「朝日・・・」 そう言って、男は腕を伸ばす。引き戸はパタリと上に開き、すっとカウンターに差し出される。古ぼけた硬貨に、古ぼけた煙草屋。何やら五重塔やら仁王様だの安い土産物が軒を飾っている。じじむさいチョッキをきた親父は目も合わさずに男の金を引き取った。 「ここから四条に出るにはどうすりゃいいかね?」 そう訊くと、親父は胡散臭げに眼鏡を傾ける。 ここをいずこと心得て訊いたろう?烏丸と七条の境、西本願寺のトップリとした社はすぐ目の前だった。西本願寺で四条を訊くは、仲見世で観世音を訊くと同じである。だが親父は泉鏡花の小説ほどにはだんまりとしなかった。すっと竹節のような指で何やらネオンで光っているのを指差す。 「しばらくますぅぐ歩いて、それから右に折れなさい」 と、言った。
男はポケットに指を突っ込んで厳しく冷たい夜を歩いていく。烏丸の七条、五条と、それを数えるが、夜は全く灯りが消えている。寂しい通りにポンと本屋の灯りが、それを通り過ぎればまた闇に白い息、ポケットの中の温もりが、京都の温かさだった。
振り返るとライトアップされた京都タワー、それからガラス張りの駅ビルが見える。それは五条大宮からの帰り道によくみた景色。バスから、しかしたいがい黙々と歩いて帰ることが多かった。
やがて銀行が四辻を占める角へ、阪急の駅からか、勢いよく人が飛び出してくる。男はその人の群れに従い、橋の方へ、橋の方へと流されていく。途中、餡蜜の店に・・いや、それは河原町通りを四条と三条の間だった。新京極を越え、橋の袂へ。いささか疲れた。茶屋の眺めを見たくて橋の向こう側へ、その真ん中で黒い山をわき見する。思い出して、大和屋というジャズ喫茶にいくことに、ここからは更に歩かなければいけない。川端通り沿いに。柳の木はズラリ。四条南座の赤い光。向かいにはモダンな中華料理屋。
三条の路面電車の停車場は朝までたらふく飲み尽くして、最後に仲間と分かれた場所。更にそこから出町柳まで上る道はとても素敵だった。冬でも生温かな下水の匂いもここまではやっては来ぬ。右手に赤レンガの建物。左手には茶屋の眺め。結局また左に道を折れて、橋を渡る。大和屋は遠くなってしまった。それで市役所までいってみることにする。そのすぐ近くには「檸檬」の八百屋があったはずだった。そしてその道を三条通りを挟んで南に下れば、フランス古書を扱う店がいまだに看板も出さずに店を開いているはずだった。そこに行ってみたかった。若い女の店子が黒いワンピースを着て本の守をしている。かかっているBGMは全てエディット・ピアフの古いシャンソン。丸く黄色い灯りが、本を傷めないようにヒッソリと部屋を少しだけ明るくしていた。奥に黄色いカウチソファが、そこに深々と身を沈めたかった。幾らでも夢をみることが出来るだろう。コーヒーを出してくれて、何が書いてあるのやら分からぬ原書のランボゥ詩集を片手に。渋沢龍彦訳のジャンコクトー「大股びらき」を見つける・・・・
と、閉じていた目を開く。いつの間にか僕はジャック・フォレスチエみたく涙もろくなってしまっている。それは結局誰にでも起こることだったのだ。
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