Espressoを飲みながら

2003年01月17日(金) 微妙な位置

 阪神大震災から8年が経った。
あの時、僕は奈良県内の実家に帰り、さらに風邪をひいたため、
予想外の滞在延長をしていた。ぐらぐらっとした揺れで目が覚めた。
奈良も一応震度5。そんな震度体験したことなかったのだ。
とりあえず本棚が倒れてこないように押さえ切るのに一生懸命。

しばらくの間、どこがどんな状態なのかまったくわからない。
ひょっとしたら、今日は交通停止状態で大学が休みではないかとか、
おそろしく的外れなことを考えていた。

やがて、テレビ等を通じて、なにが起こったのかを知らされた。
家族はとにかく危険だから、今被災地に行くなと言った。
剥き出しの建物から、発ガン物質であるアスベストが大量に大気中に
放出されているはずだ、と父は言った。

余震の危険性もあるし、数日間は実家に滞在してテレビ、電話等で
情報を入手していた。幸い誰も死んだ友達や、大学の同級生はいなかった。

しばらくたって、当時住んでいた芦屋に戻った。部屋は半壊状態で、
家具、荷物が散乱していた。たくさんのボランティアの方々や、
住民どうしの協力によって、現地には独特のコミュニティーのような
ものが存在していた。地域の炊き出しの方に、持ってきた食糧を渡して
(微量ではあるが)知人宅を訪れ、しばらくの後奈良に戻った。

被災地に滞在して、被災者の人を助け続けようとは思えなかった。
ライフラインが壊れていて、混乱が続く被災地に居続け、人のために
働く根性も侠気も、およそ僕の属性ではなかった。

僕が震災で受けた被害は、物質的なものと社会的なものだった。
プライベートなことも多々含むので、ここには全部書けない。
ある意味間違いなく被災者なのだが、場と時間の共有という要素が
欠けているので、あの時間に神戸や芦屋で被災された被災者の方とは
なにかを共有することが難しく感じられる。

でも無関係というわけでは全然ない。

あの震災について、僕はなんというか、微妙な位置にあるかのように
感じている。今でも。


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空遊 [MAIL]

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