」と自分に言い聞かせたのですが(それは間違ってないと思う)、それにしても、ここは洋画だからこそ通じるファンタジー部分だと思う。
日本映画ではファンタジーはムリ、と言ってるのではなくて(黒澤映画なんて、ある意味ファンタジーのオンパレードだし、他にも、立派なファンタジーを撮ってる監督はたくさんいる)、日本映画ならでは、日本社会ならではの、素敵なファンタジーに造り変えてほしかったのだ。
病院の食堂でレモンをばらまいたり、雨の中でダンスしたりとかいう絵ヅラ的なかっこつけなんか、むしろ逆効果で、「日本にこそある絵的な美しさ」を監督が撮れていないのが、非常に残念だった(って、監督のマイケル・アリアスは、アメリカ人じゃないか! そういう偏見で観たわけではないんだけど。だって、観てる間は、誰が監督だっけ? なんて一切頭になかったし←本当)
どんなに「洋画風」にカッコいい構図を撮っても、日本人俳優が出てて、日本の風景じゃ、恥ずかしいだけなんですよ。
だったら、日本ならではのカッコ良さを撮らなきゃ。ぶつぶつ。
ドイツ版でぼくが一番「ステキだなぁ」と感心したのは、トウモロコシ畑でのカーチェイスで、気持ちいいぐらいに薙ぎ倒されるトウモロコシと、その中をモグラみたいに必死で進む車が、のろまでおかしくて、警察とギャングの両方に追われてるのに、警察とギャングも敵対してるもんだから、三つどもえになっちゃって、わけわかんなくなっちゃって、涙流して笑ったもんです(このシーンを観て、「この映画、絶対ハリウッドとかでリメイクさせちゃダメだ! 絶対台なしになる!」と確信した・・・のだよ)
そういうところを、冬のリンゴ畑とかにしちゃったもんだから、全然面白くないわけよ。
そりゃ、日本で、たわわに実ったリンゴの木(か、もしくは黄金色の稲穂とか)をバリバリ薙ぎ倒しながら逃げたら、気持ちいいどころか、いやーな破壊感が残るだけだしね。
だからこそ、日本で作るファンタジーには、日本のルールが適用されなきゃいけないわけで。
トウモロコシ→リンゴという安易(失礼)な発想じゃなく、もっと、どうにかならんかったのかな? と思ったわけです。
ただその代わり、最大の“ファンタジー”っぽいところ──劇中でバンバンバンバンピストルぶっ放すのに、「一人も死なない(いや、たった一人だけ死ぬ。最後に脳腫瘍で事切れる、主人公のマーティン=勝人。ここが皮肉)」ところ──が踏襲されていたのは救いだった。まあ、日本版ではそんなにピストルぶっ放さないんだけど。
とにかく、こんだけ次々に犯罪が巻き起こるのに、“殺戮”がない。
そこがこの映画の一番ステキなところなので、そこは良かった。
あと、どっちにも言えることだが、マーティン(=勝人)が、都合のいい時にしか発作を起こさないってのが(黙れ!)
だって、現実は・・・ですよね?
下手すると、車運転してる最中に発作起こすことだって、ないとは言えないんだからね。
だから、この映画は、(何度も言うが)「ファンタジー」なわけよ。
しかしやっぱり一番思ったのは、日本人にとっては、「あとわずかの命」を、ドイツ版のように「豪快に無駄遣い」する価値観はなじまないんじゃないか、ということだ。
やっぱ日本人の場合、「残り少ない命」をどう使うか? と問われれば、何か、後世にまで残る、すっごい素晴らしいことまでは行かなくても、誰かの胸にいついつまでも残る、ささやかな功績(それこそ『生きる』みたいな)を成し遂げたいみたいな“欲”があって、やはりそういうストーリーじゃないと素直に受け入れてもらえないような、そんな土壌が社会にあるのでは、と思った。
いや、ドイツ人と日本人は勤勉さという点ですごくよく似ている、とか言われてるけれども、でもやっぱ、違うのじゃないか。
(まあ、ドイツ版映画が、ドイツだけじゃなく、日本やその他の国でも大いに受け入れられたことを思うと、そんな仮定はあっさり覆されてしまうのではあるが)
逆にドイツ版の方だけで「えっ? なんでそんな都合良く?(悪い意味で)」と思ったところもある。
最後の方で二人がギャングに捕まってしまい、絶体絶命のところにギャングの「ボスのボス」が現れて、
「海を見ないで死んじゃったら天国で仲間はずれになるから(これは最初の方でマーティンがルディに言うセリフ)、行きな」
みたいに、あっさり許してくれちゃうところ。
この「ボスのボス」の役を演じていたのがルトガー・ハウアーで、つまりいわゆる「大物のチョイ役特別出演」だったからこその「ここで、チョーカッコ良いセリフを一言!」というご趣向なのだった。でも、すっかり映画音痴になっていたぼくは、この人がそんな大物俳優だと知らなかったので、全然その趣旨が伝わってこなかったのだった(←つくづく残念な人)
で、今回のリメイク版ではここは踏襲されてなく(まあ、どっちにしても意味不明になるだろうからね)、その代わりに、ギャング(じゃないけど日本では)の片割れの渋いおじさんの方(田中泯)が、ボス(長塚圭史。今作中、ぼくにとっては大倉孝二と並んで二大“やったー!”キャストだった/笑)を裏切って勝人と春海を助けてくれる。
最初の方で、このおじさんが、そろそろボス(正確には「なんかあくどいことやってのし上がってきたベンチャービジネスの社長」)に見切りを付けようとしてるのかなー? ってところを見せていたので、この展開は実は読めた。
だから、二人が見逃してもらえる爽快感が今イチだったのかもしれない。
だいたい、刑事部長・長谷川役の三浦友和が「大物俳優のおいしい役どころ」を持っていってしまっていたからね。
ギャング(じゃないって、だから)のもう一人の方・大倉孝二が、オリジナル版でのお人好しで愛しい下っ端ギャングをそのまま踏襲していた感じで、多分、オリジナル版を観ないまま日本版を観てたら、こんな人が“敵役”で出てることに、もっと感動しただろうと思う。どっちにしても、今作中「一番好きなキャラ」です(^^ゞ
それはそうと、長谷川が、春海と同じくらいの娘を持ってて、離婚されて、親権を元妻に持ってかれて・・・っていう設定は必要だったのかな? と疑問である。だって、その設定がほとんど活かされてないのだ。
この設定を活かすとしたら、彼と勝人(春海を誘拐した、と勘違いされている)の間で、もっと心情的なゴタゴタしたものが生まれてくるはずではないのか? それこそ、顔見たとたん射殺されるぐらいの(それじゃストーリー変わっちゃうだろ)
もしかしたら、救急車のくだりで「わざと」二人を逃がしてやったあたりにそれが出てるのかも知れないが、それだって、春海に同情してじゃなく、勝人との間で「男同士の心意気」みたいなものを感じて逃がしてやった方が、この映画の主題に添っているのではないかと思う。
逆に、日本版の方がよく出来てたなあと思ったのは、勝人の母親に会いにいくシーン。
ドイツ版では、マーティンの「死ぬまでにやりたいこと」第一位が「プレスリーファンのママにピンクのキャデラックをプレゼントする」で、ギャングの金を使ってそれを実行するんだけど、いくら何でも、犯罪の金でもらった車を喜ぶ母親って・・・と、残念に思った。
この母親が、せがれが“誘拐犯”としてニュースにバンバン出てるのに、それも知らないってとこが、あまりにも不自然だったし(どんだけ辺境に住んでるんだよ、ってことだ)
(あ、ひょっとしたら、ママは全てを知っていたんだけれども、もうじき死んじゃう息子のことを思って、何も言わずに喜んだフリをしてみせたのかも知れない。一回しか観てないから分からないけど)
そしたら日本版では、さすがに、実家の近くまでは行っても、ついに母親には会わずに(正確には「会えずに」)終わってしまうのだ。
そして、このシーンで「死にたくねぇ・・・」とつぶやく長瀬智也の、超絶演技力に瞠目すべし! である( ̄Λ ̄°)
このシーンが見られただけで、1000円(や、安っ←すいません。水曜日だったので(^^ゞ)出した甲斐があったというものだ。
ただ、ここで春海が勝人に“例のこと”をするのは、あまりにも読め過ぎて鼻白んだのだけれども。
ここが、元々男二人のロード・ムービーだったのを、「男と少女」にしちゃった功罪と言うか・・・。
二人の歳がかなり離れているので、「やっぱりくっつくのかこの二人」的なことにしないで終われると制作者側は主張するのかも知れないが、『レオン』の例を待つまでもなく、28歳の男と14歳の女の子なんて、精神年齢的には充分すぎるほど釣り合うのだからね。
「やっぱそうなるか」と、かなりがっかりさせられましたよ。
また、このシーンでの福田麻由子が、良い! 良すぎる演技をするのだ。
だからなおさら、「そんな流れにしてほしくなかった」と、逆に思ってしまうのだ。
ラストシーン、(さあ、最もネタバレな箇所ですよ〜)ゆっくりと春海に身を預けるように倒れていく勝人。
美しい構図なんだと思う。
でもぼくは、ドイツ版での同じシーン──マーティンが座ったまま「どたっ」と倒れ、ルディはそれに気づいているはずなのに、まるでそれを見ていなかったかのようにその辺をゆっくり歩いている──が、サイコーに、マーベラスに、良い! と感動しただけに、
「うわー、日本的な湿っぽさが、ここで出たか」
と、げんなりしてしまった。
肝心のラストシーンが、一番がっかりだった、という、(違う意味で)泣ける映画になってしまった。
監督アメリカ人のくせに!(こ、こら)
なんで一番肝心なところを「日本ならではの弱点」で終わらせるかな〜?(怒)
なかなか「これ!」という映画に出会えないもんですねえ・・・(選ぶ基準が悪いんじゃないの〜?)(−−;)は、反論できない
そうそう、この日本版、ルトガー・ハウアーほどではないが(笑)ちょこちょこ面白い人たちがカメオ出演しています。
原宿のショップ店員にPAFFYの由美ちゃん、ホストクラブでベロベロになってる客に土屋アンナなど(*^^*)
彼女たちの登場シーンでは、客席から温かい笑いが起きてました。
あと、春海の母親役が薬師丸ひろ子だったりと、なにげに豪華キャスト。
しかし、その誰よりも、わたくしておどるを“固まらせた”豪華カメオ出演者が!
ホスト役の○○○○!(−−;)あれっ? 見えない・・・
(これはホント、観た人だけの「お得」)
いや〜、出てきた瞬間、「まじっ?!」と叫びそうになりましたよ(^^ゞ
映画宣伝のテレビ番組をけっこう視たつもりだったけど、どこにもこの情報は出てなかったよね?(と、思う)
いやー、やられた。
マイケル・アリアス(のコネだと思う。多分)、ありがとう!(←ゲンキン)
最後に軽く、主演の二人の役者について。
福田麻由子については、『女王の教室』を視ていなかったので(『SUMMER SNOW』にも出てたそうな! でも、幼な過ぎて覚えとらんぞ!)、『演歌の女王』がほぼ初見です。当時はまあ、いかにも子役上がりの達者さだなと思って視てました。
で、今作では、「まー、芝居が上手いな」と。
眼力があります。
ただ、育ってみたら、田中麗奈とキャラかぶりまくり。
これからが勝負かもな。
ベイベについては、今さら何を、って感じですが。
ただ今回は、ベイベが最も得意とする(?)「バカかっこ良さ」が突き抜けている役でもなく、かといって、意外とやってこなかった二枚目でもなく、ベイベの役どころとしてはありがちな「だらしなくていい加減、だけど純粋なヤツ」だったわけで、さほど新機軸でもなかったので、新鮮な感動がなかった。
そろそろ、本人のイメージとは離れた、「どんな風に演じるんだろ?」とドキドキするような役を見たいものです。
てな感想でした(長い!)
よし、明日こそ、『正直しんどい』(ゲスト・長瀬智也)の感想をアップしますからな。
乞うご期待(と、自分を追いつめるておどるであった)
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