要は残る人間が納得するかどうかだ。その後 - 2002年12月02日(月) 要は残る人間が納得するかどうかだ。という題名で日記を書いて以来、 「死」について想像することが少なくない。 もちろん、親が亡くなった時のことや、 自分が死んだ時、 僕の(将来の)家族が亡くなった時のことなんかを考えている。 あの日までは、あまりそういう想像をしないことにしていた。 もし、そういう想像の方向へ行こうとしたときは、必死にこらえていた。 想像するようになって思うことは、その想像にものすごくリアリティがあるということだ。 僕自身は、今のところ死んだ後に魂が残るというような話は信じていない。 だから、それこそ切実にこの問題を、自分の中でどう解説するのか、考えなくてはならないのだろうと思う。 ほとんどの人が、生きている間に他人の死を経験すると思う。 それは若いうちかもしれないし、年をとってからかもしれない。 そして、最後は「自分の死」を体験するわけだ。 と、いうことは、 誕生とか、小学校入学とか、初恋とか、成人とか、就職とか、結婚とか、 といった、人生の中の出来事として、 「知人の葬式参列」とか、「自分の死」なんてのを入れておいてもいいんじゃないだろうか? むしろ、入れておくべきじゃないんだろうか。 知人が亡くなって「悲しいねぇ」と言いながら涙流すんじゃなくて、 「やっとひとつ、イベントが終わったよ。明日も仕事行かなくちゃなぁ」くらいになるんじゃないか? それはないですね。はい(汗) 最終的には、「覚悟」が必要なのだと思う。 死と共に生きるというか、 人生には、「死」という終わり方しかないということ。 だから、その「死」をどう迎えるかということは非常に大事になってくるのだと思う。 死だけは、この世に誕生した、どんな偉人も、革命者も、宗教家も、体験したわけで、 それは、避けられない事実。 今、書いている小説には「生と死」についてもりこめなかった。 書いていてそういう展開にならなかったんで、そのうち「生と死」をストレートに扱った作品を書いてみようかと思う。 予想では、かなり短篇になる模様。 やっぱり、挑戦してみたいテーマだなぁとは思う。 死は、フェイドアウトじゃなくて、シャットアウトだと思う。と、テレビで誰かが言っていた。 まったくその通りだと思う。 それはある日、突然訪れる。 ...
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