2005年11月24日(木)
こうよくよく人―教官とか高校の教師とか―と話しててこれを言っちゃだめだとわかっていても言わずにいられないことがある。 惨めな気分になるのはわかっているのに。
自分に何がかけるか考えても思いつかなかったからこう、遠くから書いてみようと思う。たぶんいつかは見るだろう。 そう、私信だ。 本当に私信かと聞かれたら寧ろ自問だと答えるけど。 そう、刺激されたのだ。触発されて何か書きたくなったのだ。 只それだけ、私信なんておこがましい。
自然再生論という授業がある。 出席も取らず簡単なレポートだけ出せば単位取得可能な授業で真面目に授業を聞いている人もいなければ起きている人すら危うい。
冗談みたいだけど本当だ。 僕も内職している(駄目じゃん) でも授業は聞くことにしている。
この先生は熊と呼ばれている。 近くの熊牧場から来てくれている講師の人だ。 この人が面白いのは(と言っても最近やっと面白いとわかったのだけれど)科学者でであるのに(から?)感情論というか不自然さで物事を語りかけてくることだ。
今まで7回くらいあった授業でどれもいかに自然と呼ばれているものが不自然かと言う話を永遠とも思う時間話していた。 僕はつい人間の行為も含めて自然、自然を何処に取るのか?を論点にお茶を濁すんだけど、講義は(基本的には)一方的なのでそんな反論も許されず聞いていると、成る程と思うことが多々あるから不思議だ。
彼女は毎週、科学絶対の立場は危ういことを示唆している。それはある種の宗教が絶対であるという立場が危ういことと同等であること、また現在の科学という物が欧米の一神教的な潜在意識の元、発展、収束させていこうとする傾向にも疑問を投げかけていた。
科学は薄っぺらいと思うのならそれは理解が足りないのかプロなのか…。(確かにまだ精度は低いけど) 科学は今、統一の道に進んでいると思う。 少なくとも化学はそうだ。議論にあがるのがミクロの世界なのかマクロの世界なのかで場合分けをしてその場合はこの理論が成り立つ。とする。 その現実離れした(例えば)式は極々専門的な部分から見たら多くの誤差を含むかも知れない、けれども多くを一度に理解する手助けにはなる、つまり専門性を取るか普遍性を取るか、だと思う。
派手な格好で目立つか、普通の格好で無難にしておくか。
藝を馬鹿にもわかるようにしたのが学問なんだ、と。
なんだ…こう、格好つけた文になってる。最悪だなw 文が上手い人に憧れる。なぐられて、しごかれてくるべきかな。
昨日チャットした先輩は言った。 私は素直だけど本音は誰にも見せてないでしょ? 素直なだけじゃ生きていけないと言われた。素直なだけじゃ死んじゃうよ?と言った。それだけで生きて行くには。 真衣ちゃんは今でも生きているんだろうか?
僕は勉強がしたくてしているんだと言えるだろうか?言えるのかな。 自信がない。。。 つまり、なんだかんだで薄っぺらい人間なのだ。そう、この文をメイルにして送ることも出来ず、掲示板に貼り付けることも出来ず。 どっちつかずの優柔不断。
いつもそうだ、人が重度の危険(は言い過ぎか?)になると何も言えなくなる。僕がいつも言っている慰めは所詮その程度の慰めなのかと憂鬱な気持ちになる。その時は、本気で言ってたのだけど・・・だからかな。今思えばあれは酔ってただけじゃないのかと思えてくるのだ。人を慰めている自分に。
たまには、この、どろどろしたものをだしてみようと。 どう読んでも自分主体で、人のこと考えてないねw
きもちわるい。 25/7:08
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