とあるお話を借りて読んで、返却するときに 「このお話のラスト、こうだったら私の好き系なんですけど」 と言ったら、 「なるほど、切ない系が好きなんだね」 と返された。
おお、そうだったのか! いやいや納得。 よく考えればそのとおりでした。
恋愛小説で例えるなら、誤解して、すれ違って、 相手を思いやるふりをしながら自分のことをこすっからく守って、 それらの泥臭くて卑怯なあれこれを踏み越えて、 ラストは一緒になるもよし、別れるもよしなんですけど、 (でもどっちかっていうと別れて成長してゆくほうが好き) まあ、そう、そういうお話のほうが好きで、 胸がきゅんきゅんします(笑)。
同じように、涙を誘われるポイントもそういうひねくれた箇所で、 私が人生で初めて泣いた小説(本)は『マリリンに逢いたい』で、 主人公犬が恋犬に逢いに海を渡るという名場面(だったっけ?)ではもちろんなく、 犬のご主人と、その兄貴がそれぞれの主張を抱えて殴り合いの喧嘩をするシーンだった、という・・・
なんだそりゃ・・・
もちろん、「さあここで涙どーん!」な場面にも「うっ」とくるんですが、 意地で泣かない。
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さて、こんな私が先日見た『ハリー・ポッターと謎のプリンス』ですが、 もちろん全員の涙を誘う“あの”シーンにもぐっと来ましたが、 それより重くやってきたのは、 ワンカットだけ入ったマルフォイの切ない表情でした。
ああいう、突っ張っている子のがまんしている弱さ・強さに共感を覚えます。 判るような気がする。なんとなく。 本当は平凡な自分を知っている、けれど認められない、 でも、今手にしているのは自分の望んだものではないのだ、という葛藤。
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私は結局、小説をストーリー展開と語り口とキャラ萌えで読んでいて、 「小説から得られる何か」なんて考えずにさらーっと読み流すし、 だからこそ何回も何回も復習するように読むし、 それでもミステリの伏線とか、あっさり読み飛ばすけれど、 雰囲気をつかむのはきっと得意なのだ、と信じている。
言葉になった理解ではないけれど、 きっと、「小説から得られる何か」はきっと、 きっと感じ取っている、と信じたい。 「なんとなくだけど判っている」と思いたい。
さて、それは真実だろうか?
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