刺客といわれるマドンナ候補を見ていると、おばちゃんもやっぱり女でいたいんだなと思う僕です。
バナナで、黒い点が少しできるその時が一番食べごろで甘いとかいうけど、これらのマドンナは黒いところがすこし多くなりすぎて、むりやりその部分を隠すように塗りたくってる感じがする。強引に年齢に逆らうんじゃなくて、その時々で一番きれいに見える方法で化粧してほしいんだけど。
自分は、廃墟、廃村、廃線なんか大好きで、もともとその場所が、栄えてれば栄えてるほどグッとくる性格なんで、退廃的な美学をかつては美人だった彼女らに重ね合わせたりしてゾクゾクするときもある。
結局、マドンナ候補たちが好きなのか嫌いなのかと考えると、わからないんだけど、小泉の好みのタイプだと想像すると面白く納得できる。
化粧落としのCMで、出演者の化粧の落とし終わった顔を見るのが楽しみな僕です。
五木寛之の昔やってたラジオの暗さが好きで、青春の門や、エッセイなんかも興味深く読んでた。 そんなわけで、彼の書いた「人生案内」というエッセイを立ち読みしていると、自分と考えが同じだったことが書いてあったので、とても感動した。立ち読みで感動するのはさておき。 まあ、そんなことよくある話じゃんと思うかもしれない。 でも、この考えはあんまり共感者いないだろうと思っていただけに、さらに五木寛之が好きになった。
その考えというのは、 「努力が生まれつき好きで得意な人と、努力のできない人がいる」 ということだ。 「頭のいい、悪いではなく努力しだいなんだ」、とかよく世間では言われるけど、その努力をできるのは、努力ができるという才能のある人なんだと常々感じる。 努力しなければ不安になるとか、努力をした結果の満足を強く感じとれるとか、努力に対する肯定的意識が強いとか、そういう人。
それでも、努力できる才能が少ない人なら、努力しなくていいというわけじゃない。 本には、「風が吹くときのために、帆を上げて走れる状態にしておく、とよい」と書いてあった。
チャンスがめぐってきたときに気持ちを持っていけるようしておくと、必ずチャンスは来るのだそうだ。
ていうことはつまり、自分の力だけじゃなく、周りの力もかりて動くべきってことなんだな。がんばろ。
気が向いたときにしか書かないので、不整脈のようになっている日記です。
そろそろ仕事が始まるよ。 やることって、やってもやってもなくならないのね。 もっとだらーっとしたいのに。
ランニングマシーンにずるずる流されながら、何とか落ちかけながら前に進んでる、もうちょっとゆっくり進みたい。
でも、サマーソニックはよかったな。オアシス、ウィーザー、ブロックパーティーなんか出てて海外アーティストのライブ見るの初めてだったから、いーなと思ったよ。自分の好きなアジカンも出たし。
サマソニメモリーで、しばらくがんばるしかねーな。
ダンサーインザダークという2000年12月に公開された映画のDVDを見た。 あまりに悲しくて、つらくて、胃が痛くなった。
主人公のセルマは、踊ることによってつらい運命から逃避している。 逃避は後ろ向きで意味のないことと思ってたけど、これを見ると逃避する以外どうしようもないこともあることが分かった。 セルマの親友のキャシーは、セルマの心の支えになってくれる。 自分にもほしいああいう人が。
悲劇的な映画には、吐きたくなるほど気持ちが悪くなるものもあるけど、そのくらいパワーのある作品のほうが人生を直視していると感じる。 人生なんて、すべての人が最後は病気になったりして死んでしまうのだし、根底は悲しいものだと思う。
これはその意味から言うと、かなりの名作だった。
この映画は賛否両論あるけど、誰が好きそうで誰が嫌いそうかというのがだいたい分かるのが、ちょっと面白い。
テレビをつけると、郵政法案が可決するか否決するかで、びーびー言ってる。 郵政法案が可決すると、利用者にどのようなメリット・デメリットが予想されるのか、また今関連業務についている人はこれからどうなるのか、について推測を交えて報道してほしい。 そのことについてテレビから何も伝わってこない。
常々疑問に思ってるんだけど、何ですべてのテレビで同じ発想、同じ切り口から物事を伝えるわけ? 楽だから?発想力がないから?
テレビも情報料が電気代だけという、いいところもあるけど、自分で情報も選べないし、どのチャンネルも金太郎飴だし、そろそろ多くの人が飽き始めてくるのもしょうがない。
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