Kamenashi Kazuya + α...


2001年09月20日(木)
 *「気持ち」というものを考えてみた

昨日の夜中、映画のプラトニとウォーターボーイズの特番みたいのが入っていて、見ていたらドラマのプラトニの予告が入った。
それが、長い予告でストーリー紹介扱い。
その中で何度かNAOの姿が。
ドラマの中のNAOを見るのは久し振り。
最近は、昔のビデオを見たりしていたので、逆に今のNAOが新鮮だった。
予告の中でのNAOのシーンは短いものだったけど、NAOの声も聞けた。
どうしてだろう。
意外な程、ホッとする。
今年は2回もライブで生のNAOにも会ったし、歌番での露出も多かった。
情報番組でも特集が組まれていて、見る機会はたくさんあったのに、昨日の私には「あぁ〜NAOだぁ」っていう深い安堵感みたいなものが生まれてた。
俳優としてのNAOもミュージシャンとしてのNAOも関係なく、”藤木直人”という存在自体に温かいものを感じたんだ。
昔のNAOもステキだよ。
もちろん今のNAOも。
ただ、大事だと思うのは同じ時間の流れの中に自分も存在しているという奇跡って言ったら大袈裟だけど、偶然みたいなものを忘れないこと。
今も同じ時間の中なら過去もそうだし、これから先の未来もそう。
たとえ出会うことがなくても、NAOが『芸能界』という世界に飛び込んだおかげで私達は存在を知ることができたんだし、それもある意味、奇跡だよ。
でも奇跡は目に見えない。
NAOが好きだと思われる「明確なもの」とはかけ離れたものなのかもしれないね。
だけど、偶然や奇跡だと思えることも、根本から考えればどこかで交差していて、本当は明確なものなのかな、とも思う。
道を歩いていて偶然すれ違っても、お互いに明確な行き先があって、同じ時間に同じ道を歩くことはお互いにとっては必然なわけだし、そこには明確な理由が存在してる。
今の私にとって、根本から考えても明確にできないことは、自然と生まれてくる「安堵感」だったり「好き」という気持ち。
ある程度までは説明できても、最後には「わからない」にたどり着くから。
それはNAOに対する気持ちというよりも、今まで関わってきた人に対する全ての「気持ち」なんだけど。

思いついた事を書いていたら、書きながら考えがまとまってきて、支離滅裂になってしまいました。
矛盾点についてはお見逃しを。
あしからず。



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□ 一言どーぞ □


*繭玉日記〜Real Face〜 / 繭玉

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