Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?|それまで|これから
2002年09月30日(月) |
美しいもの、はかないもの |
もう5年ほど前になろうか、私が高校生になりたての頃、オリエンテーション合宿と称する行事で岐阜の山奥にまで学年全体で連れて行かされたことがあった。メイン・イベントはそのものズバリ「山登り」で基礎体力が不足している私にとってはおっくう以外の何物でもなかった。本当に行くのが嫌であったがそうも言っておれずしぶしぶ山登りに参加したのであった。
この山の傾斜のキツさといったら半端ではなく、3分の1も過ぎぬあたりで完全にばててしまった。かと言って脱落するという格好の悪いことを出来る訳もなく、野を越え谷を越えあるいは断崖絶壁をも乗り越えてやっと頂きに到着した。とりあえずの安堵感に胸をなでおろしていると、ふと目を遣った岩陰のその先に一輪の名も知らぬ花がひっそりと、しかし誇らしげに咲いているのが見えた。この光景を見たとき私は言いも知れぬ不思議な気持ちに捉われた。こんな高いところでたった一人ぽっちで咲いている花の美しさ、風に吹かれて今にも飛んでいってしまうのではないかというはかなさ。こんな情景を慮っているとこちらの気持ちまで凛として引き締まる思いがした。だがこの気持ちをどう形容していいのかは分からなかった。山をすっかり降りきった時やっとああ、あの時私は感動していたのだなと悟った。今までに味わったことのない、無二の経験であった。
それ以来、感動するということは美しいもの、それも精神的な美しさを感じる時だと考えるようになった。外面の美しさではない、内面の美しさ、強さ、はかなさを感ずるとき、人は心を動かされる―そう考えるようになった。この考察がピントはずれだとは思わない。高橋尚子がオリンピックで金メダルを取ったのを見たときも、寅さんの名作を観たときも、心づくしの美味しい料理を食べたときも、みなあの山頂で一輪の花を見たときと同じ感情へと繋がってゆく。ゆるぎなき境地に達した時のみに湧き上がる感情である。
しかし、今巷にはびこる「感動」の何とやすやすしいことか。受け手のセンチメンタリズムを必死に煽るのが「感動」か。馬鹿なことを言うな。そんなものは「感動」ではなく「感傷」だ。ウソっぱちの感動だ。感動は人の心を大きく動かすけれども感傷は心の内面の世界に深く閉じこもらせるだけだ。感動は涙が流れてくることもあるけれど決して涙主体ではない。あくまで自然の産物でしかない。対して感傷は最初から泣くことを計算している。人の心を弄んでいるのである。あざとい。実にあざとい。
無論、私にも感傷的な気持ちに心惹かれる感性はある。しかし感傷の世界で安寧と身を落ち着かせていると情緒統制的なファシズムに陥る危険があることを見逃してはいけない。涙は時として冷静な目を曇らせてしまう。いつか感情が第三者にコントロールされ、しかもそのことに気がつかぬまま日々を過ごすことになる。例えばテレビのバラエティ番組などで「感動の嵐!」などとテロップ表示されているものに安々と感動してしまう人はもうその傾向があるかもしれない。恐ろしいことである。
やはり私達はもうちょっと冷徹な目を持つべきだ。このままだと「感動」する気持ちは磨耗し、薄っぺらい、平坦な感覚に毒されてしまう。最早なりふり構っている暇はない。何が本物で何がまがい物なのか真剣に選別することが極めて重要な時期に来ているのだ。
橋本繁久
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