娯楽小説と文学小説の境界について。 それは一体なんなのだろう? 例えば、夏目漱石が書いたものは文学小説だ。何十年、百何年経ってもまだ伝えられているものだ。それはすごいことだと思う。絶版にもならず、地味に地味に売れている、読まれている。 じゃあ、今巷に溢れているこの小説たちはこれからどうなるのだろう? 直木賞だとか、芥川賞だとか、文学賞はいろいろあるだろうけれど、その受賞作家は年月を経るごとに増えていく。そのうち一体何割が後世に伝えられるものを遺せるのだろう?
残るものが文学なのだろうか? 残らないのだとしたら、文学の意味は何なのだろう? 残らない小説の意味、それは刹那の娯楽じゃないのか? だとしたら、娯楽小説と文学小説に違いはないじゃないか。
だったら、何隔てなく、読まれるべきなのだ。 例えば、コバルト文庫だからと言って、敬遠すべきではないのだ。 だったら、何故そういう文庫による区別が出てくるのだろう。 あの分類が判らない。ような気がする。
良く判らない。 文学だと言われても、私にとって娯楽にならなかったら、読みたくはない。 否、読めない。 だったら、私にとって「文学」という枠は存在しない。 小説は、私が面白いと感じるか、否かだ。
いままで残ってきた小説たちは、どうして残って来たのだろう。 これから、いつか消えてしまうのだろうか。 それとも、「文学=今まで残ってきたもの」とはいつでも不偏で、残り続けるのだろうか。
判らない。そういう判らない区別が何故か世の中には大量に在る。
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