セクサロイドは眠らない
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2002年05月31日(金) |
草むらの中で私達は、抱き合う。私は、そのたくましい腕に組み伏されて、幸福の涙を流す。そうして。 |
馬鹿みたいだと思うけれど。誰にも言えないけれど。私は、ウサギのくせしてライオンが大好きなのだ。あの黄金のタテガミ。なんて素敵。
幼い日の思い出。
私はライオンの少年と遊んでいた。夢中になって。ライオンの少年は、その牙が私を傷つけないように、そっと耳のふちを噛んでくるから、私はクスクスと笑っていた。
母さんの金切り声を聞くまでは、そうやってじゃれていた。
母さんの顔が、あんまりにも怖いから、私は慌てて母さんの元に駆け寄った。ライオンの少年はとても寂しそうな顔で私を見ると、くるりと背を向けて走り去ってしまった。
あれは夢だったのだろうか。
--
私は、大人になっても、やっぱりライオンが好きだった。
「そろそろ、結婚して子供の顔を見せてちょうだいよ。」 って母さんに言われるけれど、私は、絶対結婚なんかする気はなかった。
だから、私は家を出て、ライオンになった。正確にはライオンの皮をかぶって生きて行くことにした。
そうして、一番強くて、動物という動物の上に立つライオンの元に行って、身の回りの世話をさせてください、とお願いした。
ライオンは、ジロリと私を見て言った。 「私は、身の回りの世話でさえ、誰にも任せたことはないんだ。」 「そうおっしゃらずに、お願いします。あなた様に憧れて、はるばる来たのです。」 「悪いが・・・。」
私は、ライオンの目を間近で見て、ハッとして、問う。 「あなた様もしかして、ずっと以前ウサギの子供と遊んだこと、ございませんか?」 「ウサギだと?」
ライオンは、ものすごい目をして、私をにらんだ。 「ウサギは嫌いだ。大嫌いだ。臆病で。逃げ足だけ速くて。」
「申し訳ございません。余計なことを言いました。」 恐ろしくて震えながら、言う。
「いいぞ。」 「え?」 「私の身の回りの世話をするがいい。」 「どうしてでしょう?」 「私がウサギを大嫌いなことは、ここいらの者は皆知っていて、決して口にしようとしないが、お前は、平気で私に話し掛けて来た。その真っ直ぐな瞳と勇気でもって私に仕えてくれ。」 「は、はい・・・。」
私は、全身から汗が噴出すのを感じる。敏感で、賢い、獣達の王。もし、私が実はウサギだとバレたらどうする?私は、背中をそっとさぐる。ファスナーは毛に隠れて見えてない。
大丈夫。
もし、バレたら?
その牙で。その爪で。殺されるのも本望だから。
私は腹をくくって、その足元にひざまづく。 「一生懸命、お仕えしますわ。」
--
それから、私は、王に寄り添って生きた。
夜、そのタテガミを整えるのは、誇りに満ちた仕事だった。
「なあ。」 ライオンは、目を閉じて、言う。
「なんでしょう?」 「お前は、まだ若く美しい雌だ。恋もしたかろう。いいんだぞ。たまには遊んで来ても。」 「いいえ。私は、あなた様にお仕えするって決めたんですもの。このままで充分ですわ。それより、あなた、こうやって一人で生きて行くのは寂しくありませんの?」 「寂しい?そんなこと、考えたこともない。私は、王だ。そんなことを考えて、誰かに心を預けた途端、私の座を狙う者に負かされてしまう。」
そんな孤独なライオンが大好きだった。
同時に、胸が痛んでどうしようもなかった。
世間では、私のことをライオンの愛人のように思っている動物達がいたけれど、私は一度として抱かれたことはなかった。
だが、私は、いつもライオンのそばに置いてもらえることに満足した。
--
夜の夢は切なかった。
ライオンは、私にプロポーズし、私はそれを受ける。ライオンは、笑って。あの日の少年のように、私の耳を噛んで、戯れる。いつの間にか、草むらの中で私達は、抱き合う。私は、そのたくましい腕に組み伏されて、幸福の涙を流す。
そうして。
ついには、可愛い子を。
ライオンは「良くやった。」と、出産で疲れた私の鼻にキスしてくれて。そうして、子供達を見て大声をあげる。
「ウサギだ。なんてことだ。ウサギは大嫌いだ。どうしてこんなことに?」
そうして、まだ、目も開かない子供達を、ライオンの爪が次々と切り裂いて行って。
私は悲鳴を上げる。
汗びっしょりの私を、ライオンが心配そうに見下ろしている。
「どうした?」 「申し訳ありません。なにか・・・。怖い夢を見たようです。」 「そうか。心配するな。お前の命ぐらいは守ってやれるから。ゆっくりお休み。」 「はい。」
その声は、とても深く優しく。
まるで、私を愛してくれているかのように錯覚しそうで。
私は首を振って、目を閉じる。
そうだ。私は、彼の子供を産むことができない。本当はウサギだもの。彼の大嫌いなウサギだもの。夢はいつだって、正しい警告をしてくれる。
--
それは一瞬の出来事だった。
私は、野原で遊ぶ楽しげなウサギ達を、風下でボンヤリと眺めていた。
ああ。私は、ウサギの人生を捨てて、こんなところで。果たして幸福だったのだろうか?そうやって、あんな風に跳ね回る幸福を捨てて、そうして、彼の愛を自分のものにすることさえできないのに。
涙が出そうになる。
「危ないっ。」 その時、ライオンが走り出て。
私が目を上げると、若くてたくましいライオンが、王に飛びかかって行くのが見えた。以前から、王の座を狙っている若者だった。
私は悲鳴を上げた。
「逃げろ。」 と、王は叫ぶけれど、私は首を振って。
彼は、確かに、もう随分と年老いていた。若者は、ライオンが致命傷を負って動けないのを確かめると、逃げ出した。
「ああ。なんてこと。」 私は泣きじゃくる。
「いいんだよ。私は、もう、年寄りだ。」 「だって、あなた。」 「一つだけ、お前に言っておきたいことがあるんだ。」 「なんでしょう?」 「ウサギのことなんだが。実は、私は、ウサギが大好きだ。ウサギになれたらと、ずっと思って生きて来た。お前が最初の日に言った事。本当だよ。ウサギの子供と遊びたかったんだ。だから、あんなことを。わざと憎んで見せたんだよ。ウサギになれないなら、せめて、ウサギの女と愛し合って、可愛い子供を産んでもらいたかった。だが、それはかなわないこと。」 「ああ。どうして早くおっしゃってくれなかったの?」 「王たるもの。弱点をさらすようなことはできないからな。」 ライオンは、苦く笑う。
私は、慌ててファスナーを探すけれど。どこにも、見当たらない。もう、私は、ウサギに戻れない。
「私は、そういうわけで、結婚もせずに今まで来た。お前も、若くて美しい時期を捧げてくれて。本当に感謝してるよ。まるで、親友みたいに思ってた。」 「ああ。あなた。」 私の頬は涙で濡れる。
「不思議だなあ。お前がウサギに見える。白いフワフワの毛。赤いルビーのような目。」 「行かないで。」 「キスしておくれ。」
私は、そっと口づける。
ライオンは、目を閉じて。
なんて幸せそうなのだろう。
私の、長い耳が熱くうずく。
ねえ。どうして、私達、恋をするように、かなわぬものを欲しがるように生まれついたのでしょう。そうして、恋する姿は、いつも滑稽で、無駄な努力の積み重ね。
私は、しなやかな足で、ピョンピョンと走り去る。
2002年05月30日(木) |
私は、この男のどこが好きなんだろう。身勝手で、子供っぽくて、セックスばかりしたがるこの男を。 |
「あ。来てたんだ。」 仕事で遅くなってクタクタだった私は、ともかく、お腹も空いてたので、早く何か食べたいと思っていた。
「うん。電話なしで来ちゃったけどな。」 「いいけど・・・、さ。」 「もう、生理終わったんだろ?」 「え?」
彼がいきなり抱きついてくるから、私は、コンビニの袋を足元に落としてしまう。 「待ってよ。」 「なんで。」 「まだ、終わってないよ。」 「いいじゃん。じゃ、タオル敷いてやれば。」 「いやだって。」 「うそ。したいくせに。」
彼がそんな風にガムシャラに来るから、私は、また、いつもみたいにちゃんと断れなくて、彼に聞こえない溜め息をつきながら、服を脱ぐ。
「お前も、ほんとはしたかったんだろ?」 彼が、私の首筋に口づけを浴びせながら言うから、
「んん・・・。」 と、曖昧に返事をして。
考えてることは、男の身勝手と、お腹空いたってこと。
なんで私、ちゃんと言えないのかな。ずるいよね。嫌なこと、嫌って言うの、怖いもん。
でも、彼が私を求めてくれると、ほんの少しホッとする。居場所を見つけたみたいにホッとする。女の子って、みんなそうじゃないのかな。
状況が状況だけに、手早く行為を終えた私達は、シャワーを急いで浴びて。彼はそのまま、狭いベッドの上で眠り始める。私は、コンビニで温めてもらったけど、すっかり冷えてしまったスパゲッティを、温めなおす気力もなくなって、絡まってしまったのを口に押し込んで、ビールで流し込む。
そう。
私は、目をつぶって流し込む。おいしいんだかおいしくないんだか、もうとっくに分からなくなった、私達の関係。
--
「どうして電話して来なかったの?」 ニ週間ぶりの彼を前にして、私は怒って訊ねる。
「すまん。友達が新しいゲーム買ったって言うから、そいつんとこ泊まってた。」 「仕事は?」 「仕事は、そいつんとこから行ってた。」
あきれた。
携帯の電源も切りっぱなしで二週間。ゲームごときで、二週間。私はほったらかしだった。
私の誕生日だからと言って、約束した日に現われず、二週間。
男の子供っぽさに怒りを覚える。
「なあ。怒ってんの?」 「まあね。」 「だから、すまん。」 「いいけど。今度から電話入れてよね。」 「許してくれるの?」 「うん・・。」 「やたっ。」
嬉しそうな彼の笑顔は、やっぱりすごく素敵なのだった。
はあ・・・。馬鹿にしてんじゃないよ、と思う。私は、この男のどこが好きなんだろう。身勝手で、子供っぽくて、セックスばかりしたがるこの男を。
--
「ねえ。どう思う?別れるべきかな?」 私は、アイスコーヒーをいつまでもかき混ぜながら、友達に訊ねる。
「そうやって人に相談してるうちは、別れる気もないくせに。」 友達は笑う。
「そうなんだよね。でも、さ。あたしどうしちゃったかな。身勝手なヤツに振り回されっぱなし。」 「アサコさあ、言わないんでしょ?嫌なこと、嫌とか。言いなりなんじゃない?」 「うん・・・。」 「それ、おかしいよ。」 「そう?セックスとか、嫌な時は、ちゃんと断る?」 「あったりまえじゃん。」 「そっか。えらいなあ。」 「えらい、じゃないよ。付き合ってるなら、そういうことちゃんと言わなくちゃ。」
そうだね。言わなくちゃ。
--
いつもみたいに、私の部屋で夕食を食べ終わると、彼は、黙ってテレビをつけて、野球を見始める。
彼が、テレビを見て、私が食器の片づけをする。
もう、まるで新鮮味のカケラもない夫婦みたいだ。
「ねえ。リョウちゃん。」 「ん?なにー?ちょっと、今、いいとこ。」 「ねえったら。」 「なに?」 「あたしさあ、前から言おうと思ってたけど、野球、大嫌いなのよね。」 「それ、どういうこと?」 「ここ来て、テレビ見てばっかだったら、自分ちで見てってことよ。」 「どうしてよ?お前んとこがいいんだから。それで、お前がコーヒーとか持って来てくれたら、嬉しいじゃん。」 「だから、そういうのが嫌なんだって。」
彼は、私がいきなりまくしたてるのに、キョトンとした顔をして。
「分かった分かった。」 って、いきなり腕掴んで引き寄せるから。
「違うよ。ちゃんと話しようよ。いつもさあ。あたし、ちゃんと言えなかったから。」 「だから、何をよ?俺達、このままで充分じゃなかったの?」 「そんなの違うって。あたしが我慢してて成り立ってる関係っておかしいじゃない?」 「だったら、言ってくれよ。分かんないじゃないか。」 「じゃ、言うよ。うちで、野球ばっかり見るのも、テレビゲームするのも、生理中にセックスするのも、連絡なしに勝手に鍵使って入られるのも、全部全部やだったの。」 「だったら、どうしてそう言ってくれなかったんだよ。」
私は、言いたいことだけ言ったら、もう、なんだか、涙が出て来て止まらなくなってしまった。
彼が、私を抱き寄せて、胸をまさぐってくるから、私は、彼の手を振りほどいて、泣きじゃくる。
「わけ、わかんないよ。俺、帰るわ。」 「そうして。」 「じゃ、な。」 「あ。鍵、置いてって。うちの。」 「ああ・・・。」
彼は、出て行く。
私は、しばらく止まらない涙を流し続ける。
--
それっきり、彼からは電話はなかった。
私からも掛けなかった。
あの日、ちゃんと話をして。いきなりじゃなくて、ちょっとずつ分かってもらったら良かったのかもしれないが、私は、もう、随分と我慢し過ぎて、もう1mmだって我慢したくない気分だった。
会社で、支社設立に向けて募集している、中国とマレーシアでの一ヶ月ずつの研修に応募した。
日本を離れたら、少しは自分が元気になるきっかけが手に入るかもしれないと思ったから。
友達と一緒に応募した。
--
研修旅行は自分で思った以上に楽しかった。
久々に、女友達とホテルの部屋でゆっくりしゃべるのも、すごく楽しかった。買い物も。食べ歩きも。
私は、リョウと付き合っている間、随分とこういう楽しみを忘れてたんだなって思った。
実家の母に電話する。
「ああ。アサコ。どう?そっちは?」 「うん。すっごく楽しい。」 「仕事なんだから、あんまり遊び過ぎないのよ。」 「分かってるって。」 「そうそう。リョウくんから電話あったよ。あんたたち、どうしたのよ。」 「なんて?」 「そっちの宿泊先の電話番号教えてくれって。」 「そうなんだ。」 「で、電話番号分からなかったから、住所教えといたけど、良かったかねえ。」 「うん。いいよ。」
私は、なんだか、受話器を握り締めて泣いてた。
馬鹿みたいだなあ。もう、平気だと思ってたのに、リョウの名前聞いただけで、涙出ちゃうなんて。
「じゃあ、かあさん、あたし忙しいから。」 なんて、慌てて電話切って、しばらく泣く。
--
それから、数日して届いた日本からのハガキには、やり直したいって書いてあって。
私は、びっくりするくらいの安堵が胸に広がるのを感じる。
「良かったじゃん。」 一緒に宿泊している友達が、冷やかして笑う。
「すぐ、返事出してあげるんでしょう?」 って聞かれるけど、私は、ううん、って首を振る。
「もうちょっと、考えてみる。」 「いいの?不安じゃないの?」 「うん。大丈夫だよ。」
うまく言えないけど。
時間掛けて考える時間があったほうがいいように思う。きっと、このハガキに返事出さなくったって、私達がもう一度巡り会える恋人同士だとしたら、きっとまた、会えるから。
だから、いいの。
私は、寂しいような、甘酸っぱいような感じで、何もしない時間をもう少し楽しむことにして。
「おいしいもの、食べに行こうよ。」 友達に声を掛けて、ベッドにハガキを放り出す。
2002年05月28日(火) |
無言で聞いていた彼女は、おもむろに口を開く。「恋の行為ってさ。一つ一つが、その恋を終わらせるために作用するのよね。」 |
僕より十歳ばかり歳上のその人の声は、僕に仕事の指示を出しながらも、どこか艶っぽく。知的で、落ち着いていて、仕事の経験が豊富で。
僕は、その人の、指輪のはまっていない薬指を見つめる。
あんまり僕が見るから、少し顔を赤らめて、 「ここまで、ちゃんと理解してるかな?」 と、小学校の教師みたいな感じで聞いた。
「まだ、分からないみたいです。もう一度説明を聞きたいなあ。」
僕が、わざとそう言うと、彼女は溜め息をついて。
「後は、明日にするわ。もう、帰る時間よ。」 「じゃあ、課外授業をしてよ。先生。」 僕が笑うから、彼女は少し怒ったような顔をして。
僕は彼女の目を見つめる。彼女は怒った顔で、僕をにらみ返す。僕は決して目をそらさない。
「いいわよ。・・・くんは居残りね。」 彼女は、あきらめたように目をそらして、言う。
なんでだろう。こんなに簡単にどうして。
彼女のマンションのベッドルームで、僕は、彼女の大人っぽいワインレッドの下着を見て、感動すら覚える。彼女は完璧だ。仕事ができるだけじゃなくて、大人の女性としての魅力を磨くことも怠らない。
そうだ。なんでだろう。僕の胸は感動でいっぱいになる。
僕は、この女性を探していた。ずっと。こんな素敵な人、他にいやしない。巡り会えたことを神に感謝し、奇跡のような女を抱き締める。
--
「もう、嫌だよ。きみに合わせてばっかりなのは。」 そういう僕の背後から彼女が投げたワイングラスの破片が僕の指を傷付けて、まだ痛むけれど。
僕は、もう、彼女の部屋には行かないよ、と告げて。
仕事の指示を出す声が震えている。今にも泣き出さんばかり。なのに、その姿は、もう、僕の心にカケラも感動を巻き起こさない。
夢のようだった。僕は思う。僕が求めていたのは、完璧に落ち着いた大人の女だった。目の前にいる、愛を貪欲に欲しがる女じゃなかったのだ。
夕暮れの街を、ぼんやり歩く。花屋の前で、突然、水を浴びせ掛けられる。
「うわっ。」 「きゃー。ごめんなさいっ。」
ショートカットにジーンズの、花に水をやっていた女の子が駆け寄る。
「あの。こういう時はどうしたらいいのかな。今、店長出てるんです。」 「いいよ。いいよ。」 「でも・・・。」 「じゃ、こうしよう。きみ、バイト、何時まで?」 「あと一時間で終わりです。」 「じゃ、食事に付き合ってよ。」 「え?」 「それでいい。」 「そんな。」 「僕とじゃ、嫌?」 「嫌じゃないです。バイト料入る前だから助かるし。」 「じゃ、きまり。」
そうやって、僕は、天使のような女の子を見つける。何が気に入ったって?なんだろう?Tシャツの背中から透けて見える、コットンの白い下着が、なぜか胸を打ったんだ。
僕は、緊張する彼女をレストランに連れて行く。細い体なのに、ステーキを美味しそうに頬張る彼女が可愛かった。
そうやって、僕らは知り合った。僕は、その、不器用な若さに感動して、もう、それがどうやったって取り戻せないことを知っているから、彼女を何度だって抱き締めたくなる。僕は、正直、本当に本当に感動していた。
「また、こうやって会ってもらえる?」 「私なんかでいいんですか?」 「きみがいいんだ。」
--
何が失敗だったのだろう。
多分、前の彼女の事を言ってしまったから。大人の女のことを。だから、僕の天使は泣き出した。
そうして、彼女は、自分の子供っぽい事を、何も知らないことを、恥じ、未成熟な体を恥じた。彼女が恥じるあまり、僕らは、キスから先には全然進めなかった。
そうやって、僕らは、だんだん疲れて。
でも、その頃には、僕の天使も、高級なレストランにも慣れて、薄く見せる化粧も上手くなっていた。
僕は、心の中のわずかな残り火をかき集めて、彼女を抱き締めて、言う。
「抱かせておくれ。」
彼女はうなずく。
そうやって、僕らは、ホテルの一室で、初めて肌を合わせる。
「初めて?」 僕は、分かり切った事を訊ねる。
彼女は顔を歪めながら、無言でうなずく。
大人になりかけの彼女の体を抱き締めながら、僕は、なぜか、頭の奥は冷静だった。
彼女の小さな悲鳴と共に、僕は動きを増し、そうやって、彼女の流す一筋の涙を綺麗だと思った。
--
「じゃあ。」 僕は、彼女をアパートに送り届けて、短く別れを告げた。
僕らは、もう、会わない。
彼女が、そのうち、僕に抱かれることにも慣れてしまうのが悲しいから。
僕はひどい男だろうか?
物悲しい気分で、手近な店でビールを注文する。軽く飲んでから、帰ろう。
その時、ふと、隣のテーブルで同じように独りで飲んでいる女に気付く。
ごく普通のOLっぽいけど。この場所で独りで飲むのが似合う女だ。意識過剰でもなく、周囲の喧騒にほど良く馴染んで、くつろいで見える。
「一人?」 「え?」 「一杯だけ、付き合ってくれる?」 「いいけど。口説いても無駄よ。今夜はそういう気分じゃないの。」 「ああ。フラれた男に付き合って欲しいだけ。」 「フラれた?」 「うん。」
そうして、僕は、白いコットンのブラの天使の話を聞かせる。
「ふうん。」 彼女が吸った煙草は、口紅がベッタリついていたりしない。何事も、程よく切り上げる女なのだ。
「彼女に会った時はさあ。なんだか、感動しちゃったんだよね。なのに、なんだろう?時間を掛け過ぎたせいかな。いつの間にか恋は終わってたんだ。」
無言で聞いていた彼女は、おもむろに口を開く。 「恋の行為ってさ。一つ一つが、その恋を終わらせるために作用するのよね。」
なるほど。名言だ。
そうして、僕は、その賢い女に、ほとんど感動する。
「ねえ。また会ってくれる?」 僕は、そのまま別れるのが惜しくて訊ねる。
「いいよ。」
--
二度目に会った時には、僕はもう我慢しきれずに、彼女と激しく抱き合った。コットン天使のせいで、どこか放出できない気分だった僕を、彼女は程よい距離で受け止めてくれた。特別な技巧もない代わりに、僕の欲情に応えて、欲情をぶつけてくるその女は、まさに、僕にピッタリの女だった。
どうして、最初からこういう女と巡り会えなかったのだろう。
僕は、本当に感動していた。抱き合うことで、余計に感動していた。
この先、彼女と一緒にいれば、僕は道に迷うことがないように思えた。
「ねえ。イッちゃうよ。」 「いいよ。一緒にイこう。」
僕らは、早過ぎず、遅過ぎず、完璧なタイミングで達する。
--
週ニ〜三回会って、抱き合った。
僕らは、完璧なカップルのように、急速に理解を深め合って。そうして、喧嘩するようになって。
そうして、もう、僕にとって理解し易い女は、同時に、僕にとって、知り過ぎた女になった。
「もう、終わりにしない?」 最後のベッドで、僕は気だるく問う。
「そうね。」 彼女も、分かっていたように答える。
「恋の行為ってさ。一つ一つが、その恋を終わらせるために作用するのよね。」 最初に会った日、彼女が僕に言った言葉が蘇る。
恋の行為は、あんまりスムーズに事が運んだので、僕らはすっかりと、全ての手順を消化してしまった。
ああ。なんてことだ。なんで、あの日、あんなに感動したいたのに、それは永遠には続かない?
僕は、とぼとぼと夜道を帰る。
--
「ただいま。」 「おかえり。随分と早かったじゃない?」
妻は不機嫌そうにしている。当たり前だ。狭い家の中は、赤ん坊のいろんな匂い。
「少しは片付けたら?」 「じゃ、あんたこそ、少しは早く帰って手伝ってくれたらどうなのよ?」
玄関には、僕が大事に集めていた、映画のパンフレットが紐で束ねて置いてある。
「捨てちゃうのかよ?」 「ええ。だって、部屋、狭いもの。あんた、昔っから、いつも映画見ちゃ、僕はこの映画で一生分の勇気をもらったよ、なんて言ってたけど、あんたほど勇気に欠けた男はいないよね。」
僕は、しゃがみ込んで、映画のパンフレットを、適当に一部抜き取って眺める。
思い出せない。どんなストーリーだったかも。
そう。感動は、そうやって、僕を通り過ぎて行って、大したものを心に残さなかったのかもしれない。
「先に、寝るね。」 妻は、疲れた口調で言う。
今夜も、多分、寝室には入れてもらえないだろう。
だが、僕は、妻を愛している。だから、決して、この家を出て行かない。挑むように、僕にぶつかってくる女。それでも、まだ、僕に忠告してくれようとする女。
僕は、パンフレットを戻す。
明日、資源ゴミに出しちまおう。
そうして、新しい映画を、今度は妻と観に行こう。
2002年05月27日(月) |
甘い記憶。どうにかなってしまおうとは思わなかった。その瞬間を幾度も思い返して、その後の日々、生きていければ良かった。 |
夫は、定年間際なのに、遅くまで働く。
「無理なさらないで。あまり年寄りが長く現場にいると、若い人達に嫌がられるわよ。」 と、上着を私ながら言う私に、夫は笑って。
「そうだな。」 と、答えて。
だけど、一分一秒でも長く現場にしがみついていたいのだと。夫のことは誰よりもよく分かっているから。
私は、それ以上言わずに、夫を送り出す。
庭に出て、今日を盛りに咲く花を、幾本かキッチン用にと見つくろう。
そうして、午前中は、太陽の光がまぶしいくらいに入ってくるキッチンで、私は、日記帳を開く。最近、昔のことを思い出すような記述が増えて来ているのは分かっているけれど。私は、日記に過ぎた事を書くのが楽しくてしようがない。
私の背後で、キッチンの窓を叩く音がする。
「どなた?」 私は、老眼鏡を外して、窓の外を見る。
「ごめんなさい。急に。あんまり素敵なお花だったので。」 「あら。いいのよ。」
そこには、若い娘さん。と言っても、三十台?しっとりと落ちついた風情もあって。私にもし娘がいたら、こんな感じだと嬉しいという風な、清潔な服装。
「ねえ。お入りにならない?」 「え?いいんですか?」 「ええ。どうせ、暇だし。お花、好きなんでしょう?話し相手になってくださる?」 「私で良ければ。」
その娘さんは、おずおずと玄関から入り直してくる。
「ごめんなさいね。庭のお花があんまり綺麗で。それに、手入れも行き届いてて。」 「そう言ってくださるかたがいるのって、本当に嬉しい。」 「お独りですか?」 「いえ。夫と。息子は、遠くで就職しててね。たまにしか帰って来ないのよ。」 「そうですか。でも、本当に素晴らしいですわ。お庭も。おうちも。」 「ほほ。私って、ね。他に能がないんですよ。馬鹿みたいに家を守って、ね。」 「そうやっていられるのが一番幸せですわ。」 「あなたは?ご結婚は?」 「してます。」 「そう。」 「さっき、ごめんなさい。私、普段は落ち着いているつもりなのに、何かに胸がときめくと、時折、自分でもびっくりするような行動に出ることがあって。」 「あら。私もそうなのよ。」 「ねえ。お独りで?随分と長いこと、このおうちにいらしたでしょう?」 「なあに?突然に。」
娘さんは、なぜか泣き出しそうな顔になる。
「どうしたのかしら?何か・・・。悩みでもあったら。ねえ。私に教えてちょうだいな。私だったら、ほら、他人だから、誰かに言いふらしたりしないし。」 「分からないんです。時々、すごく苦しくて。」 「どんな風に?」
いやだ。私、誰かの悩みを聞くのに、ちょっと好奇心剥き出しという風ではないかしら。
「うち、ね。夫が。滅多に帰って来なくて。仕事と結婚してるみたいなものなんです。」 「あらそうなの。よく分かるわ。そういう人と結婚しちゃうと、相手がいつ帰ってくるかなんて、全然当てにしなくなるのよねえ。」 「私、寂しいのだと思うけれど。夫の後輩の男性が、先日、夫に頼まれてうちに着替えを取りに来てくださったことがあって。」 「ええ、ええ。」 「それで。何と言うか。寂しかったんだと思いますわ。手を・・・。握られて。」 「あら。」 「それが、びっくりするくらい。なんだか、泣きたくなるくらい。私の欲しかったものだって分かって。手を振り切ることができなくて。」 「ねえ。あなた、それは駄目よ。分かってるかしら?ご主人はあなたのために一生懸命働いてるのよ。」 「そうでしょうか?夫は、夫のために、会社のために働いてるんじゃないかしら。」 「それは間違いというもの。近頃の人は、すぐ、愛だの恋だのがなきゃ、生きていけないものだって勘違いするけれど。」
私は、勢い込んでまくしたてていたけれど、娘さんの涙を見て、なぜか、懐かしいような痛みを思い出して、それ以上何も言えなくなる。
「ごめんなさい。帰ります。」 「あら。まあ。また、来てちょうだい。」 「今日はありがとうございました。知らない人の家に押し掛けて、泣いたりなんかして。」 「いいのよ。」
娘さんは、慌てて家を飛び出して行く。
まずい事を言ってしまったのでは、という後悔が押し寄せてくるが、その考えを振り払い、老眼鏡を掛けて、日記帳に向かう。日記は、いい。何か書いていると、気持ちが整理できて、落ち着いて来る。
私は、娘さんのこと。娘さんの恋のこと。そんなことを綴ってみる。
「若い人は、気持ちに流されてすぐに」 そこまで書き掛けて、自分の昔を思い出す。
私は、誰かにお説教めいた事を言うほどに、いつからそんなに偉くなったのかしら。
なぜか気分が沈むのを感じて日記帳を閉じる。
--
次の日。
娘さんが、訪ねて来てくれた。
「もう来てくれないかと。」 「いいえ。昨日は、私のほうが悪かったんです。」 「いいえ。私よ。悪かったのは。つい、お説教めいたことを言ってしまって。」 「これ。」 「なあに?」 「スコーンです。私が焼いたの。昨日出してくださったお紅茶に合うと思って。」 「まあ、ありがとう。いらっしゃいな。一緒に戴きましょう。」
私は、自家製のジャムを取り出して。
「おいしいですわ。」 「あら。ありがとう。主人は全然誉めてくれないのよ。でも、あなたのスコーンがおいしいのね。とっても良く合うわ。」
私は、紅茶を煎れながら、言う。 「ね。昨日のお話。続きを教えてくださらない?」 「え?」 「お願い。聞きたいの。手を握られて。それからどうしたの?」 「それだけなんです。」 「そう。」 「本当に、それだけ。彼も、気まぐれだったのかもしれないし。」 「そうかしら。職場の先輩の奥さんの手を握るだなんて、その人も相当勇気が要ったでしょうに。」 「そう・・・。でしょうか?」 「ええ。ええ。」 「ねえ。おばさまは?ご主人を裏切ったことは?」 「ないわ。」 「一度も?」 「ええ・・・。多分。」
どうだったかしら。
それでも、私は、この娘さんの胸の痛みが。なぜか、とても良く分かる。
このスコーンの味。誰かと向かい合って。こんな風に。握られた手は、燃えるように熱くて。
それだけで良かった。ただ、その時間。甘い記憶。どうにかなってしまおうとは思わなかった。その瞬間を幾度も思い返して、その後の日々、生きていければ良かった。
気が付くと、娘さんはいなくなっていた。
スコーンが綺麗になくなるほど、私達は何かを夢中で話していたようだ。明日、もっと、聞いてみよう。娘さんの心の内。どうして、そんな柔らかな暖かいものを、私、最初の時、いきなり頭ごなしに否定しちゃったのかしら。
ジャムを片付けながら、そう思う。
--
久々に休みが取れたから、と、息子が遊びに来てくれた。
私も、今日ばかりは仕事を休んで。
「ねえ。父さん。」 「なんだ?」 「母さんのことだけど。独り言が激しいだろう?ちょっとヤバいんじゃない?」 「ああ。そのことか。」
実を言うと、私も心配していたのだ。まるで、少女のように興奮したり、それから少し沈み込んだり。私が放っておいたのがいけないのか。
「だが、日常のことはしっかりしてるから。」 「そう?大丈夫?何かあったら連絡くれよな。」 「分かってるって。実はな。少し早いが、来月で仕事を辞めようと思うんだ。」
実際、妻は随分と、自分を殺して私に合わせてくれていたから。
「ほんと?」 「ああ。母さんのそばにいてやろうと思う。」 「なら、安心だ。」
庭で花を摘む妻は、本当に、少女のように微笑んでいて。
「なあ、おまえ。でも、見てごらん。母さんがあんな風に笑ったところ、見たことがあるか?」 「うん。」 「そうか。私は知らなかった。」
本当に。
何も、妻のことを知らなかった。
今からでも、遅くはないだろうか。その妻の微笑みに恋しても。
2002年05月26日(日) |
「あんた、頑張れ、頑張れって言われて。ね。すごく頑張ってたのに、いくら頑張っても、母さん満足しなかったよね。」 |
始発電車で、故郷に向かう。
もう、何年ぶり。
母の葬儀も、随分迷ったが、結局行くことに。
最後に母を看取ってくれた姉にも、ちゃんと礼を言わなくては。
--
僕は、手際の良い業者の葬儀進行に見惚れながら、ただ、周囲のざわめきの外にいて、何かに違和感を感じ続けていた。
女達は、みな、一様に目にハンカチを当てて。男達が、入れ替わり、姉に向かって「よう頑張ってくれた。何かあったら、いつでも言って来なさい。」と、声を掛けていた。
火葬場から帰り、親戚達を送り出して、ようやく姉と二人きりになった。
「来てくれたんだね。」 と、少しやつれた顔で、それでも嬉しそうに姉は微笑んだ。
「うん。」 「来ないかと思ってたよ。」 「まさか。」 「だって、さ。ここ何年も、全然こっちに顔出してくれることなかったし。」 「仕事、忙しかったから。」 「そう。」 「姉さんには悪かったと思ってる。何もかも押し付けて。」 「いいのよ。」
姉は、緑茶を煎れて、僕に出す。
「あ。俺、お茶嫌いなんだ。コーヒーがいい。」 「そうなの?緑茶、体にいいのよ。」
つい、昔の癖で、姉にはわがままばかり言ってしまう。
「でもさ。ショウちゃんが母さんのこと嫌いなの、本当は分かってたから。」 「・・・。」 「母さんね。ショウちゃんにはきつかったもんね。私はさあ、女の子だったからそんなに言われなったけど。ショウちゃんに、全部行ってたもんね。頑張れって、さあ。見てても、やっぱり、こっちが辛くなっちゃってたし。だから、ショウちゃんが家出てった時は、もう二度と帰って来ないんじゃないかって・・・。」 「違うよ。そうじゃないよ。」
--
姉が小学校五年、僕が三年の時、父さんが出て行った。
思えば、それで母は変わってしまった。
笑顔を失い、僕を厳しく叱るようになった。
「なんだい。この点は?あ?こんなんじゃ、恥ずかしくて外も歩けないよ。こんな子、うちの子じゃないね。何でもっと頑張れないかねえ。」 母は、80点の答案用紙を前に、大袈裟に溜め息をついて見せる。
さっきまで、母に誉めてもらえると嬉しくて弾んでいた心は、あっという間にしぼんでしまう。
「もっと頑張んな。そうでなきゃ、出てってもらうよ。」
頑張れ。頑張れ。頑張れ。
遊ぶ暇もなく、僕は、母の歓心を買うために、勉強した。
貧しいはずの家計なのに、なぜか、僕を塾に通わせる月謝だけは、ちゃんと用意されていた。
頑張れ。頑張れ。頑張れ。
あの当時、僕達の様子が心配で訪ねて来た叔母が、ふともらした言葉を今でも覚えている。
「まったく。あんたの母さんのあんたへの仕打ちを見たら、世の中の全ての男を憎んでるように見えるねえ。」
--
「ねえ。今日、泊まってくんでしょう?」 姉は、煎れなおしたコーヒーを運んで来て、僕の前に置いた。
「いや。最終で帰るよ。」 「そう・・・。」 「仕事で・・・。」 「分かってるって。ショウちゃん、よく頑張ったよ。ほんと。それに、今日だって、来てくれたし。」 「そんな。」 「煙草、吸うんだ。」 「ああ。」 「そういうとこ、そっくり。お母さんと。煙草吸う時の、仕草とか。緑茶、嫌いなとことか。緑茶って、癌なんかを防ぐんだよ、っていくら言っても、飲まなかったし。煙草も止めなかったし。」 「で、結局、癌で死んじゃうんだからなあ。」 「言っても聞かない人だったのよね。」 「俺、母さんと似てる?」 「うん。」 「母さんの子だもんなあ。」 「今日、久しぶりにあんた見て、ほんと、親子だなって。」 「そっか。」 「あんた、頑張れ、頑張れって言われて。ね。すごく頑張ってたのに、いくら頑張っても、母さん満足しなかったよね。」 「あれ、さ。母さんの、頑張れ、さ。あれ、本当は、俺に言ってたんじゃないんだよ。母さん、いつも、自分に言ってたんだ。頑張れって、ね。だからさあ、あれ言わなくなったら、母さんじゃないって思って。それでね。俺、母さんボケてからは、なんか、ここ来れなくて。」 「そうなんだ?」 「うん。母さん、俺に言ってたんじゃなくてね。自分に言ってたんだよ。頑張れってね。」 「・・・。」 「俺も、最近になって気が付いた。」 「母さんさあ。ずっと痛いの我慢してたんだよね。いくら言っても病院にも行かなくて。だから、どうにもならなくなって病院に連れて行った時には、手遅れになってて。ほんと、つまんないところで頑張り屋なんだもん。あの人。」
母さん、そんなに頑張って、何を手に入れようとしていたのですか?
そんなこと、最後に聞いてみたところで、母さんは、憮然とした顔でこう言ったことだろう。 「そんな風に人のこと心配してる暇があったら、自分のこと、頑張りな。」 って。
僕は、煙草の箱を取り出すと、ゴミ箱に放り込む。
「煙草、捨てちゃうの?」 「うん。ちょうどいい機会だからさ。やめるよ。」 「そっか。」 「母さんみたいに癌になっちゃっても困るし。」 「・・・。」 「お茶、煎れてくれる?」 「え?ええ。」
姉は、急に笑い出す。僕もつられて、笑い出す。
2002年05月24日(金) |
本当のことを言うと、私は、そこいらのエッチな本に出てくるお姉さんみたいにセックスが好きだとは思わない。 |
「ねえ。ねえ。」 私は、クッションを抱えて、彼の背後で甘えた声を出してる。
「うん。もうちょっと待って、な。」 彼は、背を向けたままやさしく答える。
そこいらに散らばってる、彼の撮った写真を取り上げて眺める。
うーん。好きだなあ。好き好き。彼の写真が好きなのだ。彼と繋がってるから、好きなのだ。それはなにげない風景。自然の一片を切り取った写真。派手ではないけど、見飽きない。だから、彼に興味を持って、彼としゃべって、もっと彼を好きになった。
だけど、彼の撮る写真はやさし過ぎて、見る人に当たり前の寄り添ってしまうから、彼の写真に注目する人は少ない。どうして分からないかな、という歯がゆさと同時に、彼の良さが分かる数少ない人間でいることが誇らしい。
「ん。終わった。」 彼は、明日の取材で使う機材の手入れを終えて。
私は、彼の膝に乗る。
「ねえ。今度のお休み、どこ行く?」 「今度の土日?仕事だ。」 「えー?つまんない。つまんないよう。」 「ごめん。」
彼は、最近では、食べるために写真を撮る。
「埋め合わせは?」 「んーと。じゃあ、明日のランチ。」 「いいの?」 「うん。ちょっと時間取れそうなんだ。」 「わーい。」 「ごめん、な。」 「ううん。いいの。それよか。ねえ。しよう?」
彼はしょうがないなあ、という顔で、私の服を脱がせる。
私は彼に抱かれるのも、大好き。
本当のことを言うと、私は、そこいらのエッチな本に出てくるお姉さんみたいにセックスが好きだとは思わない。むしろ、くすぐったくて笑い出したくなることのほうが多い。
だけど、彼に抱かれるのが好き。彼の胸の厚みを感じるのが。彼の体臭が私を包むのが。
ねえ。
あなたも、いつか、同じくらい私を好きになってくれるといい。
--
彼の作品をあちらこちらで見掛けるようになったのは、私にとって、嬉しいことなのか悲しいことなのか、良く分からなかった。
最近、変わったよね。
と、人は、彼の写真を見て言う。
良くなったよ。
という人もいれば、
前のほうが良かったな。
という人もいる。
ともかく、彼の作品は、変わった。うまく言えないけれど、輪郭をはっきり現すようになった。見る人をハッとさせるようなものを撮るようになった。そこに暖かさのようなものは相変わらず存在していたけれど。
「ねえ。今夜は?いつ帰るの?」 私は、しつこいぐらい彼の行動を気にするようになった。
「ごめん。今日は、打ち合わせがあってね。さきに寝ててよ。」 彼の声は、いつも謝ってばかりになった。
「変わっちゃったね。」 「え?」 「あなたも、写真も、変わったよ。」 「じゃあ、ずっと同じでいろって?それじゃ、駄目なんだよ。分かるか?スタイルは、脱ぎ捨てて行くものなんだ。スタイルは問題じゃないんだよ。表現したいものが何かなんだよ。」 「分かってるけど。」
なんか、違う。
スタイルだけじゃない。
むしろ、スタイルに合わせようと、中身まで変えようとしている。
泣いている私を置いて、彼は黙って出て行ってしまった。
--
幼い日の恋は終わった。
甘えてばかりの。泣いてばかりの。子供っぽい恋は終わった。
--
「久しぶりね。」 私は、体の線を強調するような服で、彼に微笑む。
「誰かと思った。」 彼も、高価な仕立ての服で、笑い返す。
彼の写真集の出版パーティで、私達は、再会した。彼は、腕を絡めていた女性に耳打ちして、彼女をどこかに行かせると、 「今日は、忙しいの?」 と聞いて来た。
「いいえ。空けてるわ。あなたに会えると思って。」 本当だった。
「じゃ、抜け出そう。」 「いいわね。」
私達は、大人同士のように笑い合って、こっそりと部屋を出る。
--
「すごいな。」 彼が溜め息のように言う。上で動く私の体に身を委ねて、彼はとても無防備だ。
「何が?」 「きみがだよ。」 「変わったでしょう?」 「ああ。こんなにいい女になるなら、きみと別れるんじゃなかった。」 「嬉しいこと、言うのね。」
女は、その一言が欲しくて、別れの後で美しくなることを決意するのよ。
「あの頃、僕ら、本当に子供だったよな。」 「ええ。」 「僕もひどかった。」 「私も、甘えてばっかりで。」
彼は急に体を起こすと、私を下に組み伏せて激しく腰を動かす。
私は、悲鳴を上げて、彼の勢いに飲まれる。
こんなに激しい人だっただろうか?
私の下半身も、溶けて行く。あの頃とは違う。最近では、誰とだって、こんな風に自分を溶かすことができる。
--
「なあ。やりなおさない?」 ベッドで目を閉じたまま、彼は言う。
「また、気が向いたら電話するわ。」 私は、彼を置いたまま、身支度を整える。
「もう、行くの?」 「ええ。お先に。」 「僕を置いて?」 「忙しいの。」 「それ、復讐?」 「何言ってるの。」 「そんなやり方する女じゃなかったよなあ。」 「スタイルは、変わるのよ。変えていかなくちゃ、負けてばっかりでしょう?」 「そんなこと、昔言ってた男がいたよな。」
彼は、苦く笑って。
「行くわ。」 「ああ。」 そう。スタイルは、絶えず脱ぎ捨てて。
だけど、それはなんだかひどく寂しい。
そんなにまでして勝ち取りたかったものって、なんだっけ?
思い出そうとして、私は、そこに立ち尽くす。
2002年05月23日(木) |
ずっとだよ。ずーっと。ヨウコちゃんは、今日までずっと待ってたんだ。ピエロは笑い声だけ残して。いなくなった。 |
あー。つまんない。
と、思う。
やってられっか。
と、思う。
男取ったとか、取られた、とかで、何か変な噂流してる子がいる。廊下で、耳寄せて、誰か何か言ってた。昨日、退社間際に、「お疲れ。」って声掛けてくれた子の袖引っ張って、「バカ。そんなこと言わなくていいのに。」って、わざと聞こえるように言うヤツがいた。
親に頼んで入れてもらった会社だから、そう簡単に仕事辞めるわけに行かないけれど。この職場、もうどうにも腐ってる。
ムシャクシャしながら、職場の近くの公園で買って来たパンを食べる。時折ちぎって、そこいらにいるハトに投げてみる。
どこでどう間違ったのかな。私の人生。
子供の頃は良かった。
私、いつも、みんなの真ん中で笑ってた気がする。クラスの人気者っていうのかな。男の子にも人気あったし。
だけど、今じゃ、少々可愛いといじめられるしさ。ほんと、いい事ない。営業の人だって、勝手に向こうから誘ってくれたんだ。私から誘ったわけじゃないのに。
子供の頃は良かった。世の中がキラキラ輝いてた。大人になったら、もっと素敵なことが待ってると思ってた。
「子供の頃は良かったって、思ってるかい?」 私の考えを読んでいたかのように急に声がするから、驚いて隣を見る。
「誰?おじさん。」 ニコニコと人が好さそうに笑ってるおじさんは、私、不思議と嫌じゃなかった。
「いや。アルバイトでね。この日曜日にオープンした遊園地のチケット配ってるんだよ。平日だと割り引き。」 「へえ。ちょうだい。」 「いいよ。恋人とでも行くといい。」 「ありがとう。」 「子供の頃を思い出すような。そんな遊園地なんだよ。」
こんな遊園地なんてあったっけ?と、チケットを見ているうちに、おじさんはいなくなっていた。
「決めた。今日の仕事はサボリ。」 私は立ち上がって、会社とは反対の方向に歩き始める。
どうだっていいや。あんな会社。
--
遊園地は、私の知らない間に出現していた。
平日なので、閑散としていた。
制服を着たチケット切りの女の子が、ニッコリと笑って、 「ようこそ。」 と言った。
私のチケットを見て、 「ご招待ですね。」 と言ったので、 「違うよ。」 と言ったけれど、 「これ、ご招待券ですよ。無料で入れます。」 と女の子が笑った。
なんだか知らないけど、ラッキーだった。
一人で歩く遊園地は、そんなに悪くなかった。オープン感謝期間ということで、ソフトクリームも、ポップコーンも、無料だった。ピエロのパントマイムに笑った。
--
気が付くと、すっかり夕暮れで。
怖くなった。
私は、慌てて遊園地の入り口を探して走ったけれど。
遊園地は広くて、子供の足ではなかなか入り口には辿りつかない。
子供の足?
そう。子供の足。
私の体は、手も足も、子供のように愛らしくて。
遊園地の職員達は、みな、見上げる背丈で。
「おじょうちゃん、どうしたの?」 ピエロが声を掛けて来る。
「ママは?」 「ママ・・・?いないわ。」 「まさか。子供一人じゃ入れないよ。」 「入れてくれたもの。」 「どれ。チケットを見せてごらん。」 「はい。」 「ほう。これは、招待チケットだね。」 「ねえ。私、誰に招待されたの?」 「誰?知りたい?」 「ええ。」 「じゃ、教えてあげよう。これはね。きみのお友達のヨウコちゃんからだ。」 「ヨウコちゃん?」
誰だっけ。
「覚えてないの?」 ピエロが訊ねる。 「覚えてるわ。多分。えっと。」 「そう!その通り。」
私は、急にソワソワした気持ちになる。 「ねえ。おじさん、帰らせて。私、帰らなくちゃ。ママが。」
そうだ。ママは怖いのだ。ちょっと遊びに夢中になって帰りが遅くなったら、ご飯抜きなのだ。
「駄目だよ。」 「なんで?」 「あっちでヨウコちゃんが待ってる。」 「でも、私・・・。」 「駄目さ。ヨウコちゃんはきみに会いたがってる。ずっと待ってたんだよ。ずっとね。」
ずっとだよ。ずーっと。ヨウコちゃんは、今日までずっと待ってたんだ。
ピエロは笑い声だけ残して。いなくなった。
私は、そこに取り残された。
どこかで子供達の笑い声が聞こえる。
「ヨウコちゃん?」
駄目よ。遊んであげない。あんたなんかと遊んだら、バイキンがうつるよ。
ひどく意地の悪い声。
「ヨウコちゃん?遊ぼう?」
行こう。早く帰らないとママに怒られちゃーう。 ちょっと、ヨウコ、あれ、まずいんじゃない? いいの。行こうよ。
違う。ヨウコちゃんは、そんな子じゃなかった。いつも一人ぼっちでいた子のはずなのに。それに、あの子達、私の友達のはずなのに、いつのまにかヨウコちゃんと仲良くなって。
「待って。置いて行かないで。」
遊園地は楽しいかい?子供の頃は良かったって、思ってるかい?
昼間のおじさんの声。ピエロの声。
2002年05月22日(水) |
男は、馬鹿みたいに私の体を知っていて、いつも簡単に転がしてしまう。私は、そうやって簡単に扱われるのが、結局のところ大好きなんだ。 |
残業で疲れたので、気晴らしにオフィスの廊下の自販機に缶コーヒーを買いに行くと、誰かのボソボソしゃべる声と、女の子のすすり泣くような声が聞こえて来た。
こんなとこで、やらないで欲しいなあ。
と思って、こっそり覗くと、やっぱり、同期のクボタという男と、昨年総務部に入った女の子だった。
また、やってら。
私は、コーヒーを買うのをやめて、部屋に戻る。
気持ちがザワザワして、仕事に集中できない。頭をブンブン振って、落ち着こうとする。
ヒヤリ。
と、頬に冷たい感触があるから、見上げるとクボタだった。 「ほれ。コーヒー。」 「ん。さんきゅ。」 「さっき、聞いてたろ。」 「ううん。ちらっと見て、すぐ引き返した。」 「まいったなあ。」 「あんなところで痴話喧嘩しないでよね。」 「女の子って、なんでああ面倒なんだろ。」 「ていうか、何人目?」 「そういう言い方すんな。」 「だってさあ。会社の女の子に手を出すの、やめとけばいいのに。」 「知らんよ。あっちが来るんだもん。」 「あんた、優し過ぎなのよね。」 「・・・。」 「あたしの時だって。」 「今夜、うち、来る?」
私は黙ってうなずいて、彼がくれたコーヒーを開ける。
--
「シャワー、浴びる?」 「うん。」
私は、タオルがどこにしまってあるかまで知っていて、勝手に彼のタオルを出して来て、バスルームに行く。
こんな時困らないように、私がいつも使うシャンプーもそこに置いてあって。
クボタとは、もう、随分長い。わざと熱めの湯を体に当てながら、何も考えないように努める。クボタは、女の子とうまく行かなくなるたびに、私と寝る。それだけ。それだけの関係。そのことで、私は彼を責めたりしないし、彼も私に何も言わない。
「ビール、飲む?」 シャワーを浴びて済んだ私に、ビールを渡してくる。
「いらない。」 「そうか。」
変だな。あたし。いつもみたいに笑ってられない。
ああ。そうか。私が暗いんじゃなくて、クボタが暗いんだ。
「どうしたの?元気ないね。」 私は言う。
「うん。なんでかな。なんでいつも上手く行かないんかな。」 「あんた、誰にでも優しいでしょう?それ、錯覚すんのよね。」 「お前も?」 「あたしはさあ。もう、あんたのこと分かってるから。ずるいのも。」 「そうだよな。だからお前といるのは気楽なんだよ。」
クボタは、黙って私のTシャツを脱がしてくる。
私は、されるままに、彼のクマみたいな体の重みを感じている。
ねえ。あんた、いつも自分のことばっかり。私がどんな風に寂しくて、どんな気持ちで抱かれてるか、全然考えてくれないんだよね。
それなのに、優し過ぎなんだよ。この指が。
私は、いつものように簡単に、達する。
男は、馬鹿みたいに私の体を知っていて、いつも簡単に転がしてしまう。
私は、そうやって簡単に扱われるのが、結局のところ大好きなんだ。
--
それから数日して、夜中に電話が掛かって来た。
「もしもし?」 「私。分かります?」 「ええ。分かるわ。」
いつか、クボタともめていた、総務部の子だ。
「どうしたの?」 「クボタさんのことで。分かるでしょう?」 「彼が、どうしたの?」 「もう会わないで欲しいんです。」 「どうして?」 「彼ね。あなたがいると逃げるから。」 「どういう意味?」 「あなたがいるとね。ちゃんと私に向き合わないから。」 「私のせい?」 「ええ。」 「それ、違うわ。私といても、逃げてるもの。」
あとは、電話の向こうで話し続ける女の子をなだめて、そうして、電話を切る。
--
翌日、目の下に隈を作ったクボタが、 「昼、一緒に食おうぜ。」 と声を掛けて来た。
「いいけど?」 「昨日、なんか電話あったろ。すまん。」 「うどんでいい?」 「ああ。」
私達は、近くのうどん屋で向かい合って座る。
「どうしたの?いつも上手に別れるあなたがさ。」 「お前にまで電話するとはなあ。」
私は、うどんを前に、七味唐辛子をバサバサ振る。
「おい。ちょっと入れ過ぎだよ。」
私はかまわずうどんをすする。
そういうクボタも、七味唐辛子をバサバサ振っている。
「ふられたよ。」 「そう。」
私は、湯気の中に顔をうずめて。からいんだか、悲しいんだか、もう、分からないグシャグシャな顔してうどんを食べている。
「本気だったんだよ。今回は。」 「知ってた。」 「そうか。俺、自分でも知らなかった。」 「馬鹿ね。」 「ああ。馬鹿だ。」
ついでに言えば、あなたを振った彼女は賢かったわ。
クボタも、半泣きになりながら、うどんすすってる。
今夜あたり、また、彼は部屋へ来いよと言うだろう。
私は、嫌とは言えず、言われるままに彼に抱かれに行くだろう。
男の馬鹿に付き合って、私も相当馬鹿になってみる。
2002年05月20日(月) |
その舌遣いは、ここから無理に連れ出すにはもったいないほど、自分だけの女にするにはもったいないほどに |
旅の途中。
王子は、お忍びで、夜の街に出る。それが、最近の王子の楽しみだった。
そうやって、酒場で酒を飲み、娼婦と一夜を共にする。
「立場を考えてほどほどにしてくださいよ。」 と、家来に言われても。こればかりはやめられない。
「だけど、分かるかい?貧しい者達が生活を楽しむ術は、僕には驚きでしかないんだよ。とても勉強になる。」
--
その娼婦は、美しく高貴な顔立ちを。思わず、王子は声を掛ける。 「今夜、僕のそばで、その美しい声で寝物語を奏でて。」 「見なれない顔ね。」 「ああ。旅の途中でね。今夜、この街に来て、二三日したら出て行くよ。」 「じゃあ、いらっしゃいな。」
その優しい娼婦が連れて来たみすぼらしい部屋で、王子と娼婦は固いベッドに腰をおろす。
「お酒かしら?」 「いや。お茶を。」 「待っててね。」
その繊細な身のこなしは、どことなく高貴だった。王子は良く分かるのだ。それなりに高貴な家の者にほどこされた教育は、幼い頃から身に染み付いて、それは生涯生まれを示す証として離れない。
「不思議だ。」 「何が?」 「きみ。ただの娼婦じゃないだろう?」 「いいえ。ただのつまらない娼婦よ。」
彼女が話したがらないような顔で微笑んで見せたので、王子はそれ以上何も言わずに、彼女を抱き寄せる。
甘ったるい香りの奥に、清潔な石鹸の香りがする。
「待って。」 ドレスを脱ごうとする娼婦の手を取って、王子は言う。
「今夜はこうやってしゃべっていよう。」 「それだけ?」 「ああ。それだけ。なんだかそんな気分なんだよ。なんだろう。この感じ。懐かしい。」 「あなた、変わってるわね。」 「そうかな?」 「飢えてないわ。」 「ねえ。なんでこの仕事してるの?」 「どうしてかしらね。」 「何を聞いてもはぐらかすんだな。」 「だって、何も答えることはないもの。知りたがり屋さん。」
王子は、娼婦の目に悲しい色を見て、おやすみ、と、その長い髪を撫でた。
娼婦は、疲れていたのだろう。コトリと眠ってしまった。そのあどけない顔は、どんな汚れた場所でも、美しい方向を見失わない光に満ちていた。
--
「彼女のこと、気になるかい?」 うとうととまどろむ王子の耳元で、誰かがささやいた。
「誰?」 王子が声のするほうを見ると、そこに一匹のネズミ。
「僕は、ネズミ。彼女の唯一の友達。」 「ふむ。僕は夢を見ているのかな。」 「夢じゃないよ。しゃべるネズミ。娼婦の姿のお姫さま。そこに身分を隠して訪ねてくる王子。役者は揃ってる。」 「お姫さま?」 「うん。そうさ。」 「やっぱり。」 「ねえ。どうして彼女が、お姫さまをやめちゃったか、知りたい?」 「うん。」 「それはね。」
ネズミは語り出す。
--
以前、お姫さまは、ある豊かで素晴らしい国の一人娘として、とてもとても大事に育てられたのさ。王様も素晴らしいかたで、お姫さまには、周囲の人々にできるだけ公正に接するように教育をほどこした。
だけど、それはちょっと失敗だったんだな。
お姫さまは、優しく育った。それは、彼女の美点でもあり、欠点でもあった。
つまりこういうこと。
たとえば、貧乏人がパンをもらいに来る。お姫さまは、パンをあげる。それぐらいの親切なら、誰だってできる。
じゃあ、こういうのはどうだろう?
お姫さまは、見ての通り、とても美しい人だ。
ある日、貧乏人がパンをもらいに来る。お姫さまは、お腹を空かせた貧乏人に同情して、パンを包み、貧乏人が恥じては困ると、自らがもっと恥ずかしそうにパンを渡す。
そのせいで、貧乏人は、お姫さまを、まるで友達のように思い込んでしまう。
そうして、次の日も。また、次の日も。
いつか、貧乏人は、お姫さまが、自分と恋をしているように思って。
そうして、門の外で待つ。雨の日も風の日も。だけど、お姫さまにできることは、せいぜい、一日に一個のパンを与えることだけで。それだって、多くの人々がやって来るから大変なのだ。
だが、彼は待つ。雪の日も。
そうして、門の外で、ある日凍えて死んでしまう。
お姫さまは、悲しみに暮れながらも「しょうがないじゃない。私はお姫さまなんだもの。あなただけの女にはなれないわ。」って思ったんだ。もちろん、周囲だってそう言って慰めるしさ。
でも、そんなことが、ね。ある日どうしようもなく辛くなってしまったんだよ。自分がね。お姫さまであることで、守られている部分のせいでね。自分がやってる優しさに疑いを持ってしまったんだ。
--
「だから、娼婦になったって言うのか?」 「そういうこと。」 「分からないな。」 「あんたには分からないだろうよ。」 「彼女の美しさも、立場も、もっと違うことに使えただろうに。」 「それは、彼女自身が決めることさ。」 「決めたんだ。僕は、彼女を連れ出すよ。」 「やめといたほうがいい。彼女はもう、きみ達の世界には戻れないんだから。」 「僕は彼女を愛してしまったんだ。」 「じゃあ、きみが王子という立場を捨てて、彼女と一緒にいてやるのかい?」
王子は、少し考えた。
それはできない。僕には、僕を必要としている国が待っている。
--
「あら。私、眠ってしまったのね。ごめんなさいね。」 小さくアクビをした彼女は、本当に愛らしく。
王子は胸を締めつけられる。
「ねえ。きみ、本当は・・・。」 「なあに?」 「ううん。何でもない。」 「そう?おかしな人。ねえ。そんなことより。楽しいことしましょうよ。あなたの知らないことで、あなたを幸せにしてあげるわ。」
彼女はそう言ってニッコリ笑って、王子の足の間に頭を沈める。
王子は、少し身をよじって抵抗しようとしたものの、すぐさま、彼女の美しい指と唇に自らを委ねる。その舌遣いは、ここから無理に連れ出すにはもったいないほど、自分だけの女にするにはもったいないほどに、プロフェッショナルな動きだった。
あの王子は、将来立派な王になって国を治めることだろう。ネズミはニッコリ笑って、退散する。
2002年05月19日(日) |
でも、誰にも言わなかったら、本当に、恋なんてどこにもなかったんじゃないかってね。すごく寂しくなるから。 |
この街に来るのは、久しぶりだった。仕事で、三ヶ月ほど滞在することになった僕は、その街に降り立つ。
そうして、回してはいけない筈の番号を回す。
「もしもし。」 「僕。タツヤ。」 「え?嘘。どうしたの?」 「仕事でね。ちょっと駅前のホテルに滞在してるんだ。」 「ねえ。会える?」 「いいけど。いつ?今夜?」 「うん。今夜。大丈夫と思う。」
大学時代の恋人は、もう、幸福な結婚をして、家庭の主婦になっている筈だ。僕は、クラスメートから送られて来た同窓生の名簿を見て、彼女が変わらずこの街にいることを知った。
--
「びっくりしたー。久しぶりだよね。」 彼女は、少しほっそりしただろうか。だが、変わらず綺麗で。
「うん。声聞きたくなっちゃってさ。」 「ねえ。タツヤも結婚したんだよね。」 「ああ。」 「子供は?」 「いない。」 「うちもよ。」 「ていうか、別居中。」 「え?どうして?」 「うーん。僕の浮気かな。原因は。」 「そうなんだ・・・。意外だな。」
本当は、嘘。妻は、僕の優柔不断な態度に腹を立てて出て行ってしまったのだ。ささやかな嘘は、昔の恋人に対する精一杯の見栄。
「きみは?幸せ?」 「どうかな。」 その問い掛けには答えないで。
「ねえ。恋愛の話、していい?」 「恋愛?」 「うん。不倫とか浮気、じゃなくて、恋。」 「話って言っても・・・。」 「タツヤだって、恋してたんでしょう?だから、奥さん怒らせちゃったんでしょう?」 「そうだけど。」 「私もね。恋してるの。」
僕は、少し寂しい気分になる。
「勘違いしないでね。心の中で、思ってるだけなんだよ。でね。誰かに言いたかったの。恋してるんだよって。大人だってさあ、既婚だってさあ、恋、するよね。」 「うん。」 「そういうの。時々、会ってさ。話しない?」 「恋の?」 「他の話でもいいけど。」 「いいよ。」 「本当はさ、誰にも言わないつもりだったんだ。恋の話。私、ほら、結婚してるし。狭い街だし。でも、誰にも言わなかったら、本当に、恋なんてどこにもなかったんじゃないかってね。すごく寂しくなるから。」 「いいよ。仕事以外は暇だし。」
本当はさ。久しぶりに会ったきみと、恋がしたい。恋の話なんかじゃなくてね。そんなこと、言えないままに次の約束を。
--
彼女とは、週に一度か二度、会って、僕はもっぱら彼女の話の聞き役になる。
「なんで、そいつのこと、好きなの?」 「なんでかなあ。ずっと変わらないから、かな。もう、いい歳なのに、まだ子供みたいで。照れ屋で。」 「告白しちゃえよ。」 「それは出来ないよ。私、結婚してるもの。」 「そんなの関係ないよ。」 「ねえ。タツヤは?タツヤの好きだった人は?どんな人?」 ふいに話を振ってくるから、僕は慌てる。
「どうって。普通の人。」 「結婚してる人?」 「うん。幸福な人妻。」 「そっかあ。私と同じだね。」
僕は、もう、疑い始めている。
本当は、彼女の恋の相手なんてどこにもいないんじゃないかってね。だって、彼女の恋には、相手の具体的な言動は一切出て来ない。今夜だって、ほら。こんなところで僕を相手に水割り飲んでるくらいなら、恋人に会いに行けばいいのに。
僕は、彼女の手を握り締めたくて。
だけど、彼女は、ひっきりなしにしゃべり続けて、その暇がない。
--
来週、滞在期間が終わるという夜、ホテルのドアのベルが鳴る。
「どうしたの?」
うつむいた彼女が顔を上げると、そこには殴られたような痣があった。 「ごめん。こんな夜中に。」 「いいけど。誰?ご主人?」 「うん。」 「なんか、冷やすもの用意するよ。待ってて。」 「ほんと、ごめん。」
僕は、タオルと、冷蔵庫の氷を持って、ベッドに腰掛けている彼女の横に座る。
「喧嘩?もしかして・・・。」 「違うの。あなたのせいじゃないよ。結構、こういうことあるの。恥ずかしいよね。人に言うことじゃないよね。」 「彼、怒りっぽいの?」 「ちょっとね。」
僕の腕は自然に伸びて、彼女の体を抱き締める。
彼女の小さな喘ぎ声。
ねえ。本当は、きみには恋人なんかいやしないんだろう?恋している相手って、僕のことなんだろう?
「ねえ。そんな男でも、別れないの?」 僕は、訊ねる。
「夫婦だもの。」 「夫婦だからって言って。殴るのは良くないよ。」 「あの人、病気したから。それで、ちょっと後遺症とか残っちゃって。だから、分かるの。あの人が傷付いてること。」
なるほど。そういうこと。
「夫婦ってそんなもんだと思うの。」 「きみが心配だ。」 「来週、いなくなっちゃうんだよね?」 「ああ。」 「ねえ。私、タツヤがいなくなっても頑張れるかな。夫婦とか、恋とか。」
頑張れるよ。
と言うのは、簡単だけど。そんな風に励ますのは、とても寂しい気がしたから。
僕は、彼女をきつく抱き締めた。
僕の抱擁が彼女の体に残って、彼女が頑張れますように。
--
彼女は、駅まで見送りに来てくれた。 「ねえ。また、会える?」 「うん。また、来るよ。いつか。」 「待って。」
彼女は、僕を呼び止めて、振り向いた僕の頬に口づける。 「友達としてのキスだよ。」
彼女は、照れたように笑っている。僕も、笑い返す。
それが僕らの精一杯。
--
小さくなって行く景色を見て。
来週は妻を迎えに行こうと思う。
2002年05月17日(金) |
自分そっくり。自己主張のない鳥。鳴かない鳥は、ある日死んでも誰にもすぐには気付かれない。 |
いつからだろう。
気付いた時には、鳴かなくなっていた。
インコのチーコ。私の唯一の友達。
「どうしたの?」 訊ねても、うんともすんとも言わずに、黙っている。
獣医には、 「ストレスでしょう。」 と言われた。
「部屋に閉じ込めたままにしていませんか?話し掛けてあげてください。鳥も人間と一緒ですよ。外と交わらなければ、言葉を忘れてしまう。」
確かにそうかもしれない。私自身が、随分と長いこと、あまりしゃべらなくなっていた。外に出るのも億劫で、あまり出掛けなくなって久しい。
自分そっくり。
自己主張のない鳥。
鳴かない鳥は、ある日死んでも誰にもすぐには気付かれない。
--
唐突だった。
私は、男のものを口に含んで、その行為に集中していた。いつものことだった。慣れた行為で。そこには、親密な優しさすら、介在すると思っていた。だから、驚いたのだ。
急に口を離して、私は、こみ上げてくるものを抑えた。
「どうした?」 男が驚いたように顔をあげて、こちらを見た。
「ごめんなさい。今日、具合悪いみたい。」 「そうか。今日は、もうやめておくか。」 「すみません。」
私は、その瞬間、男に抱かれることに激しい吐き気を感じたのだった。
「ゆっくり休みなさい。」 私の手を借りずに手際よく身繕いを整えた男は、いつものように冷静な声を私に掛けると、見送りに出られない私を置いて静かに出て行った。
本当に、どうしちゃったのだろう?
私は、五年間、その男の愛人だった。二年前に、男の奥さんが亡くなってからも、事実上の付き合いは変わらない。マンションに住まわせてもらって、月々困らないだけのものをもらっている。そうして、週に一度か二度、男から電話が入り、私は、男を待つ。
何の不満もなかった。
男は、もう、五十六になっていたが、よく鍛えられた体は衰えを知らず、むしろ、体の弱い私のほうが気遣われることが多かった。
愛、というものが何かは分からなかったが、高校も出ていない、身寄りもない私にとって、彼は、父であり、兄であり、恋人だった。
だから、唐突なその吐き気に、私は混乱してしまった。
--
「なるほどねえ。セックス、できなくなっちゃったんだ?」 愛人仲間のアスカは、煙草の煙を吐き出しながら言った。
「うん。なんか、突然で。」 「そういうのってさ。時間が経ったら、多分治るよ。」 「でも、ずっとそうだったらどうしよう?ずっと、彼の相手ができなかったら?」 「その時はその時でしょう。」
そうなったら、私は、愛人業を廃業するしかない。マンションも出なくてはならない。仕事らしい仕事をしたことがない私は、そうなることが怖くて身震いする。
「あんたのさ、そういうところがよくないんじゃない?」 「そういうところ?」 「くよくよし過ぎなのよ。」 「ねえ。アスカは、こんな風になったこと、ないの?」 「ないよ。仕事だもん。労働、労働。嫌な時もにっこり笑顔で、ナンボでしょ。」 「すごいのね。」 「あんたも、割り切って愛人するようになったら、なれるよ。あんた、ちょっと、相手のことね。親身になり過ぎなんだと思う。相手のこと知っちゃったらさ、辛くなるっしょ。」 「うん・・・。」
そうなのかもしれない。割り切って、体とお金を引き換えにしたら、もっと楽なのかもしれない。
--
帰宅すると、私は鳥かごを開けて。
「そら。お行き。」 と、チーコを取り出した手を、空に向かって掲げた。
チーコはじっとして動こうとしない。
「ほら。飛び方まで、忘れた?」 私が言うと、ようやくチーコは、空にはばたいた。
「ばいばい。」
早く声を取り戻して。
--
「そうか。」 男は、黙ってうなずく。
「セックスのできない愛人は、役立たずでしょう?」 「しばらく、好きにしてみなさい。旅行でもいい。それから考えよう。きみは良くしてくれたからね。次の生き方が見つかるまでは、ここにいるといい。」 「ありがとう。」 「いいんだ。」
--
私は男に言われた通り、旅に出た。
行く先々で、なぜか、チーコを探していた。鳥の鳴き声がすると、「あ、チーコが友達を見つけたかな。」と思って、空を見上げたりした。
--
「どうだったかね。」 ニヶ月ぶりに見る男は、妙に年老いて見えた。
「楽しかったです。」 「そうか。良かった。いつも、部屋にこもってばかりだったからな。」 「で。どうするかね。」 「この部屋が、好きだと思いました。」 「じゃあ、しばらくここにいるか?」 「それはできません。」
私は、ふいに、涙が出て来た。
鳴かない鳥。セックスのできない愛人。そこにいる意味を見つけられないガラクタ。
「もし、きみが良ければ、一つ提案があるんだが。」 「なんでしょう?」 「愛人がやっていけないというのなら。どうだろう?家族にならないかな。私と。」 「家族?」 「ああ。」 「それって。」 「結論は、ゆっくりでいいんだ。あれから、私も考えてね。私も、もうこの歳だ。一人では、いろいろなことが身にこたえるようになったんだよ。」
家族・・・?
私は、その言葉の意味を考える。
「こんな年寄りじゃ、嫌かな?」
私は、首を振る。それって、ここにいていいってことですか?
窓の外で、鳥のさえずりがする。
「チーコ!」 窓を開けると、チーコが飛び込んで来た。声を取り戻して。
「ねえ。あなた。もう一人、家族。いいですか?」 私は、泣き笑いみたいな顔で、問う。
2002年05月16日(木) |
セックスの最中なのに、ミキは急に笑い出す。「なんだっての?」僕は、憮然として、彼女に問い掛ける。 |
セックスの最中なのに、ミキは急に笑い出す。
「なんだっての?」 僕は、訊ねる。
「えとね。今日、研究室でさあ・・・。」 彼女が昼間起こった他愛のない出来事を語り始める。
「それだけ?」 僕は、憮然として、話し終わった彼女に問い掛ける。
「え?おかしくない?」 「おかしいけどさあ。こういう時にしゃべる内容?」
僕は、すっかり萎えた下半身を彼女から離すと、彼女に背を向けてテレビのリモコンを探す。
「ねえ。怒っちゃった?」 「うん。」
当たり前だ。男は、女の子を喜ばせようと、その瞬間一生懸命なのに、彼女の頭の中は、いつも、僕の予想もつかないくだらない出来事でいっぱいになっているのだから。
--
ミキとは、もう、三年になる。
二つ年下の彼女は、なんというか、子供っぽくて。不器用で。天然というのかな。いつも危なっかしくて見ていられない感じで、最初はそれが良かった。
付き合い始めた日のことはよく覚えている。
天気のいい春の日。
研究室の後輩であるミキを誘って、大学の近所の公園でやっていたフリーマーケットを覗いたのだ。
くだらないブリキのオモチャだの、ラベルが擦り切れたファミコンのソフトだの。そんなガラクタにしか見えないものにいちいち歓声を上げてはしゃぐミキに、僕は驚きすらした。
その、切子のペアのワイングラスは、春の陽射しを受けて、柔らかく光っていた。
「ねえ。これ、素敵!」 「ほんとだ。」 初めて、僕らの意見は一致した。
「ねえ。これ、幾らするの?」 目の前で微笑む女性に、ミキは訪ねる。
「幾らでもいいですよ。そうね。両方で300円くらいでどうかしら。」 「そんなに安いの?」 「これ、ね。私の恋人が以前初めて作った作品なの。あんまりいい出来じゃないから。」 「そんな大事なもの、売っちゃっていいの?」 「ええ。誰かに使ってもらうほうが、彼も喜ぶと思うわ。」 「じゃ、これ、もらうわ。」 「あ。待って。」
彼女は、手早く手元の虹色の糸で、レース編みのコースターを二枚編んで。
「これもどうぞ。」 「うわ。きれい。人魚のうろこみたい。」
微笑む彼女がそっと手を当てている部分を見て、ミキが訊ねる。 「赤ちゃん?」 「ええ。もうすぐ、結婚するの。」 「素敵。お幸せに。」 「ありがとう。」
そんな幸福なエピソードと一緒に、僕らはワイングラスを手に入れ、夜、浮かれてワインを飲んだ後、僕らも幸福なカップルになるべくして、抱き合ったのだった。
--
彼女の子供っぽいところが好きだった。からかうと、すぐムキになって怒るところも。
だけど、三年のうちに、些細な違いが僕を苛立たせるようになって来て。子供っぽさが無神経に見えたり。その食い違いは、僕が昨年就職してから際立つようになった。
「ねえ。今度の日曜、暇?」 新人の歓迎会の席で、隣に座った同期の女の子が聞いてくる。
「今度。何かあったかな。」 「ねえ。・・・山に行きたいんだけど、一緒に行かない?あなた、大学の頃、ワンゲル部だったでしょう?」 「うん。いいけど、何しに?」 「写真、撮りたいの。」 「そんな趣味があるんだ?」 「ええ。下手だけどね。」
彼女は、落ちついていて、キュートな感じの美人で、同期入社の中でもちょっと目立っていた。
今度の日曜日は、確か、ミキが・・・。まあ、いいか。
「うん。暇だよ。誘ってよ。」 「ありがとう。電話するね。」
--
ねえ。僕は嘘吐きだ。
恋人がいるの?
と聞かれれば、いないよ、と答えて、他の女性とデートする。
ミキに聞かれたら、社会人は忙しいんだよと、誤魔化して。
--
「ねえ。私達、付き合ってるって言うのかなあ。」 同期の彼女は、白い指を、僕の腕に絡めて、訊ねる。
「え?」 「そろそろ、はっきりさせてもいいかなって思って。迷惑だったら、いいの。ただ、職場のタカシマ先輩にも、付き合ってくれって言われてて。」
僕は、焦って問う。 「で、何て返事したの?」 「好きな人がいるからって。」 「そう。」 「ねえ。迷惑?遊びのつもりだった?」 「そんなこと、ないよ。」
僕は、返事の代わりに、彼女を抱き締めながら。ミキに何て言おうと考える。もう、とっくに終わってるんだよ。きみ、あんまり子供なんだもの。
早く言わないと。
--
深夜に帰宅すると、ミキがキッチンで、目を腫らして泣いていた。
「どうしたの?」 僕は、うしろめたに胸を刺されて、訊ねる。
「グラスが。」 「グラス?」
ミキが指差したほうを見ると、あの、ペアのワイングラスの一つが、割れて床に転がっていた。
「また買えばいいじゃないか。」 「駄目よ。同じものは、もう、どこを探してもないもの。」 「似たものを探そう。」 「無理よ。同じものじゃなくちゃ。」
ミキはしゃがみこんで、泣きながら、ガラスの破片を拾う。
「手伝うよ。」 「いい。」 「危ないって。」 「いいの。私がドジなんだから。大事にしてたのに。この世で一つしかないから。」
その、指が。震える指が。あんまり、不器用で、切ない。
ああ。見てられないよ。
手を貸さずにはいられない。
そうやって、僕は、恋を終わりにできないことに気付く。
2002年05月15日(水) |
「ねえ。先生。私の下着の色、当ててみて。当ててくれたら、次やってあげる。」僕はため息をついて・・・。 |
「じゃあ、次の問題、行くよ。」 「ねえ。先生、もう疲れちゃったよ。」 「駄目。まだ、二問しか解いてないだろう?もう一問やったら休憩していいよ。」 「ちぇ。」 「さあ。」 「ねえ。先生。私の下着の色、当ててみて。当ててくれたら、次やってあげる。」 「・・・。」 「じゃあ、見せてあげようか。」 「こら。次の問題。」
僕は、わざと怒った顔をしてみせる。
アヤカは、膨れっ面になって机に向かう。
ノックする音がする。
「はあい。」 アヤカは慌てて、スカートの裾を引っ張って座り直す。
アヤカの母親が、ケーキと紅茶を持って入ってくる。危ないところだ。アヤカが僕に下着なんか見せてたら大変なことになるところだった。
「お勉強、進んでて?」 「はい。」 「アヤカのことで困ることがあったら何でも言ってちょうだいね。」
アヤカの母親はにっこりと微笑んで、出て行く。
「さ。続き。」 「はあい。」
--
僕は、アヤカの母親に頼まれて、アヤカの家庭教師をしている。普通より裕福な家庭の娘なので、家庭教師代もちょっとビックリする額をもらえる。
ただし、この、アヤカという女の子に、僕はいつも振り回されている。今時の女子高生。勉強が嫌いで。遊ぶのが好きで。時々うんざりしながらも、僕は何とか彼女に勉強を教えている。
「ねえ。先生。」 「ん?」 「終わったよ。ケーキ食べていい?」 「いいよ。良かったら僕の分もどうぞ。」 「ほんと?わーい。」
ケーキを前にして顔を輝かせている彼女は、全く子供みたいで。
僕は思わず苦笑する。
可愛い子なんだけどな。これで、勉強教えなくて済むなら、僕はもうちょっとこの子が好きになるに違いない。
--
雨が降っている。今夜は家庭教師はなしだ。
僕は、部屋で独り、ラジオを流して物思いにふけっている。
誰か来たようだ。
「誰?」 「あたし。開けて。」
アヤカだった。
「どうしたの?こんな夜に。」 「家、飛び出して来ちゃった。」 「飛び出して来たって。困るよ。」 「ねえ。お願い。ちょっとだけいさせて。」 「いいけど。とにかく、服、なんとかしなくちゃびしょぬれだよ。」 「うん。」
僕は、乾いたタオルと、洗い立てのトレーナーを渡す。
突然、濡れたままのアヤカが僕に抱きついてくる。
僕は、彼女を抱き返せない。
「ねえ。先生。好きなの。」 「そういうの、無し。僕は、きみに勉強を教える。それだけ。」 「なんで?ねえ。」 「なんでって。きみは子供だ。」 「そんなに変わらないじゃない。」 「とにかく、駄目。」
困り果てて、僕は溜め息をつく。
「なあ。アヤカ。お前、どうしちゃったんだよ。」 「何が?」 「最近、お前、荒れてるだろう?パパやママに迷惑掛けてるだろう?」 「知らない。だって、みんな嫌いなんだもの。」 「俺、知ってんだよ。きみのお婆さんが亡くなった時。あの時、きみは、すごく泣いてた。僕が思わずもらい泣きしちゃうくらいに、ね。髪も染めてなくて。爪も伸ばしてなくて。あの時、僕は、きみがすごくいい子だって思った。」 「何で知ってんの?」 「あの時、僕もいたからさ。」 「おばあちゃんがいなくなって、すごく寂しいの。あたしの話聞いてくれてたの、おばあちゃんだけだったから。」
彼女は、泣き出す。
「だからさ。おばあちゃんのためにも、いい子でいよう。」 「ねえ。駄目なの。先生がずっと見ててくれなくちゃ、頑張れないの。」 「僕は、見てるよ。」 「駄目なの。もっと一緒にいてくれなくちゃ。」 「それはできない。」 「・・・。」 「じゃあ、こうしよう。アヤカが大学に合格したら、デートする。それでいい?」
アヤカは黙ってうなずく。
「シャワー浴びておいで。」 タオルを拾って手渡しながら、僕は言う。
アヤカがバスルームにいる間に、僕は彼女の家に電話をして。
アパートの外で車の音がする。
アヤカは、僕のブカブカのトレーナーを着たまま、「約束よ。」と、念を押す。
僕はうなずく。
アヤカの母親が、 「本当に迷惑ばかり掛けてごめんなさいね。」 と、困惑した顔で言う。
「いいんです。そういう時期なんでしょうから。誰かが付いててあげなくちゃ駄目なんですよ。」 「じゃあ、あの子と一緒にいてやって。お願い。あの子、私が嫌いなのよ。」 「僕は、勉強を見るだけです。」
車が走り去る音を聞きながら、母娘の溝の深さについて考える。
--
合格発表の日。
事前に僕は、アヤカに言っておいた。 「後から行くよ。」
だけど、僕は行かない。
僕の代わりに行くのは、僕の友人。彼女の祖母の葬儀の日、僕は友人に連れられて、葬儀会場で初めて彼女を見た。
僕の友人は、アヤカを愛していて。
いい友人だ。サッカーもうまいし、真っ直ぐなヤツだ。誠実だし、きみが泣いたら包み込むこともできる。きっと、僕の代わりに、きみを慰めてやれるだろう。
だから、僕が今日行かないことで悲しまないで。
僕は、今、受話器を持つその人のそばにいる。
「そう。おめでとう。」 その人の顔が、パッと明るくなる。
「合格したそうよ。」 振り向いた彼女の目は涙ぐんでいる。
「おめでとうございます。彼女はよく頑張りました。」 「あなたのおかげよ。」 「僕は・・・。」 「アヤカ、あなたが好きなのよ。」 「分かってます。だけど、僕は、本当のことを言えば、彼女の合格なんかどうだって良かった。」 「言わないで。」 「いいえ。僕がこの一年間、アヤカのそばに付いていたのは、あなたのためだって知ってたくせに。」 「お願い。」 「言わせてください。僕は、アヤカなんかどうだって良かった。ただ、あなたに喜んで欲しくて・・・。」
彼女は、苦悩しても美しい。
「もう、行きます。僕は、もうここに用はないから。」 「本当に・・・。ありがとう。」 「それだけですか?」
彼女は、僕の目を見ないで、美しい手を差し出す。
僕は、その白い手の甲に口づけて。 「さようなら。」 と、つぶやく。
僕がいなくなれば、アヤカの反抗心もやわらぐかもしれない。誰よりも僕の気持ちを知って苦しんでいたのは、アヤカだったのだから。
僕は、一年間、今日の終わりを見据えて、ここに通い続けた。
僕は、精一杯やった。他にどうすることができただろう?それでも、どうにも動かせないものが、この世にはある。
もう、この家に来ることもない。
春の雨は、まだ、続いている。
2002年05月14日(火) |
気の強そうな口元は、僕が抱き寄せるとかすかに開いて、美しい歯がのぞいた。 |
僕はくたびれたウサギで、毎日毎日、満員の通勤電車に乗って会社に行く。上司に怒られ、客に怒られ、くたくたになって、最終の電車に乗って帰ると、キッチンのテーブルには冷たく冷えたニンジンスープ。たまに起きてテレビを見ている妻は不機嫌そうな顔をして僕を冷たくにらむだけ。
どこでどう間違ったかは知らないが、僕の人生は、そんな感じで、僕自身を絶望させていた。
妻の不機嫌は、日を追ってにひどくなり、僕は帰宅するのも苦痛になって、それから、妻が不機嫌なのは僕が妻の体に触れないせいではないかと思い直す。だから、ある夜、帰宅前に少しビールを飲んで、それから、思い切って、先にベッドで眠っている妻の横に入ろうとして。
妻に激しく肘鉄を食らわされた。
「いやだ。気持ち悪い。何考えてるのよ。あっち行ってちょうだい。」
僕は、すごすごと布団を出て、それから、キッチンに座ってビールを飲む。妻が布団を追い出してくれて良かった。だって、妻を抱こうとしたところで、余計に妻を不機嫌にさせるところだった。と、自分のくたびれた体に溜め息をつく。
翌朝、妻は、更に不機嫌だった。
僕は、飲み過ぎだった。
妻は、僕の顔を、本当に冷たい目で見つめた。その時、僕は唐突に、妻の首を締めてやりたいと思った。ほんの一瞬だったけど。
--
「なんだ?これは?」 会社に着くなり、上司が僕を呼びつけて、叱る。昨日出した報告書が気に入らなかったらしい。
「すみません。作り直します。」 「大体、きみ、やる気があるのか?一度目は、まあ、いい。二度も三度も同じこと繰り返してどうするんだよ。」 「はい。どうもすみません。」
僕は、上司のヒゲが怒りでプルプル震えるのをボンヤリと見ながら思う。僕も、グレーの毛をしていたら良かったな。僕の毛は白だ。だが、白は薄汚れて、どうにもみすぼらしい。僕が会社でも家でも馬鹿にされるのは、このくたびれた毛色のせいかもしれないな。
「聞いてるのかね。」 「は、はい・・・。」
それから、僕は、席に戻り。
その瞬間、朝の妻の目を思い出す。
僕は、急に、どうしようもなく腹が立ち、席を立ち、部屋を出る。
「おい。どこに行くんだね。」 上司が背後から呼んでいる。
僕は、もう、駆け足にすらなって。
それから、誰もいないのを確かめて、トイレに入ると、ウサギの毛皮を脱ぐ。
鏡を見ると、ライオンがいた。
僕は、部屋に戻り、周囲の叫び声を聞き、机をなぎ倒しながら、上司の前に行った。そうして、首を押さえ、体重を掛けた。
鈍い音がして、上司はあっけなく死んだ。
僕は、その薄汚い体に牙を立て、むさぼり食った。
始めて食べる、肉と血の味。僕は、その味に酔いしれ、全部食べ終わったところで、口の周りについた血を舐めて、満足の声を上げる。
同僚達は、怯えたように僕を見ていた。
僕は、さっさと部屋を出ると、また、トイレに行き、ウサギの皮をかぶった。それから、今日は仕事にならないだろうと判断して、家に帰った。
--
「おかえりなさい。随分と早いじゃない?」 妻が、皮肉な口調で言う。
「ああ。ちょっと事故があってね。仕事にならないんで引き上げた。」
妻は、僕に文句を言うような顔で口を開いて。
それから、僕の様子がいつもと違う事に気付いて、口を閉ざす。
「こっちこいよ。」 僕は、言う。
妻は、うなずいて。僕に身を預けてくる。
久々にゆっくりと見た妻の顔は、美しかった。気の強そうな口元は、僕が抱き寄せるとかすかに開いて、美しい歯がのぞいた。
「僕に抱かれるの、嫌じゃなかったの?」 僕は、くつくつと笑う。
「今日のあなたは、どこか違うわ。別の人みたい。」 溜め息のように答える。
僕は、妻に口づけた。
妻は、僕の体が発する血の匂いが気に入ったようだ。僕にねじ伏せられて、恍惚の表情を見せてくる。
本当に久しぶりだった。
妻は、満足そうに僕の傍らに横たわる。 「ねえ。どうしちゃったの?」 「さあ。」
どうしちゃったのかは、僕にも分からない。僕は、自分の体を探すけれど、もう、自分の皮を脱ぐファスナーはどこにも見当たらない。
--
翌日から、僕は、相変わらずの人生を送る。
新しく来た上司に、やっぱり怒られて。
あの日、機嫌を直したかに見えた妻は、変わらず冴えないウサギ生活を送る僕に、次第に失望していって、元の不機嫌な女に戻ってしまった。
朝から喧嘩をふっかける妻に、言い返す気力もなく死んだ目で答える僕に、妻は罵声を浴びせる。
その瞬間。
僕は、妻の白い喉元を見る。
そうして、ゴクリと唾を飲み込む。
妻も、それに気付くと。
途端に黙って。
--
夜、僕らは、無言のまま、交わる。
「ねえ。時々、あなたって、ものすごく怖く思えるんだけど?」 妻の言葉に、僕は答えない。
僕自身、自分がいつライオンになるか分からないと思うと、正直怖いのだ。いつか、そのうち、妻をこの手で殺してしまうかもしれない。その喉に、歯を立てる瞬間を何度も何度も思い描いた。一度知った興奮は、更なる興奮を求めて体の中で騒ぎ立てる。
だけど、僕をライオンにするのは、妻の挑むようなその瞳。
僕は、妻ののけぞった喉に口づけながら、体を動かす。
ねえ。ライオンに抱かれるのは楽しいかい?きみが怒らせてくれないと、きみに欲情しないのはどうしてだろう?
結局、こんな風にならなくちゃ、僕らは全然興奮しなくて、生きているって思えないのはどうしてだろう?
2002年05月13日(月) |
私は、その時気付く。私、このウサギに会いに来たんだ。ねえ。あなたよね。幼い私のことを知ってる。 |
なぜ、こんな場所に来たのだろう。
遊園地。
何かを探して。
仕事を辞めて、故郷に戻って、一番に思い付いた場所はなぜかここだった。
ねえ。教えて。幼い頃の私。ここで私は、何かを置き去りにして来てしまった?
--
二年ほど付き合った恋人と別れたのは、つい最近のことだった。簡単に言えばフラれたのだ。大好きだった。ずっと一緒にいたかった。結婚できると思っていた。だから、最後の三ヶ月ぐらいは、私が、ただ、無理言って呼び出してしがみついて。そんな事の繰り返しだっただけで、本当はもっとずっと早くに終わっていたのだろう。
それでも、やさしい人だった。
ギリギリまで、私を本当に傷付ける言葉を避けて接してくれていた。
もちろん、私も、彼を傷付けていて。
どうしていいか分からなかったのだ。
彼が私に触れようとするたびに、私は、身をこわばらせて拒絶してしまう。ただ、泣いている私をなぐさめようとして、彼が手を回して来ただけで、私はその手を振りほどいて彼の体を遠ざけてしまう。
「僕に触られるの、嫌なの?」 彼は悲しそうに聞く。
「分からない。」 「ねえ。大丈夫だから。そばにいて。何もしないから。」
私は、その言葉を信じたいのに、身震いして。
こんなだから、私も、彼をずっと傷付けていたのだ。
「二人で、カウンセリング、受けない?」 そんな風に言われたこともあったのに、私は首を振るだけだった。
自分の心の鍵を開けるのは怖かった。
なぜ?自分が知りたいくらいだ。
そうして。
彼は、とてもとても悲しい目をして、言った。 「さよなら。」
--
遊園地は、閑散としていて。
風船を持ったウサギの着ぐるみが歩いてくる。
「寂しそうだね。はい。風船。」 「ありがとう。」 私は、心が温かくなって、微笑む。
「笑ってくれた。」 ウサギも、安心したような声を出した。
「失恋したの。」 「そう?」 ウサギは、ベンチの隣に腰掛けた。
「すごく好きだったのに。」 「僕もさ。そんなこと、しょっちゅう。何がいけないのかな。毛がところどころ擦り切れたウサギなんか、誰も好きにならないってことかなあ。」 「でも、すごく素敵よ。あったかそう。」 「やさしいんだね。」 「そんなことないの。私、駄目なの。いつも、大事な人を傷付けてばかり。」 「ねえ。後でデートしない?」
駄目よ。私、男の人が怖いんだもの、と言い掛けて、 「いいわ。でも、お願いがあるの。そのウサギの格好のまま一緒に歩いてみたいの。」 「え?このまま?」 「嫌?」 「いいけどさ。きみが笑ってくれるなら。じゃ、僕はもう一仕事してくるね。あとで迎えに来る。」 ウサギは立ち上がって、手を振って。
変なことを頼んでるのは分かったけど、私は、ウサギの姿のままの彼に、なぜか安心して気持ちを許せる気がした。
幼い頃。
こんな風に、隣に座って。
そうだ。
同じように、ウサギが話し掛けてきてくれた。泣いていた私をなぐさめて。幼稚園の遠足でここに来た時だった。誰も一緒にお弁当を食べてくれなくて泣いていた私に、風船をくれたのだ。
あの時と同じ。
--
「お待たせ。」 ウサギは、小走りにやって来た。
「おつかれさま。風船は売れた?」 「うん。たくさん。僕は、風船を配る。支払いは、笑顔で。きみからは、おつりが来るほどお支払いいただいたから、これ、サービス。」 手にしていたソフトクリームを渡してくれる。
「ありがとう。」 「ねえ。僕さ、このままの格好がいいの?」 「うん。」 「僕の顔、見るの怖い?」 「どうかな。なんだか、ウサギだと安心するの。だから、もう少しこのままでいて。」 「分かったよ。きみの頼みなら。」 「暑くて苦しい?」 「ちょっとはね。」
ウサギが、手をそっと繋いでくる。
怖くなかった。
「僕んち、来る?」 「え?」 「近くなんだ。」 「いいけど・・・。」 「時間、大丈夫?」 「うん。」
私とウサギは、もう、暮れ始めた道を、そのまま手を繋いで歩いた。
前もこうやって歩いた気がする。そうして、手には赤い風船。手が離れた時、泣いたんだっけ。そうしたら、ウサギが抱っこしてくれた。
「着いたよ。ここなんだ。狭いけど、ね。どうぞ。」
ウサギの部屋は、小さくて、きちんと片付いていた。
ねえ。知ってる。あなた、あの時のウサギさんでしょう?
私は、その時気付く。私、このウサギに会いに来たんだ。ねえ。あなたよね。幼い私のことを知ってる。そうでしょう。
「ねえ。もう脱いでもいいかな。さすがに暑くて。」
ウサギが向こうをむいて、ごそごそと着ぐるみを脱ぎ始める。
思い出した。
あの時も。
あのウサギ、抱いていた私を下ろして、着ぐるみを脱いで。
「シャワー、浴びてくるよ。汗かいちゃってるから。きみは座って待ってて。」 そう言って振り向いた顔は。
そうだ。あの時の、あの男だ。
私は悲鳴を上げて。
そばにあった灰皿を取り上げて、男の顔に振り下ろす。何度も何度も。
「なんだってんだよ。」 男が叫ぶ。
「ねえ。あの時いたウサギでしょう?ね。そうよね。返して。」 「何を?知らないよ?俺達、今日初めて会ったんだろう?俺、先月からこのバイト始めたばっかで・・・。」 「うそ!うそ!うそ!うそ!」
私は、この男を捜していたんだ。あの日。抱いて連れて着た、この部屋で。ウサギは、優しい皮を脱いで、私を傷付けた。
服脱いでごらん。怖くないから。おじさんの言う通りにしたら大丈夫だから。誰にも言っちゃ駄目だよ。おじさんのここ触ってごらん。
そういって男は。
あの日盗ってったものを返して。
悲鳴は、どこか遠くから聞こえてくる。そう。ずうっと遠い昔。幼い頃の私の叫び声。
2002年05月11日(土) |
そんな人だから。一緒にいて、私は、いつも、二度傷付く。わがままを言ってしまった時と、わがままを許された時。 |
「どうしたの?」
聞かれて、私は、また自分が泣いていたのだと気付く。
「わかんない。ぎゅってしてよ。抱いててよ。」 「うん。」
抱かれた後、こんなに近くで、肌と肌も触れ合っているのに。それでも足らなくて悲しくて。彼は、私に言われて、もっともっと強く私を抱き締めてくれる。その腕の中でまどろむ私。
ふと気が付くと、彼は枕元の時計を見ていた。
「帰らないといけないのね。」 「うん。」 「いいよ。帰ろう。」 「もう・・・、大丈夫なの?」 「うん。」
彼には奥さんがいて、奥さんのことも愛していて。なのに優しくて、私のことも愛してくれて。多分、彼が優し過ぎて苦しんでるのは分かるのだけど。だから、もう、何度も、私のことはいいんだよ、って言ったのだけど。私から言ってあげないと、彼は、本当にちょっとだけ困ったような心配そうな顔で私を見ているから。別れるって言った時も、それが私の本心じゃなくて、本当は彼のことがまだ好きでどうしようもないって分かったら、やっぱり抱き締めてくれて。一緒にいるからって言ってくれて。
そんな人だから。
一緒にいて、私は、いつも、二度傷付く。
わがままを言ってしまった時と、わがままを許された時。
「今日は、ゆっくりできなくてごめん。」 「いいの。」
私は、いつも別れ際、不機嫌そうな顔をしてしまう。彼が困ると分かっていても。だって、そんな顔でもしなくちゃ、泣いて、もっといたい、ってわがまま言うのが分かってるから。
彼の車で送られて、アパートの前。
「じゃあ。」 彼の言葉に、ぷいと背を向けて、私は車を降りる。
--
休日の午後。
私は、姉の家に遊びに行く。
5歳になる甥が出迎えてくれる。
「ママ。おばちゃん来たよー。」 「こら。おばちゃんじゃないでしょ。おねえちゃんでしょう?」 「うん。おねえちゃん。遊ぼうよ。」 「まって。今日はママとお話があるから、後でね。」 「じゃ、絶対後でだよ。」
姉が、 「ごめんね。うるさいでしょう。最近、ああなの。本当によくしゃべるようになって。」 と、苦笑する。
「いいのよ。で、今日は何の話?」 「うん。あなたもそろそろ結婚しないかしらと思って。」 「やだ。お見合いの話?」 「ええ。お母さんが心配でね。うちにしょっちゅう電話してくるの。」 「いやよ。言ったでしょう。私、お付き合いしてる人がいるの。」 「分かってるけど、会うだけでもどうかしら。タケシさんの会社の後輩の方でね。」 「やだっ。お義兄さんもグルなの?」 「そんな・・・。お願い。聞いて。」
ふと見ると、姉は青ざめた顔で。
どうして?そんな顔するの?あなたは、平凡で暖かい顔で、ここでぬくぬくとしていれば、それでいい。私の幸福は私が自分で決めるのに。
「ねえ。ちょっと、大丈夫?」 それでも、姉が額に汗をかいているのを見て、驚いて声を掛ける。
「ええ。大丈夫。あのね。つわりなの。」 そうやって、姉は、力はなく。けれど、誇らしそうに微笑む。
「そう・・・。出来たの・・・。」 私は、驚いて。
「うん。一人っ子じゃ可哀想だから、タケシさんも私も、ずっと欲しかったのね。で、ようやくなのよ。」 「ちょっと休んだら?」 「ええ。そうするわ。ごめんね。」
姉は、二階の寝室に上がって行く。
--
「ねえ。お話、終わった?」 甥が、ぼんやりしている私の手を引いて。
「ええ。」 「じゃ、読んで。」
それは「人魚姫」の本。
「そうして、人魚は自分で海へと身を投げ出しました。その身は泡となり、海へと溶けていったのでした。おしまい。」 気が付くと、私は泣いていた。
はかない夢にすがって多くを犠牲にした人魚姫。その希望の糸がぷっつりと切れてしまった時、彼女はもう、生きては行けなくなった。
私は、急に激しい怒りがこみあげてきて、その小さな甥の首に手を掛ける。
私が恋しているあの人と、姉との間に生まれた、その命。それは、私にとっては大きな障害でしかなかった。いつも憎いと思っていた。邪魔だと思っていた。あの人は、いつも、子供の話をする時だけは本当に嬉しそうで。
私には何もなくて、姉には、あの人も。子供も。そして、またもう一人。
どうして私には何もないの?
その手の中で小さな命に力をこめようとした時、気付かずに絵本を見ていた甥が急に話し出す。
「ねえ。おねえちゃん。このお話、続きがあるんだよ。」 「続き?」 「うん。パパがいつも教えてくれるの。」 「どんな?」 「えとね。人魚姫は、海の泡となったけれども、その心はずっと海に残って、王子さまが海を渡る時は、いつも嵐に遭わないように、見守り続けたのでした。っていうの。」 「そう・・・。」
私は、そっと震える手を離す。
「ねえ。おねえちゃん。涙、出てるよ。どうしたの?お腹、痛いの?」 甥は、心配そうに私を見ている。
「何でもないのよ。」 私は、無理に笑おうとして。
ああ。この家族のことを。どうしようもなく憎くいけれど、同時に、どうしようもなく愛している。
そうして、どうしていいか分からないまま、私は涙を止められないのだった。
2002年05月10日(金) |
僕の腕を噛むように吸って。「この痣が消えないうちに、また来てちょうだい。」と、少女のように懇願した。 |
彼女は、裕福な家庭の美しい人妻だった。
僕とのことは遊びだったのだ。
だが、そのことに気付いた時はもう遅かった。僕は、彼女の体に溺れ、心まで我がものにしたいと切望した。一方、彼女にとっては一時の炎が静まると、僕の過剰な求愛は迷惑なものでしかなかった。
「次はいつ会える?」 僕がしつこく出すメールに、彼女からの返事はほとんど来ない。
しびれを切らして、昼間、彼女が家に一人でいる時間を見計らって電話しても、彼女は慌てて、 「後でこっちから連絡するわ。」 と言って、いつも電話を切ってしまう。
ああ。もう駄目なのだ。僕がどうやって誠意を見せたところで、彼女の心は少しずつ僕から離れて行く。
それでも、激しく求め合った日はあった。
初めて抱き合った日。
本当に飢えていたように僕の体に乗って来た彼女は、僕の腕を噛むように吸って。「この痣が消えないうちに、また来てちょうだい。」と、少女のように懇願した。
だから、信じた。彼女の何もかもを。
それなのに、僕だけが終わらない愛を信じていて。彼女は一時の情事を終えると、僕を遠避けようとし始めた。
僕は絶望した。髭も剃らず、飲めない酒を飲んでみたりした。彼女の家の周りをうろついたりもした。その時は後で、彼女から激しい怒りの電話を受け取ったが、僕はそんな時ですら、彼女の声が聞けただけで嬉しかった。
僕に残された道は、それでももう、死しかなかった。
このまま彼女への想いの奴隷になっていたら、いつしか、彼女との美しい思い出さえ、全部駄目にしてしまうから。
さようなら。
一つだけ、祈る。
今度生まれて来る時は犬にしてください。また再び、同じ世界で彼女を恋する男にならずに済むように。
--
僕は、望み通り、犬に生まれ変わった。
僕は、その、平凡だけど暖かい家庭の一人息子の遊び相手としてもらわれて来たのだ。その家の人は、みんな、僕を可愛がってくれて。
もちろん、犬には、犬なりに大変な社会がある。僕は、それを一つ一つ覚えて行くのに必死だった。息子の友達が背中に乗ったり、耳やしっぽを引っ張ったりするのにもじっと耐えることを覚えた。どんなに怖くても、やたらめったら吠えないように。けれど、不審な人物が家に入って来たら大声で知らせるように。そんなことをちゃんとこなせば、家の人は犬のことだって大事にしてくれる。
僕は、幸福だった。
結婚もした。
近所の家の愛らしい瞳の犬が、僕のお嫁さんになってくれた。
たくさんの子供も生まれた。
僕は、本当に幸福だった。
--
ちょうど家の人が留守の時のこと。
家の前に大きな車が止まった。そうして、車から降りて来た人間が、まっすぐ僕の飼われている家の中に入って来た時。
僕は、立ち上がり吠え立てる用意をして。
それから、はっとして、その人を見上げる。
「こんなところにいたのね。」 その、美しい人は、相変わらず僕の胸を締め付ける微笑をたたえて。
「ねえ。随分探したのよ。あなた。いえ。亡くなったのは知ってたの。でも、きっと私に会うために、戻ってくるって。なぜかしらね。そんな風に思えて。ずっと探してたの。」 「・・・。」 「ねえ。一緒に来ない?うちに。こんなみすぼらしい小屋じゃなくて、もっと素敵なおうちを用意してあげるわ。なんなら、私のベッドルームで寝起きしてもいいの。ねえ。私、馬鹿だったわ。主人が帰って来なくてひどく孤独だったの。だけど、あなたがいなくなって、もっと孤独になってしまったの。」
僕は、振り返らなかったが、背後で妻が心配そうに見ているのを感じていた。
「ねえ。犬になってしまうほどに悲しかったあなたを、もう一生離さないから。」 彼女が目尻を押さえるハンカチから、彼女が愛用している香水の、なつかしい香りが漂う。
僕は、随分と長く彼女を見つめて。
それでも、ようやく彼女から目を離すと、僕はくるりと背中を向けて、妻の元に走って行った。
「それが答えなのね?」 彼女が叫ぶ。
僕は、振り向かない。
長い長い時間の後。
背後で、車のドアが閉まり、走り去る音がした。
--
夜。
寄り添うように寝そべっている妻に、僕は言う。 「ねえ。男って本当に馬鹿だよね。」
妻は、分かっているわよ、というように微笑んで、それから僕の腹に顔をつけて、目を閉じる。
ねえ。本当に馬鹿なんだよ。僕、自分が犬じゃなかったら、きっと彼女の手を取っているところだったんだよ。
犬で良かったよ。本当に。
僕は、眠れないまま、小屋の屋根を打つ雨音をいつまでも聞いている。
2002年05月09日(木) |
そんな男の子も現われない以上、私は、彼を想い続けて行くしかないのだ。「相応の」という言葉が、時折、私の心をあざ笑う。 |
幼い頃から自分のことはよく分かっていた。
あまり美しくない容貌。
それ事体は、早くからあきらめていた。もちろん、親を恨んだ日もあったし、整形を考えたこともあったが、そうした気持ちもいつか薄れて。このまま目立たずに生きて行こうと思ったのだった。
だが、そんな醜い私でも、恋はする。
恋とはなんと理不尽に、人を捕えてしまうものか。
あれだけ、自分の醜い風貌に悩んだ私だが、私が恋をしたのは人目を引きつけるほどに美しい人だった。大学の先輩で、吹奏楽部でも部長をするほど、人望があった。彼に憧れてサークルに入る女子生徒が後を絶たないほどにモテるその人。だが、彼には恋人がいた。美しい恋人。彼より一年先輩のその人は、長い髪をした情熱的な人だった。
とてもかなわない。
私も、多くの女の子と一緒に溜め息をつく。
--
最初は彼に憧れた女の子達に、そのうち、一人二人と、別の恋人ができ始めていっても、私は、まだ彼を想っていた。私に声を掛けてくれる男の子が他にいれば違ったのかもしれない。が、そんな男の子も現われない以上、私は、彼を想い続けて行くしかないのだ。
「相応の」という言葉が、時折、私の心をあざ笑う。
そうやって、季節は巡り、彼の髪の長い恋人は一足先に卒業して行く。
--
「あら。あなた。」 彼の髪の長い恋人と、街で偶然出会ったのは、しばらく私がサークル活動を休んでバイトに精出していたある日のことだった。
「こんにちは。」 私は、もごもごと答える。
くったくのない真っ直ぐな瞳は、私のコンプレックスを嫌でも際立たせ、私はそんな人の前ではいつも自信なくうつむいてしまうのだ。
「ね。お茶でも飲まない?」 「はい。」
彼女は、肩から掛けた荷物をおろしてコーヒーを注文する。
「煙草、やめたんですか?」 私は、彼女がいつも煙草を吸っていたことを思い出し、訊ねる。
「ええ。仕事柄ね。」 「仕事って?」 「うん。ちょっと福祉関係。・・・荘、知ってる?」 「はい。」 「あそこで。」
それから、私達はあたり障りのない会話を幾つかすると、もう話すことがなくなってしまった。どうして、彼女は私を呼び止めたりしたんだろう?何か言いたいことがあるようでもなかった。
「あの。一つ聞いていいですか?」 「いいわよ。」 「・・・さんと、お付き合いするのって、大変じゃないですか?彼、モテるから。」 「あら。・・・とは別れたのよ。」 「え?いつ?」 「そうねえ。私が就職して間がない頃かな。」 「どうしてですか?あんなに素敵な人なのに。」 「やあねえ。社会に出たら、もっといい男がたくさんいるってことよ。」
彼女には、私が彼に憧れていることが分かってしまったと思うが、彼女は何も言わずに微笑んで。それから立ち上がった。
「時間取らせてごめんなさいね。」 「いいんです。」
--
別れた?別れた?
ぐるぐるとそんなことを考えながら、久々にサークルBOXのほうに顔を出した。
彼が一人でいた。
少し日が傾き始めて西日が強く刺し込む部屋で、彼は入り口に背を向けて座ってた。
「どうされたんですか?」 「あ?ああ。きみか。」 「今日、誰も来なかったんですね。」 「そうだね。」 「彼女と会いました。」 「彼女?」 「・・・さんがお付き合いされてた。」 「ああ。彼女、ね。」 「相変わらず、綺麗でした。」 「そんなことはさ、どうでもいいよ。ねえ。飲みに行く?付き合ってくれないかな。」 「いいですけど。」
私の胸は高鳴る。
もちろん、期待してはいけない。彼は、傷付いて、誰かと一緒にいたいだけなのだから。
--
すっかり飲み過ぎた夜道。
「彼女ね。いい女だったけどさ。なんていうかな。B型の女にはもう、付いて行けねーやっていうか。振り回されちゃったんだよな。」
随分と酔ってる。
「まだ好きなんですね。」 「いーや。もう、好きじゃないよ。」
彼が手を握って来た。
私は、ドキリとして、手を振りほどこうとするけれど。彼の手の力は思った以上に強くて。
ねえ。やめてください。あなたには戯れでも、私には逃げ場所はないんですから。
「彼女とはね。もう、とことん。なんていうかな。泣いて。物投げて。激しい女だったよ。」
月明かりが綺麗だった。
彼の声は静かだったけど、その手の力の強さに悲しみがこもっているのが分かって。
私はどうしても手を振りほどくことができなかった。
夜道は続く。
今夜。月明かりに照らされて、一瞬だけ輝く恋があってもいいよね。
私は、何も言えずに、その手をそっと握り返す。
2002年05月08日(水) |
「ねえ。ダンナ以外とこんなことするの、初めて?」さっきまでの優しかった彼は、急に意地悪く耳元で私を攻め立てる。 |
ある春の午後。
友人達とランチを一緒にした後、仕事に戻るという友人達と別れて、専業主婦の私は地下鉄に乗るために駅に向かった。
その路地を入ったところに、占い師はいた。
なんとなく。ふと、「見てもらおう」と思った。
占い師は、私の手をじっと見ると、それからおもむろに言った。 「この先、行き当たったところを右に曲がったら、今までと同じ穏やかな生活が、左に曲がったら、波乱万丈な人生が待っているだろう。どちらを選ぶかはあんた次第だ。」 「それだけ?」
占い師は黙ってうなずく。
私は歩きながら考える。普通に帰るとするならば右だけど。私は今の人生に満足しているから。サラリーマンだが、経済力のある夫。お金の管理も何もかも任せきりで、私は気楽に遊び歩いている。やさしい夫。なんの不足もない。
けれど、私の足は、自然と左に曲がるほうを選ぶ。
夕飯の支度を始める時間にはまだ早いから、と心の中で言い訳をしながら。
どんっ。
「きゃっ。ごめんなさい。」 私は、曲がった途端、その青年にぶつかって派手にしりもちをついた。
「大丈夫?」 「ええ。私がよそ見してたから。」
彼は手を差し伸べて私を立たせてくれた。
「ありがとう。」 「ね。お茶でも飲まない?急いでる?」 「え?」
これ、ナンパ?
「急いでるならいいんだけど。」 その顔は妙に真剣で、私は思わずうなずく。
「良かった。この先にいい感じのお店があるから、そこに行こう。」 「ええ。」
彼との会話は楽しかった。夫以外の異性と何時間もこんな風にしゃべったのは、結婚以来初めてだった。
「え?人妻?そうかあ。そうは見えなかったなあ。ショックだな。」 彼が大袈裟に嘆いて見せるので、私は笑いながら、そっとテーブルの下で薬指の指輪を外した。
それから、春の街を二人で歩いた。
気が付いた時はすっかり夕暮れで。
帰らなくちゃ。
そう言おうとしたのに、彼ともう少し一緒にいたくて。
私は、夫に電話を掛けた。 「久しぶりにこっちに帰って来てる友達がいるから、お夕飯一緒にするわね。」 「いいよ。ゆっくりしてきなさい。僕の夕飯は気にしなくていいから。」 「ありがとう。」
時間が作れたよ、と笑顔で知らせると、彼もにっこり笑って。
「行くだろう?」 と、彼が自然に私の肩に手を回すから、私は今更戻れない道を歩き始める。
「ねえ。ダンナ以外とこんなことするの、初めて?」 さっきまでの優しかった彼は、急に意地悪く耳元で私を攻め立てる。
「・・・。」 「駄目だよ。ちゃんと言わなくちゃ。」 「ええ。ええ。初めてよ。」
その、夫から教えられたことと似ても似つかない行為は、私に驚きと興奮を与え続ける。
--
「もう帰らないといけないんだろう?」 ベッドでぐったりしている私に冷静に言うと、彼はさっさと服を着始める。
「次は?」 「え?」 「次は、いつ?」 「携帯の番号教えとくからさ。電話してよ。」 彼は、そう言い残して先に出てしまった。
彼は、一夜だけの遊びを求めていたのだろうが、私は思いがけず覗き見た世界が忘れられず、男を半狂乱で追い回す。何度かに一度しか出ない電話。なのに、会ってホテルに行くまでは、最初の、あの優しい笑顔を、はにかんだ微笑みを見せて、私を困惑させる。
--
「どういうことだ?」 夫が、ネクタイを緩めながら、私の前に突き付けた写真には、私と彼が写っていた。
「どうしてこれを?」 「調べさせてもらった。きみが最近、少し様子がおかしいのでね。」 「好きなの。あの人が。」 「なんだって?」 「一緒にいたいの。」 「中学生じゃあるまいし。」
そうよね。変よね。優しい夫がいて。なのに私。
「彼と離れられないの。」 「いい加減にしろよ。」 その時の夫の顔は、ものすごい形相で、私は一瞬殴られるんじゃないかと思った。夫は、振り上げたこぶしを壁に打ちつけると、 「出て行け。」 と言った。
「待って。ねえ。話を聞いて。」 「何を話すというんだ?きみの身勝手な言い訳か?」 「違うの。ねえ。違うの。」 「出て行け。汚いヤツめ。」
私は身をこわばらせて、そこに立ちすくむ。そこにいたのは、私の知らない夫だった。
どこにも行く場所などない。
--
私と青年の情事は、夫に発覚したことであっけなく終わってしまった。
だが結局、幾夜かの話し合いを経て、私達は別れることにした。
夫は、最近では随分と気持ちが落ち着いて来たようで、何度も「やりなおそう。」と言ってくれた。
けれども、私は見てしまった。夫の顔に浮かんだ夜叉の表情を。
あの顔は忘れられない。
--
「どうしても出て行くのか?」 「ええ。ごめんなさい。」 「元気で。」 「あなたも。」
私の心は深い悲しみで一杯になる。
あの時、もし、右の道を選んでいたら、どうなったの?私はいつかの占い師を探して歩く。
いた。
「この先、行き当たったところを右に曲がったら、今までと同じ穏やかな生活が、左に曲がったら、波乱万丈な人生が待っているだろう。どちらを選ぶかはあんた次第だ。」 私の耳に、女子高生を相手にそうつぶやく占い師の声が響いて来た。
なんだ。誰にでも同じことを言っていたのね。それとも、あの青年とグルだったのかしら。
そんなことも、本当は、もうどうでも。今から右に曲がったところで、知らなかった昔には戻れない。
2002年05月07日(火) |
「ここで一緒にいない?そうしたら、もう、一生しゃべらなくても誰からもいじめられないよ。」 |
いつ頃から始まったのか。
よく思い出せない。
二年生くらいまでは、まだ、普通だった。
三年でおばあちゃんが死んじゃった頃から、かな・・・。
どうして?ってみんなに言われるけど、僕自身が知りたいよ。誰か教えてよ。今日こそはって思うんだけど、学校に行ったらやっぱり駄目で。学校に行くのさえ辛いけど、やっぱり、学校行かないのは負けみたいでくやしいから。
だから、学校だけは行く。
友達のソウタとは、それでも、まだ何とか。でも、みんなの前だとどうしても駄目なんだ。
--
「どうしたー。また、タイチか。ここでいつもつっかえちゃうんだよなあ。」 ジャージ姿の先生は、わざと大声を出す。
僕は、首をすくめて。
「お前、馬鹿じゃないのは分かってんだよ。なのに、どうして答えが言えないのかなあ。」
僕も、そうだと思う。答え、分かってるのに。言おうとすると声が出ない。
「まあいいや。タイチ、座れ。次。アヤカ。」 「はい。」
そうやって、僕は、いつも声が出なくなる。
休憩時間、ソウタがノート持ってやって来る。 「おい。タイチ。次の時間、ここ。教えてくれよ。」 「またかあ。」 「うん。いいじゃん。俺、今日、日直だから絶対、次当てられちゃうよ。」 「早くしろよ。」
僕のノートを汚い字で写した後、チャイムの音が鳴る時になって突然ソウタが言う。 「あ。お前さ。今日、お昼の放送で遠足の作文読んでくれよな。人足らないんだ。」 「ちょ、ちょっと待ってくれよ。駄目だって。」
どういうことだよ。放送委員だからって、勝手に決めるなよ。僕が人前じゃしゃべることができないの知ってて、どうしてそんなこと決めるんだよ。
次の時間、僕はパニックになって何も考えられなかった。
--
「やだ。やだってー。」 ソウタに無理矢理引きずられて放送室に入った。マイクを見るだけで、口の中がカラカラになる。
「頼んだぜ。」 前の生徒が読み終わったところで、僕は無理矢理マイクの前に座らされる。しわくちゃになった原稿が、目の前にある。
読むだけだから。すぐ終わるから。僕は声を出そうとするが、僕の声はどっか行っちゃったみたいに、出て来ない。
僕の頭は真っ白になる。
--
「あ。気付いた?」 その声が、僕に呼び掛ける。
僕は、知らない場所で体をこわばらせて、辺りを見回す。
「はじめまして。」 目の前の少年はニコニコと笑っている。
僕が口を開こうとすると、 「あ。いいんだ。ここでは思うだけで言葉が通じるから。しゃべるのが嫌だったら、しゃべらなくていいんだよ。」 「きみは?」 「僕?僕はね。化け物の番人なんだよ。」 「化け物?」 「うん。」 「あのね。子供の言葉を食べちゃうんだ。」 「怖い?」 「うん。すごく怖い。体中口だらけでね。一日中、子供の言葉食べてるから、体中が何か食べてるみたいに動くんだ。」 「きみ、どうしてこんなところにいるの?うちに帰りたくないの?」 「うん。だって。僕も化け物に言葉を食べられたんだ。だから、ね。帰ったっていじめられるから。父さんに殴られるし。」 「そうか。」 「きみもだろう?」 「うん。」 「ここで一緒にいない?そうしたら、もう、一生しゃべらなくても誰からもいじめられないよ。」 「いやだ。僕、帰りたい。」
その時、向こうから、何やら騒がしい声がした。
「あ。化け物だ。隠れて。子供の声を食べてるから、いろんな声がお腹から聞こえてくるんだよ。」
僕らは岩陰から化け物を見る。それは確かにブヨブヨで気味が悪かった。
「あれが・・・。僕の言葉を・・・。」 激しい怒りでいっぱいになった僕は、急に立ち上がった。
「あ。駄目だよ。見つかっちゃうよ。」 「いいんだ。」 僕は、そばにあった石を振りかざして、化け物に向かって走って行った。
「やめろーっ。」 少年の声がするけれど、僕は、石を打ち付けて。
プシュ〜ッ。
それはあっけなく裂けて、中から子供の声が溢れてくる。
まったく・・・ほんとうにね見てよだから死んじゃうし面白いんだけどあっちに行けばあいつ父ちゃん死んじゃったのまた来ねェなあだからうざお前も放っておいてたのかさえ忘れちゃったのだけどけどそれだけじゃない。それはいないつもりなので怖い辛い助けて行かないで
--
「気が付いたか?」 保健室にはソウタだけがいた。
「うん。」 「ごめんな。」 「いいんだ。」 「歩けるか?」 「うん。遅くなった。帰ろう。」
僕らは、何でもないように、しゃべりながら帰った。
次の日、僕は、小さい声を振り絞って、みんなに「おはよう。」って言った。みんな、おやっていう顔をしながらも、「おはよう。」って返してくれた。授業が始まって、先生が「大丈夫か?」って声を掛けてくれた時も、僕は、かすれた声だけど「はい。」って言えた。
--
「はじめまして。」 僕は、その子の目を見ながら話し掛ける。
「えーっと。名前は、ユウキくんだね。」
男の子は、うなずく。
「無理に答えようとしなくていいからね。僕の話を聞いて。分かったらうなずいてくれたらいい。」 「・・・。」 「ユウキくんはさあ。言葉を食べちゃう化け物の話、知ってるかい?」
男の子は黙って首を振る。
「その化け物はね・・・。」
僕は、大人になって、言葉を食べられてしまった子供達の治療をする仕事に就いた。その治療は、いつも、言葉を食べる化け物を探しに行く旅の話から始まるのだ。
2002年05月06日(月) |
夏の日。ずっと、浜辺を歩いた後、私達は、一時間に一本しか出ない電車を待って、ホームのベンチに座ってた。 |
彼は、クラスで一番走るのが早かった。
リレーではいつも、アンカーを。一人抜き。二人抜き。みんな、彼の走る姿を美しいと思い、その瞬間、彼はいつもヒーローだった。
夏の日。
海辺。ほとんどしゃべらずに、歩いた。
私は、同窓会のハガキを手に、彼のことを思い出す。
彼とは、やっぱり会えない。欠席に丸をしたハガキをバッグに入れる。
--
携帯電話が鳴っている。
誰?こんな時間に。
時計を見ると、午前二時を回っている。
手探りで携帯を取って、出る。
「もしもし・・・?」 「ああ。良かった。ごめん。夜中に。」 「誰?」 「俺。分からないかな。もう、すっごい長いこと会ってないもんな。」 「あ。もしかして、カズキ?」 「あたり。」 「なんか。なつかしい。」 「ごめんな。寝てたんだろう?」 「うん。でもいいよ。明日、どうせ休みだし。」 「あの、さあ。同窓会。」 「ん?」 「同窓会、行く?」 「え?ああ。どうしようかなって思ってたところ。」
私は、欠席に丸をつけたことを思い出しながら、答える。欠席にしたのは、誰よりも、カズキ。あなたに会いたくなかったからなのに。私の心を見透かしたように、電話して来た。
「そうか。」 「カズキは?」 「俺?もちろん、行くよ。だから、さ。お前に会えないかなって思って。」 「そうなんだ・・・。」 「何とかならないの?仕事、忙しいの?」
何とかなるよ。
「お前だけ、東京行っちゃったからさ。」 「うん・・・。」 「みんな寂しがってんだよ。お前の顔見れないこと。」 「そっか。」 「だからさ。」 「うん。」
馬鹿みたいだね。私って。
「あの事、気にしてるんだろう?」 「え?」 「俺の手紙のこと。」 「うん。正直言っちゃえば、そう。」 「あの時、俺も、なんかすぐ言えば良かったのに、言えなくて。あれっきりになっちゃったから。」 「そうだよね。私も。」
--
夏の日。ずっと、浜辺を歩いた後、私達は、一時間に一本しか出ない電車を待って、ホームのベンチに座ってた。その時、彼が、そっと渡して来た手紙。
「帰ってから読んで。」 と、言うと、慌てて向こうをむいてしまった、カズキ。
私は、帰宅して、慌てて封を切ると、そこには彼らしい元気な字で、 「好きだ。つきあって欲しい。」 と書いてあった。
私は、その日はドキドキして眠れなくて。そんなのもらったの、初めてだったし。
翌朝、カズキの顔をろくに見ることもできないまま、私は親友のキミエに手紙を見せた。
「うっそ。なに?すごい。ラブレターじゃん。」 キミエは、ニヤニヤしながらそれを見て、 「どうすんの、付き合うの?」 って言うから。
恥ずかしくて。
「違うよお。好きでも何でもないんだから。」 と大声で否定して。
それから、キミエの前で、その手紙グシャグシャにした。
どうしていいか分からなかったんだもん。
多分・・・。カズキは、私が手紙をグシャグシャにしたとこ、見てたんだと思う。それから、キミエが面白ろ半分に言いふらしたみたいで。次の日には、クラスの全部の女子が、カズキの手紙のことを知ってた。
朝、席についた私のそばを、カズキは、黙って通り過ぎた。チラリともこちらを見ずに。
それっきり。
私とカズキは、三年の終わりまで一言も口を効かなかった。
不器用だったから。恋なんて言葉、憧れているばかりで、どうしていいか分からなかったから。
私は、カズキという友達を永遠に失ったことだけを感じながら、放課後、寂しい気持ちを抱えたままグランドを走るカズキを眺めていた。
--
「来いよ。同窓会。」 「うん。」 「また、前みたいにしゃべったり、しよう。」 「うん。」 「じゃあ、な。絶対来いよ。」 「待って。」 「ん?」 「ごめんね。あのこと。」 「いいんだよ。俺も、さ。恥ずかしかったりして、どうしていいか分からなかったから。俺もずっと謝りたかった。」 「うん。あの。本当に電話ありがとう。」 「じゃな。」 「じゃあ。」
本当は、あの時、「私も好き」って言いたかった。急に、そんな気持ちで胸がいっぱいになる。あの浜辺を歩いていた時と同じに。
翌日、私は、出席に丸をつけ直して、ハガキを投函した。
--
当日は、ホテルのロビーもにぎわって、私が到着した時にはかなりの人数が集まっていた。
私が入って行くと、 「どうしたの?東京の住所分からなくて、もう連絡取れないと思ったのに。」 と、幹事のミサが声を掛けて来た。
「え?ハガキ、来たわよ。」 「うそ。そうなの?誰が出したのかなあ。」 「だって。携帯の番号、カズキが知ってたくらいだから・・・。」 「カズキ?うそ。カズキ?そんな筈、ないよ。」 「どうして?」 「だって、カズキ・・・。」
聞けば、彼はあのまま、俊足を活かして体育大学に進学したあと、白血病で亡くなったと言う。
「どういうこと?だって、先週の土曜日。」 私は、携帯を出すが、履歴をいくらさがしても、夜中の着信は誰からのものも残っていない。
「そんな・・・。」 「ねえ。いいじゃない。どうだって。こうやってあなたが来てくれたんだもの。」
会場に入ると、ほとんどの席が埋まっていて。空いている席に目をやると、カズキの写真が。陽に焼けて笑っている。私の知らない、大学生のカズキ。
「おう。お前も来れたんか。」 サトシの笑顔。タクヤの笑顔。スーツ着てるくせに、笑顔は中学生の頃と全然変わらない。
三年四組、全四十名中、海外赴任しているマサヤを除いて、三十八名が集まった。
「すごい出席率ね。」 私は、ミサに言う。
「ええ。あなたが来てくれたから。みんな揃った。」
ありがとう。
私は、心の中でカズキに言う。
そう。私達のクラス、本当に仲が良かった。他のクラスの子もうらやむくらいに。体育祭では、いつもチームワークの良さで優勝していた。
--
会もたけなわ。
「また、十年後、同じ顔ぶれで再会することを、ここで誓いましょう。」 ミサの言葉に、会場が沸く。
2002年05月05日(日) |
前は、セックスの最中、戯れに軽く噛みつくぐらいだったのに、最近では、随分と強く噛むようになって。 |
結婚して半年が経とうというのだが、僕らはまだ今夜も激しく情熱的な一夜を過ごす。どちらかというと、僕のほうが、妻の激しさに驚かされ、翻弄されている。時折、その激しさが少々尋常でないもののように思えて怖くなるのだけれども、同時に、そんな妻がいとおしい。
今夜も、汗ばんだ体がようやく離れると、僕はすっかり疲れ果てて、すぐさまうとうとと夢の中だ。
「・・・る。」 「え?」
僕は、彼女が遠くで何かささやいているのだが、よく聞き取れない。
その瞬間。
「・・・っつ。」 僕は、慌てて目覚める。
肩に激しい痛みが走ったのだ。目を開けると、彼女の唇が血で濡れている。慌てて、自分の肩に目をやると、血が垂れてシーツを汚している。
「何するんだよ。」 僕が怒鳴るそばで、彼女はまだ、抱き合っている最中のような顔で唇を舐めている。
僕は、肩の手当てをするために起き上がり、肩口を消毒する。なんて深く噛みやがったんだ。血をぬぐってよく見れば、僕の肩の肉片が一部なくなっている。
なんて女だ。
僕がにらみつけても、知らん顔で、彼女はシーツにくるまって。
そういえば、ここ最近、少しずつエスカレートしている。前は、セックスの最中、戯れに軽く噛みつくぐらいだったのに、最近では、随分と強く噛むようになって。下手したら、同僚がひやかすぐらいの跡が残るようになって来た。
僕は、手当てを終えて、少し冷えた頭で彼女の隣に身を横たえる。妻は、僕の気持ちなど知ってか知らずか、僕の首に腕を絡ませて、僕の胸に鼻の頭をくっつけて、眠る。
その瞬間、いとおしさがこみあげる。
世界で他に誰がこんなに僕を情熱的に愛してくれるだろう。僕も、彼女の腰に腕を回し、抱き寄せて眠る。
--
僕と妻の間のことが、戯れで終わらなくなったのは、それから三ヶ月経った頃だった。
その頃には、もう、僕は、妻のふいの接触に体をこわばらせるようになっていた。妻を愛しているのには変わりはなかったが、彼女の行動は、もう、常に僕に身の危険を感じさせるものになっていた。
その日も、うっかりして妻に背中を見せたのが原因だった。
二階の寝室から降りようとしたところで、背後から妻の笑い声が聞こえたと思うと、背中に衝撃を感じて。
気付いたら病院のベッドの上だった。
ぼんやりしていると、妻がニッコリと笑って言った。 「大丈夫?」 「ああ。僕は?」 「階段から足を滑らせたのね。脳震盪を起こしたのよ。あと、腕が折れてるから、治るまで会社をお休みするってさっき電話しておいたわ。」 「きみだろう?」 「なんのこと?」 「きみが僕を突き落としたんだろう?」 「何言ってるの。ケイちゃん。」 その瞳は、自分がしたことを自覚していない善良な瞳だった。
妻は、少し悲しそうな顔で僕を見た後、 「お買い物行ってくるわね。」 と、立ち上がった。
僕は、今日ではっきりしたいろいろなことを考えて、しばらくぼんやりとしていた。
ドアをノックする音がする。
顔を出したのは、同僚のサワダだった。 「ようっ。大丈夫か。」 「ああ。大丈夫だ。」 「災難だったなあ。」 「そうだな。」 「仕事のほうは気にするな。俺達で何とかするから。」 「すまんな。」
彼は、持って来た菓子箱のようなものをベッドわきに置くと、椅子に腰をおろして落ちつきない声で切り出す。
「実はな。」 「なんだよ。」 「お前、最近、妙に怪我が多いだろう?何かに巻き込まれてんじゃないかってな。課長がさぐって来いって言うんだよ。」
それでか。
ケチなサワダが見舞いにくること事体、妙だったのだ。
「俺達も、ちょっと最近変だなって思っててさ。生傷とか多いし。」
そうか。周囲にも不審を抱かせるようになっていたか。
僕は、耳を澄ませて、廊下に人の気配がないことを確認してから、実はな・・・、と切り出そうとして、その言葉を飲み込む。
「なんでもないよ。疲れてるんだよ。」 僕は、無理に笑顔を作る。
「そうか。」 サワダは、僕の目を覗き込むと、余計な詮索はすまいと決めたのか、立ち上がる。
「なんでも相談してくれよな。」 そう言い残して、サワダは出て行った。
入れ替わりのように妻が戻って来た。 「今、そこでサワダさんとすれ違ったから、ご挨拶しておいたわ。」 「ああ。見舞いに来てくれたんだ。これ、サワダが持って来た菓子。」 「あら。サワダさんにしては奮発したわねえ。」
それから、椅子に腰をおろすと、リンゴと果物ナイフを取り出して、妻はリンゴをむき始める。
果物ナイフの刃先が動くたびに、僕は、身を固くして。
「ねえ。早く退院できるといいわね。」 「ああ・・・。」
僕は、逃げ出さない。
妻の狂気は、もはや疑う余地がないけれど。
ああ。だけど、僕は、彼女の狂気すら。そう。狂気すらも愛しているのだもの。どこにも逃げられやしないよ。
2002年05月03日(金) |
だけど、どうすりゃいいんだよ?プロポーズすれば良かったのか?だって、俺、まだ二十七だぜ。 |
目が覚めると真夜中だった。
僕は、大事なことを忘れているような気がして、暗闇の中でしばらく考える。
それから、飛び起きて、隣の女を揺すぶって起こす。
「んん?」 女は、眠たそうに声を出しただけだった。
「今日、何日?」 「え?なんて?」 「だから、今日、何日だよ。三日?」
少し形の崩れ始めた重い乳房を揺らして、なんなのよ、という顔をして、女は起き上がる。 「どうしたのよ?」 「大事な日なのに、忘れてたんだ。」 「帰るの?」 「ああ。」 「もう、来ないのね。」 「分からないよ。」
自分名義のマンションが幾つあるかも覚えてなくて、酒か煙草かクスリかクリニックの合間に男と寝る女を後にして、僕はその部屋を飛び出した。
--
どうして忘れていたんだろう。くやしさに舌打ちして、知り合いの店を片っ端から回る。
「エリカ、来てない?」 「んー?来てないわよ。ね、今日は飲んでかないの?」 「ああ。エリカ探してるんだ。」 「そういえば、一週間ほど見掛けないわね。あの子が一週間も姿現さないなんて、めずらしいよねえ。」
やっぱり、本当なのか?
僕は、夜の街を走り回る。
--
一週間前、エリカは言った。
「あたしさあ、来週お見合いすんの。」 「お見合い?」
僕は飲み掛けのジュースを吹き出してしまった。
「失礼ね。笑い事じゃないわよ。」 「お前、結婚すんの?まだ二十三じゃん。」 「するかもね。パパがうるさいの。」
エリカは、案外いいとこのお嬢さんで、今はこんなにぶっ飛んだ格好してるけど、本当は、いい大学を出たばっかりでピアノもお茶もこなしちゃう才媛なのだ。
「いいよ。お見合い、して来れば?」 「本当にそう思う?」 「ああ。だって、お前が決めることじゃん。」 「そうよね。あたしのことだもんね。あんたには関係ないわよね。」
その時の彼女の顔は本当に寂しそうで、僕は胸がチクッとしたけれども、知らん顔してCDの歌詞カードとか見て、鼻歌歌ってた。
「あたし、行くわ。」 「どこに?見合い、来週だろ?」 「エステとかさあ。いろいろやることあんのよ。お見合いまでに。」 「あそう。」
彼女は出て行った。僕は、相変わらず歌い続けながらも上の空だった。
だけど、どうすりゃいいんだよ?プロポーズすれば良かったのか?だって、俺、まだ二十七だぜ。まだ結婚したくないしさ。
--
そんなことあったにも関わらず、僕は飲み歩いて、他の女と寝て。
そのうち帰ってくるよ、とか思って。
思い出した時には、今日が見合い当日だった。会ってどうするってわけでもないけど、なんか一言言ってやりたくて。見合いうまく行っても俺のこと忘れるなよとか、見合い失敗したら戻って来いよ、とかそんなこと。
街中には彼女を見つけられなくて、僕は車を飛ばして港まで行く。初めて彼女とデートした場所。
夏で。
いつまでも花火とかしてて。すっごい可愛い子だと思ったけど、手もつなげなくて。そしたら、並んで海を見てる時、彼女が言った。 「キスしてもいい?」
僕は、黙って馬鹿みたいにうなずいて。それで初めてのキスしたんだった。
ここにもいない。
当たり前だ。今日、見合いするってヤツがこんなところにいる筈ないもんな。
僕は苦笑して、自分のアパートに戻る。
もう、白々と夜が明ける。
--
帰ってみると、エリカは僕のベッドの毛布にくるまって眠っていた。
なんでここにいんだよ?
「おそいよー。」 彼女が、眠たそうな声で言う。
「来てたんだ。」 「ん。」 「一週間、何してたの?」 「エステ。」 「肌、つるつる?」 「うん。いつでも嫁に行ける。」 「じゃあ、結婚、するか?」 「うん。」
僕は、レースのカーテン外して彼女の頭に掛けて、自分の指からごっつい指輪外して彼女の細い指にはめる。
「やだ。この指輪、でか過ぎ。」 「また、買ってやるからさ。」
そうして、僕らは、新郎新婦の口づけを交わす。
「行こうよ。新婚旅行。」 僕は、彼女の手を取る。
「どこへ?」 「遠くへ。」 「うちのパパ、怖いよ。」 「燃えるね。」
僕らは、中古のオープンカーで海辺を。どこまでも。
2002年05月02日(木) |
つまり私自身が自殺したというのは本当らしい。そうして、私は慌てて鏡を見ると、そこには |
「双子なのに、随分と違うよねえ。」 こんな言葉、もう何回聞いただろうか。
それを聞くと、私はいつも曖昧に笑うしかなかった。
周囲の言いたいことはよく分かる。美しく、スポーツが万能で、性格も良い姉。それに引き換え、引っ込み思案で、中学に入った途端にきびがいっぱい出て醜く太り始めた私。
みんな姉が好きだった。
私も、姉が好きだったし、憧れてもいた。だが、仮に私が姉と双子でなかったら、こうも同情されずに、普通に地味な思春期を迎えていたであろう私は、心のどこかで姉を恨まずにはいられなかった。
なによりも姉の素晴らしいところは、その性格の裏表のなさ、くったくのない真っ直ぐな笑顔。
部屋で絵を描いてばかりの私のところに来ては、つまらない悩み事など話してみせる姉を、だが、私はむしろ鬱陶しく感じていた。姉ほどの人間が悩みなどある筈がない。姉が実際、悩みと呼ぶようなことは、私のそれに比べたら随分とちっぽけで取るに足らないことだ。私は、内心、そんな風に思っていた。
彼女の美しさは、彼女をありとあらゆるものから守り、彼女は無傷なのだ。
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ミツルは、隣の家の幼馴染で、小学校の頃までは毎日一緒に遊んでいた。今や、すっかりサッカー部のヒーローだけど、今でも帰り道などに一緒になると私に声を掛けてくれる。 「ユメミ、一緒に帰ろうぜ。」
私は嬉しさのあまり、微笑んでうなずく。
「最近、アイミ、随分と忙しそうだなあ。」 「バレー部のレギュラーになったから。」 「そうかあ。で、おまえは?相変わらず、絵、描いてんの?」 「うん。」 「うまいもんなあ。絵。な。今度、俺にも絵を描いてくれよ。」 「そんな。人に見せるようなものは描けないって。」 「いいからさ。部屋に飾ろうと思って。そうだ、俺のことモデルにしてもいいぜ。」 「あはは。考えとく。」
そんな他愛のない会話が嬉しかった。
姉がお姫さまなら、ミツルは王子様というところ。私が、姉ぐらい美しければ、ミツルに告白するのに。
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ある夜、姉は、私の部屋に来る。
試験勉強で忙しい私は、忙しいから、と机に向かったままだった。姉はそんな私にかまわずしゃべり出す。
「ねえ。ユメミ。あなた、私になりたい?」 「え?」 思わず振り向く。
「あなた、私になってみたいと思うこと、ある?」 「何言ってんの?」 「もし、あなたが私になりたいっていうなら、あなたの希望が叶えてあげられるの。」 「何言ってんのか分からないよ。」
私は笑う。
姉は、そんな私にかまわずしゃべり続ける。
「私、そろそろ行こうと思うの。」 「え?行くって、どこよ。」 「ユメミには、私の分まで頑張って欲しいの。」 「ちょっと待ってよ。」 「ね。向こうで待ってるわ。」
気付けば、姉はいなかった。
私は、うたた寝でもしていたのかと、目をこすって、それから、試験勉強はあきらめて布団に入る。
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翌朝、母の叫び声で目が覚めた。
「どうしてこんなことに。」 母が泣き喚いている。
「どうしたの?」 「ああ。アイミちゃん。ユメミが。」 泣き崩れる母。
私は、上を見て、ひっ、と声を上げる。私だ。私が、死んでる。そこで首を吊っていたのは、私自身。
ちょっと、どういうこと?
私は、頭の中がぐるぐる回って、気を失ってしまう。
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「気が付いた?」 母が、泣き腫らした目で、私を心配そうに見ている。
どうやら、ユメミ、つまり私自身が自殺したというのは本当らしい。そうして、私は慌てて鏡を見ると、そこにはアイミがいた。
こういうことだったのね。
私は、アイミが最後に私の部屋に来て言った言葉の一つ一つを思い出す。
それから、なんでアイミは行っちゃったのだろうと思う。
いくら考えても分からないままに、私は、姉として生きて行かなければならなくなった。
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葬儀も終わり、私は、まだ気力がわかないから、と部活にも顔を出さず、家へと真っ直ぐ帰る日が続いた。それでも、少しずつ、私は姉になろうとしていた。周囲も、妹を失った混乱からおかしな点もあるけれど、私がアイミだと信じて疑わなかった。
そうやって、夏が過ぎ。秋が過ぎ。
それでも、私は、姉が帰って来るのではないかと思っていた。いつか、自分の体を取り戻しに来るのではないかと。
けれど、その気配もなく、冬が近付いて来た。
ミツルが声を掛けて来る。 「今日も、部活しないの?」 「うん。」 「せっかくレギュラーになったのになあ。」 「そうだよね。」 「お前、ちょっと変わったよな。ユメミがいなくなってから。」 「うん。」 「なんかさあ、不思議なんだけど、ユメミがいなくなったら、アイミまでいなくなったみたいだなあ。」
そんなことを言った人は初めてだったので、私は、なんだか涙が出そうになる。
今なら、言えるかもしれない。私は、もう、醜いユメミじゃなくて、美しいアイミだから。
「ねえ。ミツルくん。」 「ん?」 「私さ、前からあなたのこと、好きだったの。」 「え?そうなの?」
ミツルは、間が抜けた返事をしてから、随分と黙っていた。
それから、口を開いた。 「ごめん。俺、ユメミが好きだった。なんでかなあ。だから、お前のこともいいやつだと思うけど、俺、まだユメミを探しちゃうんだよなあ。変だろう。もう、死んじゃったら、どうやったって見つけられっこないのになあ。」
私は、その瞬間、泣き出してしまう。
ミツルはオロオロして。 「ごめんな。」 と、言う。
私は、首を振る。
私は、私自身を失ってしまった。
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それから、十年後。
私は、「少女戦士」という漫画を描くことになる。
勇敢な少女。好奇心が抑えられなくて、どこか遠い世界に行ってしまった、元気な女の子の漫画。少女戦士は、美しかった。けれども、美しいということは、彼女を全てのことから守るものではなかった。美しい者が美しくあるためには、闘い続けないといけないのだ。
私は、そんな少女の漫画を描く。姉のために。自分を取り戻すために。
今月もようやく、締め切りを終え、死んだように眠っている私のベッドに恋人がやってくる。
「ああ。おはよ・・・。」 「疲れてんだろ。もうちょっと寝とけよ。」 「ミツル・・・。そこにいて。どこにも行かないで。」 「ああ。分かってるって。」
恋人は、私の鼻の頭にキスをしてくれる。それから、彼はそばのソファに座って、本棚から、「少女戦士」を取り出すと、静かにページをめくる。
2002年05月01日(水) |
彼女が小さな叫び声をあげて、僕に体を預けるまで、やさしくゆっくりと体を動かした。 |
もう終わりなんだろう?
僕には分かる。
あんなに素敵だった日々。僕達の間ではずっと続くと思っていたのに。
大手メーカーの秘書室に勤める彼女と、無職の僕。どう見たって釣り合わないのは分かっていた。
「ただいま。」 今日も疲れて帰って来た彼女に、
「おかえり。夕飯作っておいたよ。」 と答える。
彼女は、 「もう・・・。」 と言い掛けて、 「やっぱりいただくわ。ありがとう。」 と言い直す。
ここが彼女の素敵なところなのだ。もううんざりしている恋人にすら、上品に振舞うところが。シックなニットに、僕のプレゼントしたゴールドの細いネックレスがよく似合う。僕は、思わず手を伸ばして、彼女の首筋を撫でる。彼女はびくっと体をこわばらせて、 「疲れているの。ごめんなさいね。」 と、うつむく。
「分かってる。ごめん。」 僕は、すぐ手を引っ込める。
もう、僕に触られるのも嫌なんだね。
--
僕と彼女は、去年の春、出会った。
花見の名所で、彼女が上司に絡まれて困っていたので、僕が何気なくとおりがかった拍子に酒瓶を倒して、僕が慌てて上司の服を拭いているふりをしている間に彼女に目配せして逃がしてやった。
上司というその嫌な中年の男は、最初は怒りで顔を真っ赤にしていたが、僕がある会社社長の御曹司だと耳打ちしたら、途端に態度を変えて来た。
もちろん、そんなのも全くの嘘だけど。
彼女は、少し先の河原で僕を待っていてくれた。
その夜、僕らは肌を重ねた。
「私、あの男と長いこと別れられなかったの。」 と、彼女は寂しく微笑んだ。
あの男って、昼間の上司?
「初めての人だったのよ。計算高くて、愛情も金で買えると思っているような男だったのに、恋だと信じてしがみついてたの。馬鹿みたいでしょう?」
そんな男のこと、忘れさせてやるよ。
と、僕は、彼女のことを壊さないように、そっと、まだ緊張を解いていない体の中に入る。彼女が小さな叫び声をあげて、僕に体を預けるまで、やさしくゆっくりと体を動かした。
その夜、彼女が眠りに就くまで抱き締めていた。
翌朝、彼女は何か憑き物が落ちたように明るい顔で微笑んだ。 「今まで何であんな男を追い掛けていたのか、分からないわ。」
それから、僕は彼女の部屋で暮らすようになった。
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だが、それも時間の問題だった。
僕は、それまでも金のある女に心の安らぎを与えることを仕事にしていたが、どんなに純情な彼女にだって、働く気もない僕との関係が長続きするとは思えなかったらしい。忙しい彼女に代わって、料理も掃除もやって、夜は疲れた彼女の手足のマッサージもしたけれど。
「私もこんな年齢だもの。そろそろ結婚したくなったの。」 「僕じゃ、駄目?」 「ええ。あなた、私よりずうっと若いのでしょう?あなたにはあなたにふさわしい相手がいるわ。」
彼女の下手な言い訳なんかどうでも良かった。要するに、彼女はこれだけ尽くした僕を捨てようとしているわけだ。
驚いたことに、僕はその瞬間涙を流して、彼女を慌てさせる。
「愛してるのに。」 これは本当のこと。
初めて、愛なんて言葉を口にした。
「愛だけじゃ、駄目なのよ。」 彼女も泣いた。
そんな夜もあった。今じゃ、彼女はもう涙もこぼさない。長引く僕との同居生活に疲れていくばかりだ。
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「明日、出て行こうと思うんだ。」 僕は、微笑んだ。
彼女は少し驚いた顔をして、僕を見た。
「今までぐずぐずしててごめん。でも、本当にきみを愛していた気持ちに変わりはないんだ。」
彼女の頬が、涙で湿る。僕の目尻にも、涙が溜まる。 「さあ。僕の料理、食べてよ。冷めないうちに。」 「ええ。いただくわ。ワインも開けましょう。」
僕らは、乾杯、と、小さく。
そうして、僕の作ったビーフシチューが彼女の形のいい唇に入って行くのをじっと見守る。
「いつも、おいしいわね。あなたの作った料理は。」 「うん。僕、いい主夫になれると思うんだ。」 「本当に。」
僕はもう泣いてなかった。
むしろ、ほとんど空になった彼女の皿を見て笑い出しそうになって困るのだった。
彼女は、眉をひそめて僕を見る。 「ねえ。どうしたの?」 「なにが?」 「その手。」 「ああ。これ?ちょっと指を怪我してね。」
僕の手に巻かれた包帯から、血が染み出して。
それでも、僕は痛みなど感じなかった。僕の小指は、彼女の体内で優しい夢を見る。それは途方もない快感で。
僕は、抑えきれずに笑い出してしまうのだった。
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