2004年11月09日(火) |
矛盾(加筆 @ 24:09) |
カップ麺にお湯を注ぐときに《かやく》を入れ忘れるみなさん、 こんばんは。
《Men's スパ王》にかやくを乗せずにお湯を注いだチャボです、どうも。 《やったじゃん、あと乗せサクサクだよv 》とか嬉しそうに言うな使徒サマ、そりゃ別製品だ orz
ナンだか久し振りに感じられる通常講義。 先週の木曜日以来だから‥‥たかが5日ぶりなんだけどね。 ンで、今学期で初めて晴れた火曜日。 講義《スポーツ》のテニスを、初めて屋外のテニスコートでやったよっ。 うわー、うわー、コートが狭く感じるー。 だから打球が余計にかっ飛んで行くv (ソレハツマリ上達シテナイッテコト
> 2つ名 学園祭で知り合った学生に会う。
《ぁ、ホットケーキの人だー》
‥‥‥‥激しくマテ。
> 矛盾 曽野 綾子の《自分をまげない勇気と信念のことば》(PHP研究所)をまだ読んでる。 ナンか‥‥全部を通して読んでると、曽野さんの趣向には一貫性が感じられない。 人間はそれくらい厄介に矛盾した存在であるってことなんだよな。 自分の中に矛盾を見る俺だからこそ、一貫性の無さに、俺自身との一致性を垣間見る。 ‥‥まぁ、歪んだ見方だけどさ。
まちがいを自ら認めるのが勇気の本質である まちがいを、自ら認めるのが恐らく勇気の本質なのである。誰もがまちがうのだから、自分も又まちがうに違いないと思うのが勇気なのである。そしてまちがう可能性を怖れつつ、限りある善意と能力のなかで、居ずまいを正して、一切の権力から解放された自由の中で、自分の小さな信念を貫き通す勇気を持つことが、最も効果的な教育の姿勢であると思う。
どんなに眼のある正しい人間でも、勇気のない人は本当の教育者ではない。なぜなら、賢さと共に、勇気だけが人間が世の中の奔流に押し流されることを阻止できる。
芸術は有害な欲望と紙一重にある 芸術は有害な欲望と常に紙一重の関係にある。一人の人を傷つけるくらいの強さがないと、一人の人の心も救えない。
人は誰も正しい、しかし間違い得ない―― これは俺の持論だけれど、曽野さんは多分、これと似た思想を持ってると思う。 正しいと信じることをしつつも、それを善しとしない人が必ずどこかには居る。 それを傷つける覚悟の無い人助けは、真に相手を助けては居ないし、傲慢に過ぎる。 彼女がそう言いたいのかどうかは知りようが無いけれど、俺はそう言い切る。
例えば人付き合いについて相談されることがあって、 《相談してくるヤツ》というフィルター越しにしか知らない人を評価する。 限られた情報だけで、その真偽を自分で確かめたワケでも無いのに、 知ったつもりになって評価し、査定し、どういう付き合い方をするべきかと説くこともある。 それって、相談しに来たヤツにとっては正しく見えるかもしれないけれど、 与えられる情報が限定的であるにも拘らず評価を下す俺は、間違っている。 だって、対象となる人を悪く言うことだってあるし、 相談しに来たヤツに《人を見る目が足りない》と言い切ることもある。 どっちにしても、俺の言葉によって傷つけられるという事実が残るしょや。
それでも俺は、俺を頼る人を第一に考えてしまうから、 この方法そのものが間違っていることを敢えて口にはしない。 それを相談の場で言ったら、相手はナニを信じてイイのか分からなくなるしょや。 だから、言わない。
多分、人はどうやっても、助けた人数よりも迷惑かけたり迷惑かけたりする人数の方が多くなる。 一人を傷つけずに一人を救えないなら、一人を救うごとに一人を傷つけるから。
親父が言ってた。 《20歳までは、自分のための時間。それ以後は、社会に自分が貢献するための時間》。
20歳までに世話になった人が居て、それ以後に自分が助けとなった人が居て、 どちらにも共通して傷つけてきた人が居るのなら、助けた人数の方が必ず少なくなる。 20歳以後は人助けばかりしてたとしても、同じ人数を傷つけるわけで。 でも、20歳までに人を助けるなんて、そうそう出来ないしょや。
‥‥と、大きく大きく考えてしまうのは、俺の悪いクセかも。 でも、そう思ってないと傲慢にしかなりそうもなくてね。 けど、それを短い言葉で言い表している曽野さんは、すごい人だと思った。 《1931年生まれ》と著者紹介にあったから、今は73歳だろ。 会ってみたいなぁ‥‥。 うーん‥‥会いに行けるかなぁ‥‥。 彼女の寿命が尽きるのが早いか――それとも、 俺が《曽野さんに会うには十分に成熟した》と自信を持つのが先か‥‥。
‥‥‥‥賭けてみようじゃないの。 俺よりも半世紀先を生きてきた人と顔を合わせるに、十分に成熟してみせよう――とね。
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