阪神大震災から8年が経った。 あの時、僕は奈良県内の実家に帰り、さらに風邪をひいたため、 予想外の滞在延長をしていた。ぐらぐらっとした揺れで目が覚めた。 奈良も一応震度5。そんな震度体験したことなかったのだ。 とりあえず本棚が倒れてこないように押さえ切るのに一生懸命。
しばらくの間、どこがどんな状態なのかまったくわからない。 ひょっとしたら、今日は交通停止状態で大学が休みではないかとか、 おそろしく的外れなことを考えていた。
やがて、テレビ等を通じて、なにが起こったのかを知らされた。 家族はとにかく危険だから、今被災地に行くなと言った。 剥き出しの建物から、発ガン物質であるアスベストが大量に大気中に 放出されているはずだ、と父は言った。
余震の危険性もあるし、数日間は実家に滞在してテレビ、電話等で 情報を入手していた。幸い誰も死んだ友達や、大学の同級生はいなかった。
しばらくたって、当時住んでいた芦屋に戻った。部屋は半壊状態で、 家具、荷物が散乱していた。たくさんのボランティアの方々や、 住民どうしの協力によって、現地には独特のコミュニティーのような ものが存在していた。地域の炊き出しの方に、持ってきた食糧を渡して (微量ではあるが)知人宅を訪れ、しばらくの後奈良に戻った。
被災地に滞在して、被災者の人を助け続けようとは思えなかった。 ライフラインが壊れていて、混乱が続く被災地に居続け、人のために 働く根性も侠気も、およそ僕の属性ではなかった。
僕が震災で受けた被害は、物質的なものと社会的なものだった。 プライベートなことも多々含むので、ここには全部書けない。 ある意味間違いなく被災者なのだが、場と時間の共有という要素が 欠けているので、あの時間に神戸や芦屋で被災された被災者の方とは なにかを共有することが難しく感じられる。
でも無関係というわけでは全然ない。
あの震災について、僕はなんというか、微妙な位置にあるかのように 感じている。今でも。
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