意見が対立する、というか。 意見をあまり聞いてもらえない、というか。 なにか根本的にすれ違ってるなあって思う瞬間って、脱力する。
それは多分お互いサマなんだけれど。 それでもやっぱり何か割り切れない。
自分とは違う考え方を持ってる相手だって分かるけれど。 それでも、「はあ?何考えてんの?」とか言いたくなる。
そういうことが多過ぎると疲れてしまう。
本当に、唐突ですが開店休業モードに入ります。
と言っても、私の気分的な問題であって、ホールのボードに書いておいたように、この日記も随時更新して参りますし、BBSの方もマメにチェックしたいと思っています。 今の通りです。 なんら変化はありません。 ですから、もしよければみなさま、今までと同じように当店にいらして下さいませ。
何も変わらないのに、どうして「開店休業」という名目を掲げたのか、と仰る方もいるかもしれません。 言わなければなにも変わらないのに、と。
その通りです。 言わずにいれば、それだけ何も変わらないと思いました。 けれど、やっぱりそれは来て下さっている方に申し訳ないとも思ったのです。 フェアじゃない、と(笑)。 それに、私の気分が違います。 正直を言うと、少し黎明音色屋と距離を置きたかった。 ですから、こうやって宣言することに意味がありました。
どうして「休業」したかったのか、という問題なのですが。 実は、私にも良く分かっていません。 ただ……そうですね、良い訳がましいのですが、今、何もかもが中途半端なのです。私は物事にはまるともうどうしようもないくらいにハマってしまって、そこから抜け出せなくなります。 今、丁度その状態で。中途半端にこの店をやっているのがちょっと申し訳なくて。自分でも不甲斐なくて。 と言うよりも、もうしばらくそのハマリごとに集中していたいのです。 ですから、休業させて頂こう、と思って。
いつ復活するか分かりません。 そう言っている間にも不意に更新しそうです(笑)。 ええ、それが一番ありそう。一週間後にぱぱぱっと何かを出して来たりしてそうとだとも思います。 けれど、やっぱり分からない。
願わくば、少しでもみなさまのご理解がいただけますように。
日々というものがこんなに簡単に過ぎて、そしてちっとも私の中に残らずに通過して行くだけのものだとは思いもしなかった。
恐らく、年齢的なものもあるのだと思うのだけれど。 それでもこんなにも毎日が慌ただしくて、私にとってすごく早くて、全然意識する間もないくらいに早い時期は初めてだ。 怖い。 怖い。
もう9月になる。 9月は多分…今より暇になるはずだ。 そうしたら日々はゆっくり過ぎて行くだろうか。 多分。ちっとも代わりはないだろう。
水無月、文月、葉月。 この三ヶ月が居様に早すぎた。
この調子で過ぎれば、きっと私は何も出来ずに死んでいく。
台風が近付いています。 風がとても涼しく、強い。 こまったことに明日の朝は早く、それは台風の状況次第で無駄になる活動になってしまうのです。 けれど、私は嵐がとっても好きで。 とってもとってもわくわくしてしまうのです。
勿論、災害に遭ったことがないからそういうことが言えるのでしょうが。
嵐と言えば、この間雷雲を見ました。 日が暮れて、空が紺になって、そうしてやけに白く浮かび上がる雲が見えたので思わずまじまじ見ていたのです。 そうすると、ぱっと雲が黄色く光ました。 雷が雲の中に閉じ込められているのです。 すごく面白かった。
なんとなく、「風の谷のナウシカ」のアニメを思い出してみたり。 この連想の具合が分かった方、お友達です(笑)。
明日の天気を憂いつつ。
私は宗教、というものが好きだ。 ものすごく興味深い。その宗教がどういう教義を持っていて、信者はそれのどこに惹かれたから信仰しているのか。その教義はどれだけ私の人生哲学(?)と相反するか、どれだけ私のそれと共通するか。 そして、共通するにしても、どうしてそれを「宗教」という形や名前のあるものにしたがる人が居るのか。 それは私の思考回路とはちょっと違うので、とても興味深いと思っている。
けれど、一方で一度そういうものに巻き込まれたら、きっと逃げ出せない。 とそう思う。 ハマると抜け出せないタイプなので。 だから、あまり近付かないようにしていることも事実。
で。本題を見失うところだった。 で、勿論仏教や神道も好きなのだ。 その儀式の意味とか、そんなものがとても面白いと思っている。
お盆。
この季節になって、やっと自分の「夏」のイメージを支配しているものに気付いた。お盆なのだ。 私にとっての「夏」は完全にお盆の時期に限定されている節がある。 それくらい強烈なイメージなのだろう。 扱いやすいし。 だから私にとっての夏は喪失の季節であり、別れに近いものであり、遺された者の季節でもあるわけだ。
いや、私だけじゃないかな。 かなり強烈な印象だから、きっと仏教の家庭に居るみんなが多かれ少なかれ影響を受けているのかも知れないな。
私にとって、睡眠と言うのは人間の本能的な欲求のうち、もっとも抗い難く、もっとも必要なものだ。 この頃はそれを自分である程度調節出来るようになったけれど、その調節というのは眠気を少し我慢して、そうして睡眠時間をずれ込ませることができるようになった、というだけのこと。 といっても我慢できるというのは、自分が本気で我慢しよう、と思ったときだけ。例えば授業中だとか、そう言う時にはあっさりと眠気に屈してしまう。
そして、この頃はその我慢していた眠気は気を抜いた瞬間にぶわっと噴き出し、その途端頭がくらくらするくらいになる。 もう駄目だ、っていうくらい。
その感覚が少し興味深くて、思わず限界を探してしまう今日この頃。
昨日花火を見に行った。 河辺。 風が強くてとても涼しくて。
だから、開始が遅れた。 けれどほんとうに花火を見に行くのは久し振りで、とっても楽しみにしていたにも関わらず、私は人込みにうんざりして、すごく愚痴っていた。 思わず愚痴ってしまうのだ。近しい人相手ならうじうじと。 そういうところが自分でどうしようもない。
けれど、花火を見たら平気になった。 単純。
昨日言っていた、嶽本野ばら氏の『カフェー小品集』。 お陰でどうやら嶽本野ばら氏に傾倒してしまったらしい。
昨日も書いたけれど、今までほんとーうに、私にとって嶽本野ばら氏は印象が良くなかったのだ。 別になにかきっかけがあった訳でもないのだけれど、名前と言い、その作品風景と言い(立ち読みのみの判断)、すごく嫌だった。 受け狙いだと思った。 だって、あまりにもすべてがわざとらしく感じられて。 もともと私の脳は天邪鬼にできているから、あまりに一貫しすぎて、ばんっ!!とあるステレオタイプにはまって綺麗過ぎる物には警戒心が働く。 「うさんくさい……」と、思っていた。実は。
けれど、興味は持ち続けていた。 いつかちゃんと読まなきゃな、とは思っていたのだ。その気にすぐはならなかっただけで。 だから、大学の本屋でこの『カフェー小品集』を見た時には、これなら欲しいと思った。悪いけれど、買いたいと思ったのは中身の所為ではない。その題材が私は好きだと思った。だから、これなら欲しい、と思った。 そこにあった本は扱いが乱暴だったのか、背が少し日に焼けて、カバーが擦り切れていたから、ちょっと迷ったけれど別の大きな本屋へ行くことにした。 正解だったと思う。
ピンクの表紙。細かな銀の模様。 ほんとうはピンクはそんなに好きじゃないけど、この本にはお似合いだ。
カフェーで生きていくかのような人たちの12のお話。 嶽本氏の文章は、スピードに任せて本を読む私の思考をゆっくりゆっくり止めて、むこうのペースに合わせてしまう。 ゆっくりゆっくりこっちをいざなって最後まで持っていく。 とてもうまいな、と思ってしまった。 どう考えても、私は嶽本氏に屈服してしまったらしい。
カフェーに棲息するということに私は憧れているけれど、いろいろな忙しさにかまけて大好きなひっそりしたカフェーをまだ、見つけられていない。 自分の生きたい生活を生きる事はほんとうはそんなに難しくない筈なのに、どうして難しいと感じてしまうのだろう。 と、自分を省みてちょっと切ない気持ちになってしまった。
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